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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第一章 『不幸の代償』

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3-1

微熱と喉の違和感が治まりません。

よろしくお願いいたします。

 

 十二月二十九日。世間では仕事納めを済ませた人々が、帰省の準備や大掃除に精を出す時期だ。しかし、リユースショップ「ハルナシ」の店内には、年末の温かな活気など微塵も存在しなかった。

 店内を支配しているのは、氷点下に近い冷気と、陽子がキーボードを叩く暴力的な打鍵音だけだ。


「……合わねぇ。何で一円単位で帳簿がズレてんだよ」


 カウンターの奥、ノートPCの青白い光に照らされた夏秋冬陽子の顔は、幽霊よりも凄惨だった。彼女は今、一年で最も忌み嫌う業務に直面している。――年度末の決算処理と、在庫の総棚卸しだ。


「どこの在庫だ、名乗り出ろ。今すぐ呪い殺して精算してやる」


 ディスプレイに表示された会計ソフトの数字が、陽子の眉間を深く刻む。彼女にとって、一円の不一致は「世界の因果が狂っている」ことと同義だ。その殺気は物理的な圧力となって、店内の曰く付きの商品たちを震わせていた。棚に並ぶ「笑う市松人形」でさえ、今日ばかりは表情を引きつらせて沈黙している。


「あ、あの……陽子さん……。暖かいお茶、淹れました。少し休憩しませんか?」


 店番見習いの「ヒヨコ」こと小林日和が、湯気の立つ湯呑みを恐る恐る差し出す。日和は厚手の綿入れ半纏に身を包み、寒さと陽子の機嫌の悪さにダブルで震えていた。


「休憩? ヒヨコ、お前は今、あたしの時給がいくらだと思ってる。一分休むごとに、お前の来月の給料から五百円天引きする計算になるが、それでも休ませたいか?」

「ひっ、すみません! すぐに掃除に戻ります!」


 日和は蛇に睨まれた文字通り「ヒヨコ」のように首をすくめ、再び毛ばたきを握りしめた。彼女がハルナシで働き始めてから数日。ようやく「呪物には感情移入せず、物として扱う」というコツを掴みかけていたが、店主の「事務的なブチ切れ状態」への対処法は、まだどのマニュアルにも載っていなかった。

 その時だ。陽子の机の上で、スマホがけたたましく鳴り響いた。


 救いようのないほど明るい、デフォルトの着信音。それが陽子の神経を逆撫でする。陽子はスマホを掴み、通話ボタンを押す前に画面を睨みつけた。


「……鬼塚か。死ね」


 挨拶もなしに吐き捨てた言葉など、電話の向こうの相手には届いていないようだった。スピーカーから漏れ出す声は、鼓膜を劈くほどの音量だった。


『ヨウちゃーーーん! 助けて! まじで死ぬ! 今度こそまじで死ぬんだってば!!』


 陽子はスマホを耳から数センチ離し、露骨に嫌そうな顔をした。


「死ぬなら勝手に死ね。こっちは決算でそれどころじゃないんだ。お前が死んでも、あたしの帳簿のズレは直らねぇんだよ」

『冷たい! 相変わらずマイナス百度の対応だねヨウちゃん! でも聞いて、今回は本当にヤバいの! 山の廃旅館に「呪いの仏像」を回収しに来たんだけど、入り口が消えたの! 物理的に出られないし、中がどんどん広くなってて、もう三日もチョコバー一本で凌いでるんだよぉ!』


 鬼塚百おにづか もも。陽子の数少ない知人であり、オカルトライターにして日本屈指の呪物コレクター。一八五センチの巨体と、それに見合わぬ繊細かつ執拗なオカルトへの情熱ジャンキーさを併せ持つ体力オバケだ。


「……廃旅館? 鬼塚、お前の本職はなんだ。ライターだろうが。出られないならそこで遺書でも書いてろ。締め切りに間に合えば本望だろ」

『そんなこと言わないでよぉ! ボクが死んだら、ヨウちゃんに預けてる「血染めの櫛」の未払い分、誰が払うと思ってるの!? お願い、助けて! 救出費用、言い値で払うから! 三倍……いや、今のボクの命の価値を上乗せして五倍出す! 助けてくれたら、ボクの資産から何百万でも振り込むからぁ!!』


 五倍。

 何百万。

 その単語が耳に入った瞬間、陽子の三白眼がカッと見開かれた。彼女の脳内にある会計ソフトが、猛烈な速度で再計算を始める。この依頼一件で、今年の「ハルナシ」の決算書は、真っ黒な黒字で塗り潰されることになる。


「…………その言葉忘れんなよ、鬼塚」

『やったぁぁ! さすがヨウちゃん、大好きだよぉ!』

「黙れ。現地までのガソリン代、暖房代、食費、さらにあたしの事務作業を中断させたことによる精神的苦痛への慰謝料も別途請求するからな」


 陽子は通話を叩き切ると、まだフリーズしているPCの画面を力任せに閉じた。


「ヒヨコ、仕入れだ。山に行く。三倍速で動け。防寒具と着替え、あと食い物と飲み物を用意しろ」

「えぇっ!? 今からですか? もうすぐ夕方ですけど……」

「仕事に時間は関係ねぇ。札束が山で凍えながら待ってるんだ。……五倍だぞ、ヒヨコ。成功すれば、お前のビデオ事件の負債からも、特別ボーナスとして十万引いてやる」

「じゅう、まん……! 行きます! 今すぐ準備します!」


 日和は現金な反応を返しながらも、慌てて店の奥へ走った。彼女にとって「十万円」という数字は、陽子の管理下から一歩自由へと近づくための、光り輝く希望の数字だった。



 数十分後、陽子の古い軽トラックは、チェーンを巻いたタイヤを軋ませながら山道へと向かっていた。

 運転席の陽子は、相変わらず無言だ。だが、その横顔には「決算を邪魔された怒り」と「大金を手に入れる執念」が混ざり合い、凄まじい威圧感を放っている。助手席で震える日和は、窓の外を流れる雪景色を見つめるしかなかった。


「……あの、陽子さん。その鬼塚さんっていう人は、どんな人なんですか?」

「バカだ」


 即答だった。


「金と体力だけはあるオカルトジャンキーだ。身長があたしより十センチ以上高くて、声がデカい。呪物ガラクタを集めるためなら、奈落の底まで潜っていくような手合いだよ。……それも、他人を巻き込んでな」


 陽子の脳裏に、忌々しい過去の依頼記録が蘇る。


「去年の夏だ。あいつは『呪われた人魚の鱗』を仕入れたとか言って、あたしを真夜中の廃プールに呼び出しやがった。行ってみりゃ、プール一面に鱗から溢れた粘液が充満してて、あたしの服は台無し。おまけにあいつは『ヌルヌルしてて面白いね!』とか言いながら、鱗に足を引っ張られて沈みかけてやがった。……結局、あたしが潜ってあいつの襟首を掴んで引きずり出したんだが、そのせいであたしの愛用のジャンパーは今も微妙に磯臭い。……あいつからのクリーニング代、まだ一円も回収できてねぇんだよ」


 陽子の三白眼が、憎しみを込めてフロントガラスを睨む。どうやら相当腹に据えかねているらしい。


「他にもあるぞ。あいつが『喋る髑髏』を店に持ち込んだせいで、あたしは三日三晩一睡もできずに発狂しかけた。……とにかく、あいつは歩く事故物件だ。今回はその欲が過ぎて、神隠しにでも遭ったんだろ」


 軽トラは、かつて温泉街として栄えたであろう「湯の里」へと差し掛かっていた。

 かつての活気はどこへやら、並んでいる旅館の半分以上はシャッターが下り、人影もまばらだ。しかし、この街には奇妙な「湿り気」があった。

 硫黄の匂いに混じって、どこか甘ったるい、花の萎れたような香りが漂ってくる。


「……陽子さん、なんだか変です。ここ、温泉の匂いだけじゃない……誰かが泣いてるみたいな、すごく嫌な気配が……」


 日和が首のお守りを握りしめる。彼女の「自給自足の呪詛体質」は、外部の悪意や残穢に対して異常に敏感だった。


「だろうな。温泉街ってのは、もともと山からの恵みを吸い上げる場所だ。だが、その恵みに『怨嗟』か混ざれば、街ごと胃袋に変わる。……ここには、山から嫌なモノが流れてきてる」


 陽子は温泉街の中央を流れる川を睨んだ。湯気を立てて流れる水は、一見すれば風情がある。だが、その水面には、湯気とは違うネットリとした何かの「念」が、濁った油のように浮いているのが陽子には見えていた。


「感受性の強い奴は、その念に感化されて『あっち側』へ誘われる。鬼塚みたいなバカは、それを『お宝のサイン』だと勘違いして、ホイホイと山奥へ入っていくんだ」


 陽子は街の中央にある、古びた観光案内所の前で車を停めた。


「ここで降りるぞ。情報収集だ」

「えっ、情報収集……? でも、鬼塚さんは今も閉じ込められてるんですよね。急がなくていいんですか?」


 日和がおどおどしながら問いかけると、陽子は鼻を鳴らして時計を見た。


「あいつは体力だけは人間を辞めてるんだ。チョコバー一本あれば、あと三日はあの世の門番と相撲取ってでも生き残ってる。それより、あの旅館ハコの素性を知らねぇで突っ込む方が、余計な経費がかさむんだよ。……効率よく回収する。それがプロの仕事だ」


 案内所には、暇を持て余して新聞を広げていた、顔の皺が深い老人がいた。陽子はカウンターに「ハルナシ」の名刺を差し出し、事務的なトーンで切り出す。


「すまねぇ、じいさん。山奥の『八百万館』について聞きたい。あそこ、最近何か変わったことはなかったか?」


 老人は陽子の名刺を老眼鏡越しに眺め、それから「八百万館」という名前を聞いた瞬間、露骨に嫌な顔をした。


「……あそこか。近寄らんほうがいいぞ。あそこは、もう二十年以上も『空腹』のままだからな」


 老人の話によれば、八百万館が廃業したのは、当時のオーナーが謎の失踪を遂げたからだという。それ以前から、客が「部屋から出られない」「見たこともない古い廊下を歩かされた」と訴える怪現象が多発していた。


「オーナーさんは、どっかの幽霊が取り憑いてるんだと思い込んで、中庭に立派な仏像を祀ったんだが……それが逆効果だった。それからだよ、神隠しが始まったのは。オーナーさんも、仏像を拝みに行ったきり帰ってこなんだ。あそこには、何かおぞましい『悪霊』でも棲みついとるんだろうな」

「悪霊、ですか……」


 日和が不安げに呟くと、老人は頷いた。


「ああ。理由は分からんが、あの一帯は昔から不自然に建物が腐るのが早い。旅館を建てる前にもいくつか店があったようだが、どれも長続きせなんだ。呪われとるのさ」


 陽子は黙ってその話を聞き、懐から千円札を一枚、カウンターに置いた。


「手間をかけたな。……ヒヨコ、行くぞ」


 案内所を出て再び軽トラに乗り込む。陽子の表情は、先ほどまでの「不機嫌」に加えて、商売人としての「冷静な冷徹さ」が混じっていた。


「陽子さん……悪霊の祟りって、おじいさん言ってましたね」

「ふん。あのじいさんも、前のオーナーも何も分かってねぇ。仏像で鎮まらなかった時点で、相手は成仏を願うようなタマじゃねぇんだよ。……いいか、ヒヨコ。忘れるな。あそこはもう旅館じゃねぇ。客を喰うための、巨大な『胃袋』だ」


 軽トラは温泉街を通り過ぎ、街灯一つない真っ暗な山道へと入っていった。ヘッドライトが照らすのは、深く積もった雪。そして、その白さを侵食するように、道の両脇から立ち昇る、硫黄とは異なる腐敗した瘴気。


「……見えてきたぞ。あれが鬼塚の死に場所だ」


 雪の斜面に、黒い影を落として鎮座する巨大な廃墟。

 八百万館。

 その玄関の曇りガラス越しに、こちらに向かって必死に手を振る、場違いなほど背の高い人影が見えていた。




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