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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第一章 『不幸の代償』

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1-3

 

 美咲を乗せた救急車が夜の闇に消えてから、日和の時間は凍りついたようだった。


 病院の待合室。無機質な蛍光灯の下で、彼女は自分の両手を見つめていた。指先は氷のように冷たく、どれだけ擦り合わせても体温が戻らない。

 遅れて駆けつけた石田勇が、取り乱した様子で受付に詰め寄る。

「美咲は……相野美咲さんは、大丈夫ですか!?」

 その悲痛な叫びを聞くたびに、日和の胸には鋭い棘が突き刺さった。


(……私のせいだ。私の『不幸』が、呪いのせいで美咲に伝染したんだ)


 自分が直接突き落としたわけではない。けれど、あのビデオを見てから、自分の周囲で起きる出来事の歯車が明らかに狂い始めていた。自分の内に溜まった「不幸」が、ビデオの毒に引きずり出され、美咲を飲み込んでしまったのではないか。そんな拭いきれない恐怖が、日和の心に暗い影を落としていた。


 ようやく解放された日和は、勇たちの「君のせいじゃない」という言葉を背に、逃げるように病院を後にした。

 夜気は冷たく、街はすでに深い闇に包まれている。自宅の駐輪場に辿り着いた日和は、そこに置いてあった自分の自転車を引っ張り出した。家に入る勇気が出ない。自分の手足が、まだ「不幸の余熱」で痺れているような気がして、愛する家族に触れるのが怖かった。


 日和は、吸い寄せられるようにスマートフォンを開いた。画面に表示されているのは、先ほど見つけた奇妙な広告。

『リユースショップ ハルナシ』

 隣町の住宅街の外れ。今から向かえば、まだ間に合うかもしれない。日和は、何かに取り憑かれたようにペダルを漕ぎ出した。


 隣町へと続く道中は、呪われているかのような停滞感に満ちていた。

 彼女が近づく瞬間にだけ信号が赤に変わり、頭上の街灯は不気味に瞬いては、彼女が通り過ぎるのを待っていたかのようにスッと消える。

 追い打ちをかけるように、自転車のチェーンが外れ、真っ黒な油で指を汚しながら掛け直すと、今度はどこからか飛んできた泥水が彼女の制服を汚した。まるで世界そのものが、彼女がこの先に進むことを拒んでいるかのようだった。


 ◎


 辿り着いたその場所は、住宅街の喧騒から切り離されたような、古い平屋の倉庫だった。

 半分だけ開いた錆びたシャッター。軒先には「買取強化中」と書かれた色褪せた幟が、冷たい風に吹かれてバタバタと力なく音を立てている。入り口の脇には、首の取れたマネキンや、ブラウン管の突き抜けた古いテレビ、色あせたプラスチックの衣装ケースが無造作に積み上げられていた。


「……あの、すみません。まだ、やってますか」


 薄暗い店内へ足を踏み入れた瞬間、日和は奇妙な感覚に包まれた。

 店内は、足の踏み場もないほどの中古品で埋め尽くされている。型落ちの洗濯機、時代を感じさせる扇風機、主人の消えた古いカメラ……それらが独特の「埃と機械油」の匂いを放ち、迷路のように積み上がっていた。

 外を吹き荒れる風の音も、自分を追い詰めていた不幸の予感も、この積み上げられたガラクタの山に吸い込まれたかのように消えた。そこにあるのは、あまりにも生活臭の強い、静かな現実だった。


 奥のレジカウンターの背後にある色褪せた暖簾が、わずかに揺れた。


「……あー、お客さん? もう今日は閉めるんだけど。……って、何だガキンチョじゃねぇか」


 暖簾を割り、不機嫌そうに顔を出したのは、黒髪のベリーショートに鋭い三白眼を持つ女性――夏秋冬はるなし 陽子ようこだった。

 スウェットにサンダルという、生活感丸出しの格好。陽子は気怠げに首を鳴らしながらカウンターの椅子に深く腰掛け、日和を値踏みするように眺めると大きくため息を吐いた。


「――店長の夏秋冬だ。奥のパイプ椅子に座りな。コーヒー代くらいはサービスしてやるから」



 陽子は日和の告白を、時折あくびを噛み殺しながら聞いていた。

 日和の生い立ちからの不幸体質、呪いのビデオ、そして美咲の事故。日和が震える声で話し終えると、陽子は立ち上がり、カウンターの下から古ぼけた機械を取り出した。それは、中古の電圧テスターを勝手に改造したような、ガムテープ塗れの不格好な代物だった。


「動くなよ」


 陽子がそのテスターを日和に向けた瞬間、カチカチカチと乾いた音が店内に響く。


「……あーあ。こりゃ酷いな。数値だけじゃ『質』までは判別できねぇけど、出力が嫌にねっとりとしてる」


 陽子の三白眼が、鋭く日和の背後を射抜いた。

 日和には見えていないが、陽子の目には、ビデオの砂嵐を凝縮したような「どす黒い霧」が、日和の肩にべったりと張り付いているのが見えていた。


「……チッ。本当についてねぇな、おまえ。いや、ある意味ツいてるのか」


 陽子は不機嫌そうに立ち上がると、一歩、日和の懐へ踏み込んだ。


「夏秋冬さ……痛っ?」


 パチン、と。

 静かな店内に、小気味よい音が響いた。陽子が放った、あまりにも無造作なデコピン。

 軽い痛みを感じたその瞬間、日和の視界を覆っていた薄暗い霧が、ガラスが砕けるような音と共に霧散した。

 氷のように冷たかった指先に、急速に体温が戻っていく。背中にへばりついていた重苦しい圧迫感が消え、数日ぶりに肺の奥まで空気が吸い込めるようになった。


「え……? 身体が、軽い……」

「サービスだ。そんな安っぽいもんをいつまでも抱えてるから、そんな辛気くせぇ感じになんだよ」


 陽子はまるで埃でも払ったかのように指先を振った。


「あんたが『呪い』だと思って抱え込んでたもんは、今のデコピンで引き取ってやった。だが、あくまで対症療法だ。……その『呪い』の本元をどうにかしなきゃ、話にならねぇな」


 陽子はスポーツバッグを担ぎ、日和に言い放った。


「案内しな。そのビデオを見た現場へ」


 陽子はスポーツバッグを無造作に助手席の足元へ放り込むと、顎で日和に乗るよう促した。

 二人は陽子の古い軽トラックに乗り込み、夜の静寂を切り裂いて走り出した。


 車内は、使い古されたシートの湿った匂いと、ダッシュボードに置かれた安っぽいシトラスの芳香剤、そして陽子が時折吐き出すガムの甘い匂いが混ざり合っている。助手席に座る日和の膝の上には、陽子のスポーツバッグから突き出た、重々しい金属製の工具がずっしりとのしかかっていた。

 エンジンの震動が、ダイレクトに座席から体に伝わってくる。ダッシュボードの上では、小さな招き猫の首がその振動に合わせて不自然にカタカタと揺れ続けていた。フロントガラスの外、街灯が一定の間隔で車内を通り過ぎるたび、ハンドルを握る陽子の鋭い三白眼が青白く浮かび上がり、また闇に沈む。


「……あの、夏秋冬さん。本当に、ビデオのせいなんですか」


 日和は、デコピンであっさりと軽くなった額を指先でなぞりながら、おそるおそる尋ねた。自分の体は確かに楽になった。けれど、自分の内側にあった「毒」が、本当にあれだけで消えたのか、それとも別の何かに変わっただけなのか。その不安が消え去ることはなかった。


「黙ってな。お前の脳みそがどう解釈しようが、機械の数値は嘘をつかねぇんだよ」


 陽子はハンドルを片手で回しながら、面倒そうにガムを噛み鳴らした。


「……呪いだなんだと騒ぐのは勝手だが、物事には必ず理屈がある。あんたが『呪い』と呼んでるものの正体もな。直接現場で確かめなきゃ、本当のところはわからねぇんだよ」


 一切の呪いも不幸も寄せ付けないような、陽子の冷徹な横顔。彼女はまるで、この世界の綻びを冷ややかに監視する鉄格子のようだった。日和はその静寂に、かえって追い詰められるような、それでいて奇妙な信頼を抱かざるを得ない心地がした。


 ◎


 かつて美咲たちと放課後の時間を潰した、ありふれた遊び場。看板の明かりは消え、入り口には「臨時休業」の案内が内側から貼られている。その脇には、剥がし残された規制用テープの黄色い断片が、夜風に吹かれてカサカサと乾いた音を立てていた。


「……ここです。あの日、みんなで……」


 日和は車から降りると、その建物の重苦しい沈黙に、思わず自分の腕を強く抱きしめた。陽子は軽トラのドアを乱暴に閉めると、無機質な入り口のガラス越しに、店内の暗がりをじっと見据えた。


「……へえ。道理で休業するわけだ。ここ、嫌な匂いがする」


 陽子は、一切の躊躇なく裏口の重い鉄扉を使い古した工具でこじ開けた。

 主電源の落ちた店内は、窓一つない閉鎖空間特有の濃密な闇に支配されている。廊下の端でぼんやりと灯る非常口のサインだけが、毒々しい緑色の光を放ち、無機質な壁を深海のような色に染め上げていた。


「うわ……真っ暗……。あの、夏秋冬さん……本当に、入るんですか?」

「嫌なら外にいろよ。一人でな」

「……そんなの無理です。一人は、もっと怖い……」


 日和の声が、静まり返った廊下に場違いなほど響く。あの日、再生ボタンを押すのを止められなかった後悔が、足元から這い上がってくるような気がした。

 床にはゴミ一つ落ちていない。警察の検証後に徹底して磨き上げられた廊下のワックスが、緑色の光と懐中電灯を反射して、ヌラヌラと油のように光っている。その行き届いた清潔さが、かえって「取り返しのつかない何かが起きた」事実を無機質に強調していた。

 かつて美咲たちが『呪いのビデオ』を見てしまった「30号室」。そのドアの前で日和は足を止めた。額のデコピンの感触は残っているのに、喉の奥がまたヒリつく。


「……この部屋です。夏秋冬さん、ここで、ビデオを最後まで見てしまったんです」


 陽子は無造作にドアを押し開けて中へ入った。

 室内は空っぽだった。清掃されたばかりの、どこか薬品臭い無機質な空間。

 陽子はガムテープ塗れの計測器を取り出し、モニターの正面にかざした。

 カチ、カチ、カチ……。

 液晶に躍る数値を見た瞬間、陽子の眉間に深い皺が寄った。


「……おい、これ本当にお前たちがビデオを見ただけなのか?」

「えっ……? はい。その後からみんな……」


 陽子は計測器を乱暴に振り、モニターの黒い画面を睨みつけた。


「……おかしいな。このビデオ自体は、せいぜい人を躓かせる程度の三流品だ。なのに、この部屋に溜まってやがるこの澱みはなんだ。マッチの火を点けた瞬間に、家一軒が爆発したみたいな数値が出てやがる」

「……数値? 夏秋冬さんには何が、何が見えてるんですか……? 私たちの呪いは、解けるんですよね……?」


 日和はおそるおそる、懐中電灯の光の輪の中を覗き込んだ。誰もいないはずのソファ。だがそこには、清掃でも消せなかった「重圧」の跡が、沈殿するように残っている。


「いいか、勘違いすんなよ。あたしは心霊現象モドキなんて大嫌いだ。だが、この部屋に残ってるのは『本物』の呪詛だ。三流の呪いに程度で、ここまで濃い澱みを生み出せるわけがねえ。……何かがおかしい。中身の方が、器よりデカすぎるんだよ」


 陽子は日和を振り返り、その三白眼で彼女の魂を抉るように見据えた。

「ここで誰かが勝手に壊れたのか、それとも……。まあいい。ここにはもう、答えは残ってねえな」

「えっ……待ってください! 解呪は!? 美咲を助けて、私の呪いも消してくれるんじゃ……!」

「騒ぐな。次行くぞ。まだ全部見てねぇんだよ」


 陽子は踵を返し、再び夜の闇へと歩き出した。次に向かうのは、美咲がその身を落とした、あの歩道橋だ。



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