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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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7-11

 

 静寂が、薄氷の割れるような音を立てて霧散した。

 再会の感傷を塗り潰すように、蛇目瑠衣――かつて少女であった怪物の背後の壁一面へ、漆黒の影が爆発的に噴き出し、蠢く。


「――ッ!!!」


 それは、もはや声帯の震えではない。魂の奥底に溜まった泥を吐き出すような、悍ましい雄叫びだった。


「――来るぞッ!!」


 陽子の鋭い警告が響くのと同時、瑠衣の姿が掻き消えた。

 強化された身体能力による超高速の移動。視界から消えたと錯覚させるほどの速度でロビーを駆け、彼女が真っ先に狙いを定めたのは、先ほどまで死闘を繰り広げ、最も高い殺意(ヘイト)を向けていた日和だった。


「っ……!」


 日和は背筋に走る凍てつくような悪寒に従い、反射的に腕を交差させた。

 衝撃波が大気を破砕し、重低音が鼓膜を叩く。

 瑠衣の、影を纏った小さな拳が日和の「呪詛の鎧」を真っ向から捉えたのだ。呪詛の鎧が不気味に軋みを上げ、相殺しきれなかった余波が彼女の華奢な体をロビーの端へと弾き飛ばす。


「ヒヨちゃん!!」


 鬼塚の悲鳴が上がる。しかし、その刹那、瑠衣の追撃を阻むように、一閃の銀光が空を裂いた。


「あたしを無視してんじゃねぇよ、クソガキが」


 陽子の振るう『出雲の縁切り鋏』が、瑠衣の首筋へと肉薄する。

 瑠衣は空中で駒のように回転し、反射的にその小さな片腕を防御に回した。硬質な金属音がロビーに鳴り響き、鋏の刃が瑠衣の腕を深く切り裂く。

 肉を断つ以上に、存在の根源を削り取るような「拒絶」の感触。瑠衣は腕から鮮血を撒き散らしながら、獣じみた動作で後方へと飛び退いた。


(……本能で理解したか)


 陽子は、僅かに口角を上げる。

 瑠衣の虚ろな瞳に、初めて明確な「警戒」の色が宿っていた。彼女の野性的な本能が、陽子の手にある鋏を、触れれば終わりを告げる天敵として即座に刻み込んだのだ。


 そこからの瑠衣の動きは、より狡猾、かつ神速へと移行した。

 陽子が繰り出す死角を突く絶技を、瑠衣は紙一重の回避でかわし続ける。床を滑り、壁を蹴り、シャンデリアからシャンデリアへと移動するその挙動に、陽子が「ちっ、ちょこまかと……!」と不快げに毒突いた。


「陽子さん、援護します……っ!」


 吹き飛ばされた衝撃を殺し、日和が立ち上がる。

 彼女は指先に残された全呪詛を集中させ、陽子の攻撃を回避した瞬間の瑠衣へ、必殺の指鉄砲を放った。

 赤紫色の靄を纏った呪詛の弾丸。だが、瑠衣は空中で不自然な角度に体を捻り、それさえも冷酷に回避してみせた。弾丸は背後の大理石の柱を粉々に粉砕する。

 その光景を、結界の内側から見守ることしかできない者たちがいた。


「……お願い、やめて……やめて瑠衣ちゃん!!」


 鞠の喉から、血を吐くような叫びが漏れる。

 その声は、かつて慈しんでいた少女への、最後の情愛だった。

 呼応するように、瑠衣の動きがピタリと止まった。

 ゆっくりと、瑠衣の首が鞠の方へと回る。

 乱れた前髪の隙間から覗く、赤い飢餓に満ちた瞳が鞠を射抜いた。

 直後、瑠衣の姿が視界から消え――。


「――っ、ソウちゃん、しっかり掴まってて!!」


 鞠が叫び、懐からお札を一枚引き抜いて床に叩きつけた。

 次の瞬間、肺を圧迫するような轟音と共に蒼い結界の膜が大きく歪んだ。

 瑠衣が全身に影の爪と牙を纏わせ、結界そのものを食い破らんばかりの勢いで肉薄したのだ。


 ギィィ、と、世界が軋むような不快な音が響く。瑠衣は狂ったように結界を蹂躙し、真っ黒な影が泥のように結界の表面を侵食し始める。

 瑠衣はもはや、鞠という個人を認識しているのか、あるいは「蛇目」という血脈を憎悪しているのか、狂ったように結界の膜を蹂躙し始めた。


「母さん!!」


 成人した今も変わらぬ母親への想いから、佐藤はその両手でふらつく鞠の肩を力強く支える。

 鞠は奥歯を噛み締め、鼻から一筋の鮮血を吹き出しながらも、お札に霊力を注ぎ込んだ。これで残るお札は、あと二枚。


「……っ、ぐ、ああああ……っ!」


 術の連続使用、そして瑠衣の暴力的な影の侵食。鞠の精神はすでに限界に達していた。

 そこへ、どっしりとした重みが鞠の肩に加わる。


「……一人で背負わないでよ、鞠さん。ボクだって……まだやれるよ……!」


 鬼塚だ。

 彼女は血に汚れた大きな手を鞠の肩に預け、残された気力のすべてを霊力として鞠へと注ぎ込み始めた。

 蒼い光が、一際強く爆ぜる。

 譲渡された霊力によって、崩壊寸前だった結界の強度が劇的に底上げされ、瑠衣の爪を強引に跳ね返した。


「……ありがとう、鬼塚さん!!」


 鞠が叫ぶ。同時に、瑠衣の背後から二つの影が肉薄した。

 陽子と日和。師弟による、決死の同時突貫。

 瑠衣は窮地を悟ったのか、鞠への攻撃を中断し、その場に立ち止まって影の狼を大量に産み出そうと試みた。

 自身の影を膨張させ、空間に黒い穴を開ける。


「――そいつは、悪手だぞ。クソガキ」


 陽子の冷徹な声が、死神の宣告のように響いた。

 精製には、たとえ一瞬であっても「静止」が必要となる。

 陽子は跳躍しながら、左手の鋏を無造作に、けれど確実な殺意を持って虚空へ突き出した。


「お前の『縁』は、もう読めてんだよ」


 カチンッ。

 空間を断ち切るような、硬質な金属音。

 その瞬間、瑠衣の足元から産み出されようとしていた狼たちが、存在の根源を絶たれ、実体化することなく虚無へと還っていった。


「ッ……!?」


 精製に失敗した瑠衣の瞳に、明らかな動揺が走る。

 その絶好の「隙」に、日和の右手が吸い込まれるように伸びた。


「――これで、止まって!!」


 日和の絶叫と共に、瑠衣の無防備な胸元へ向けて、至近距離から赤紫色の呪詛が放たれた。

 しかし、瑠衣は反射的に上体を仰け反らせ、その死の一撃をミリ単位で回避してみせる。

 だが。

 その回避行動こそが、さらなる死神の懐へと彼女を誘い込んだ。


「食らえ、クソガキ」


 仰け反った瑠衣の死角。

 そこには、ドレスの裾を翻し、一文字に足を振り抜いた陽子がいた。

 全力の体重移動を乗せた、一切の慈悲なき一撃。

 ――凄まじい肉撃の音がロビーを震わせた。

 腹部を捉えた衝撃が瑠衣の肉体を貫通し、彼女の体は紙屑のようにロビーの端まで吹き飛ばされ、重厚なデスクの数々を吹き飛ばしながら調度品の山の中へと沈んでいった。

 舞い散る粉塵。

 静まり返るロビーに、陽子のヒールが大理石を打つ乾いた音だけが、不気味に響いた。


「まだ動くかよ……」


 静まり返ったロビーの奥、不壊の調度品が積み上がった山が、内側から不気味な震動を上げた。

 瓦礫が雪崩を打って崩れ落ち、その中心から、蛇目瑠衣が這い出てくる。

 その姿は、見るに堪えない惨状だった。腹部には陽子のヒールが刻印した無残な陥没があり、骨は砕け、内臓はひしゃげているはずだ。口の端からはどす黒い鮮血が滴り、少女の体躯は物理的な限界をとうに超えている。

 しかし、不快な音がロビーに響き渡る。

 ――ぐち、じり、ぐじ。

 肉を捏ね、骨を繋ぎ合わせるような生々しい音。陥没した腹部は急速にせり上がり、陽子に切り裂かれた腕の傷も、肌の擦過傷も、すべてが漆黒の粘土に塗り潰されるように平らになっていく。


「……治し……てる?」

「ちげぇな。ありゃ影を弄って、無理矢理形だけ元に戻してやがるんだ」


 日和の戦慄を、陽子の冷徹な声が断ち切った。

 陽子は鋏を構えたまま、その鋭い眼光を瑠衣の足元――波打つように広がり続ける巨大な影へと向けた。

 瑠衣はもはや、自身の肉体を生物としての規範から切り離していた。内臓の損傷も骨折も、影という「代替物」で埋めることで、強引に戦闘能力を維持しているのだ。それは再生というより、壊れた人形を黒いガムテープで補強し続けるような、冒涜的な光景だった。


 不気味な静寂がロビーを包む。

 立ち上がった瑠衣は、先ほどのような超高速の突撃を見せない。ただ、無機質な瞳でこちらを見つめ、じっと佇んでいる。

 その異様な「静」に陽子が踏み込もうとした、その刹那だった。


「――っ!?」


 突如、陽子の体が重力を無視して宙へと跳ね上がった。まるで目に見えない巨人に足を掴まれたかのように、彼女の体は強引に後方へと投げ飛ばされる。

 凄まじい衝撃音と共に、陽子の体はロビーの奥、受付カウンターの向こう側へと消えた。


「陽子さん!!」


 日和の叫びが虚しく響く。カウンターの奥からは何の応答もなく、生死すら確認できない。

 日和の視線の先で、瑠衣の影が異様な変貌を遂げていた。

 瑠衣の影はもはや彼女の形を模していない。それは無数の「腕」へと分枝し、大理石の床や壁を這い、触手のように蠢いている。影が対象の影を掴み、捻り、叩き潰せば、実体である肉体もまた、抗いようのない物理法則として翻弄されるのだ。


「ヒヒ、ッ……ガ……」


 瑠衣はその場から一歩も動かない。ただ、彼女を中心に四方八方へと伸びた影の腕が、ロビーの空間すべてを支配する檻と化していた。

 日和は襲い来る影の腕に対し、身を低くして回避に専念する。日和自身は「呪詛の鎧」を纏っているため、影への直接的な干渉は免れていたが、影の腕が振るう物理的な「打撃」までは無効化できない。

  ヒュ、と空気を裂く音がした。

 影の腕が、鞭のようにしなって日和の脇腹を打つ。


「ぐ、うぅっ!」


 鎧の表面が火花を散らし、日和の体は衝撃で撥ね飛ばされた。

 見れば、影の腕は日和だけでなく、結界に籠もる鞠たちにもその矛先を向けている。床から、壁から、天井から生え出た影の腕が、巨大な金槌のように蒼い壁を叩き付けていた。


「だめ……結界が、押し潰される……っ!」


 鞠の悲鳴。

 不壊のホテルの中で、唯一破壊可能な「術式」が悲鳴を上げる。蒼い光の膜に、クモの巣のようなヒビが走り出した。

 鞠は震える手で懐を探り、最後から二枚目のお札を引き抜く。


「『重なりて守れ、深淵の拒絶……二重結界』!!」


 もう一重の蒼い壁が展開され、辛うじて圧潰を免れる。だが、これで残りのお札は、あと一枚。

 鬼塚もまた、残された霊力を鞠へと繋ぎ続けるが、ついに耐えきれず、激しく咳き込みながら片膝をついた。


「……ボクだって……まだ、やれ……っ!」

「鬼塚さん、しっかり!」


 崩れ落ちそうになる鬼塚の体を、隣にいた佐藤が力強く支える。成人男性としての逞しさを備えたその肩が、疲弊しきった彼女の体を必死に繋ぎ止めていた。

 その絶望的な状況を切り裂いたのは、頭部から鮮血を流しながらも、カウンターの奥から這い出してきた陽子の再臨だった。


「――景気よくやってくれるじゃねぇか」


 陽子の鋏が、結界に纏わり付く影の腕を根こそぎ切断する。

 彼女は頭から流れる血を無造作に拭い、日和の元へと駆け寄った。日和を襲っていた腕を次々と切り裂いていくが、その表情にはかつてない険しさが張り付いている。


「陽子さん、その傷……!」


 日和は、陽子の額から流れる鮮血が、その鋭い眼窩を赤く染めていくのを見て息を呑んだ。ドレスの肩口は無惨に裂け、剥き出しの白い肌には、影の打撃によるものか、どす黒い内出血が広がり始めている。

 だが、陽子はそんな視線を、鼻で笑い飛ばした。


「気にすんな、見た目ほど悪かねぇ」


 陽子は左手の鋏を無造作に一回転させると、日和の影を襲おうとしていた影の腕を、一息に薙ぎ払った。

 不壊の床に叩きつけられた影の腕は、切断された箇所から黒い霧を噴き出し、狂ったようにのたうち回る。しかし、それは霧散することなく、傷口を蠢かせながら、再び一本の「腕」として形を成そうとしていた。

 切っても、切っても、終わらない。

 瑠衣の影から、ロビー全体を覆い尽くす勢いで、新たな腕が次々と生え、鎌首をもたげる。

 陽子は、その再生の速度を冷徹に見定めながら、吐き捨てるように言葉を継いだ。


「……影の狼と違って、こいつはあのガキの影から直接生えてやがる。供給パイプじゃなく、クソガキ自身の一部だ。あたしの鋏でも『縁』を断ち切って消失させることはできねぇ」


 陽子の『出雲の縁切り鋏』は、因縁を断つことで事象を消滅させるものだ。しかし、この腕は瑠衣という本体と物理的に繋がっている「肉体の一部」として機能している。切断はできても、瑠衣の霊力が続く限り、無尽蔵に再生し続けるのだ。

  瑠衣を中心とした影の海。そこから生え続ける数千、数万の腕。

 それは、近づく者すべてを叩き潰す絶対的な拒絶の結界。


「……いいか、ヒヨコ。あたしが無理矢理道を作る」

「え……?」

「お前はあたしの背中だけを見て走れ。懐に入ったら、温存してた今出せる呪詛全てをあいつの本体に叩き込め」


 陽子の瞳には、迷いも恐怖もなかった。

 あるのは、この最悪な夜を終わらせるという、鉄の意志だけだ。


「でも、そんなことしたら、陽子さんが……!」

「つべこべ言うな。あたしを誰だと思ってやがる」


 陽子が地を蹴った。

 影の腕が狂ったように陽子へと収束する。陽子は左手の鋏を、目にも止まらぬ速さで振るい続けた。迫り来る腕を、指を、拳を、冷徹に切断し、弾き飛ばしていく。

 しかし、切断し損ねた影の腕が、陽子の肩を打ち、頬を掠める。その度に、ドレスの裂け目から鮮血が噴き出した。

 影が陽子の足元の影を攻撃し、彼女の肉体が不自然に捻じ曲がる。それでも陽子は足を止めず、瑠衣へと続く「道」を切り開き続ける。


「陽子さん!!」


 背後を走る日和の叫び。

 陽子は、肩口から血を流しながら、振り返ることもなく叫び返した。


「前を見ろ、ヒヨコッ! あたしを見るんじゃねぇ!!」


 陽子が道をこじ開け、ついに瑠衣の至近距離へと肉薄する。

 だが、瑠衣も黙ってはいない。敵の接近を察知した怪物は、それまでの影による遠隔攻撃を止め、直接その小さな拳を陽子へと叩きつけた。


「――らぁッ!!」


 陽子はその重い一撃を鋏の腹で強引にいなし、そのまま瑠衣の懐へと潜り込む。

 陽子は瑠衣の両手を下から強烈に蹴り上げ、強引にそのガードを弾き飛ばした。がら空きになった、瑠衣の本体。


「行けッ!!」


 陽子の怒声。日和は爆発的な加速で陽子の背中を追い越した。

 指鉄砲を構える余裕はない。お守りから漏洩し続ける呪詛も、もう安定した弾丸を形作るほど残っていない。

 日和は、全身の「呪詛の鎧」を一点――己の額へと凝縮させた。

 残された全呪詛、そして陽子が血を流して作ってくれたこの機会に、すべての意志を込めて。


「うあああああぁぁぁあッ!!!」


 魂を震わせる絶叫と共に、日和は渾身の気合いを込めた頭突きを、瑠衣の額へと放った。

 衝突の瞬間。

 呪詛の鎧を展開したことで覚醒した日和の感知能力が、瑠衣の内側から発せられる「何か」を、鮮明に捉えた。

 それは、殺意でも、破滅願望でもなかった。

 幼い子供の姿をした怪物の、どす黒い影の底に沈んでいた、あまりにも透明で、残酷な真実。


「……え?」


 日和の思考が、白濁した視界の中で停止した。




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