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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第三章 『貪欲な変容』

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9-1

 

 その屋敷は、鬱蒼とする山の森林の中に、しがみつくように建っていた。

 県の北端、地図の余白に乱暴に押し込められたような深い山中。そこは文明の光が緑の深淵に飲み込まれ、時計の針が現代から切り離されたような場所だ。切り立った崖の合間を縫い、大蛇がのたくるような細い私道の先に、その館は忽然と姿を現す。


 ――「鵺森(ぬえもり)邸」。

 広大な敷地の至る所に咲き乱れる、その異様な花の色から、近隣の村人たちには「黒椿邸(くろつばきてい)」の名で、不吉な伝説とともに語り継がれている。

 見渡す限りの稜線、空を突く杉の巨木、そして湿り気を帯びた土の匂い。そのすべてが、たった一人の男の私有地であった。


 先代当主、鵺森家三代目・鵺森 宗玄(ぬえもり そうげん)

 享年八十七。高度経済成長という狂乱が山を拓き、都市を太らせていくなかで、彼は木材需要という時代の波を完璧に捉えた。山の命を伐り出し、建築用材として貨幣へと変換する。その冷徹な錬金術によって、彼は一代でこの地を盤石な「鵺森の帝国」へと変え、「山の帝王」として君臨した。

 彼が一声上げれば街の経済が熱を帯び、彼が沈黙すれば山の法が書き換えられる。人々は彼を敬い、それ以上に恐れた。鵺森の血に逆らうことは、出来ない。


「……里奈、何を呆けているの。手が止まっているよ」


 背後から突き刺さった氷のような声に、私は弾かれたように雑巾を動かした。

 佐々木 里奈(ささき りな)はこの巨大な墓標のような屋敷に雇われて三ヶ月になる、いわば「新人」だ。

 二十三歳。令和という時代の荒波のなか、都内の大学を卒業し、輝かしい社会人生活を夢見ていた里奈は、就職活動という名の椅子取りゲームに無残にも敗北した。内定ゼロ。貯金わずか。都会の冷たさに背中を焼かれ、逃げるようにこの邸宅の住み込み家政婦に応募したのが運の尽きか、あるいは救いだったのか。

 提示された報酬は、同年代の会社員が逆立ちしても届かないほど高額だった。

 しかし、その対価として求められるのは、この重苦しい静寂への絶対的な服従と、広大な屋敷の維持に必要な終わりのない重労働だった。


 本邸だけではない。ここには客人を迎えるための、趣の異なる三つの別邸が敷地の各所に点在し、さらには三代目が世界中から――時には不当な手段で――買い集めたという骨董品や「曰く付き」の品々が眠る、巨大な蔵がいくつも鎮座している。

 それらすべてを、塵一つなく、指先一つ汚さぬように磨き上げる。それが、二十代から四十代まで、総勢二十名を超える私たち家政婦の使命だった。


「すみません、すぐに!」


 里奈は床に膝をつき、ひたすら廊下を磨く。

 この屋敷を流れる時間は重い。建築から数十年、あるいは百年近い歳月を経たであろう木材の一本一本には、宗玄が毟り取ってきた富の重みと、そこに込められた執念が、黒光りする油のようにこびりついている。


 鵺森一族の遺産総額は、控えめに見積もっても百億を超えると言われている。

 山に眠る稀少な天然林、街の主要な土地、そして蔵に封印された名もなき国宝級の品々。それらすべてが、三代目・宗玄の死という一点に向かって、いままさに雪崩のように動き出そうとしていた。

 四代目の座を巡り、血を分けた兄妹たちが牙を剥き出しにする。長男、次男、長女、次女、三女。彼らがこの屋敷に集結し、遺書が開かれるのを待っている。

 二十三歳の里奈にとって、百億という数字はもはや現実感を欠いた記号に過ぎない。けれど、この廊下を磨いていると、その莫大な「欲」が物理的な重圧となって、己の背中を押し潰そうとするのを感じていた。


「里奈。廊下を磨くときは、己の影も一緒に磨き落とすつもりでやりなさい。この家では、家政婦に感情も個性も必要ない。ただの動く調度品になりなさい」


 四十代の筆頭家政婦が、無表情に言い捨てて通り過ぎる。

 彼女たちの目は、もう何年も前から光を失っているように見えた。この屋敷の影に同化し、鵺森という巨大な怪物の消化液のなかで、静かに溶かされていく日々。

 私は雑巾を握る手に力を込める。逃げ出したい。けれど、逃げ出すための場所も、金も、今の私にはない。私はこの金色の牢獄のなかで、死者の残した「執着」の埃を払うことでしか、己の生存を許されないのだ。


 ふと、窓の外に目を向ける。

 そこには、宗玄が異常なまでの執着を持って愛したという「黒椿」が、不気味なほど赤黒い花弁を滴らせていた。

 普通の椿とは違う。それは光を拒絶するような深い闇の色を湛え、雨上がりの湿り気を帯びて、ぬらぬらと光っている。

 椿は、枯れてから散るのではない。まだ瑞々しさを保ったまま、首から上が落ちるように唐突に、その花を地面に叩きつける。

 赤を通り越して黒ずんだその花弁は、まるで大地が吸い上げた一族の罪と血を、外の世界へ向かって滴らせているかのようだった。地面に落ちた花々は、まるで誰かの死体がそこに転がっているかのように、生々しく、重々しい。


 ふいに、風が吹いた。

 山の稜線をなぞる風が、まるで鵺の鳴き声のように、ヒィヒィと不吉な音を立てて屋敷を揺らす。

 里奈は、自分が磨いているこの美しい床の下に、もっと深い、名もなき奈落が広がっているような、そんな気がしてならなかった。


 百億の遺産と、血塗られた黒椿。

 三代目が築き上げた帝国の終焉。

 そして、新しく四代目を決めるための、地獄のような相続争いが幕を開けようとしていた。

 彼女はまだ、この三ヶ月という短い歳月が、これから始まる惨劇のほんの序章に過ぎないことを知らなかった。

 ただ、震える手で雑巾を絞り直し、再び黒い廊下へと向かっていく。

 それが、鵺森という名の底なしの深淵に、彼女自身もまた、飲み込まれていく第一歩だったのだ。



 ◎



 三代目・宗玄の死は、この山に平穏をもたらすのではなく、むしろ隠されていた腐敗を一気に表出させる合図となった。

 四十九日の法要に合わせて、鵺森の血を引く五人の兄妹たちが、それぞれの野心と「黒」を纏って屋敷へと帰還したからだ。

  玄関先に並ぶのは、数千万は下らない高級ドイツ車や漆黒の国産セダン。それらが跳ね上げた泥が、里奈たちが朝から丹念に掃き清めた前庭を汚していく。しかし、車から降りてくる主たちに、それを詫びるような殊勝な心根など微塵もない。


「ちょっと、そこのあんた。この荷物、丁寧に運びなさいよ。中には都内の名店から取り寄せた手土産が入っているんだから。あんたの年収より高いんだからね」


 鼻を摘まんで眉を顰めたのは、長女の松子(まつこ)様だった。

 一度は他家へ嫁いだものの、離婚して「鵺森」の姓に戻ってきた彼女は、まるでこの屋敷の真の主であるかのように振る舞う。里奈が慌てて「申し訳ございません」と重いトランクを受け取ると、彼女は手にした扇子で里奈の肩を小突いた。


「無能ね。父さんが甘やかしていたから、あんたたちみたいな『質の低いもの』が屋敷に居着くのよ。私の滞在中は、廊下ですれ違う時も息を止めなさい。不愉快だわ」


 松子様の言葉には、使用人を人間として見ていない、純粋な選民意識が宿っている。

 一方で、長男の竹男(たけお)様は、傲慢な笑みを浮かべながら廊下で大声を張り上げていた。


「おい、家政婦! 俺の酒はまだか! この屋敷のセラーには最高級のヴィンテージが眠っているはずだろう。出し惜しみするな、今日は父の供養なんだぞ!」


 供養、という言葉を使いながら、彼の目はすでに屋敷の調度品を値踏みするように動いている。彼は都内で貿易会社を営んでいるというが、実態は投資の失敗続きだと、家政婦たちの噂話で流れてきた。彼にとって、今回の相続はまさに「起死回生」のギャンブルなのだろう。


 法要の準備は、さながら戦場だった。総勢二十名を超える家政婦たちは、嵐のような客人たちの要求に翻弄された。

 先代の二人目の妻との間に生まれた三人の娘たちは、一際この屋敷の空気を重くしていた。

 次女の梅子(うめこ)様は、極度の神経質で、常に周囲の棚を指でなぞっては埃を探し、不備を見つけては家政婦をなじる。

 三女の柚葉(ゆずは)様は、とりわけ亡き父の若き後妻、亜希子(あきこ)様に対して攻撃的だった。


「亜希子さん、お父様が亡くなってからお肌が随分と艶やかになられましたこと。喪服の黒が、あなたの若さを引き立てていて、とても四十九日とは思えませんわ」

「……お褒めに預かり光栄です、柚葉さん」


 柚葉様の放つ言葉の刃を、後妻の亜希子様は、妖艶なまでの美貌を崩さず、静かに受け流す。彼女は三代目の最期を看取った唯一の妻であり、この屋敷の「実質的な管理者」でもあった。

 四女の百合(ゆり)様は、他の兄姉たちに比べればおとなしく見えた。里奈が茶を運んでも、彼女はただ黙って窓の外を眺めている。だが、ふとした瞬間に漏らす一言が、誰よりも鋭利な毒を含んでいた。


「……無駄なのに。みんな、自分が『選ばれる』と思っているのかしら」


 その視線は、兄姉たちの諍いよりもさらに遠く、暗い森の奥を見つめているようだった。里奈には、彼女が何を考えているのか全く分からなかった。


 そして、亜希子の実子である次男、清二(せいじ)様。

 彼は一族の中で最も若く、そして最も不気味だった。兄や姉たちが離婚だ、負債だ、権利だと言い争うなかで、彼だけは虚無的な目を窓の外へ向けている。


「お父様は、もういないんだから」


 彼がボソリと呟いた言葉に、里奈は言いようのない寒気を覚えた。清二様は家のことにも、遺産のことにも、全く関心がないように見えた。ただ、追い出されさえしなければそれでいいというような、奇妙な無関心がそこにはあった。


 法要が終わると、いよいよ大広間にて、専属の古門(こかど)弁護士による「遺書開封」が行われた。一族の主治医である古畑(ふるはた)医師も、その場に証人として同席している。

 里奈たち家政婦は、指示を仰ぐために壁際に控えていた。


 広間の空気は、火花が散るほどに張り詰めている。古門弁護士が、黄ばんだ封筒から一枚の羊皮紙を取り出した。それは宗玄が死の直前に書き残した、最後の意志。


「……それでは、鵺森宗玄様の遺言状を読み上げます」


 弁護士の声が、静まり返った広間に響く。兄弟たちは身を乗り出し、一文字も聞き漏らすまいと目を剥いている。


「『我が遺産、百億に及ぶ動産・不動産のすべては、これを一名に譲渡する。――ただし、その一名を指名するのは私ではない。この鵺森邸そのものである』」


 広間に、困惑のざわめきが広がった。


「『かつて我が一族が犯した罪、そしてこの山に隠された罪の象徴。――【黒椿の宝】を見つけ出し、私に代わってそれを引き継いだ者。その者にのみ、相続の権利を認める』」


 続く文章は、文学的で、それでいてひどく不気味な暗号のようなものだった。


「ふざけないで! 宝探しなんて、父さんはボケていたの!?」

「そんな曖昧な話があるか! 法的に無効だ!」


 松子様や竹男様が立ち上がり、弁護士に詰め寄る。罵詈雑言。醜い叫び声。里奈は、彼らの呼吸が荒くなるのを肌で感じ、吐き気がした。百億という金が、人間をここまで獣に変えるのか。

 古畑医師は、そんな狂騒を無表情に、ただ静かに眺めていた。


「……無駄だよ」


 嘲笑うような、低い声。

 次男の清二様だった。彼は怒号が飛び交う広間のなかで、唯一人、冷めた瞳を向けていた。


「お父様は、僕たちが殺し合うのを期待しているんだ」


 清二様は誰とも目を合わせることなく、ただ窓の外で赤黒い花弁を落とす黒椿を、虚無的な目で見つめていた。

 外では嵐が、いよいよ激しさを増していた。

 屋敷のあちこちで、ギィ、ギィと、古い木材が悲鳴を上げている。

 里奈は、自分が磨いたあの美しい黒い廊下が、いまや血の匂いを吸い込みたがっているような、そんな幻想に囚われていた。

 遺書の内容に絶望し、あるいは新たな野心に燃え、それぞれが別邸へと引き上げた後。

 この「ゲーム」の本当の幕開けが、すぐそこまで迫っていることを、里奈はまだ知る由もなかった。



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