1-4
深夜の幹線道路。車の流れも途絶えた時刻、陽子の軽トラックが歩道橋のたもとに停まった。
深夜の幹線道路を跨ぐその歩道橋は、まるで外界の理から切り離された巨大な檻のように、夜の底に沈んでいた。
街灯が放つオレンジ色の光は、無機質なアスファルトを毒々しい色に染め上げ、手すりの影を不自然なほど長く、鋭く伸ばしている。日和は軽トラックのドアを閉める金属音にさえ肩を震わせ、目の前にそびえ立つ鉄の階段を見上げた。
「……ここで、美咲は……」
陽子は無言のまま、重いスポーツバッグを肩に担ぎ直し、先に階段を登り始めた。一段、また一段と彼女のサンダルが硬い鉄板を叩き、乾いた反響音が夜の静寂を乱すたびに、日和は自分の心臓が鋭く抉られるような錯覚に陥る。震える手で冷たい手すりを掴み、日和もその後を追った。
ようやく辿り着いた最上段の踊り場。そこには、数時間前の生々しい記憶が、冷えた空気の中に凍りついたまま張り付いていた。
あの日、美咲は本当に幸せそうだった。ビデオに映っていた不気味なノイズも、耳障りな砂嵐の音も、もう過去の出来事だと笑い飛ばせるくらいに。上機嫌に、まるで春の訪れを喜ぶ小鳥のように軽やかにステップを踏んでいた親友。
その直後だった。
日和が、足元に転がっていた空き缶を、何の気なしに――本当に、無意識に、コン、と小さく蹴飛ばしてしまったのは。
転がったスチール製の空き缶。
それは乾いた音を立ててアスファルトの上を滑り、まるで精密に計算されたかのような軌道を描いて、美咲が踏み出す足の真下へと吸い込まれていった。
視界の端で火花が散ったような衝撃。短い悲鳴。そして、重力という冷酷な摂理に従って、親友の体が階段の下へと叩きつけられていく光景が、今もスローモーションのように脳裏に焼き付いている。
「……チッ。こりゃあ、たちの悪い『偶然』だな」
陽子は踊り場の中心で足を止め、スポーツバッグからあの不格好なテスターを取り出した。
カチ、カチ、カチ……。
夜の静寂を切り裂くように、電子音が激しく鳴り響く。陽子はテスターの液晶を睨みつけたまま、周囲の空間を射抜くような鋭い視線で走らせた。
「……夏秋冬さん? 何か、あったんですか」
「……ああ。ここも、カラオケ屋と同じだ。いや、もっとたちが悪い。ただの事故の現場にしちゃ、澱みの質が濃すぎるな」
陽子は一歩、美咲が転落した階段の縁へと歩み寄った。彼女の目には、空き缶が転がっていた場所に、ドロドロとした黒いタールのような「悪意」の残滓がこびりついているのが見えていた。
「いいか、ガキンチョ。お前が怯えてる呪いってのは、二つの不幸が重なった結果だ。あの呪いのビデオ、見た奴を不幸にする程度の、どこにでもある三流の安物だ。美咲には『階段から落ちて怪我をする不幸』が、お前には『自分のせいで親友が傷つく不幸』が、それぞれ平等に割り振られた」
「……私のせい。やっぱり、そうなんだ……。美咲はあんなに楽しそうだったのに、私が……私が、あの缶さえ蹴らなければ。ビデオを見たせいで私の不幸が強くなって、あの子の足を払っちゃったんだ……!」
日和は手すりを握りしめ、絞り出すような声で自分を責めた。ビデオという呪いの引き金を引いた自分と、空き缶という凶器を親友の足元へ送った自分の足。その結びつきが、彼女を絶望の底へと引きずり込んでいく。
「いいか、目の前の現象をよく見ろ。お前が蹴った缶がアイツの足の下に入ったのは、ただの物理現象だ。だが、その現象が起きるための『お膳立て』を、あのビデオが作りやがった」
陽子は、取り乱す日和を宥めるでもなく、ただ冷徹に事象を解体してみせた。
「……問題は、そのお膳立ての火力が、なんでビデオ程度の安物の呪いより遥かに強いかってことだ」
陽子は吐き捨て、テスターを乱暴に振り下ろした。彼女の視界には、歩道橋全体を覆う歪なエネルギーが、蜘蛛の巣のように張り巡らされているのが見えている。ビデオそのものの呪いにしては、あまりに強力で、あまりに粘着質な執着がこの場に張り付いていた。
陽子は、手すりの支柱にへばりついた黒い染みを指先でなぞった。それは煤のようでありながら、触れると指先を焼くような不快な熱を持っている。
「お前たちがビデオを見た。それだけでここまでの濃度が出るか? 呪いっていうのは、出す側と受ける側のバランスで決まる。……まだ、計算の合わねぇ要素が混じってやがるな」
陽子は、美咲が転落した階段の先、暗い地面をじっと見つめていた。テスターの針はなおも狂ったように振れ続けている。この場所には、ビデオという「きっかけ」以上の何かが渦巻いている。だが、その実体が何なのか、この時の彼女にはまだ掴めていなかった。ただ、この場所にはもう、これ以上の答えは残されていないことだけは分かっていた。
「……最後だ。お前のダチが寝てる病室に行くぞ。そこに残ってる形跡を確かめねぇことには、帳尻が合わねぇ。未払いの不幸を、きっちり精算してやらなきゃな」
陽子は踵を返し、音もなく、それでいて力強い足取りで階段を駆け下りていった。
日和は、オレンジ色の光に照らされた、あの日自分が蹴飛ばしてしまった空き缶を最後にもう一度だけ振り返った。それは、自分の人生から永遠に消えない染みのように、暗いアスファルトの上に転がっていた。
泣き出しそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。今ここで足を止めてしまえば、本当に一生「不幸」に呑み込まれてしまう。日和は何かに追い立てられるように、夜の闇へと消えていく陽子の背中を、必死に追いかけた。
◎
深夜の静寂に沈む聖和記念病院は、巨大な白い墓標のように街の片隅にそびえ立っていた。
陽子は迷いのない足取りで、夜間通用口の脇にあるスロープを登っていく。日和は、深夜の病院特有の、冷たく研ぎ澄まされた消毒液の匂いに息を詰めながら、その後ろを必死についていった。
自動ドアが静かに左右へ分かれると、そこには昼間の喧騒が嘘のような、無機質な静寂が支配する空間が広がっていた。ナースステーションのカウンター越しに漏れる淡い光だけが、リノリウムの床を長く照らしている。
「……夏秋冬さん、本当にいいんですか? 面会時間なんて、とっくに過ぎてるのに……」
「黙ってろ。見つかったらあたしが適当に巻いてやる」
陽子は、まるで自分の店の中を歩くかのような気安さで、迷うことなく重症患者が収容されている特別棟へと歩を進める。エレベーターの扉が閉まり、上階へ向かうわずかな浮遊感の中で、日和は自分の指先が氷のように冷たくなっていることに気づいた。
4階。外科病棟の長い廊下。
一定の間隔で配置された非常灯の緑色の光が、壁に奇妙な影を落としている。遠くで時折、電子的なアラーム音が小さく響いては、再び深い沈黙へと吸い込まれていった。
「……あ、ここです。412号室」
日和の声が、静まり返った廊下に場違いなほど震えて響いた。ドアには「面会謝絶」の札が揺れている。日和は、そのドア一枚隔てた向こう側にいる親友の姿を想像し、足がすくんだ。陽子は迷うことなくドアノブを回した。
音もなく開いたドアの向こう側。
月明かりがわずかに差し込む個室の中で、美咲は無数の管に繋がれ、蒼白な顔で深く眠っていた。
日和は、その痛々しい姿に視界が歪んだ。美咲の頭部には分厚い包帯が巻かれ、規則正しく動く人工呼吸器の音だけが、彼女がまだこの世界に踏みとどまっていることを示している。
「美咲……っ。ごめん、ごめんなさい……!」
その痛々しい姿を見た瞬間、日和の心は限界を超えた。あの日、自分が空き缶を蹴飛ばしてしまったこと。幸せそうな親友を前に、自分の惨めさが際立つような、言いようのない卑屈な感情を抱いてしまったこと。それらへのドロドロとした暗い自責の念が、彼女の内側で溢れ出した。
(私がもっと、ちゃんとしていれば。私が、あの子の隣にふさわしい人間だったら――)
日和がその想いに呑み込まれた、その時だった。
日和の背後から、目に見えるほどの「黒い霧」が噴き出した。
それは、粘着質で吐き気を催すような、どす黒い澱みだった。日和を中心に病室の空気が物理的に歪み、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げる。黒い霧は意思を持っているかのように鎌首をもたげ、無防備に眠る美咲に向かって、襲いかかろうとした。
「っ……!? おい、なんだこれ!」
陽子が、初めて驚愕で目を見開いた。
人の強い念が形を成すことなど、彼女にとっては見慣れた光景だ。だが、目の前で起きていることは、彼女の経験を遥かに超えていた。何の儀式も、明確な殺意すらもなく、ただ「自分が嫌いだ」という内向きな自責だけで、これほどまでの高密度な呪いを突拍子もなく生成し、周囲に撒き散らす存在。
(バカな。こんな……自給自足で呪詛を生成し続ける奴なんて、聞いたこともねぇぞ!)
美咲の心拍モニターが乱れ始める。黒い霧が美咲を飲み込もうとしたその寸前、陽子が動いた。
「この、バカが!!」
陽子は日和の背後に回り込み、その後頭部を、力任せに平手ではたいた。
「あうっ!?」
鈍い衝撃とともに、日和の意識が一瞬白く飛ぶ。
それと同時に、部屋を覆い尽くそうとしていた黒い霧が、糸を切られた人形のように一気に霧散した。窓ガラスの震えが止まり、病室に静寂が戻る。
「はぁ……はぁ……。は、夏秋冬、さん……?」
日和は後頭部を抑え、涙目で振り返った。視界は明瞭になったが、胸の奥に渦巻く黒い自責の念は消えていない。むしろ、自分の異常な「何か」を陽子に見られてしまったのではないかという恐怖と、親友への申し訳なさが、さらに彼女の心を暗く沈ませていた。
陽子は、いつもの冷徹なポーカーフェイスをかなぐり捨て、驚きを隠せない様子のまま自分の掌を見つめた。並大抵のオカルトな事象から一切の影響を受けない彼女の身体に傷はなかったが、今、掌に伝わった衝撃はそれほどまでに異質で、強烈なものだった。
「……お前、自覚ねぇのか。今、自分が何を吐き出したか」
「え……? 何か、あったんですか……? 私、また何か……美咲に悪いことを……」
日和の声は震え、足元が崩れ落ちそうなほどの不安に支配されている。陽子は動揺を抑え込むように、懐から電子タバコを取り出そうとして、ここが病室であることを思い出して指を止めた。彼女は激しく脈打つ鼓動を鎮めながら、日和という少女の輪郭を、これまでとは全く別のものとして捉え直していた。
「……なるほどな。やっと帳尻が合ったわ。いや……計算外すぎんだろ、お前」
陽子は日和を射抜くように見据えた後、ベッドの周囲に漂う不浄な空気へと視線を移した。美咲の身体には、もうビデオの呪いそのものは残っていない。あの事故の瞬間に、呪いの効力はすべて「不幸」として発散され、使い果たされていたからだ。
だが、ベッドの周囲には、事故の衝撃が残した澱みや、今しがた日和が放った呪いの残穢が、薄汚いシミのように漂っている。
陽子は、それらを追い払うように、無造作に、けれど力強く空気を扇いだ。
まるで物理的な煤を払うかのようなその動作一つで、病室にこびりついていた不吉な残骸はすべて霧散した。淀んでいた空気が一気に清められ、窓の外から差し込む月光が、ようやく美咲の寝顔を穏やかに照らし出す。
「……終わりだ。これ以上、ここで査定するもんはねぇ」
陽子はそれだけ言うと、まだ暗い顔で立ち尽くしている日和の襟首を掴み、廊下へと引きずり出した。
「帰るぞ、ガキンチョ。……一度店に戻る。そこで全部、きっちり話してやるよ」
日和は、力なくその後に続くしかなかった。美咲の病室から遠ざかるほど、自分が取り返しのつかない罪を犯したのではないかという予感が、彼女の心を冷たく締め付けていく。
病院を出ると、夜明け前の青白い光が世界を包んでいた。
軽トラの助手席で、日和は膝の上で固く握りしめた自分の手を見つめていた。隣で無言のままハンドルを握る陽子の横顔が、今はただひたすらに、怖くて、そして遠かった。
信号が青に変わる。
加速する軽トラの振動に揺られながら、日和は終わらない悪夢の中に、まだ自分が閉じ込められているような感覚に陥っていた。
◎
陽子は店に戻るなり、ガチャンと音を立ててシャッターを下ろし、無造作にパイプ椅子を引き出した。
「座れ。……査定の結果を話してやる」
日和は、言われるがままに椅子に深く腰掛けた。膝の上で組んだ指先は、まだ病院の廊下で感じた冷たさを引きずったまま震えている。
陽子はカウンターの奥から電子タバコを取り出し、一口だけ吸うと、紫煙の代わりに微かな香りを吐き出した。彼女の視線は、日和を責めるでもなく、ただ冷徹に事実を解体しようとしている。
「いいか、ガキンチョ。お前のダチに起きたあの大事故の原因は、三つの呪いが最悪の形で重なり合った結果だ」
陽子は、おもむろに三本の指を立てた。
「一つ目は、お前のダチ自身に掛かっていた『呪いのビデオ』の呪い。見た者を不幸にする……つまり、相野美咲には『怪我を負う不幸』が割り振られた」
日和は顔を上げられず、じっと床を見つめる。陽子の声は淡々と続き、二本目の指を折った。
「二つ目は、お前に掛かっていた『呪いのビデオ』の呪いだ。こっちは『己のせいで周りが不幸になる不幸』という形でお前に憑いた。お前があの時、ダチの不運を自分のせいだと確信して絶望したのは、ビデオによってあらかじめ決められていた不幸のレールだ」
陽子の三白眼が、日和の震える肩を射抜く。
「そして三つ目。ダチの彼氏との未来に嫉妬したお前が、無意識に相野美咲へ送りつけちまった『無自覚の呪い』だ」
陽子は大きく電子タバコの煙を吸い込み、日和の輪郭をなぞるように吐き出した。
そして、彼女の額をつついた。
「……いいか、お前のその才能は異常だ。本来、人が人を呪うには儀式やら殺意やらが必要になる。だがお前は、日常のちょっとした不安や嫉妬、悲しみ程度で、無自覚に呪詛を生成出来ちまう」
それを聞いた日和の顔は絶望に歪んだ。
「……私が、そんな……。美咲の幸せ、本当は、喜んであげたかったのに……。心のどこかで羨んでいて、私だけが置いていかれるのが怖くて……。あの子を、呪っちゃってたんですか……?」
「自覚がねぇのが一番厄介なんだよ。お前が撒き散らす呪いは、普通なら他人の免疫で弾かれる。だが、弾かれた呪いはお前自身に全て跳ね返ってくる。お前の年中襲ってくる不幸体質は、自給自足の自業自得ってわけだ」
陽子の突き放すような事実の羅列に、日和は言葉を失った。自分は生きているだけで、周囲に毒を撒き散らし、自分をも傷つける欠陥品。ビデオの呪いを言い訳にできないほどの、自身の本質的な醜さに、足元が崩れ落ちるような感覚に陥る。
「……最悪だ……。私、自分のことがずっと嫌いだったけど、こんなに恐ろしい人間だったなんて。これじゃあ、誰とも一緒にいられない。美咲の隣にも……もう、一生いられない。私、……っ」
日和は膝に顔を伏せ、嗚咽を漏らした。その背中に、陽子の冷ややかな、けれど現実的な声が降る。
「いつまで被害者面してんだ。精算できねぇなら、働いて返すしかねぇだろ」
陽子はカウンターの下から、古びた、けれど妙に重厚な空気感を纏った「お守り」を取り出した。
「これを持て。知り合いの住職から掠めてきた強力な厄除けだ。本来は外からの厄を避けるもんだが、お前の場合は逆だ。内側からの呪いを外に漏らさねぇための『栓』として使わせる」
「栓……?」
「そうだ。お前には今日からここでバイトをさせる。あたしがお前に呪いの扱い方を叩き込んでやる。無自覚に他者を呪わねぇようにな」
陽子は泣きはらす日和の額に、今日二度目になるデコピンを、今度は少しだけ優しく、けれど確実に弾いた。
「……あ」
不思議なことに、その衝撃とともに、胸を締め付けていた重苦しい圧迫感がふっと軽くなった。
「このお守り、タダじゃねぇぞ。レンタル料として給料からきっちり引かせてもらうからな」
日和はお守りを両手で握りしめた。呪いを抑え込むための道具。それがあれば、自分はまだ「外」の世界にいても許されるのかもしれない。何より、自分のこの異常な性質を知った上で、「ここにいろ」と言ってくれた陽子の言葉が、凍りついた心にじわじわと染み込んでいく。
「……本当に、いいんですか? 私、失敗ばかりだし、また誰かを傷つけるかもしれないのに……」
「四の五の言うな。雇用を管理するのは店主の仕事だ。それに……」
陽子は一度言葉を切り、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……苗字で呼ぶの、やめろ。長くて耳障りだ。陽子でいい」
「え……っ? でも、そんな……。あ、ありがとうございます、陽子さん……っ。私、頑張ります。精一杯、働きますから……!」
日和は再び溢れそうになる涙を袖で拭い、深々と頭を下げた。陽子はそれを見て、人知れず口角を上げた。ちょうど店番が欲しかったところだ。日和のこの異常な性質を制御下に置けば、これほど強力な「在庫」の供給源もいない。おまけにレンタル料という名目で人件費まで安く抑えられるのだから、笑いが止まらない。
「……いいか、完済するまで逃げるんじゃねぇぞ」
「はい! 絶対に逃げません。私、ここでやり直したいです……!」
店を一歩出ると、街は完全に朝の光に包まれていた。
信号は青。
日和は、隣を歩く陽子の不愛想な横顔を、眩しそうに見つめた。昨夜までの自分が決して信じられなかった、澄んだ空の色を仰ぎ見ながら。
信号を渡る日和の足取りは、まだ少し震えていたが、その手の中には、確かに温かいお守りが握られていた。




