9-3
三月の陽光は、春というにはあまりに頼りなく、リユースショップ「ハルナシ」の薄暗い店内に、幾筋もの頼りない光の柱を立てていた。その光のなかで、無数の埃の粒が、まるで微小な妖精のように狂ったように乱舞している。
棚の隅で、日和は危ういバランスを保っていた。
「あ、わわわっ……!」
指先が滑る。整理中だった大正時代の古ぼけた硝子鉢が、重力に従ってその華奢な縁を床に叩きつけようとした。刹那、陽子の低い声が空間の密度を上げた。
「……ヒヨコ。落としたら、今月のバイト代が吹っ飛ぶぞ。……それどころか、日和の春休みの全日程を、ここの床磨きで埋め尽くしてやろうか?」
日和は、心臓が口から飛び出しそうな勢いで、その硝子鉢を抱え直した。冷や汗が制服のブラウスをじっとりと濡らす。
「す、すみません陽子さん……! ギリギリ、セーフです。セーフ……!」
「はぁ……集中しろって言っただろ。お前が浮ついてるから、『不幸』に足元をすくわれるんだ」
陽子は、黒いロングコートの袖をまくり、手に持っている電子タバコを深く吸い込み吐き出した。彼女の背後には、曰く付きの木彫り熊から、出所の知れない電子部品、果ては異国の神像までが、秩序を欠いたまま積み上げられている。ここは店先に出せないような曰く付きの品を置いておくスペースだ。ここにあるもの全てが何かしらの曰くが付いている。
その時、陽子のコートのポケットで、スマートフォンが激しく振動した。
陽子はあからさまな舌打ちを隠さなかった。取り出した画面には、見慣れた、そして避けて通りたい名前が光っている。
『鬼塚』
「……また、あの疫病神か」
日和もその名前を見て、少し微笑み首をかしげた。
「鬼塚さん。まだ怪我は治ってないですよね? 病院のベッドで大人しくしていればいいのに……」
あの夜、蛇目瑠衣によって誘われたホテルの廊下で、自分を守るためにボロボロになったあの巨躯。日和が作った形代がボロボロに引き裂かれ、身代わりとなって散っていった光景は、今も日和の脳裏に焼き付いている。
陽子は親指で乱暴にボタンをスライドさせた。電話をハンズフリーにすると、独特の張りのある声がスピーカーの枠を超えて溢れ出してきた。
『もしもーし! ヨウちゃん、元気? ちゃんとご飯食べてるかな? ボクの方は、病院の食事が薄味すぎて、そろそろ麻婆の油が恋しくて限界だよぉ!』
「チッ……用がないなら切るぞ」
陽子は無言で、通話終了ボタンに指をかけた。
彼女が軽く脅すと、スピーカーの向こうで鬼塚の慌てる声が聞こえた。
『ちょ、待って待って! 真面目な話! 仕事の話なんだよ!』
陽子は足を組み、電子タバコを大きく吸い込み吐き出すと、苛立ちを教えるように威圧感のある語彙で話の先を促した。
「なら、さっさと用件を言え」
『ごめんて。……病院のベッドの上で退屈死しそうになってたらさ、ボクの高校時代の先輩から、久しぶりに連絡があったんだよ』
陽子の眉がぴくりと動いた。鬼塚とはそれなりに長い付き合いなのだが、そんな彼女の口から「先輩」という単語を聞いたことがなかったからだ。
「……先輩? お前の先輩ってなると、まともな輩じゃなさそうだな」
『ひどいなぁ、ボクをなんだと思ってるのさ! その先輩――鵺森百合先輩は、立派な名家のお嬢様……っていうか、四女さんなんだけどさ。その百合さんのところの当主、つまりお父様が亡くなって、遺品整理をしたいから、信頼できる人を紹介してほしいって言われちゃってさ』
本当は鬼塚が直接、その先輩をハルナシの二人にまで案内して紹介しようと思っていたのだが、つい先日も勝手に病室を脱け出して、病院にいる日和の元を尋ねた結果、後になって病院のお局看護師から大目玉を食らってしまい、現状は自由に動くことが出来ないでいた。
『だからヨウちゃんとヒヨちゃんに頼むしかないんだよ!』
「遺品整理なら、そのへんの適当な業者を斡旋すればいいだろう。あたしはお前の便利屋じゃない」
陽子としても、鬼塚の親しい先輩という人物を警戒していた。何かとトラブルを持ち込む彼女の先輩ともなれば、一体どんな無理難題を持ってこられるか、分かったものではない。
しかし、そんな陽子に鬼塚も食い下がる。
『ただの遺品整理だったら、ボクがわざわざヨウちゃんに振るわけないよ。……問題は、その中身。百合先輩のお父様は、生前から世界各国のオカルト品だの、魔除けだの、呪物だの……とにかく「特殊」なものばかりをコレクションしてたんだってさ』
その当主が長年掛けて世界中から買い集めた品々は、どれも特殊な品物ばかり。大抵の業者は「気味が悪い」「処分方法が分からない」と言って逃げ出してしまうらしい。自力で処分しようにも、量が量なので簡単に運び出せるわけもなく。場所を圧迫するばかりで、困り果てていたそうだ。
そんな中、テレビのオカルト番組などにも出演している鬼塚を思いだし、彼女ならこういった曰く付きの品々の処分方法や処分先を知っているのではないかと、連絡をしてくれたようだ。
『ボクの鑑定じゃ私情が入っちゃうけど、ヨウちゃんなら確実でしょ?』
陽子は窓の外に目をやった。空は雲が日を遮り、白く濁っている。
「……曰く付きか。場所は?」
『東北の上の方。三陸のさらに奥深く、鵺森邸っていう歴史あるお屋敷だよ』
それを聞いた陽子の顔が、あからさまに嫌そうに歪んだ。
「……遠いな。手間とガソリン代の無駄だ。そんな僻地まで行って、ガラクタの山を掴まされるのは御免だな。断る」
『いいのかなぁ?』
鬼塚の声が、楽しげに弾んだ。
『その鵺森家、資産総額は百億を優に超えるらしいよ。……今回の依頼、交通費、宿泊費全額支給。さらに、鑑定した品物は、そのままヨウちゃんの店で買い取る独占権付き。先輩の話だと、軍資金はいくらでも出すって言ってるけど?』
それを聞いた陽子の目が、獲物を見つけた猛禽のように鋭く光った。
「……ふん。百億か」
「陽子さん?」
日和が陽子の顔を覗けば、その瞳には「金」の文字が浮かんでいるように見えた。
「受ける。その依頼、引き受けてやるよ。……今すぐその先輩をウチに寄こせ」
掌を返すどころの騒ぎではない。音速を超える速さでの快諾だった。
隣で聞いていた日和が、肩をすくめて溜め息を吐いた。
「陽子さん……さっきまでガソリン代の無駄って言ってたのに。お金が絡むと、本当に動きが早いんだから」
『あはは、さすがヨウちゃん! 話が早くて助かるよぉ。じゃあ、先輩に伝えておくから。よろしくね!』
それから、ちょうど二時間が過ぎた頃だった。
ハルナシの古い扉に取り付けられた真鍮の呼び鈴が、澄んだ音を立てた。
入ってきたのは、周囲の埃を吸い取るような清潔感を纏った女性だった。
上質なカシミヤのコート、控えめだが仕立ての良さが一目でわかるスーツ。彼女は店内の、カビ臭い空気と雑多な陳列棚を、不快そうにするでもなく静かに見渡した。
「……ここが、百さんの言っていたお店ね」
女性――鵺森 百合は、カウンターの奥で電子タバコを吹かしている陽子と、その横でお茶の準備をしていた日和に、品定めをするような視線を向けた。
「詐欺師ではなさそうね」
その言葉に、陽子は紫煙を天井へと吐き出した。
「へぇ……。霊感はあるみてぇだな」
「えっ?」
日和が驚いて百合を見た。
百合は自嘲気味に口角を上げた。
「ええ、人よりは少しだけ。……誰かに話したことはあまりありませんけどね」
百合は寂しそうに微笑むと、棚に置いてある商品を手に取った。その手付きはまるで本物を見極める鑑定士のようだった。
「今まで何度となく詐欺師紛いや霊能者擬きに騙されそうになりました。だから、本当に信頼できる取引相手を探していたんです」
百合はカウンターの奥で座っている陽子へと顔を向ける。
「そんな時に、後輩の百さんのことを思い出しました。彼女なら顔も広いし、『本物』の知り合いも多いだろうと連絡したんです」
「あいつは馬鹿だが、人脈は馬鹿に出来ねぇからな」
陽子は椅子に深く腰掛けた。
「話は聞いた。……亡くなった父親の遺品、それも曰く付きのガラクタの鑑定と買取及び処分。そうだな?」
百合は頷き、日和が差し出した椅子に腰を下ろした。
「はい。父・宗玄は、生前から異常なほどオカルトに傾倒していました。各国の遺跡から持ち出された真偽不明の品々、呪術的な背景を持つ骨董……。後妻の亜希子さんからも、それらの不気味なコレクションをどうにかしてほしいと相談され、今回、私が動くことにしたんです」
日和は淹れたての熱い緑茶を百合の前に置いた。百合は小さく礼を言い、その湯気を見つめた。
「私の見た感じだと、父の部屋にあるものは……本物、つまり本当に曰く付きの物が半分、残りの半分は、見た目だけの模造品が殆どだと思います」
世の中にある呪物や因縁物は、その殆どは偽物や模造品ばかりが出回っている。それこそ、蛇目一族のような呪物を専門に扱う商人一族が開催するオークションでもなければ、確実に本物と出会うのは難しいだろう。
話を聞くに、百合の父親である宗玄は、あまりオカルト界隈自体には足を踏み入れていなかったようだ。
「他の兄や姉たちは、こんな雑用みたいな仕事は絶対にしません。あの人達は、遺産の分け前にしか興味がないんです。……だから、私が一手に引き受けることにしました。幸い、買取金額はすべて私が貰っていいという約束も取り付けてあります」
百合はお茶を口にしながら、どこか寂しげに微笑んだ。兄弟姉妹仲はあまり良くないようだった。
「霊感があることは、夫や一部の知人以外には教えていません。兄弟たちに知られれば、気味悪がられるだけですから。……ですから、夏秋冬さん。どうか屋敷へ来て、父の遺品を鑑定していただきたいのです。ガソリン代も出しますし、宿泊は屋敷の方で手配させていただきますので」
陽子は少し考えた。オカルト品が半分「本物」であるという点、そして百億という背景。何より、百合という女性が纏う「静かな毒」のような気配に、商売人としての嗅覚が反応していた。
「……分かった。その依頼、引き受けよう」
「ありがとうございます」
百合が安堵の息を漏らし、胸を撫で下ろした。
「日和、依頼用紙を出せ。事務所の棚の奥に、仕事用のやつがあるだろ」
陽子に言われ、日和は「はいっ!」と元気に返事をして店舗の事務所側へと走った。
事務所の奥、埃を被ったスチール製の棚から、日和は少し端の折れた依頼用紙を引っ張り出してきた。
戻りながら、日和の心はすでに東北の空へと飛んでいた。
「陽子さん。これって、小旅行になりますよね? 東北なんて行ったことないし、温泉とか美味しいものとか、あるかなぁ」
陽子は受け取った用紙に署名をしながら、浮かれている日和の額に、鋭いデコピンを見舞った。
「あだっ! ……な、なんですか、急に!」
「浮かれるな、マヌケ。……これは旅行じゃない、仕事だ。さっきのお嬢様の話を聞いてなかったのか?」
日和は口を尖らせて額をさすったが、それでも小さな期待は隠しきれなかった。
「もー、わかってますよぉ。でも、仕事だって楽しまなきゃ損じゃないですか。鬼塚さんだって、病院で応援してくれてるんですから!」
百合が差し出した「鵺森家」という名の招待状。それに浮かれる日和を百合は微笑ましく見つめていた。
陽子はボールペンを置き、百合に視線を戻した。
「……準備が出来次第、屋敷に向かう。あんたの父親が隠したがっていた『価値』が、その泥沼の屋敷のどこに埋まってるのか、さっさと見極めて終わらせよう」
百合は頭を下げ「よろしくお願いいたします」と静かに伝えた。その後、依頼用紙に必要事項を書き記した百合は、二人に頭を下げながら店を後にした。
窓の外では、三月の風が冷たく吹き荒れている。
陽子たちはまだ知らなかった。
これから向かう「鵺森邸」で、単なる遺品整理どころではない、血の匂いを纏った「黒椿」の惨劇が、まさに今、幕を開けようとしていることを。
数日後の早朝。
朝早くから出勤してきた日和は、眠そうな目を擦りながら、陽子の軽トラへと乗り込んだ。両親にも宿泊の許可を受けているのか、彼女の背負うリュックには数日分の着替えなどが入っている
いつもの出張買取時に持ち運ぶ黒いボストンバッグを軽トラの荷台に乗せて固定した陽子も軽トラへと乗り込んできた。
「……さあ、行くぞ。ヒヨコ……故人が遺したガラクタの、本当の価値を見極めにな」
陽子の声は、静かに、そして鋭く、まだ薄暗い車内に響き渡った。
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