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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第三章 『貪欲な変容』

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9-4

おやすみなさいzzzz

 

 鵺森邸の本邸から別邸へと続く渡り廊下は、外界から隔絶された「静寂の檻」だった。

 豪奢な装飾に彩られた本邸が、人の欲望と虚栄を煮詰め、毒々しい極彩色で塗りつぶした場所だとするならば、この渡り廊下を一歩進むごとに、色彩は剥ぎ取られ、代わりに冷酷なまでの「沈黙」が肌にまとわりついてくる。


 案内を引き継いだ家政婦、里奈の背中は、まるで冬の暴風に晒された小鳥のように小さく震えていた。彼女が漏らす吐息さえも、凍りついた廊下の空気の中で白く濁るように、出口を求めて消えていく。


「……こちらです。百合様より、今日はこちらを使っていただくようにと申し付かっております」


 通された客間は、時の流れが凝固したかのような重厚な空間だった。

 天井を這う巨大な梁は、数百年という歳月を経てなお、獲物を狙う猛禽の鉤爪のような威圧感を放っている。広々とした和室は、本来ならば格式高いもてなしの場なのだろう。しかし、そこには安らぎの欠片もなかった。

 日和は、敷居を跨いだ瞬間に息を呑んだ。

 廊下と比べても更に重い空気が立ち込め、呼吸した肺が鉛のように重く感じたからだ。


「……あ、あの、夏秋冬様」


 部屋の隅で、慣れた手つきで重い荷を下ろしている二人へ、里奈が畳に膝をついた。その所作はあまりに弱々しく、彼女の存在自体がこの屋敷の闇に溶けてしまいそうなほどだ。


「百合様は、今、本邸の方で……。松子様たちが、その、柚葉様の遺産のことや葬儀の段取りのことで、ずっと……。罵声が止む気配もなく、まだ、もう暫くはお時間が掛かるかと思います」


 里奈の声は、まるで枯れ葉が擦れ合うような、今にも途切れそうな響きだった。

 陽子は、黒いボストンバッグを無造作に畳の上へ放り出すと、備え付けられた年代物の椅子にドカリと腰を下ろした。


「……だろうな。あの連中の面構えを見ただけで、どの程度の『ハイエナ』どもかは察しがつく」


 陽子は、コートの襟を正しながら里奈の方を向いた。

 その鋭い三白眼は、まるでレントゲン写真のように、里奈が必死に隠そうとしていた恐怖の根源を暴き立てる。


「それより家政婦さん。あんた、さっき『柚葉様の遺産』って言ったな。警察が帰ったばかりだっていうのも聞いた。……何があった。只事じゃねぇんだろ?」


 その問いに、里奈は弾かれたように肩を震わせ、深く顔を伏せた。

 震える唇から漏れ出たのは、昨夜から今朝にかけて、この呪われた鵺森邸を襲った惨劇の残滓だった。

 四女・柚葉の、あまりに不自然で、不条理な死。

 現場となった部屋は、朝霧が立ち込める中で警察によって徹底的に検分された。しかし、権力という名の強引な蓋によって、その死は「突発的な自殺」として処理されたのだ。


「……警察の方は、争った形跡がないから、自ら命を絶ったのだと。そう言って、早々に帰っていきました。でも……」


 里奈の声が、涙を堪えるように微かに震える。

 現場は既に、他の使用人たちの手によって徹底的に清掃され、洗い流された。目に見える痕跡は一滴も残っていないはずだ。しかし、里奈の鼻腔には、今もなお、糞尿に混じった粘り気のある死の匂いがこびりついて離れない。


「あんな……あんなの、絶対におかしいです。あんなことを……自分の意思でなんて、信じられません……!」


 吐き出すように事情を語り終えると、里奈は「また後でお茶を淹れに来ます」とだけ言い残し、何かに追われるように、逃げるように部屋を去っていった。

 彼女が閉めた襖の音さえも、別邸の深い静寂に飲み込まれていく。

 重苦しい沈黙が、雪のように客間に降り積もる。

 陽子は、不機嫌を形にしたような表情で、首の骨をバキバキと鳴らした。


「……はぁ。結局、とんだ厄介事じゃねぇか。遺品整理の前に、死体の整理さえ終わってねぇとはな」


 陽子の言葉は鋭利な刃物のようで、日和は思わず身をすくめた。

 開け放たれた窓の向こう、鵺森の山を包む霧はさらに深まり、屋敷の輪郭を曖昧にぼかしていく。


「……陽子さん。私、さっきからずっと……。周囲の人たちの『怯え』や、剥き出しの『敵意』が、見えない針みたいに全身に刺さって……凄く、居心地が悪いです」


 日和は自分の両腕を抱きしめるようにして、小さく身を震わせた。陽子は、そんな彼女を、呆れたような、けれどどこか慈しむような眼差しで見つめ、自嘲気味に口角を歪める。


「はぁ……全くだ。あたしまでヒヨコの『不幸』に染まっちまったかな。これじゃ、どっちが厄病神か分かったもんじゃねぇや」


 その冗談に、日和は我に返ったように頬を膨らませた。


「酷いですよ! 私は何もしてませんし! 全部、この屋敷の空気がおかしいんです!」

「悪い悪い……。冗談だよ」


 陽子の瞳から、一瞬だけ柔らかい色が消えた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅――黒い靄が渦巻く場所へと視線を投じる。


「……だがな、ヒヨコ。ここには、人間が吐き出した毒だけじゃねぇ『何か』が確実に居座ってやがる。……それも、相当に年季の入った、たちが悪い奴がな」


 陽子の視線が、部屋の隅――床の間と天井の境界あたりに漂う、微かな「歪み」を射抜いた。

 それは、視覚が捉える光の屈折を無視した、不自然な黒い靄だった。煙のようでいて煙ではなく、インクを水に垂らした瞬間の、あの暴力的な侵食の速度を保ったまま、空間に固定されている。並の霊能者であれば、その一端に触れただけで吐き気を催し、一歩も動けなくなるほどの密度で、ゆっくりと、けれど確実に増殖している。

 日和もまた、その「黒」を感じ取っていた。この屋敷で働く百合という女性は、ずっとこの泥濘のような空気の中で、独り戦ってきたのだ。


「……おい、ヒヨコ。テスター出してくれ」


 不意に投げかけられた陽子の低い声が、静寂を切り裂いた。

 日和は「はい」と短く応じると、重たいボストンバッグの底へ手を差し入れた。指先に触れる、冷たく無機質な感触。彼女が引き摺り出したのは、およそこの格式高い和室には不似合いな、機械工学への「冒涜」とも言える不格好なガジェットだった。


 ベースとなっているのは、どこかのリサイクルショップのジャンク籠で埃を被っていたであろう、旧式の電圧テスターだ。

 しかし、その原型を留めている部分はもはや僅かしかない。筐体は、剥がれかけた銀色のガムテープで幾重にもぐるぐる巻きに固定され、そこからは触手のように細い赤と黒の銅線が、無秩序に二本這い出している。基盤の隙間からは、素人目にも怪しげな電子部品や抵抗器が無理やりハンダ付けされており、見る者に「爆発するのではないか」という予感を抱かせるほど、その外見は醜悪で、同時に凄まじい実用主義を体現していた。


「陽子さん……また、この『自作テスター』ですか。相変わらず、というか、前より見た目が酷くなってません?」


 日和は、それを手渡すのを一瞬ためらうほど、その機械から放たれる「異様さ」に気圧されていた。だが、陽子はそれをひったくるように受け取ると、冷笑を浮かべた。


「性能は確かなんだよ。……目で見える範囲なんてのは、所詮、脳が都合よく書き換えた幻覚に過ぎねぇ。だが数値は嘘を吐かねぇ。見える化ってのは、この手の『理屈の通じない現象』を仕分けする上で、一番効率がいいんだよ。知ってるだろ?」


 陽子の指が、ガムテープの隙間に埋もれたスイッチを弾いた。

 ジ、ジジ……、ジ……。

 鼓膜を逆撫でするような、不快な電子音が静寂を侵食していく。テスターの古い液晶画面に、緑色の不気味なバックライトが灯った。

 陽子は、テスターの先端――剥き出しの銅線の先を、空間に漂う黒い靄の一つに翳した。

 その瞬間だった。

 デジタルメーターの数値が、狂ったように回転を始めた。

 10、50、200……。

 勢いよく増加していく数値は、この空間にどれほどの「重圧」が溜まっているかを無機質に告げている。陽子はテスターの側面に付けられた、これまた歪な切換スイッチをカチリと捻った。すると、今度は跳ね上がっていたメーターの数値が、吸い込まれるようにガクンと低下していく。


「……出力も濃度も、まるで安定しねぇな。呼吸してるみたいだぜ、こいつは」


 陽子は場所を変え、今度は天井近くの別の靄にテスターを向けた。

 不思議なことに、今度はメーターの数値に大きな変化はなかった。切換スイッチをどれだけ回しても、針は低空飛行を続け、これは「別物」と言わんばかりの平坦な反応を示す。


「……これはどういうことなんですか?」


 日和は、陽子の肩越しに液晶を覗き込みながら尋ねた。未だにその数値が示す「真の意味」を、彼女は理解しきれていない。陽子が何を調べ、何を見て、このガラクタ同然の機械で何を「査定」しているのか。

 陽子の横顔には、絡み合った糸を一本ずつ冷徹に解きほぐす、熟練の解剖医のような色が浮かんでいた。


「靄の『元』が、それぞれ別物だってことだ」


 陽子は端子を動かし、淀みの中心を指し示した。

 一つは、泥のように重く、畳の底へ沈み込もうとする鈍い反応。それは、この土地の記憶や、屋敷の奥底に眠る古い呪物が何十年もかけて吐き出してきた、歴史という名の腐敗臭だ。

 もう一つは、不規則に跳ね、熱を帯びたように明滅する数値。それは昨夜の事件以来、この屋敷に住まう人間たちが撒き散らした、剥き出しの執着心や恐怖――生身の人間が放つ、生臭い感情の澱みだった。

 しかし、陽子が最も忌々しそうに目を細めたのは、そのどちらでもない、薄く、それでいて刺すように鋭い反応だった。


「……これを見ろ。こいつだけは、他と毛色が違う」


 テスターが、キリキリと悲鳴のような高音を奏でる。

 それは他二つの濁った気配とは明らかに異なり、洗練され、研ぎ澄まされた刃物のような「害意」の感触だった。それは呪物から滲み出た物や、屋敷の人間から漏れだした物とは別物の不可解な靄だ。そしてその尖った悪意が、既存の澱みに混じって増殖している。


 陽子はテスターの電源を落とし、それをポケットに突っ込むと、次に部屋の天井付近、その四隅を射抜くように睨みつけた。

 そこには、煤けて茶褐色に変色したお札が、逃げ場を塞ぐ杭のように、壁の隙間に打ち付けられている。


「……陽子さん、あれ、厄除けのお札ですよね?」


 日和の言葉通り、それは珍しいものではなかった。

 有名な寺や神社で授与される、至極真っ当な市販の厄除け札。墨の色も、紙の質感も、どこにでもある「善意」と「祈り」の産物だ。それ自体に呪いなど宿っているはずもなく、本来であれば人を守るべき盾であるはずのもの。

 だが、陽子は鼻で笑うと、首筋を撫でる不快な湿り気を振り払うように吐き捨てた。


「ああ。……だが、貼り方が最悪だ。四隅に貼って結界を作る……言いたい事は分かるが、こいつを貼った奴は素人か、あるいは底意地の悪いペテン師だな」


 陽子は一歩、窓側のお札へと歩み寄った。

 本来、厄除けとは外からの悪意を跳ね返すための盾だ。しかし、この部屋のように、既に「内部」が毒で満たされている場合、その盾は恐ろしい檻へと変貌する。


「完全に閉じちまえば、確かに外からの侵入は防げる。だがな、一度中で発生しちまった厄は、出口を失ってこの四角い箱の中に閉じ込められるんだ。空気も、呪いも、人間の悪意も……逃げ場を失えば、あとは腐って煮詰まっていくしかねぇ」


 陽子の三白眼が、お札を捉える。

 本来は人を守るはずの善意の札が、四隅を固められたことで、逃げようとする毒を無理やりこの部屋に留めておくための「重石」に成り果てていた。


「こいつは『厄除け』じゃねぇ。毒を逃がさず、中で滞留させて熟成させるための――『蓋』だ」


 陽子は不快感を隠そうともせず、地を蹴った。

 その細い体からは想像もつかない、バネのようなしなやかな跳躍。黒いロングコートの裾が、夜の帳のように大きく翻る。

 陽子の指先が、窓のすぐ上に貼られた「蓋」の一角を、迷いなく捉えた。


 バリッ――。

 乾いた紙の破裂音が、静まり返った客間に響いた。

 それはあまりに呆気ない、日常的な音だった。お札を剥がしたからといって、劇的な閃光が走るわけでも、物理的な衝撃波が部屋を揺らすわけでもない。ただ、長年そこに張り付いていた古い紙が、陽子の指によって無慈悲に引き剥がされた。それだけのことだ。


「……陽子さん?」


 日和が不安げに声を上げる。陽子は着地すると、そのまま迷わず窓の鍵を跳ね上げ、重厚な木枠を左右に押し開いた。

 ガタガタと建付けの悪い音を立てて、鵺森の冷ややかな空気が室内に流れ込んでくる。

 劇的な変化ではない。しかし、確かな変化がそこにはあった。

 四隅を固められ、行き場を失って熟成されていた黒い靄が、開かれた窓という「出口」を見つけたのだ。それまで重く停滞していた空気の塊が、夜風に誘われるようにして、ゆっくりと、蛇が這うような足取りで外へと流れ出していく。

 日和は、無意識のうちに止めていた息を、深く吐き出した。

 肺の奥を焼くような、あのチリチリとした圧迫感が、ほんの僅かだけ和らいでいく。泥の中に沈んでいるような感覚が消えたわけではないが、少なくとも「呼吸」ができる程度には、空気の循環が始まった。


「……風が、通った」


 日和は胸に手を当て、外から流れ込む夜の冷気を吸い込んだ。喉を締め付けていた見えない鎖が、少しずつ解けていくような感覚。

 だが、陽子の表情は依然として険しいままだった。彼女は手の中にある、煤けた紙切れをじっと見つめている。

 そこに劇的な怪異の兆候はない。しかし、陽子の「査定人」としての嗅覚、そして数々の厄介事を潜り抜けてきた直感が、警告を鳴らしていた。


「……ヒヨコ。気を引き締めろ。これで万事解決、なんて甘い話じゃねぇぞ」


 陽子は、破れたお札をポケットにねじ込んだ。

 窓の外、厚い雲の隙間から、血のように赤い夕刻の残光が差し込んでいる。その光が、お札の剥がされた跡を赤々と照らし出していた。

 蓋を外したことで、澱みは流れ始めた。だがそれは、今まで隠されていた「異常」が、もう二度と隠し通せなくなったことをも意味している。

 この屋敷に充満する、呪いと欲望。その中核に触れるためには、もはやこの程度の小細工では追いつかないだろう。


「……百億のガラクタの中に、一体何が眠ってるのか。……さっさと引き摺り出してやろうぜ」


 陽子の鋭い三白眼の奥で、冷徹な炎が揺れる。

 一筋縄ではいかない。いや、おそらくこれから始まるのは、今まで経験したことのないような「泥沼の査定」になるはずだ。

 陽子は不敵に口角を歪めると、まだ落ち着かない日和の肩を、無造作に叩いた。



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