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第三章スタートです。
そろそろ話の在庫が減ってきました。
三月下旬。街路樹の桜の蕾が、あと数日の温もりを待ちわびて薄桃色の輪郭を膨らませ始めた、そんな朝のことだ。
あの一夜――呪詛と影が万華鏡のように狂い咲き、異界へと変貌した「影のホテル」での出来事から、二週間弱。カレンダーの数字が春休みを目前に控えた終業式へと近づくにつれ、あの非日常の記憶は、忙しない日常の波に洗われて少しずつ遠のきつつあった。
リユースショップ「ハルナシ」の店内で嗅ぐ古い紙の匂いも、店主である陽子の毒気を含んだ小言も、今では日和にとって守るべき「平穏」の象徴だ。
「――お待たせ、日和!」
住宅街の坂道の途中に立つ一軒家。その玄関が開き、聞き慣れた元気な声が響いた。
日和は顔を上げ、少しだけ安心したように目を細める。
「美咲、おはよう。……あ、気をつけて。あまり急がなくていいよ」
玄関から現れた親友――美咲は、両脇にがっしりとした松葉杖を挟んでいた。
あの冬休みの終業式の日。
忌まわしい『呪いのビデオ』、そして無意識下にあった日和自身の『呪い』が引き金となり、歩道橋の階段から真っ逆さまに転落した彼女。両足を骨折するという大怪我を負った美咲は、今や驚異的な生命力で、自力での登校を可能にするまでに回復していた。
「もー、心配しすぎ。今の私なら、この杖を駆使して階段だって華麗に登ってみせるよ」
美咲はカツン、カツンとリズム良く、けれど少し慎重な足取りで日和の隣に並んだ。
春の陽光は、冬のそれよりもずっと輪郭がはっきりしている。二人の間に落ちる影も、どこか瑞々しく、地面を撫でるように流れていく。
「でも、本当。日和、最近なんだか調子が良さそうだよね!」
歩き出して数分、美咲が不意に覗き込むようにして言った。
「え……? そうかな」
「そうだよ。なんていうか、いつもより顔色が明るいっていうか。肌ツヤもいいし、歩き方もしっかりしてるし。前はさ、『今にも消えちゃいそう』な危なっかしさがあったじゃない?」
日和は自分の右手を、そっと握り締めてみた。
確かに、自覚はあった。あのホテルでの出来事を経てから、身体が以前よりも少しだけ軽く感じるのだ。朝の目覚めも、以前のような泥の中にいるような重さが和らぎ、幾分かスッキリと起きられるようになった気がする。
学業面でも、ささやかな変化はあった。元々人並み程度の成績だったが、最近は授業の内容が以前より素直に頭に入ってくる。難解な数式を見ても、拒絶反応を起こす前に解法がふっと思い浮かぶことが増えた。
(あの時、呪詛の鎧を纏った影響……なのかな)
呪詛の鎧を纏い、規格外の負のエネルギーを体内に通し続けた結果、日和の『器』そのものが強制的に拡張されたのだろうか。それとも、あの地獄を生き延びたという事実が、彼女の精神を芯から作り替えたのか。日和にはその正体は分からなかったが、今の自分を包む「ほんの少しだけ上向きな兆し」を、大切に思っていた。
「何よりさ、最近のあんた、あんまり『不幸』に遭ってないでしょ?」
「あ……。そういえば、そうかも。最近は階段で躓くことや、鳥のフンを落とされることも減ったし……」
日和が「調子が良い」という言葉を口にしようとした、その刹那だった。
「おらぁっ! 待てよコラッ!」
「あはは、捕まえてみろよー!」
前方から、学校へと急ぐ小学生たちの集団が、全力疾走でこちらへ向かってくるのが見えた。
一人の少年が、路傍に捨てられていたアルミの空き缶を、サッカーボールさながらに力一杯蹴り飛ばす。
銀色の物体は、太陽の光を反射しながら、物理法則を嘲笑うかのような鋭いカーブを描いた。まるでそこに吸い寄せられるかのように。
――ゴンッ!
「あぐっ!?」
鈍い音と共に、日和の顔面に強烈な衝撃が走った。
突然の衝撃に重心を奪われ、日和は無様にしりもちをつく。視界の端で火花が散り、鼻の奥がツンとした熱を帯びた。
「やべっ!」
「逃げろーっ!」
悪びれもしない子供たちは、そのまま嵐のように去っていった。日和の足元には、凹んだ空き缶が無慈悲に転がっている。
「…………」
日和は座り込んだまま、ポカンと青空を見上げた。
目尻に滲む涙を指で拭いながら、自分の右手に宿っていた――ような気がした――万能感への過信を、そっと心のゴミ箱に捨てる。
「……やっぱ、ダメか」
上から降ってきたのは、やれやれとした、けれどどこか慈しみさえ感じさせる美咲の声だった。
「日和の不幸は『調子が良い』とかそういう次元の話じゃないよね。もはや宇宙の法則に愛されてるレベルだわ、悪い意味で」
「何でこうなるの……」
差し伸べられた美咲の手を借りて、日和は力なく立ち上がった。スカートについた砂を払いながら、日和は自分を包む「いつも通り」の不条理に、深い溜め息を漏らした。
鼻の頭をうっすらと赤くした日和と、それを笑い飛ばす美咲。二人がようやく学校の正門に辿り着いた頃には、予鈴の数分前を告げるチャイムが遠くで鳴り響いていた。
正門をくぐろうとしたその時、校門の脇にある石柱のそばに、眼鏡をかけた端正な佇まいの人影が立っているのが見えた。
「あ、勇くん!」
美咲が、松葉杖を操る手つきを少しだけ急がせる。
「……勇先輩」
日和もまた、小さくその名を呼んだ。
そこにいたのは、石田勇。日和たちの一つ上の二年生で、生徒会書記を務める生真面目な先輩だ。
銀縁の眼鏡の奥にある知性的な瞳が、二人を認めると和らぐ。彼は春風に揺れる前髪を指先で軽く整えながら、丁寧な足取りでこちらへと歩み寄ってきた。
「おはようございます。美咲さん、小林さん」
日和の胸の奥が、ほんの少しだけ、チリリと音を立てる。
彼への片思いは、あの冬休みの終業式の日――彼が美咲に告白し、二人が結ばれたその日に、ひっそりと終わらせたはずだった。親友の幸せを願う気持ちに嘘はない。美咲の隣で微笑む彼は、誰よりも彼女に相応しい。
けれど、彼が美咲を「美咲さん」と呼び、自分を「小林さん」と呼ぶ。その丁寧で誠実な、それでいて「恋人と後輩」という明確な境界線を感じさせる呼び分けを耳にするたび、心の中に残った微かな棘が、まだ抜け切っていないことを自覚させられる。
それでも、日和はそれを気にしないように、努めて穏やかに振る舞った。
「勇くん、わざわざ待っててくれたの?」
「はい。今日から登校だと伺っていましたから。階段や段差など、一人では大変でしょう?」
勇先輩はそう言って、自然な動作で美咲の重そうなスクールバッグを受け取った。その所作には、生徒会役員らしい生真面目さと、恋人としての慈しみが同居している。
「もう、勇くんたら過保護なんだから。日和も同じこと言ってたよ」
美咲は口では文句を言いながらも、その頬は隠しきれない幸せで桃色に染まっている。
三人は並んで校舎へと向かった。
勇先輩は、美咲の歩幅に合わせるようにゆっくりと歩を進める。その配慮は、生徒会役員らしい責任感と、彼女への慈しみが同居していた。
「小林さん、美咲さんのサポートをありがとうございます。あなたがいてくれるのは、私としても非常に心強い」
「あ……いえ、私は、ただ一緒にいただけですから」
丁寧な口調で礼を言われ、日和は少しだけ俯いた。眼鏡越しに見える彼の誠実な横顔を見ていると、「これでいいんだ」という納得がゆっくりと胸に広がっていく。
勇先輩は二人のクラスの前まで来ると、丁寧に一礼して見送ってくれた。
「では、私は生徒会室に寄ってから教室へ向かいます。美咲さん、放課後また迎えに来ますね。あまり無理をしないように」
「うん、ありがとう、勇くん!」
美咲の満開の笑顔を見届けて、勇先輩は背筋を伸ばしたまま、廊下の向こうへと消えていった。
美咲がクラスの扉をガラリと開けると、そこは既に朝の活気――という名の喧騒の渦中にあった。
「おはよー! 美咲、復活! もう全然平気だよー!」
美咲が、松葉杖を勝利のトロフィーのように掲げて叫ぶ。
「美咲! お前、マジで足折れてたのかよ!」
「うわ、本当だ、松葉杖かっけー! それ、一回貸してくれよ」
「バカ、不謹慎だよ! でも美咲、顔色は良さそうで安心したわ」
クラスの人気者である美咲の周りには、瞬く間に潮が満ちるようにしてクラスメイトたちが集まってくる。
日和は、その眩しい中心から数歩離れた場所で、静かに彼女を見守っていた。
かつてなら、この圧倒的な『陽』のエネルギーを前に、深い劣等感に押し潰されていたかもしれない。自分は美咲を照らすだけの月の裏側で、誰にも気づかれないまま消えていく存在なのだと。
日和への評価は、以前も今も変わらず「いつもニコニコしていて優しい、控えめな女の子」だ。美咲の傍にいるとどうしても印象が薄くなってしまうが、日和自身、その目立ちすぎない立ち位置に心地よさも感じていた。
(……私は、あの中には入れないけれど。でも、今は……)
日和が自分の席に鞄を置こうとしたとき、不意に、背後から賑やかな声がした。
「あ、日和! おはよー!」
振り返ると、そこには一ノ瀬、二階堂、三橋の三人――学年でも目立つ、いわゆる「陽キャ」のグループに属する女子たちが立っていた。
彼女たちとは、あの忌まわしい「不幸の手紙」事件の際に、一ノ瀬が車に撥ねられそうになったのを日和が助けて以来、不思議な縁で結ばれている。
「一ノ瀬さん、二階堂さん、三橋さん……おはよう」
「日和、また一段と鼻が赤くない? 朝からなんか飛んできたでしょ?」
一ノ瀬がクスリと笑いながら、日和の顔を覗き込む。
「あはは……。まあ、いつものことですから……」
「相変わらずの不幸体質だよねぇ。でも、ヒヨリンがいないと、このクラスの癒やしが足りないんだから、ちゃんとしてよ」
二階堂が愉快そうに肩を竦め、三橋も「ねえねえ、春休みの予定だけどさ」と日和の手を引いた。
日和は少しだけ狼狽えながらも、彼女たちの屈託のない笑顔に迎えられ、胸の中がじんわりと温かくなるのを感じた。
一ノ瀬グループにとって、日和は「一ノ瀬の命を救ってくれた恩人」であり、同時に「オカルトに詳しい不思議ちゃん」で、何より「色々と優しい子」だ。
日和自身は、あの一件の原因が自分自身の呪いだったという引け目から、素直に感謝を受け取ることができず、今も申し訳なさが残っている。けれど、彼女たちが当たり前のように自分を「輪」の中に招き入れてくれる事実は、何よりも大きな救いだった。
美咲の助けがなくても、今の自分には話しかけてくれる仲間がいる。もう、かつてのような「ぼっち」ではないのだと、改めて実感する。
「ちょっとみんな、日和をあんまりいじらないでよね! 日和は私の親友なんだから!」
クラスメイトの輪の中から抜け出した美咲が、松葉杖を操ってこちらの輪に合流する。
「美咲、人気者は忙しいんじゃないの?」
「何言ってんのよ。私のホームグラウンドはここでしょ」
美咲が笑い、一ノ瀬たちが笑い、それに釣られるようにして日和もまた、柔らかな笑みをこぼした。
一ノ瀬も美咲も、日和を会話の蚊帳の外に置こうとはしなかった。
「日和はどう思う?」「日和もこれ好きだよね?」
投げかけられる言葉の礫はどれも温かく、日和の心に心地よい波紋を描いていく。
親友の揺るぎない愛情と、新しくできた友人たちの飾らない優しさ。
春休みを目前に控えた三月の穏やかな教室で、日和は自分を包む幸せな時間に、静かに微笑んでいた。
◎
「ハルナシ」のある街の喧騒から少し離れた、湾岸沿いの埋め立て地。
潮の匂いが微かに混じった風が吹き抜けるその場所に、その大学病院は威容を誇るように建っていた。日和が学校の教室で、春の光に包まれながら友人たちと笑い合っている、まさにその時刻のことだ。
陽子の無骨なブーツが、静謐なVIP棟の廊下に硬い音を響かせる。
案内された最上階の個室。その重厚な扉を、陽子はノックもせずに力任せに開け放った。
「……ったく、面の皮の厚さだけは祟り神並みだな、お前は」
陽子は部屋に入るなり、苛立ちを隠さずに盛大な舌打ちを叩きつけた。
その音に驚いたように、ベッドの上で横たわっていた影が動く。
「おや、ヨウちゃん。そんなに怖い顔をしてボクの病室に殴り込まなくても。せっかくの春の陽気が台無しだよ」
返ってきたのは、低く、けれど鈴を転がしたような艶のある女性の声だった。
そこにいたのは、鬼塚だ。
百八十五センチという圧倒的な体躯は、特注の大型ベッドでさえ窮屈そうに見える。患者衣から覗く四肢は鋼のような筋肉に覆われ、各所には未だ生々しい包帯やガーゼが貼られていた。
黙って座っていれば、テレビの画面越しに大衆を魅了するような、彫刻のごとき美貌の持ち主。だが、その瞳に宿る執念深さと、隠しきれない呪物コレクター特有の「毒」が、彼女をただの美人という枠から逸脱させていた。
「死に損ないが。その口が動くなら、さっさと退院して溜まりに溜まった『ハルナシ』への未払金を清算しやがれ」
「手厳しいなぁ。ボクは今、人生で一番と言っていいほど『退屈』という名の呪いに侵されているんだよ。面会に来てくれるような友人も君くらいだしね。ナースさんは仕事と割りきって、会話もしてくれないし。……君が来てくれて、本当に嬉しいよ」
鬼塚は、不敵な、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべて身体を起こした。
あのオークション会場での凄惨な激闘から二週間弱。驚異的な生命力で本調子を取り戻しつつある彼女は、枕元に置かれた自前のノートパソコンを、手慣れた動作で陽子の方へと向けた。
「……あたしを呼んだってことは、例の件にケリがついたんだろうな?」
陽子の声が、一段と冷徹な響きを帯びる。
友人としての軽口を切り捨て、冷厳な「査定人」としての瞳が鬼塚を射抜いた。
「三ヶ月。ボクの全コネクションと、一生分の『貸し』を使い果たしたよ」
鬼塚の指先がキーボードを叩く。画面に映し出されたのは、ある一人の少女の、過去という名の解剖図だった。
陽子は、黙って画面に流れる膨大なデータを追った。
三ヶ月前――まだ冬の冷気が肌を刺していた頃。陽子が鬼塚に依頼した、小林日和という少女の『ルーツ』の調査。
その巨大すぎる呪詛を背負った少女が、どこから現れ、何故それほどまでのモノを宿しているのか。その「出処」を突き止めるための、執拗なまでの追跡記録だ。
戸籍、血縁関係、先祖代々の記録。各地方に眠る古い伝承や、陰陽道の名家、あるいは忘れ去られた分家の記録に至るまで、鬼塚の裏のコネクションはそれらを根こそぎ洗い出していた。
だが。
画面に並ぶ「照合結果」は、驚くほど一貫していた。
「……『無』、か」
陽子の呟きに、鬼塚が深く頷く。
「そう、完璧なまでの『無』だよ、ヨウちゃん。特別な血筋も、隠された呪術師の末裔という事実もない。両親は至極真っ当な一般人で、親戚縁者に至るまで、怪異との接触は一切なし。成長過程での違和感も、神隠しに遭った記録もない。彼女の人生には、一点の曇りもなく『普通』が敷き詰められている」
それは、呪術の理を知る者からすれば、戦慄に値する結論だった。
通常、強大な霊力や呪力には、必ず「根源」がある。血の継承、あるいは神仏との契約、あるいは土地の因縁。
だが、小林日和にはそれがない。
「つまり、彼女は突然変異だと?」
「そう言うほかないね。理論上の確率は、もはや算出不可能だ。天の慈悲か、あるいは地の悪意か……。何千年も続く呪いの歴史の中で、前触れもなく産み落とされた『特異点』。文字通り、一千年に一度の確率で生じた、純粋なる呪詛の天才――いや、天災だよ」
鬼塚は、自嘲気味に息を漏らした。
「ボクもこれまでに数多の呪物を集めてきたけれど、あんな風に『自生』する巨大な質量を持った呪詛なんて、見たことも聞いたこともない。彼女は、存在しているだけで因果を狂わせる。あの不幸体質は、彼女の内側にあるあまりにも巨大な『負』が、世界の均衡を無理やり保とうとして生じる、ささやかな歪みに過ぎないんだろうね」
陽子は、眉根を寄せて報告書の画面を見つめ続けた。
「……人ではない上位の存在が、アイツに接触した可能性は? 神や仏、妖怪。本人の自覚なく、奴らのナワバリに足を踏み入れたような形跡は本当にないのか」
「ボクもそれを疑って、彼女がこれまでに行った全ての旅行先、立ち寄った場所を調べたよ。けれど、彼女が訪れたのはどこにでもある遊園地や、観光地化された歴史の浅い場所ばかりだ。神や怪異の伝承が残る聖域に足を踏み入れた形跡は一秒たりともなかった」
鬼塚は画面を閉じ、深く、重い沈黙の後に言った。
「彼女は、ただの女子高生なんだ。……ただ一つ、その魂の設計図に、とんでもないバグが混入してしまったことを除けばね。それが小林日和という異常の正体だよ」
窓の外。湾岸の青い海が、春の陽光を反射してキラキラと輝いている。
その穏やかな景色を見つめながら、陽子は重い吐息をついた。
もしこの情報が、外部の――強欲な呪術結社や、力を求める外道どもの耳に入れば、あの子の平穏は一瞬で瓦解するだろう。
一千年に一度の「天災」。
それは、利用したい者にとっては究極の兵器であり、恐れる者にとっては最優先の排除対象だ。
「……鬼塚。この情報を、完全に秘匿することは可能か」
「言われるまでもないよ、ヨウちゃん」
鬼塚は、ベッドから長い脚を下ろすと、少しだけ痛む身体を厭わずに背筋を伸ばした。
「情報元は既に全て隠蔽済みだよ。ボクの頭の中と、この暗号化されたデータ以外、世界に『小林日和の異常』を証明する術はない」
彼女は、自分の胸元のガーゼを愛おしそうに撫でた。
あのホテルで、自らの命を投げ打って自分を救い、化け物の力を奮ってもなお人の心を捨てなかった少女。呪物コレクターとしての物欲を遥かに超えて、鬼塚の中には「小林日和」という、あまりにも心優しい少女への、形容しがたい親しみと敬意――純粋な好意が芽生えていた。
「ボクはあの子に、一生分の恩を感じているんだ。あんな綺麗な『天災』を、汚れた連中に弄ばせるなんて、ボクの美意識が許さないよ」
「……ふん。お前にしては上出来な言い訳だ」
陽子は鼻で笑うと、懐から取り出した手帳にペンを走らせた。
「いいだろう。今回の仕事、報酬は割り増しにしてやる。お前が『ハルナシ』に抱えているツケ、その半分を免除だ」
「えっ、半分!? 三ヶ月もコツコツ調べ上げて、ボクの命をかけた仕事に対して、半分だけかい!?」
「うるさい。半分でも、お前の生涯年収を軽く超える額だろうが。不服なら、今すぐその包帯を剥ぎ取って海に放り投げてやるよ」
「……手厳しいなぁ、本当。でも、まあ、ヨウちゃんらしいね」
鬼塚は苦笑しながら、大きな右手を差し出した。
陽子は一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、やがて力強く、その手に応じた。
潮騒が静かに響く病室の中で交わされた、秘密の握手。
それは、光り輝く日常の裏側で、一人の少女を護り抜くという、不器用で真っ直ぐな契約だった。
「勘違いするなよ、鬼塚」
陽子は、扉に向かいながら背中で言った。
「アイツはまだ、あたしに山ほどツケがあるんだ。それを返し終わるまでは、神だろうが仏だろうが、アイツの指一本触れさせやしねぇ」
その声は、春の風のようにぶっきらぼうで。
けれど、扉の向こう側で日和が待っているかのように、陽子は、かつて見たことがないほど優しく、誇らしげに微笑んでいた。
お人好しで、不幸で、単純で。
ドジばかり踏んで、空き缶一つ避けられない、大切なあたしのアルバイト。
その日常を、汚させるわけにはいかないのだ。
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