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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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7-10

 

 戦闘の火蓋は、あまりにも唐突に、そして一方的に切って落とされた。

 瑠衣の虚ろな瞳と視線が交差した次の瞬間、彼女の姿が調度品の陰に消えた。


「――っ! 来る!」


 日和は本能的な直感に従い、真横へ跳んだ。直後、彼女が先ほどまで立っていた場所の背後から、獣のように牙を剥き出しにした少女が現れ、空を噛む。

 静寂に支配されていたはずのロビーは、一転して、呪詛と獣の咆哮が渦巻く極彩色の地獄へと変貌を遂げた。

 日和の網膜には、残像を引くほどの速度で死角へと回り込む「黒い塊」が焼き付いていた。


 瑠衣はもはや、重力や慣性といった物理法則を半分ほど無視していた。

 四肢を床につき、獣そのものの挙動でロビーの柱から柱へと跳躍する。その速度は、全能感に浸っていたはずの日和の動体視力を凌駕しつつあった。


「瑠衣ちゃん! やめて、私よ、鞠よ!!」


 鞠の悲痛な叫びは、もはや獣の領域へと踏み込んだ少女の耳には届かない。瑠衣の喉からは、人間の言葉ではない、魂を削るような不快な共鳴音が漏れている。


 日和は右手を突き出し、指先を瑠衣の残像に固定する。脳裏にあるのは「この子を止めなければ」という強い使命感。しかし、その奥底には「幼い女の子を、この手で壊したくない」という剥き出しの慈愛がこびりついている。二つの相反する感情が、熱を帯びた呪詛と混ざり合い、日和の指先から放たれたのは、殺傷能力を失った歪な弾丸だった。


「止まって……お願い!」


 放たれた赤紫の連弾。

 当たれば全身が凍りつくような悪寒に支配され、一時的に運動機能を奪う――日和の心の迷いが生んだ「加減」の呪詛。

 それはマシンガンの如き掃射となってロビーを埋め尽くすが、瑠衣は重力を無視した動きでそれらを翻弄した。

 壁を蹴り、シャンデリアの鎖を掴んで一回転し、二階の回廊の柵を足場に垂直に跳ぶ。テーブルやソファー、ランプや壺などのホテルの調度品を、彼女は冷徹なまでの最適解で足場に変えていた。


 (速い……さっきよりも、どんどん速くなってる……!)


 日和の焦燥は、自身の内側の「冷え」に比例して強まっていく。お守りから漏洩し続けていた呪詛の貯蔵量は、この激しい攻防によって着実に底を突きかけていた。全身を覆っていた万能感という名の皮膜が薄れ、肉体の強度が秒単位で「普通の少女」へと引き戻されていく恐怖。

 対照的に、瑠衣は「魂食い」の禁忌によって得た他者の霊力を、その小さな体に無理矢理詰め込んでいた。

 侵食は止まらない。瑠衣の両腕を覆っていた影の狼は、今や両足、肩、そして下半身へと不定形の黒い毛皮のように広がり、彼女を真の「狼娘」へと変質させていく。その皮膚の下で、無数の他者の魂が蠢いているかのような不気味な脈動が、日和の感知能力にノイズとなって突き刺さる。

 それは、他者の魂という高純度の燃料を、自身の正気という炉で燃やし続ける自滅的な強化だった。


「ア……ガ、アアアァァアアッ!!」


 瑠衣がロビーの床を蹴り、弾丸のような速度で突っ込んできた。

 日和は身を捩って回避したが、影の狼を纏った瑠衣の爪が、彼女の肩を深く切り裂いた。


「っ……!」


 呪詛の鎧の自己修復機能により、傷口は瞬時に塞がり、降り掛かる呪いも己の呪詛で相殺する。だが、それでも、魂に直接叩きつけられたような不快な冷気――影の狼が孕む「死の残穢」は、日和の意識を激しく揺さぶった。


 さらに瑠衣は攻撃の手を休めない。日和の背後に回り込んでは、その「影」を狙って執拗に踏みつけようとする。影を踏まれれば、先ほどの術師たちのように肉体ごと世界に縫い付けられ、狼の餌食になる。

 日和はステップを刻み、影を動かしながら応戦するが、相手は対人戦闘に特化した「殺戮の機械」と化している。陽子との特訓で得た知識だけでは、急成長を続ける化け物を無力化するには、あまりにも経験が足りなかった。


「……っ、鞠さん、鬼塚さん!」


 一方、日和が視線を飛ばした先では、さらなる絶望が進行していた。無数の影の狼たちが、二人の張る蒼い結界の表面を真っ黒な泥のように這い回り、隙を窺っている。


「く、そ……っ! 調子に乗るなよ、ワンちゃんども……!」


 鬼塚が数珠を巻いた拳で、結界の膜を突き破って侵入しようとする狼の鼻先を殴り飛ばす。だが、彼女の傷口からは再び血が噴き出し、立っていることさえ奇跡のような状態だった。

 鞠もまた、残り少ないお札を全て使い切り、両手で必死に霊力の壁を支えている。


「お札が……もう、保たない……!」


 鞠の絶叫。

 パキ、と。

 それは先ほどのペンが折れた音よりも、ずっと不吉で重い「世界のひび割れ」の音だった。

 三重に重ねられていた彼女の結界が、影の重圧に耐えかねて、最後の一枚を残して不吉な音と共に崩壊する。


 日和の視界が、大きく明滅した。お守りの「熱」が完全に消失し、漏洩呪詛の残量はもはや一割を切っていた。出力を上げようとすればするほど、燃料切れのエンジンが悲鳴を上げるように、日和の精神が激しく軋んだ。

 瑠衣はその隙を逃さない。

 全身を影の毛皮で覆い尽くし、もはや人間の形を失いつつある瑠衣が、獣の跳躍で、防御の薄れた日和の懐へと飛び込む。その右腕は巨大な狼の顎へと変質し、日和の喉笛を食い破るべく、限界まで開かれた。


「あ……」


 死の予感が、日和の脳裏を白く塗り潰す。

 呪詛の鎧が薄れ、無防備な自分に戻る瞬間の、残酷な空白。

 狼の冷たい吐息が首筋をかすめた、その刹那だった。


 ――空を裂くような、鋭く、硬質な音が響いた。

 日和の鼻先まで迫っていた瑠衣の顔面を、真横から飛来した「何者かの足」が、寸分の狂いもなく捉えた。

 凄まじい肉撃の音。狼の如き剛力を誇っていた瑠衣の体が、紙屑のようにロビーの端まで、いくつもの机をなぎ倒しながら蹴り飛ばされた。


 着地した人物のヒールが、ホテルの大理石をコツリ、と鳴らす。


「――随分と情けねぇ(かお)してるじゃねぇか。あたしの教え方が悪かったか?」


 聞き慣れた、傲慢で、けれど世界で一番安心する声。

 日和が震える瞳で見上げれば、そこには全身に切り裂かれた無数の傷を負い、右腕にテーブルクロスを裂いた布を応急手当として巻き付けた、一人の女性が立っていた。

 動きやすさを重視したタイトな漆黒のイブニングドレスは、戦いの激しさを物語るように裾が裂けている。しかし、左手に握られた鈍い銀光を放つ大きめの鋏と、その瞳に宿る不敵な光は、一点の衰えも見せていなかった。


「陽子……さん……」


 日和の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 右腕の重傷そうな様子に息を呑むが、その瞳に宿る不敵な光は、一点の衰えも見せていなかった。



 ◎



 陽子は、背後で日和が零した涙を一顧だにせず、ただ前方の闇へとその鋭利な眼差しを固定していた。

 右腕を覆うテーブルクロスの布は、止血処置を施した際の鮮血が乾き、赤黒い皮膜となって肌に強固に張り付いている。すでに出血こそ止まっているが、剥き出しの腕に刻まれた裂傷の深さは、彼女が潜り抜けてきた修羅場の凄絶さを無言で物語っていた。しかし、彼女の立ち姿には微塵の揺らぎも、衰えもない。


「『精算』の時間だ。借りたままじゃ、寝付きが悪いんでな」


 陽子は、日和たちが言葉を交わす暇さえ与えず、瞬時に地を蹴った。

 彼女が真っ先に向かったのは、吹き飛ばした瑠衣ではなく、無数の影の狼に埋め尽くされていた鞠と鬼塚の結界だった。


「陽子さん、そっちは――っ!」


 日和が制止の声を上げるよりも早く、陽子の左手にある『出雲の縁切り鋏』が、虚空を閃いた。

 それは「斬る」という物理現象を超越した、概念への干渉――文字通り「縁を断つ」一閃だった。


 陽子はこの地獄のようなホテルを駆ける中で、影の狼との交戦を二度経験し、その度に冷徹な分析を重ねていた。一度目は別館の廊下。そこで彼女は、狼たちが二次元存在であり、「影」としての制約があることを把握した。

 そして二度目、植物園での瑠衣との邂逅。そこで陽子は、狼たちが瑠衣という「核」から供給される霊力によって維持されている、寄生的な主従関係にあることを確信した。影の狼は独立した個体ではない。瑠衣という根源から伸びるパイプ、そこから『霊力』というエネルギーを供給されることで存在を維持している不安定な存在だと。


 鋏が閉じられ、ロビーに硬質な金属音が響き渡る。

 刹那、結界に纏わり付いていた数えきれないほどの狼たちが、悲鳴さえ上げられずに一斉に掻き消えた。霧散したのではない。あたかも最初から存在していなかったかのように、あの少女との「繋がり」を絶たれ、強制的に虚無へと還されたのだ。


 「……はは、相変わらず……理不尽なキレ味だね、ヨウちゃん」


 不快な影から解放され、崩れるように膝をついた鬼塚が、苦笑しながらもその顔に安堵の色を浮かべた。

 陽子はそんな彼女を冷めた目で見下ろしていたが、ふい、と空いている右手を無造作に差し出した。


「随分こっぴどくやられたじゃねぇか。ま、そのツラ見てる限り、まだくたばりゃしねぇな」


 鬼塚は一瞬、きょとんとした顔でその手を見つめた。陽子が自ら他人に手を貸すなど、天変地異の前触れのような稀有な光景だったからだ。


「……おっと、これは光栄だね。お代は高くつきそうだ」

「四の五の言わずに掴みな。死体を引きずって歩く趣味はねぇんだよ」


 陽子のぶっきらぼうな言葉に、鬼塚は「相変わらずだね」と肩を揺らして笑い、その手をしっかりと握った。

 陽子は、布が巻かれた自らの右腕に走る鈍痛を表情に出すこともなく、ぐい、と力強く彼を引きずり上げる。立ち上がった鬼塚の巨体を、自身の肩で一瞬だけ支え、彼女が自立できるのを確認してから、また突き放すように手を離した。


「……ごめんね。ヒヨちゃんには、無理をさせちゃった」

「……謝る相手が違うだろ。まあ、ヒヨコをここまで守ったことだけは認めてやるよ」


 陽子の視線は、再びロビーの奥へと向けられた。

 二人の間には、長年の腐れ縁ゆえの、言葉にせずとも伝わる信頼が静かに流れていた。


「鬼塚、動けるな?」

「……買い被りすぎだよ。でも、期待には応えないとね!」


 鬼塚は血に汚れた数珠を握り直し、深呼吸と共に残された霊力を練り上げる。

 その隣で陽子は、ホテルスタッフの制服を血に染めた見慣れぬ女性――鞠へと、冷徹な視線を転じた。


「……あんたが、日和とコイツをここまで連れてきたのか」


 陽子の冷徹な視線が、鞠の全身をなめ回すように動いた。

 ホテルスタッフの制服はボロボロに裂け、その隙間からのぞく肌には、ここまでの道程で負ったであろう無数の打撲痕や擦り傷が刻まれている。しかし、陽子の目に映ったのは、その傷ではなく、鞠が纏う独特の「空気」だった。


「……はっ。ただの従業員にしちゃ、上等な面構えじゃねぇか。蛇目の関係者か?」


 陽子の問いに、鞠は一瞬、戸惑うように息を呑んだ。目の前に立つ女性――夏秋冬陽子が放つ、圧倒的な強者のオーラと、戦場を支配する冷酷な美しさに圧倒されていたからだ。


「え、ええ……末端の身ですけれど。……あなたが、小林さんの言っていた、あの子の師匠なのね」


 鞠は震える手で乱れた髪を払い、陽子の視線を受け止めた。陽子は鼻で笑い、左手の鋏を無造作に弄んだ。


「ま、いいわ。事情は後でだ。……コイツらのこと、感謝するよ」


 その言葉は短く、突き放すようではあったが、陽子なりの最大限の「礼」であることを、鞠はその場の空気から感じ取った。

 陽子の背後では、彼女に連れられてきた佐藤が、信じられないものを見るかのように目を見開いていた。


「母さん……!? なんで、母さんがここに……っ!」

「ソウちゃん……! ああ、無事だったのね、本当によかった……!」


 場違いなほどの親愛に満ちた再会。鞠はボロボロの体で佐藤へと駆け寄り、その細い体で息子を力一杯抱き締めた。血と煤にまみれた中での再会は、この呪われた異界の中で、そこだけが唯一、人間らしい温度を保っているように見えた。

 だが、その感傷を即座に断ち切ったのは、鬼塚の鋭い警告だった。


「再会を祝いたいのは山々だけど……主役が、まだ機嫌を損ねたままだよ」


 ロビーの端。重厚な机を何台もなぎ倒しながら吹き飛んだ蛇目瑠衣が、瓦礫を跳ね除け、再びその忌まわしい影を膨張させながら立ち上がった。

 彼女の全身からは、ドロリとした濃密な呪詛が立ち昇り、背後には巨大な狼の幻影が、彼女を包み込むように重なり合っている。その姿はもはや「少女」とは呼べない。何らかの外法に手を染め、その代償として「人間」の枠を外れ始めた異形。


 日和は残された力を振り絞り、陽子の隣へと並んだ。

 お守りの「熱」はもうほとんど感じられない。鎧の出力は限界に近く、全身を巡る呪詛の防壁はガラスのように脆く透け始めていた。一撃、あるいは二撃耐えられるかどうかの瀬戸際だ。それでも、隣に師がいるという事実が、彼女の心に折れない芯を通していた。


「陽子さん……私、まだやれます」

「……当たり前だ。勝手に終わらせるんじゃねぇよ」


 陽子は左手の鋏を無造作に構え直し、右腕の傷を確かめるように僅かに動かした。


「いいか、ヒヨコ。あのガキはもう自分じゃ止まれねぇ。あれはもう『人』じゃねぇ。自分が何者だったかも忘れた、ただの化け物だ。……情けをかけるなとは言わねぇが、死にてぇならそうしな。生きたいなら――ぶちのめす以外に道はねぇぞ」


 陽子の言葉は、刃のように鋭く日和の迷いを切り裂いた。

 日和は前を見据える。そこには、悲しいほどに孤独で、恐ろしいほどに強大な少女が、再びこちらを食らい尽くさんと前傾姿勢をとっていた。


「……はい、陽子さん。私、戦います」


 佐藤と鞠、そして鬼塚も、武器を、あるいは呪符を構え、三人の背後で陣を敷く。

 ロビーの照明が、異界の脈動に呼応するように不気味に明滅した。


 現実から切り離されたホテルの中心。

 傷だらけの師弟と、運命に引き寄せられた者たちが、今、真の「怪物」との第二ラウンドへと足を踏み入れた。




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