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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第三章 『貪欲な変容』

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9-2

冷凍庫から秋刀魚が出てきました。

まだ食べられますよね?

 

 鵺森邸の夜は、生き物の正気をじわじわと削り取る。

 遺書開封という名の「毒」が撒かれた夜、本邸を包む空気は、もはや呼吸するのも困難なほどに重苦しく澱んでいた。里奈は震える手で廊下の隅を拭きながら、冷え切った木の感触に逃げ場を求めていた。


 ――ヒィ、ヒィ、ヒィ……。

 遠くの森から、鵺の鳴き声が聞こえてくる。それは夜の闇を切り裂く悲鳴のようであり、あるいは誰かの末路を嘲笑う葬送曲のようでもあった。

 廊下の曲がり角で、里奈は鉢合わせそうになった影に息を呑んだ。

 次男の清二(せいじ)様だった。

 二十歳の彼は、この殺伐とした屋敷の中で唯一、時間の流れから切り離されているように見えた。彼はタブレット端末の画面を食い入るように見つめ、指先を忙しなく動かしている。


「……ああ、家政婦さんか」


 清二様の声は、温度が抜け落ちた無機質な響きをしていた。彼が何を見ているのか、里奈には分からなかった。ただ、彼が画面に指を走らせるその速度は、何かに取り憑かれたような、異様な執念を感じさせた。


「おやすみなさい。……明日、晴れるといいですね」


 清二様はそれだけ言うと、影の中に溶けるように自室へ消えた。里奈は、彼の背中に言いようのない「断絶」を感じて、立ち尽くした。


 本邸から少し離れた、深い杉林に囲まれた場所に建つ別邸「清流庵」。

 そこには三女の柚葉(ゆずは)様が、法要の期間中のみという条件で、客間に籠るように滞在していた。


「あの女と同じ空気なんて、一秒だって吸いたくないわ」


 そう言って、後妻である亜希子様への嫌悪を隠そうともせず、わざわざ本邸を離れて別邸に移った柚葉様。自身の不倫による離婚調停という泥沼の最中にある彼女にとって、清流庵の静寂は、自分を守るための殻だったのかもしれない。だが、吸い込まれるような闇に沈む別邸の灯りは、里奈の目にはひどく頼りなく、そして孤独なものに映っていた。


 惨劇は、あまりに鮮やかな「色」を伴って現れた。

 翌朝。鵺森邸の夜明けは、霧に溶けた墨のような色をしていた。

 朝焼けの空気は湿り気を帯び、冷たく、そして鉄錆のような匂いが混じっていた。


「……ひっ、あああああああぁぁぁ!」


 静寂を切り裂いたのは、早朝の清掃に向かった年配の家政婦の叫びだった。

 新人の里奈は、本邸の廊下を磨いていた手を止め、弾かれたようにその声の主へと駆け出した。胸の鼓動が耳の奥で、警鐘のように激しく打ち鳴らされる。

 里奈が駆けつけた時、清流庵の障子には、不吉な人影が逆光の中で黒々と浮かび上がっていた。


「……っ!」


 声が出なかった。

 清流庵の客間の中央、太い欅の梁から、三女の柚葉様が吊るされていた。

 太い麻縄が、彼女の白い首に食い込み、昨夜まで遺言状の内容を巡って誰よりも激しく後妻の亜希子様を罵っていた唇は紫に変色している。その高慢だった顔は、今や赤黒く充血し、焦点の合わない瞳が虚空を彷徨っている。

 異常だったのは、その足元だ。

 畳の上には、掃いて捨てるほど大量の「黒椿」の花弁が敷き詰められていた。赤を通り越して黒ずんだその花びらは、まるで柚葉様の体から滴り落ちた「業」が、花という形を成して彼女を供養しているかのように見えた。

 奇怪なのは、その状況だった。

 別邸の扉は内側から固く(かんぬき)が閉じられており、窓もすべて施錠されていた。別邸は年配の家政婦が訪れるまでの間、密室となっていたのだ。


 里奈は、胃の底からせり上がる酸っぱいものを堪えるように、口を抑えた。

 この屋敷は、磨いても磨いても、死の匂いが消えない。


 警察が到着するまでの間、一族の面々は本邸の大広間に集められていたが、そこにあるのは肉親を亡くした悲しみなどではなく、ただただ「不快感」と「苛立ち」だった。


「……信じられない。なんなのよ、これ……。ふざけないでよ!」


 長女の松子(まつこ)様の叫びは、悲しみではなく、怒りに満ちていた。彼女は自身の服の裾を強く握りしめ、何かを振り払うように腕を振った。離婚し、子供たちも夫に奪われた彼女にとって、今やこの遺産だけが唯一の「勝利」の証だったはずだ。それが、妹の死という泥によって汚されたことに、彼女は耐えられないようだった。


「…… 早く警察を呼べ! まだ着かんのか!」


 長男の竹男(たけお)様は、廊下にいた家政婦に詰め寄って怒鳴り散らしていた。

 彼は強気な言葉を並べ立てるが、額からは滝のような汗が流れ、何度も高級な腕時計を気にする様子は、追い詰められた小動物のようでもあった。


 数時間後、所轄の署から数人の刑事が到着し、屋敷は一気に物々しい空気に包まれた。

 遺体安置と現場検証が進むなか、一族の面々は応接室に集められ、個別に事情聴取を受けることになった。


「だから、俺は昨夜からずっと本邸の自室にいたんだ!」


 竹男様の怒鳴り声が廊下まで響いてくる。


「いいか、俺は寝ていたんだ。この不気味な屋敷で、誰がわざわざ夜中に別邸まで行くか。いい加減にしろ、事情聴取なんて時間の無駄だ!」


 刑事が冷静に宥めようとするが、竹男様はますます激昂し、自身の潔白を叫び続けた。


 一方で、次女の梅子(うめこ)様は、事情聴取の最中に突然、叫び声を上げた。


「汚い! どこもかしこも汚れているわ! 誰かが、あたしの部屋に汚れた足で入ったのよ! 警察だからって好き勝手してんじゃないわよ!」


 彼女は自身の指先を狂ったようにハンカチで拭き、周囲を疑るような目でキョロキョロと見回している。棚の隅の埃を指先でなぞっては、その汚れを忌々しそうに睨みつける。彼女の瞳には、妹の死よりも自室の汚れの方が気に入らないようだった。

 ヒステリックに泣き叫ぶ梅子様の声に、里奈は耳を塞ぎたくなった。


 四女の百合(ゆり)様は、沈痛な面持ちで俯いていた。

 彼女は、取り乱す兄や姉たちの陰で、静かにスマートフォンを握りしめている。


「……姉さんは、最後に何を思ったのでしょうね」


 その言葉は、一族の中で唯一、人間らしいものに聞こえた。だが、里奈はふと見てしまった。俯く百合様の、その影に隠れた瞳が、全く笑っていないことを。それは悲しみではなく、何かを「見定めている」ような、冷徹な観察者の目だった。


 夕刻。

 嵐の後のような静寂が戻った本邸の会議室で、四人の男女が向かい合っていた。

 後妻の亜希子様。主治医の古畑(ふるはた)医師。専属の古門(こかど)弁護士。そして、所轄の捜査主任。

 里奈はお茶を運ぶ振りをして、その部屋の空気に触れた。

 そこにあったのは、真実を究明しようとする意志ではなく、事態を「収束」させようとする、澱んだ合意だった。


「刑事さん。鵺森家は、この地方にとって特別な存在です」


 古門弁護士が、眼鏡を指で押し上げながら、淡々と、けれど重みのある声で告げる。


「先代当主の葬儀という繊細な時期に、無用な『事件』の噂が広まることは、地域経済にとっても不利益でしかない。……そうではありませんか?」


 古畑医師も、カルテをめくりながら言葉を重ねる。


「柚葉さんには、以前から情緒の不安定さが見受けられました。不倫騒動、離婚調停……。遺書こそ見つかってはいませんが、別邸は完全な密室。……状況から見て、突発的な自死と判断するのが医学的にも妥当でしょう。警察としても、これ以上の深入りは混乱を招くだけかと思われます」


 刑事は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、鵺森家という、地方に根を張る巨大な権威を前にして、反論の言葉を飲み込んだようだった。


「……わかりました。現場の密室状況、および主治医の判断を尊重し、本件は『自殺』として処理します」


 亜希子様は、最後まで一言も発さなかった。

 ただ、彼女の妖艶な美貌が、会議室の薄暗がりのなかで、一枚の絵画のように静かに鎮座していた。彼女はこの決定に驚く様子も、悲しむ様子も見せない。ただ、当然の帰結を受け入れるように、静かに目を閉じていた。


 警察が去り、夜が再び訪れた。

 自殺、という結論が出たにもかかわらず、屋敷の中にはさらなる「毒」が充満していた。

 大広間に集まった兄妹たちは、互いに一言も交わさない。

 松子様は、煩わしい事情聴取がストレスとなったのか、足を小刻みに揺らしながら紅茶を飲んでいる。

 竹男様は、誰からの連絡を待っているのか、スマートフォンの画面を何度もオン・オフしている。

 梅子様は、誰もいない廊下の先を指差して、「あそこに埃が……」と呟き続けている。

 清二様は、相変わらず無関心を装い、タブレットの中に閉じこもっている。

 そして百合様は、影の中でじっと、兄姉たちの背中を見つめていた。

 里奈は、廊下の影で雑巾を握りしめ、ガタガタと震えていた。


「……みんな、怪しい」


 里奈には、この屋敷の全員が、柚葉を梁から吊るした犯人に見えた。

 松子の苛つき。竹男の焦燥。梅子の狂気。清二の無関心。亜希子の沈黙。

 そして、百合の、あの「笑っていない目」。

 この屋敷は、もう終わりだ。

 三代目が仕掛けた「百億の遺産」という餌が、一族の心の底に眠っていた「獣」を呼び覚ましてしまったのだ。

 外では、ふたたび鵺が鳴き始めた。

 ――ヒィ、ヒィ、ヒィ……。

 それは、次の犠牲者を呼ぶ合図のように聞こえた。

 里奈は、自分が磨き上げたあの黒い廊下が、生きているように蠢いているのを感じた。

 暗闇の中から、無数の黒椿の花弁が這い上がってくるような錯覚。

 誰かが自分の背後に立っているような、冷たい視線。


「……助けて」


 里奈の小さな呟きは、鵺の鳴き声にかき消された。

 そんな絶望のどん底にある鵺森邸の門前に、翌朝、一台の古ぼけた軽トラックが停まることを、今の里奈はまだ知らない。



 ◎



 柚葉様の遺体が運び出され、警察のパトカーが山を降りていった後も、鵺森邸を包む「毒」が薄れることはなかった。

 むしろ、ひとつの死が「自殺」として強引に蓋をされたことで、屋敷の空気はより一層どろりと濁り、逃げ場のない圧迫感となって里奈の肩にのしかかっていた。


 そんな昼過ぎのことだった。

 急な坂道を、不機嫌そうなエンジン音を響かせて登ってくる一台の車があった。

 鵺森一族が乗るような、静寂を金で買った高級セダンではない。白煙を吐き、泥にまみれた、古ぼけた軽トラックだ。

 里奈は玄関先で、その場違いな来訪者を呆然と見つめていた。

 車が停まり、運転席から降りてきたのは、背が高く、鋭い三白眼を持った女性だった。黒のロングコートを翻し、彼女は自分のトラックの足回りを忌々しそうに眺めた。


「……ちっ。なんだってこんな泥はねが酷いんだ。これじゃ、せっかく洗ったばかりのトラックが台無しだ」


 ぶっきらぼうに悪態をついた女性は車体の汚れを見回している。

 続いて助手席から、私服姿の少女が、目を輝かせて降りてきた。


「わあぁ……! 陽子さん、見てください! お城みたいに大きなお屋敷ですよ! 凄い、こんなところが本当にあるなんて!」


 助手とおぼしき少女は、トラックを降りるなり、その圧倒的な邸宅の威容に圧倒されたように声を上げた。彼女にとって、ここはまだ「テレビで見るような豪華な名家」でしかないようだ。


「……待っていたわ、夏秋冬さん」


 玄関ホールに姿を現したのは、四女の百合様だった。

 百合様は、無邪気な少女の感嘆と、夏秋冬と呼ばれた女性の呆れたような視線を交互に見やり、深く頭を下げた。


「本当に、ごめんなさい。……こんな、大変なことになっている時に呼んでしまって」


 百合様の声は、申し訳なさで消え入りそうだった。

 その瞬間、夏秋冬様の表情から「泥はね」への不満が消えた。彼女は鋭い三白眼を細め、屋敷の奥から漂ってくる異様な気配を察知したようだった。

 屋敷の扉が開き、一歩中へ足を踏み入れた瞬間――。

 それまで「お城みたい」とはしゃいでいた少女の顔から、一気に血の気が引いた。


「え……。なに、これ……」


 少女は足を止め、自分の肩を抱くようにして腕を擦った。

 玄関ホールには、里奈のような使用人たちが抱く底冷えするような「恐怖」と、応接室の方から漏れ聞こえる兄姉たちの刺々しい「敵意」が、目に見えない霧のように立ち込めていた。


「……陽子さん、あっち、なんか……変な感じがします……。みんな、頭の中で怒鳴り合ってるみたいで、凄く嫌な感じです……」


 少女は、それまでの無邪気さが嘘のように萎縮し、夏秋冬様のコートの裾をぎゅっと握りしめて背後に隠れてしまった。

 そんな彼女たちの前に、大広間から長女の松子様が詰め寄ってきた。


「なんなの、その連中は! 警察が帰ったばかりだというのに、こんな時に部外者を招き入れるなんて!」


 扇子を激しく動かしながら、松子様がヒステリックな声を上げる。

 その後ろには、不機嫌を絵に描いたような顔の竹男様と、何かを追い払うようにハンカチを振り回す梅子様も続いている。


「百合、説明しなさい。こんな部外者を屋敷に入れるなんて、何を考えているの! 柚葉が死んで、警察が帰ったばかりだというのに!」


 松子様の金切り声に、少女は「ひぃっ」と短い悲鳴を上げて夏秋冬様の背中に完全に隠れてしまった。


「お姉様、失礼ですよ。この方たちは、お父様の遺品の買い取りをお願いした専門の方です。事前に約束していたことですから……」


 百合様が毅然として庇うが、竹男様が鼻で笑った。


「専門家だぁ? 見ろよ、あのボロトラックを。ゴミ捨て場の掃除屋を呼んだのか? 俺の会社に来る産廃業者の方がまだマシな格好をしてるぜ。おい、お前ら。ここは鵺森家だ。浮浪者が立ち入っていい場所じゃないんだよ。さっさと消えろ!」


 竹男様は、相手が格下の「商売人」だと確信したのか、警察や死体に怯えていた時とは打って変わって、傲慢な態度を剥き出しにした。その怒号は、少女にとって物理的な衝撃となって襲いかかる。彼女は耳を塞ぎ、夏秋冬様の背中でさらに身を縮ませた。


 里奈は、冷や汗が止まらなかった。

 もし夏秋冬様が怒り出せば、この場は収拾がつかなくなる。だが、彼女の反応は里奈の予想を遥かに超えて「冷めて」いた。

 彼女は、竹男様の罵倒などまるで耳に入っていないかのように、ポケットから電子タバコを取り出し、機械に差し込むと口に咥えた。


「……遺産百億の当主様が、ずいぶんと程度の低い倅を残したもんだな」


 夏秋冬様の静かな、けれど芯の通った声が玄関の庭先に響いた。

 彼女は一歩前に出ると、竹男様の顔を三白眼でじろりと見据えた。


「あんたの会社の時価総額がいくらだか知らないが、あたしが今日ここに来たのは百合さんとの契約があるからだ。外野がガタガタ騒ぐなら、その分の『鑑定遅延料』も上乗せさせてもらうぜ?」

「な、何だと……ッ!」

「……やめてください、竹男さん」


 冷たい声が響き、その場の空気が凍りついた。

 後妻の亜希子様だ。

 彼女は階段の上から、感情の読み取れない瞳で夏秋冬様たちを見下ろしていた。


「百合さんが呼んだ客人です。……好きにさせてあげてください。どうせ、この屋敷にあるものは、どれも死んだ主人が遺した呪われたガラクタばかりなのですから」


 亜希子様はそれだけ言うと、音もなく闇の奥へと消えていった。その姿は、この屋敷そのものが形を成したかのような不気味な美しさを湛えていた。


 松子様や竹男様が忌々しそうに去っていった後、夏秋冬様は大きく溜め息を吐いた。


「……はぁ。やっぱり、とんだ面倒な依頼を引き受けちまったな」


 彼女は、少しだけ震えの止まった少女の頭をポンと叩くと、百合様に向き直った。


「百合さん。案内してくれ。……あんたの父親が隠したがっていた『価値』が、この泥沼のどこに埋まってるのか、さっさと見極めて終わらせよう」


 里奈は、その光景を壁際でじっと見つめていた。

 一族の誰もが「自分」のことしか考えていないこの閉ざされた空間に、外の世界の、それも泥臭い現実を背負った彼女たちが入り込んできた。


 里奈には直感的に分かった。

 この屋敷に溜まりに溜まった「毒」を、無理やりにでも掻き出せるのは、あのような鋭い目をした人間だけではないのか。


「……あ、あの」


 里奈は、思わず声をかけていた。

 夏秋冬様が立ち止まり、面倒そうに振り返る。


「家政婦さん、何か?」

「……お茶、淹れます。……一番、熱いものを」


 里奈の精一杯の「歓迎」に、彼女は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、口角を上げたように見えた。


「……助かる。この屋敷の空気は、どうにも喉に刺さるからな」


 夏秋冬様と少女が、百合様に案内されて奥へと進んでいく。里奈もその後ろをついていった。

 鵺森邸の真の地獄を暴くための、最初の扉が、今、開かれようとしていた。



誤字・脱字報告、感想コメント、評価、お待ちしております。


追伸

・申し訳ないのですが、話の在庫が切れそうなので、次の土曜日の二話投稿から一旦休載させて頂きたいと思います。

話がまた一定量貯まりましたら、投稿を再開させて頂きたいと思います。

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