第24話:純度百パーセントのポジティブ
「グルルォォォ……ッ!」
迷いの森の奥から地響きのような咆哮と共に姿を現したのは、筋骨隆々で巨大な錆びた斧を持った上位種――ホブゴブリンだった。
その背後には、私の風魔法から立ち直った五匹のゴブリンに加え、さらに数匹の増援がわらわらと湧き出ている。
湿った腐葉土の匂いに、強烈な獣の体臭と血の錆びた匂いが混ざり合い、空気が一気に重く、息苦しくなった。
新米冒険者である『若葉の剣』の三人は、その圧倒的な威圧感を前に、一瞬だけ恐怖で足を止めてしまった。
「ア、アオイさんたち、逃げてくれ!」
リーダーのレオが、震える声でこちらを振り返る。
しかし、私は胸に抱えた木板をギュッと握りしめ、一歩も動かなかった。
(パニックは連鎖します。ここで現場監督である私が逃げ出せば、彼らの心も完全に折れてしまう。ここは泰然と構えなければ……!)
内心では「ひぃぃ、でっかい! 怖い! 前世の理不尽なクレーマーより怖い!」と限界事務員のビビリ根性が悲鳴を上げていたが、私は冷や汗をかきながらも、すまし顔を貫き通した。
私の横では、二人の優秀な「先輩」たちが、すでに完璧なバックアップ態勢を整えていた。
リナさんは表情から一切の甘さを消し、いつでも飛び出せるように極限まで重心を低く落としている。彼女の青い瞳は、ホブゴブリンの筋肉の動きと、足元の木の根の配置を同時に、そして冷徹に計算していた。
そしてフィナさんも、過去の「焦って失敗したトラウマ」を必死に押し殺すように小さく深呼吸を繰り返し、医療コートの内ポケットにある回復薬の小瓶に指を添えている。いつでも、誰が傷ついても一瞬で最善の治療を行えるように。
彼女たちが背後で放つ「絶対に死なせない」という静かで強烈なオーラが、前衛のレオたちにも伝わったのだろう。
「……っ! くそっ、やるしかない!」
レオが自分自身に気合を入れるように叫び、再び剣を正面に構え直した。
「カイト! あのデカぶつの注意を引けるか!?」
レオが声を飛ばす。それはただの思いつきではない、戦況を打破するための明確な【相談】だった。
「俺が弓で目を狙って牽制する! だが、長くは持たないぞ! 周りの雑魚も近づいてきてる!」
カイトが矢を放ちながら、即座に自らの状況と限界を【連絡】する。
「私の魔法、あと十秒で撃てます! 一番大きいのに当てます!」
後方のミャーが、杖の先端に熱を収束させながら、自分の完了タスクまでの時間を正確に【報告】した。
(素晴らしい……!)
私は木板を抱きしめ、心の中でスタディングオベーションを送った。
情報の非共有と責任の押し付け合いで崩壊しかけていた彼らが、今、見事な『ホーレンソウ』を実践している。
誰が何をして、いつまでに終わるのか。
タスクの可視化と進捗共有が、この瞬間に完璧に機能し始めたのだ。
「ギャガァァッ!!」
カイトの放った矢がホブゴブリンの頬を掠め、激怒した巨体がカイトへ向かって斧を振り下ろす。
「させねぇよ!!」
そこにレオが割り込み、斜めに構えた剣で斧の一撃を受け流す。重い金属音が森に響き、レオの腕が悲鳴を上げるが、彼は歯を食いしばって一歩も退かない。
五秒。六秒。周りのゴブリンたちがレオとカイトに群がり始める。
「――レオくん、カイトくん! 伏せて!!」
十秒後。ミャーの鋭い声が響いた。
レオとカイトが地面に転がるように身を伏せた瞬間、ミャーが大きく一歩前に踏み出した。
これまでの彼女なら、焦って詠唱を間違えたり、言葉を噛んだりしていただろう。
だが今の彼女は、前衛の二人が稼いでくれた「時間」を信じ、極限まで集中力を高めていた。
「――集え、灼熱。――爆ぜよ!」
短く、洗練されたおしゃれな詠唱。
ミャーの杖の先端から、圧縮された火炎の弾が一直線に射出された。
それはホブゴブリンの胸ぐらに直撃し、ドゴォォォン!! という耳を劈く轟音と共に、凄まじい熱波と爆炎を巻き起こした。
熱い風が私たちの髪を揺らし、土と草が焦げる匂いが周囲に立ち込める。
炎と土煙が晴れると、そこには黒焦げになって倒れ伏すホブゴブリンと、巻き添えを食らって逃げ散っていくゴブリンたちの姿があった。
「や、やった……!」
「倒した……俺たちだけで、倒せたぞ!!」
レオとカイトが顔を見合わせ、泥だらけのまま抱き合って歓喜の声を上げる。
ミャーもへたり込みながら、「よかったぁ……」と安堵の涙を浮かべていた。
マニュアル外のイレギュラーな強敵を、彼らは見事に自力で乗り越えたのだ。
張り詰めていた空気が緩み、リナさんは剣を鞘に収め、フィナさんもホッと胸を撫で下ろしている。
私はゆっくりと進み出ると、三人の新米冒険者に向かってパチパチと拍手を送った。
「お見事でした。素晴らしい連携です。……業務完了、本当にお疲れ様でした」
「アオイさん! 俺たち、やりましたよ!」
「ええ、見ていました。……では、さっそく反省会(KPT)を始めましょうか」
「へ?」
歓喜に沸く三人の前に、私はバインダー代わりの木板から羊皮紙を三枚外し、スッと差し出した。
「仕事というものは、やりっぱなしでは成長しません。終わった後の振り返りまでがセットです。この紙に『Keep(良かったこと・続けるべきこと)』、『Problem(悪かったこと・問題点)』、『Try(次への課題・改善策)』を書いて、全員で共有してください」
「けーぴーてぃー……?」
「そうです。例えば、レオさんなら『ホーレンソウができた(K)』『最初、状況を確認せずに突っ走った(P)』『次は出発前に必ず陣形の再確認をする(T)』といった具合ですね。さあ、鉄は熱いうちに打ちますよ。羽ペンを持つのです」
「鬼だ……この人、《《やっぱり》》ギルドの教官より厳しい鬼だ……!」
レオが泣きそうな顔で羊皮紙を受け取る。しかし、その顔には確かな充実感と、私に対する畏敬の念が浮かんでいた。しかしやっぱりと言うのが気になる。
誰だ、ギルドにそんな噂を言いふらしている不届き者は。
リナさんとフィナさんが、私の後ろで「アオイさんの教え方、本当にすごいです!」
「私も、もっとビジネス?の言葉、お勉強します!」と目をキラキラさせている。
こうして、新米冒険者たちのPDCAサイクルは、私の監視のもとで完璧に回り始めたのだった。
*
王都へ戻り、ギルドの受付嬢への報告を済ませた私たちは、ようやく自分たちの城である「なんでも屋」の事務所へと帰還した。
新米たちはギルドで「アオイ教官のおかげで最高の結果が出せました!」と私を大絶賛し、おかげで私の「恐ろしい事務員」という二つ名がさらに強固なものになってしまったが、まあ全員が無事に帰ってこられたのだから良しとしよう。
良しと……しよう。
窓の外はすっかり夕暮れに染まり、事務所の中には柔らかなオレンジ色の光が差し込んでいる。
「ふぅ〜! 今日も一日お疲れ様でした!」
フィナさんが背伸びをし、ポットにお湯を沸かす準備を始めている。
私はローブを脱ぎ、いつもの事務用ブラウス姿に戻って、本日の日報(という名のただのメモ)を記していた。
ふと視線を上げると、窓辺に立つリナさんの横顔が見えた。
彼女は、夕陽に照らされる王都の街並みを見つめながら、どこか懐かしむような、少しだけ切なげで、それでいて温かい表情を浮かべていた。
「リナさん? どうかしましたか?」
「あ、ううん。……ちょっとね、昔のことを思い出してたの」
リナさんは窓枠に指を滑らせながら、ぽつりと呟いた。
「今日、あの子たちが初めて連携して敵を倒したでしょ? それ見てたら、私がガストンたちのパーティにいた頃のことを思い出しちゃって」
ガストン。リナさんの元パーティのリーダーだ。「使えない」と彼女を理不尽に追い出した人物だが、彼女にとっては冒険のイロハを教わった先輩でもあったはずだ。
「私が初めて、空振りせずに剣で魔物を倒せた時。……ガストンさんも、他の仲間も、すごく喜んでくれて。『よくやったな、リナ!』って、頭を撫でてくれたんだ。……あの時は、みんなで一緒に強くなれるって、ずっと一緒にいられるって、信じてたのになぁって」
リナさんの声は、恨み言ではなく、純粋なノスタルジーに満ちていた。
失敗が重なり、すれ違い、別々の道を歩むことになってしまったけれど、彼女の胸の奥には、確かに彼らと喜びを分かち合った「初めての成功体験」がエモい記憶として残っているのだ。
少しだけ寂しそうに微笑むリナさんの姿を見て、私はふと、前世の記憶を思い返した。
前世の私にとって、「仕事終わり」といえば、逃げるように帰るか、上司の愚痴大会という名の強制参加の飲み会に付き合わされるかの二択だった。
誰かと純粋な気持ちで、今日の仕事の達成感を分かち合うような「一杯」の経験など、皆無だった。
でも、今は違う。
私には、こんなにも愛おしく、共に成長を喜び合える仲間がいる。
「……あの、お二人とも」
私は羽ペンを置き、少しだけ早くなる鼓動を悟られないように、努めて冷静な声で呼びかけた。
「もしよければ、ですが。……この後、一杯飲んでいきませんか?」
「えっ?」
リナさんがパチリと目を瞬かせる。
「今日の実地研修(OJT)の大成功と、二人の見事な先輩ぶりを祝して。……私からの、奢りです」
私が少し照れくさく笑うと、リナさんのエメラルドグリーンの瞳がパァッと輝いた。
「行く! 絶対行く!! アオイと飲みに行けるなんて最高!!」
「わ、私、お酒はまだ飲めないんですけど……ジュースでもいいですかっ!?」
フィナさんも、小動物のように身を乗り出して賛同してくれる。
「もちろんです。マルグリットさんの宿屋の食堂で、美味しいご飯と冷たいエール、そして果実水で乾杯しましょう」
前世では一度も経験することのなかった
純度百パーセントのポジティブな「仕事終わりの一杯の誘い」。
夕陽に染まる事務所に、三人の笑い声が響く。
失敗を悪としないホワイトな労働環境は、私の荒んだ心をも、ゆっくりと、しかし確実に癒してくれているようだった。




