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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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幕間 2

カードゲーム祭2026に行ってきました。

楽しかったです。

 

 深い闇の中、意識の断片が泡のように浮かんでは消えていく。

 それは蛇目瑠衣という一人の女が、その短い半生で積み上げてきた「絶望の標本」だった。死の淵で、彼女は己を構築した残酷な記憶の回廊を、呪詛のように辿り直していた。


 始まりは、祝福された光の中にあった。

 蛇目一族の本家。冷厳なまでに伝統を重んじるその血統に生まれた瑠衣は、当初、両親の愛を一心に受けていた。父は彼女を膝に乗せ、母は将来の当主候補として慈しんだ。

 分家の従兄弟であり、二つ年上の雄一。彼や他の子供たちと共に、本家の広大な庭を駆け回ったあの日々は、瑠衣の人生において唯一「色」がついていた時代だった。


 だが、七歳。

 一族の子供たちに課せられる「才の鑑定」が、彼女の運命を音もなく、けれど決定的に踏み砕いた。

「――呪詛の才能、凡庸」

 鑑定役の無機質な声が響いた瞬間、世界から熱が失われた。

 蛇目において、呪詛の才は絶対だ。それは後天的な努力で補える技術ではなく、魂の深淵に刻まれた「器」の大きさそのもの。一般人に毛が生えた程度の才しか持たぬ瑠衣は、その日から、父にとって「有望な娘」から「一族の恥部」へと格下げされた。

 父は瑠衣への興味を失い、視線すら合わせなくなった。

 焦燥に駆られた母は、せめて霊力の質で補おうと、瑠衣に苛烈な訓練を強いた。しかし、霊力と呪詛の才は、残酷なことに反比例する性質を持つ。基盤となる呪詛の才が、なまじ一般人より毛が生えた程度にあった瑠衣の霊力は、どれほど磨いても澱み、輝きを放つことはなかった。

 やがて、母の瞳からも愛は消え、代わりにどす黒い「嫌悪」が宿った。


『お前なんて、産まなければよかった』


 十歳になる頃には、親戚の子供たちも彼女を避けるようになった。かつての遊び相手たちは、親から「関わるな」と命じられ、瑠衣を道端の石ころを見るような目で見つめるようになった。

 食事は質素になり、やがてそれさえも忘れられるようになった。

 空腹に耐えかねた瑠衣は、本家の奉公人たちの元へ赴き、惨めに食べ物をせがんだ。しかし、冷笑と共に返ってきたのは、慈悲ではなく「等価交換」という名の搾取だった。


「働かざる者食うべからず、です。瑠衣様」


 大人と同じ分量の過酷な労働が、幼い彼女に課せられた。

 重い荷を運び、冷たい水で雑巾がけをし、夜通し火を焚く。必死にこなしても、完成度が低いと罵られ、与えられるのは腐りかけた端切れの飯だけ。成長期に必要な栄養を奪われた彼女の身体は、その幼い輪郭のまま、成長を止めてしまった。


 無関心を貫く父。後悔を撒き散らす母。嘲笑う親族。見下す奉公人。

 そんな四面楚歌の地獄において、数人だけ、彼女に手を差し伸べる者がいた。

 一人は鞠。そしてもう一人が、従兄弟の雄一だった。


「頑張って、瑠衣。いつかきっと、報われる日が来るから」


 雄一は瑠衣を見下さなかった。人目を盗んでおやつを分け与え、傷だらけの彼女に優しい言葉をかけた。その無責任な善意だけが、瑠衣にとっての細い蜘蛛の糸だった。


 だが、地獄にはさらに深い底があった。

 十六歳。一族の若者たちが実戦形式の修練を始める頃、瑠衣は「動く的(サンドバッグ)」としての役割を与えられた。

 日常的な暴行。罵倒。その痛みから逃れるために、彼女は小さな身体を極限までしならせる独自の回避術を、血を吐くような思いで習得していった。


 しかし、地獄はそれだけではなかった。

 ある雪の夜。一人の青年が、瑠衣を強引に道場へと連れ出した。

 叩きのめされ、床に這いつくばる瑠衣。肩で息をする青年の瞳に、歪んだ「熱」が宿るのを彼女は見た。

 身体の成長は止まっていても、瑠衣は十七歳に届こうとする女性であり、相手は思春期を迎えた獣だった。

 その夜。瑠衣は人間としての最後の尊厳を、無惨に奪われた。

 一度扉が開けば、あとはなし崩しだった。一族の「男」たちの憂さ晴らしの道具。心が、死んでいく。意識を遠くへ飛ばし、ただの肉の塊になりきることでしか、彼女は正気を保てなかった。


 そして、二十歳になったあの日。

 いつものように、雄一がおやつを持って瑠衣を訪ねてきた。

 彼は誇らしげに、輝かんばかりの笑顔でこう言った。


「瑠衣、聞いたかい! 本家がついに僕の実力を認めてくれたんだ。今度の大規模オークションで、最重要呪物の管理を任されたよ。……やっぱり、努力は報われるんだね!」


 ――その瞬間。

 瑠衣の中で、パチンと何かが弾ける音がした。

 雄一は知っているはずだ。瑠衣がどんな目に遭っているのか。彼は毎回、食べ物と一緒に、内出血を抑える薬や、彼女の腹に必要な薬を届けてくれていたのだから。

 知っていて、彼は「努力は報われる」と笑った。

 生まれ持った才を享受し、陽の当たる道を歩く者が、泥沼で尊厳を貪られている自分に、そんな無慈悲な言葉を投げかけた。


 感謝は、氷のような殺意へと反転した。

 言葉という名の暴力。善意という名の傲慢。

 全部、壊してやる。

 瑠衣は行動を開始した。

 その小さな身体を活かして忍び込んだ一族の禁書庫。そこで見つけた、己を影の式神へと変造する呪術。そして、他者の魂を喰らい、己の力へと変換する禁術『魂食い』。

 さらに、雄一の私物から盗み見た計画書には、あの夜、全てを終わらせるための最高の舞台が記されていた。

 神話の呪物――『影の国の鍵』。


 あのオークション会場で、一族を、術師を、この不条理な世界を、全て影の底へと引き摺り落とす。それが瑠衣のたった一つの生きる目的となった。

 なのに。

 全てを壊し、誰もが平等な闇に沈むはずだったのに。


(……どうして、あんな温かい頭突きなんて、したの……)


 走馬灯の最後に浮かんだのは、自分を殺そうとした刃ではなく、自分を救おうとして泣いていた、あの不器用な少女の顔だった。

 瑠衣の意識は、再び深い、深い闇の底へと沈み込んでいった。



 ◎



 深い闇。それはどこまでも優しく、同時にどこまでも残酷な静寂だった。

 意識の輪郭が溶け、もはや己が「蛇目瑠衣」という人間であったことすら忘却の彼方へと消えかかっていた、その時。


 ――ガタ、と硬質な振動が全身に伝わった。

 瑠衣は重いまぶたを、数ミリだけ押し上げた。

 視界に飛び込んできたのは、街灯の光が規則正しく通り過ぎる、夜明け前の沈んだ景色。そして、高級車の車内に漂う、仄かな革の匂いと煙草の残り香だった。


 自分は、生きている。

 そう認識した瞬間、全身を襲ったのは、魂の髄まで削り取られたような凄絶な倦怠感だった。指先一つ、睫毛一本動かすことすら、今の彼女にはエベレストを登頂するような絶望的労苦に等しい。体内を巡る霊力は枯渇し、復讐のために喰らった他者の魂の怨念も、今や一滴の滴すら残っていない。彼女の内側は夜のように静かだった。


「……お目覚めに、なりましたか?」


 不意に、隣から鈴の鳴るような、けれどどこか温度を欠いた声が降ってきた。

 瑠衣は、軋む首を無理やり動かし、視線だけを辛うじてその方へと向けた。


 そこには、上品な黒いドレスを纏った女が座っていた。膝の上に薄型のノートパソコンを広げ、慣れた手つきで何やら文字列を打ち込んでいる。運転席には、同じく黒服に身を包んだ無機質な印象の女性が座り、早朝の静まり返った街を、滑るような速度で走行していた。

 瑠衣はその女の貌を、嫌というほど覚えていた。

 影のホテルの植物園。あの忌々しいカエル面の女と共に、自分の影たちに冷徹な精度で釘を打ち込んできた、漆黒の術師。


(……殺される……)


 生存本能が、泥の中で喘ぐように警鐘を鳴らす。

 瑠衣は喉の奥で呪詛を紡ごうとした。だが、声にならない。喉は砂漠のように乾き、唇を震わせることすら叶わない。かつてあれほど親密で、己の体の一部でもあった「影」たちは、今や他人よりも遠い場所に霧散していた。


「無理をしてはいけませんよ。貴女の身体は、あの戦いを生き延びた反動で、硝子細工よりも脆くなっているのですから」


 女はキーボードを叩く手を止め、瑠衣の方を向いた。

 彼女はどこから取り出したのか、雲のように柔らかい手触りのキシミアのブランケットを、瑠衣の震える身体にそっと掛けた。その動作には一分の無駄もなく、慈しみすら感じさせるほどに丁寧だった。


 さらに女は、手品のような所作でグラスを取り出し、透き通った水を注いだ。


「飲みますか?」


 腕を動かすことすらできない瑠衣の唇に、女は自らグラスを添える。

 冷たい水が、焼けるような喉を通り、胃の底へと落ちていく。その僅かな生命の潤いと引き換えに、瑠衣は消え入りそうな声で問いを投げた。


「……何が、狙い……。蛇目の連中に、引き渡す気……?」

「いいえ。そんな勿体ないことはいたしません」


 黒い女は静かに、けれど心底愉しそうに目を細めて笑った。

 その笑みは、人の親愛を感じさせるものではなく、珍しい標本を見つけた博物学者の喜びに似ていた。


「私はただ……ずっと、探していたのです。私の研究を、私の意志を、その身を以て体現してくれる――最高の『パトロン』を」

「パトロン……?」

「ええ。申し遅れましたね。私は『黒鉄(くろがね)』と申します」


 女は、顔を覆っていたあの能面のような黒い仮面を、ゆっくりと外した。

 露わになったのは、聖母のような慈愛と、解剖医のような冷徹さが同居した、息を呑むほどに美しい素顔だった。

 だが、その造形美以上に瑠衣を戦慄させたのは、その瞳だった。

 星一つない夜空のように、どこまでも深く、透き通った黒。そこには、他者への共感も憐憫も一欠片も存在しない。あるのはただ、世界という名の実験場を隅々まで見通そうとする、冷厳な観測者の光だけだった。


「私は、知り合いの伝で招待状を手に入れ、あのオークションへ潜り込みました。目的は、現代の歪んだオカルトに精通し、かつ、既存の秩序を壊すことに躊躇のない協力者を見つけること」


 黒鉄は瑠衣の頬に、ひんやりとした指先を這わせた。

 その指の温度は、生身の人間とは思えないほどに低く、瑠衣は背筋に氷を押し当てられたような寒気を感じる。


「貴女があの影の世界で見せた、一族への憎悪、そして全てを無に帰そうとしたあの願い……。とても、美しいと感じました。貴女ほど、私の実験に相応しい方は他にいない」


 黒鉄の言葉は、熱烈な求婚のようでありながら、その実、逃げ場のない宣告でもあった。

 瑠衣は直感した。この女の笑顔の裏側には、底の見えない奈落が広がっている。蛇目の一族が抱く欲深さや矮小な支配欲とは、根本的に次元が違う。この女は、ただ「真理」のためだけに、人を、世界を、平然と踏み砕く類の種類だ。


 だが、今、この女の差し出した手を拒絶すれば、瑠衣の命運はそこで尽きる。

 蛇目の一族が、すでに死に体となった彼女を追っているはずだ。回収されれば、裏切り者としての凄惨な拷問が待っているだろう。あるいは、さらに歪な儀式の実験台にされ、意識を持ったまま死ぬことすら許されない贄にされるかもしれない。


 瑠衣の脳裏に、あの日和という少女の顔がよぎった。

 自分を救おうとして泣いていた、あの不器用な少女。

 彼女に「貸し」を残したまま死ぬのは、あまりにも癪だった。彼女が自分に与えたあの「温かい頭突き」の記憶が、今の瑠衣をかろうじて地表に繋ぎ止めていた。


「もし私のパトロン――協力者になっていただけるのなら。貴女の望む復讐も、その続きも。私がお手伝いして差し上げましょう。もちろん、蛇目の追っ手からも、私が責任を持って貴女をお守りします」


 黒鉄は、瑠衣の瞳の奥を、魂の深層を暴くかのように覗き込む。

 断れば、確定した死。受け入れれば、黒鉄という未知の怪物の手駒となる日々。

 瑠衣にとって、選択肢など最初から存在しなかった。

 ここで朽ち果てるわけにはいかない。

 地獄か、あるいは深淵か。

 瑠衣にとって、答えは最初から一つしかなかった。


「……勝手に、しなさいよ。どうせ、私には……もう、何もないんだから」


 瑠衣が絞り出すように答えると、黒鉄は花が開くような、今日一番の微笑みを浮かべた。

 それは、獲物を罠にかけた狩人の悦びか、あるいは、真理を見出した学者の歓喜か。


「賢明な判断です、瑠衣さん。ふふ、これから楽しくなりそうですね」


 その微笑みに、瑠衣は悔しくも、一瞬だけ目を奪われてしまった。

 自分を地獄から引きずり出したのは、あのお節介なヒヨコ面の少女だった。

 だが、今、自分を地獄の続きへと誘おうとしているのは、この漆黒の微笑みを纏った美しき悪魔だ。

 夜明けの光が、車内に差し込み始める。

 新たな契約を結んだ二人の影を乗せて、黒塗りの車は、まだ眠る街の深淵へと、音もなく消えていった。

 それは、一人の少女が人間としての死を迎え、黒鉄という狂気の歯車の一部として新生した、静かな始まりだった。



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