7-9
ミートソースのあまりは、ドリアやカレーにアレンジすると美味しく食べられます。
エレベーターホールへと続く絨毯は、もはや本来の色を失っていた。吸い込んだ大量の鮮血のせいで、一歩踏み出すごとに不快な湿り気を帯びて沈み込み、靴底に纏わりつく。その感触は、まるで死者の執念が泥濘となって、彼女たちの足を地獄へ引き摺り込もうとしているかのようだった。
そこに至るまでの僅かな距離で、日和はさらに五匹の狼を屠っていた。
もはや躊躇いはない。指先から放たれる赤紫の閃光は、闇を切り裂く断罪の雷火となって、迫り来る影を次々と虚空へ霧散させていく。
だが、その日和の超常的な武勇――あるいは、理を逸脱した「異常な出力」を目の当たりにしながらも、鞠の眉間の皺は深くなる一方だった。
「……おかしいわ。数が、増えすぎている」
エレベーターホールのボタンを押し、冷たい金属音を響かせながら、鞠が低く、独白のような疑問を零した。
この地獄が始まった直後、鞠が廊下を移動していた際には、狼は多くても一匹か二匹、散発的に現れるに過ぎなかった。しかし今や、角を曲がるたびに、扉が開くたびに、群れをなした「飢え」が彼女たちを包囲しようとしている。
「この狼は、術者の影を触媒とした『式』の類い……。本来、これほど精巧で強力な個体を維持するには、術者の精神を削るほどの呪詛と、莫大な霊力が必要なはずよ。それをこれほど無尽蔵に、機械のように精製し続けるなんて……」
壁に寄りかかり、荒い呼吸を整えていた鬼塚が、その言葉を引き継ぐ。
「何かしらのカラクリがあるんだろうね……。人知を超えた呪物を用いて効率化しているのか、あるいは術者が本物の怪物か。……いずれにせよ、まともに付き合っていい相手じゃなさそうだね」
日和は黙ってその会話を聞いていた。
術者が誰であろうと、どれほどの力を持っていようと、今の彼女の心に恐怖が入り込む隙間はない。ただ、指先に宿る熱が、一刻も早く陽子の元へ辿り着けと彼女を急かしていた。
やがて、到着を告げる無機質な電子音が静かに鳴り、重厚な鉄の扉が左右に開いた。
「……っ!」
日和は反射的に息を呑み、一歩、後ずさった。
開かれた鉄の箱の中には、かつては着飾った男女であっただろう「肉塊」が、無残に折り重なっていた。
それは、少し前に日和がこのホールを訪れた際に目にした、あの光景そのものだった。壁には乾きかけの鮮血が呪わしい紋様をなして飛び散り、内側から誰かが必死にかき毟ったような爪痕が、生存への絶望的な執着を物語っている。
再び突きつけられた「剥き出しの死」。
日和の胃の腑が、拒絶反応で激しくせり上がる。吐き気と戦いながら、彼女は静かに瞳を閉じ、その無惨な骸たちに向けて、赤紫の光が揺れる手を合わせた。
「……ごめんなさい。通らせてください」
今の彼女には、死を悼む時間さえ贅沢だった。
日和は呪詛によって強化された肉体で、一人、また一人と、重なり合った遺体を軽々と持ち上げ、ホールの隅へと退かしていく。その手つきは、恐ろしいほどに穏やかで、同時に痛ましいほどに迅速だった。
三人は、死臭の染み付いた箱の中へと乗り込んだ。
「一階へ行くわよ。……舌を噛まないようにね」
鞠が懐から三枚のお札を抜き放ち、エレベーターの内壁に三角形を成すように貼り付けた。
「『三重の盾、九重の結、天つ壁よ、ここを聖域とせよ』!」
鞠が霊力を注ぎ込むと、お札から溢れ出した蒼い光が、エレベーターの内側を強固な膜でコーティングしていく。
密閉された鉄の箱が、重い振動と共に降下を始めた。
――だが、沈黙は一秒と持たなかった。
ガガガッ、と扉の外側から、金属を削るような不快な音が響く。
扉のわずかな隙間、そして天井の換気扇の格子の間から、意志を持った影が、侵入を試みる黒い指先のように突き刺さってきた。
「くっ……! 来るわよ!」
「……させない……ッ! ヒヨちゃん、前を頼むよ!」
鞠が叫ぶ。同時に、換気扇から滴り落ちるように現れた影の狼に対し、鬼塚が動いた。
彼女は高い背を活かし、数珠を幾重にも巻き付けた逞しい右腕を振り上げた。
「こっちは……ボクが食い止める……よっ!」
傷口から血を滲ませながらも、気合と共に放たれた拳が、格子の隙間から首を突っ込んだ狼を真っ向から叩き伏せる。
日和もまた、扉の隙間から染み出してくる無数の影に向かい、指鉄砲を連射した。
狭窄した空間。逃げ場のない戦場。
一発、また一発と確実に敵を仕留めていくが、影の数は日増しに増殖する細胞のように増え続けていく。
(足りない……! 私が、もっと上手く力を制御できれば……!)
日和は己の不甲斐なさに、奥歯を噛み締めた。
今の日和には、部屋全体を呑み込むほどの呪詛を全方位に放射し、一瞬で全ての影を消滅させるだけの「出力」がある。
だが、それをすれば、この狭い密室にいる鞠や鬼塚まで、彼女の「澱み」に呑み込まれ、取り返しのつかない呪いを受けてしまうだろう。
特定の対象だけを除外する――針の穴を通すような精緻な制御。それが今の日和には欠けていた。
暴走する力。届かない理想。
苛立ちが、漏洩し続ける呪詛にさらなる拍車をかける。全身を包む赤紫の陽炎は激しさを増し、エレベーターの照明がショートしたように激しく明滅した。
バリッ、と不吉な音が響いた。
鞠が張った三枚の結界のうち、最外層の一枚に、狼の爪が深い亀裂を刻んだのだ。
「……っ! 結界が持たないわ!」
鞠が額に汗を浮かべ、必死に霊力を練り続ける。だが、影の波濤は止まることを知らない。
日和は感じていた。自分を包むこの「全能の時間」の砂時計が、着実に最後の一粒を落とそうとしているのを。
呪詛を消費するたびに、お守りの熱が僅かに、だが確実に引いていく。
陽子の元へ辿り着く前に、ただの非力な自分に戻るわけにはいかない。
「もう少し……あと少しだけ、頑張ってよ。私!」
日和は怒りを力に変え、指先が弾け飛ぶほどの勢いで、虚空を撃ち続けた。
一階へ、地獄の底へ。
ついに、心臓を突き上げるような降下を告げる衝撃と共に、エレベーターが停止した。
到着を告げる無機質な電子音が鳴り響き、鉄の扉が左右に開く。
「今です、出て!」
日和の声に弾かれたように、鞠が鬼塚を抱え、勢いよく廊下へと飛び出した。
二人の背中を見送り、最後の一人が箱から出た瞬間、日和は振り返った。
開かれた扉の向こう、エレベーターの箱の中には、獲物を逃すまいと蠢く無数の黒い影が、雪崩のように押し寄せていた。
「――全部、消えて!!」
抑制を解かれた呪詛が、日和の掌から、荒れ狂う嵐となって解き放たれた。
赤紫の閃光が、エレベーターの箱そのものを丸ごと飲み込む。
衝撃波が廊下を駆け抜け、金属が軋む悲鳴が上がった。
閃光が収まった後、そこにはもはや、一欠片の「影」も残っていなかった。
静かに口を開けたままの鉄の箱。そこには、あらゆる生命の気配を拒絶するような重苦しい残穢だけが、墓標のように取り残されていた。
日和は激しい呼吸を繰り返しながら、震える拳を握りしめた。全身を包む陽炎が、一瞬、頼りなく揺れた。
◎
エレベーターという名の鉄の棺桶から吐き出された三人を待っていたのは、網膜を灼くような静寂だった。
日和は肩で荒い息をつきながら、自身の右手に視線を落とした。指先を覆っていた赤紫の陽炎は、今や線香の煙のように細く、頼りなく揺れている。
お守りの放つ「熱」が、潮が引くように冷え始めていた。それと同時に、全身を支配していたあの全能感――世界の理さえも指先一つで書き換えられるという錯覚が、急速に剥落していく。
(……怖い。この『熱』が消えたら、私は……)
肉体の強度が、一秒ごとに「普通の少女」へと引き戻されていく。その摩耗の感覚は、暗い水底へ沈んでいくような底知れぬ恐怖を伴っていた。
一階ロビーへと続く回廊は、全面ガラス張りの、本来なら四季の彩りを楽しむための贅沢な空間だった。
しかし、そこに足を踏み入れた日和と鬼塚は、絶句して足を止めた。
ガラスの向こう側――「外」の世界は、日和たちが知る夜の景色ではなかった。そこには星も月も、街の灯りも存在しない。ただ、墨をぶちまけたような、あるいは光そのものを拒絶するような「完全な無」が、壁となって世界を塗り潰している。
「……信じられない。本当に別の場所に飛ばされちゃったんだね……」
鬼塚が戦慄を隠しきれずに呟く。それは襲いかかってくるような動的な脅威ではない。ただ、そこにあるだけで「こちら側」の存在意義を奪い去るような、絶対的な虚無。日和はその暗黒の深淵に視線を奪われそうになり、強く首を振った。
その時だった。
回廊の先、本館のロビーから、何かが激しくぶつかり合う音と、幾重にも重なる怒声が響いてきた。
「……っ! 誰か戦ってるの?」
三人は顔を見合わせ、気配を殺して物陰を這うように進む。ロビーを一望できる柱の影に辿り着き、そこから見た光景に、日和は息をすることさえ忘れた。
広大なロビーの結界の中。
一人の少女を、十数人の男女が取り囲んでいた。
襲っているのは、ホテルの制服を着たスタッフや、宿泊客とおぼしき者たちだ。彼らは一様に、厳しい修練を積んだ術師特有の鋭い身のこなしで、容赦のない攻撃を少女へと叩きつけている。
「……瑠衣ちゃん!?」
鞠が、悲鳴に近い声を押し殺して叫んだ。
円陣の中心に立たされているのは、ボロボロになったスタッフの制服を纏う一人の少女――蛇目瑠衣。
彼女の体は血塗れで、特に左腕には銃弾が貫通したような無惨な傷穴が穿たれている。今にも膝をつき、そのまま息絶えてもおかしくない、あまりにも悲惨な姿。
「助けないと……! あの人たちが犯人なんじゃ……っ」
日和が飛び出そうとした瞬間、その首根っこを鬼塚の両手が力強く掴んで止めた。
「待って。……おかしいよ、あれ」
鬼塚の冷徹な観察眼が、その場の「異常」を射抜いていた。
よく見れば、少女を囲んでいる男女の集団も、決して無傷ではなかった。むしろ、彼らの全身には無数の裂傷が刻まれ、その動きには死に物狂いの焦燥が張り付いている。一流の術師たちが束になって一人の少女を追い詰めているはずなのに、恐怖に支配されているのは「多勢」であるはずの彼らの方だった。
不意に、集団の中にいた一人の女性術師が、悲鳴さえ上げられずに宙を舞った。
何の前触れもなく、彼女の背中が巨大な獣に引き裂かれたかのように大きく爆ぜたのだ。
「……狼!?」
日和は見た。ロビーの至る所から、あの漆黒の狼たちが染み出すように現れ、男女の集団を喰らい尽くそうとしているのを。
だが、狼たちは中央の少女――瑠衣には決して牙を剥かなかった。それどころか、彼女に近づこうとする敵を阻む、忠実な近衛兵のように振る舞っている。
そして、日和たちは見てしまった。
瑠衣自身の「影」から、次々と新たな狼が産み落とされていく光景を。
瑠衣がふらりと足を踏み出す。彼女が床に落ちた女性の影を、冷酷に踏み抜く。その瞬間、女性の肉体が、見えない重圧に押し潰されたかのように不自然な角度で折れ曲がった。
「あ、が……っ! 動け、な……」
動きを止めた獲物に、狼たちが一斉に群がる。
逃げ場を失った彼女の喉笛を、影の狼が蹂躙し、鮮血が噴水のように舞った。
咀嚼音。骨の砕ける音。
洗練されたはずの術師たちは、今やただの獲物に成り下がっていた。
一人が背中を裂かれ、もう一人が内臓を引きずり出される。
命乞いをする最後の一人の男が、三匹の狼によって車裂きのように引き裂かれるまで、一分とかからなかった。
「待て……待ってく、ああああああああああああああああッ!!!」
凄絶な断末魔。
引き絞られる肉の軋み、関節が外れる音、そして――ボロ布を引き裂くような湿った音。
男の肉体は文字通り四散し、ロビーの壁に赤黒い大輪の花を咲かせた。
ロビーに満ちたのは、鉄錆の臭いと、悍ましい静寂。
返り血を浴びた瑠衣は、敵の全滅を確認すると、糸の切れた人形のように四つんばいになった。
そして。
彼女は獣のような仕草で、転がっている遺体の血肉を啜り始めたのだ。
「そんな……。嘘よ……瑠衣ちゃん、なの……?」
鞠の顔から、血の気が引いていく。
鞠が知る蛇目瑠衣は、呪詛の才能に恵まれず、霊力の筋も凡庸な、どこにでもいる穏やかな少女だった。本家の令嬢でありながら、末端の鞠に対しても、日向のような微笑みを向けてくれた、心優しい少女。
だが、目の前で死肉を貪り、影の獣を従える怪物は、その面影を無惨に塗り潰している。
「……【魂食い】」
鞠が震える声でその禁忌の名を口にした。
古の妖怪や怪異のように、他者の魂を喰らうことで、己の寿命や霊力を無理矢理に底上げする外道の法。だが、人の魂が他者の魂を拒絶なく受け入れられるはずがない。食らえば食らうほど、混ざり合った他者の怨念が己の精神を侵食し、正気を汚染していく。
待っているのは、人としての死。そして、真の怪物への変質。
「あの子……自分を壊してまで、こんな力を……っ」
あまりのショックに、鞠は思わず一歩後ずさった。
その足元に落ちていた、誰かのものだったろう一本のボールペン。
――パキッ。
プラスチックが砕ける小さな音が、静まり返ったロビーに不吉に響いた。
血を啜っていた瑠衣の動きが、止まる。
ゆっくりと、首だけが機械的な動作でこちらを向いた。
乱れた髪の隙間から覗く、虚ろな、それでいて底なしの飢餓を湛えた瞳。
日和は、その「怪物」と、真っ向から目が合ってしまった。
お守りの熱が、また一段と冷えていく。
日和の心臓が、警告を告げるように激しく打ち鳴らされた。
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