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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第一章 『不幸の代償』

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3-2

痰と咳が止まりません。

よろしくお願いいたします。

 

 雪の夜闇に浮かぶ「八百万館」は、それ自体が巨大な墓標のようだった。

 陽子は軽トラを停めると、エンジンを切った。静寂が降りる。硫黄の匂いに、古い魚の脂が腐ったような、ねっとりとした臭気が混ざり始めた。


「……あ、あれ! 陽子さん、見てください! 」


 助手席で日和が旅館の玄関にある曇りガラスを指差す。玄関の曇りガラスの向こう側、死人のような白さで、激しく手を振る影が見えた。

 一八五センチの長身がガラスを叩く「ドンドン」という音が、この廃墟で唯一の生命の鼓動のように響いていた。


「……五倍の報酬が、ガラス越しに踊ってやがるな」


 陽子はバッグを肩にかけ、無造作に車を降りた。玄関の引き戸は、驚くほどあっさりと開いた。

 だが、一歩踏み込んだ瞬間、景色が「滑った」。


「おい、鬼塚。さっさと出てこい。延長料金取るぞ」


 陽子のぶっきらぼうな声が広い玄関ホールに響く。しかし、返事はない。

 つい数秒前までそこにいたはずの鬼塚百の姿が、掻き消えるように消失していた。広々としたホールには、破れた赤い絨毯が敷かれ、奥へと続く長い廊下が黒い口を開けている。


「……えっ? 嘘、どこに行ったんですか!?」


 陽子の背後から入ってきた日和が、呆然とした声を上げた。

 生暖かい腐敗臭を孕んだ風が、肺の奥を撫でるように吹き抜けた。その直後、背後で「ガタン!」と、重い建具が震えるような音が響いた。

 日和が慌てて振り返るが、そこにはもう引き戸はなく、煤けた漆喰壁がぬうっと立っていた。


「構うな、進むぞ。鬼塚はすぐそこにいる」


 陽子は事務的な足取りで廊下を進む。しかし、十歩も歩かないうちに、彼女は足を止めた。

 背後を振り返っても、さっきの赤い絨毯のホールはない。代わりに、天井に向かって垂直に折れ曲がった階段がそびえ立っている。少し進むごとに、世界そのものがデタラメに作り変えられていた。


「……チッ。歩くたびに構造を組み替えてやがる。低俗な迷宮ダンジョンごっこかよ」


 陽子の声は、恐怖よりも苛立ちに満ちていた。彼女はバッグのサイドポケットから、銀の細い鎖に繋がれた【古びた方位磁針】を取り出した。これは磁場や振動、重力にも関係なく北を指し続ける呪物である。

 だが、陽子の手のひらの上で、針は猛烈な速度で回転し始め、磁針のガラス面がバチンッと、不吉な破裂音とともに粉々に砕け散った。


「……チッ、ダメか。相当、根が深いな」


 陽子は砕けた呪具を無造作にポケットへ放り込むと、今度は右手の拳に、錆びた小さな鉄塊――【怨嗟の(かすがい)】を握り込んだ。空間の接合面を無理やりこじ開けるための「外科手術」用だ。

 陽子はそれをメリケンサックの様に握り込むと迷いなく、目の前の太い大黒柱に向かって、その鎹を全力で突き立てた。

 ――ガィィィンッ!!

 耳を劈くような衝撃音が廊下に木霊したが、柱には微かな擦り傷一つ付いていない。


「……空間の強度が異常だ。物理的な破壊も、呪物による干渉も拒絶してやがる。あたしの計算をこれ以上狂わせるんじゃねぇよ……」


 陽子の眉間の皺が深くなったその時、スマホが震えた。


「……もしもし」

『ヨウちゃぁぁぁん! どこ行っちゃったの!? さっき玄関の曇りガラス越しに、ヨウちゃんの姿がうっすら見えたのに! ボク、必死にガラスを叩いて呼んだのに、扉が開いた瞬間にヨウちゃんが消えちゃったんだよぉ!』


 スピーカーから漏れる鬼塚の声は、半狂乱に近い悲鳴だった。


「鬼塚か。どこにいる。現在地を言え。こっちは空間の干渉がことごとく弾かれた」

『それが分かんないんだよぉ! ボクは玄関から一歩も動いてないつもりなのに、ちょっと目を離した隙に、目の前の廊下が「食堂」になってたり、その横にいきなり「大浴場」の入り口があったり……あり得ない間取りになってるんだ! もうどこを向いても出口がないよぉ!』


 電話の向こうで、鬼塚がパニックに陥り、狂ったように周囲を叩き回る音が聞こえる。ガシャガシャと何かが壊れる音、そして彼女がドタドタと無意味に走り回る足音。


『……はぁ、はぁ……っ! 嘘、待って、また道が変わっ……。あ! ヨウちゃん!?』


 不意に、鬼塚の声のトーンが変わった。


『ヨウちゃん! 今、目の前の窓の向こうに、ヨウちゃんの姿が見えた! こっち、こっちだよ! 近くにいるんだね!?』


 陽子は電話を繋いだまま、廊下の突き当たりにある、年季の入った「古い木枠の大きな窓」へと歩み寄った。

 驚いたことに、窓の向こう側に映し出されていたのは雪景色ではなく、湯気が白く立ち込め、タイル張りの床が鈍く光る「大浴場」の光景だった。

 そしてその窓越しに、一八五センチの長身を震わせ、こちらに向かって必死に手を振っている鬼塚百の姿があった。


「おい、鬼塚。そこは風呂場か」

『そうだよ! 玄関にいたはずなのに、今ちょっと踏み出したら大浴場だよ! でも、ボクがさっきまで叩いてたガラスの向こうは外だったのに、今はヨウちゃんがいる廊下になってるよぉ!』


 陽子は冷静に状況を分析した。

 この旅館は、無数の「断片」が切り離し複製され、空間の中にモザイク状に配置されている。鬼塚は「玄関」という断片にいたはずが、隣接する断片が「大浴場」にすり替わった瞬間に、そこへ足を踏み入れてしまったのだろう。


「……使えねぇな。ヒヨコ、周囲を探せ。窓越しに見えているのに合流できないってことは、どこかに『視覚』と『座標』を繋ぐ境界があるはずだ。今のうちに、この断片を繋ぐ『穴』を見つけろ」

「あ、穴って……何ですかそれ! もう何が何やら分かりませんよ!」


 日和は泣きそうになりながら、陽子の指示に従い、少し離れた位置にある暗い客室の入口付近を探った。そこは廊下の照明が届かない死角で、埃を被った大きな「三面鏡付きの化粧台」が放置されていた。


「陽子さん、こっちは何も……わっ!? 痛……っ!」


 湿気で腐った畳の破片に日和は足を滑らせ、化粧台の脇にある壁に激しく肩をぶつけた。

 その強い衝撃の拍子に、壁を覆っていた煤けた古い掛け軸が、バラリと音を立てて落下した。

 掛け軸の裏側にあったのは、壁ではなかった。

 そこにあったのは天井に向かって垂直に、不自然な角度で壁の中に嵌め込まれた、色褪せた襖だった。

 本来、横に引くべき襖が、九十度回転した状態で壁の中に埋め込まれている。


「……陽子さん! 陽子さん、来てください! 変なところに襖があります! 壁の中に……縦に刺さってて……!」

「……そこか。空間を捻じ曲げて、物理法則の死角に押し込んでやがったな。悪趣味な細工だ」


 陽子は日和を背後に追いやり、その垂直の襖の引手に指をかけた。

 指先から伝わってくるのは、冷たい木の感触だけではない。まるで巨大な粘土の塊を素手で引き裂くような、泥臭い空間の「抵抗」だった。

 陽子は鼻先で短く息を吐くと、重力に逆らうように、その襖を強引に真横へと引き分けた。

 ――ミ、ギィィィィィ……ッ!!

 古い木枠が過重に耐えかねて悲鳴を上げ、乾燥しきった建具が耳を劈くような摩擦音を立てる。それは襖が動く音というよりは、旅館の構造そのものが無理やり剥がされるような、不快な軋みだった。


 襖が完全に開ききると、その先には、現実の物理法則を粉々に砕いた光景が待ち受けていた。先ほどまで窓越しに見ていた「大浴場」のタイル床が、自分たちの立つ廊下と九十度直角に交わった状態で、地続きになって繋がっていたのだ。

 開いたあなから、大浴場の湿った熱気が一気に溢れ出す。

 その「裂け目」から、一八五センチの長身が、重力から解き放たれた砲弾のような勢いで飛び出してきた。


「うわあああああぁぁぁ! ヨウちゃああああん! 本物だぁぁぁ!」


 ポニーテールを振り乱し、大量の数珠をジャラジャラと身に纏った女――鬼塚百が、陽子の足元に派手にスライディングを決めた。


「……うるせぇ。抱きつくな、デカブツ」


 陽子は、事務的な動作で百の額を掌で押し返し、そのまま距離を取った。


「げほっ、ごほっ! ……あ、あぁぁ……本物のヨウちゃんだぁ! 会いたかったよぉ! ボクもう、一生この薄汚い廃旅館に閉じ込められたまま、誰にも看取られず孤独死するんだって絶望してたんだよぉ!」


 百は立ち上がると、そこで初めて陽子の隣にいる存在に気づき、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


「……えっ? ちょっと待ってヨウちゃん。その子、誰? まさか『お客さん』をこんな危険なとこまで連れてきたの?」

「こいつはヒヨコ。あたしの『在庫』だ。……最近、アルバイトとして管理することにした」

「……はぁぁぁっ!?」


 百の叫び声が、廃墟の静寂を粉々に砕いた。


「嘘でしょ!? あの『歩く人間不信』で『他人との関わりはコストの無駄』が口癖のヨウちゃんが、バイトを雇った!? しかも、ちゃんと『アルバイト』って役割を与えて横に置いてるなんて……。明日は槍じゃなくて呪いの釘でも降ってくるんじゃないの!? 怪異より怖いんだけど!」


 百にとって、陽子は他人を「利用価値があるかないか」でしか見ない人間だった。その陽子が、自分以外の人間を一定の距離で、なおかつアルバイトとして連れ歩いている事実は、空間の歪み以上に異常な事態に思えた。


「うるせぇ、殺すぞ。……おいヒヨコ、自己紹介しろ。こいつが鬼塚百。近年希に見るバカだ」

「あ、小林日和です……よろしくお願いします……」

「え、本名……だよね? ヨウちゃんが他人の名前を覚えてて、しかもそれをボクに教えるなんて……。あ、ボクは鬼塚百。ねぇ、ヒヨちゃんって呼んでもいいかな? 呼ぶね! よろしくねヒヨちゃん!」


 確認するそばから自分で結論を出し、百は持ち前の明るさで日和に笑いかけた。が、次の瞬間、百の腹が「グゥゥゥゥ……ッ!!」と、建物全体が軋むような音を立てて鳴り響いた。


「あ……そうだヨウちゃん! お願い、何か食べるもの持ってない!? ボクもう三日間チョコバー一本なんだよ! 今ならここの古びた畳でも食べれそうだよ!」


 百が、涎を垂らしそうな勢いで陽子のバッグに食らいつく。陽子はそれを足蹴にした。


「……離れろ、汚ねぇ。お前にやる食い物なんて一粒もねぇよ」

「嘘だ! ヨウちゃんが手ぶらで現場に来るわけない! お願い、おにぎり一個でいいから! 救出費用の五倍にさらに上乗せするから!」

「……チッ。ヒヨコ、非常食用のカロリーメイトが一個あったな。出せ」

「あ、はい! えっと……」


 日和がバッグを探ろうとすると、陽子がそれを手で制した。


「……ただし、一本につき一万円だ。鬼塚、お前のツケに回しておくからな。嫌なら宣言通りそこらへんの畳でも齧ってろ」

「一万円!? 高っ! ぼったくりだよ! ……でも買う! 買うからぁ! 四本入りだから四万!? 安いね! ボクの命に比べたらタダみたいなもんだよぉ!」


 百は、日和からひったくるようにして受け取った箱を、野生動物のような勢いで開け、中身を口に放り込んだ。口内をハムスターの様にパンパンに膨らませながら咀嚼している。喉に詰まらない様に日和がペットボトルのお茶を出そうとしたが必要なさそうだった。


「……鬼塚、食ったら動けよ。お前が目当てにしてた『呪われた仏像』の場所だ。三日もここに閉じ込められて、その場所くらいは身体で覚えてるだろ」

「ふかふぉっ(分かってる)……。あの仏像の『匂い』だけは分かるから……。見た目は両手で持てるくらいの、どこにでもある小さな仏像らしいんだけど……放ってる気配がもう、真っ黒なんだって!」


 百は口いっぱいに詰め込んだまま、鼻をひくつかせ、迷いのない足取りで闇の深い廊下を指差した。

 史上最高に不機嫌な店主、腹を満たして現金に動くコレクター、そして板挟みのひよっ子。奇妙な一行は、迷宮と化した八百万館の深淵へと足を踏み入れた。



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