7-8
ミートソースをいっぱい作りました。
後でドリアとかにもアレンジしようと思います。
リネン室という名の静止した箱の中で、日和は自分の指先から立ち昇る赤紫色の陽炎を見つめていた。
先ほどまでそこにあったはずの「死」は、文字通り跡形もなく掻き消えている。狼だった黒い泥は、日和が放った呪詛の爆縮によって、この世界の因縁ごと根こそぎ削り取られ、虚空へと散った。
静寂。
それは耳を聾するほどに重く、リネン室の空気を塗り潰している。
日和はゆっくりと自分の手を開き、握りしめた。溢れ出す呪詛――陽子のお守りが安全弁として放流し始めた「澱み」は、日和の全身を薄い皮膜のように覆い、彼女の存在そのものを「怪物」の領域へと押し上げていた。
肉体は、常に万全の状態であろうと絶え間なく変質し、細胞の一つ一つが怒りと呪詛に最適化されている。視界は不気味なほどに冴え渡り、壁の向こうを這う虫の音さえ、今の彼女には鮮明な「形」を伴って伝わってきた。
(これが……私の、力……?)
かつて陽子が言った「お前の器は底なしだ」という言葉の、真の恐ろしさを日和は今、肌で感じていた。それは全能感という名の毒だった。だが、今の彼女にとってその毒は、唯一無二の救いでもあった。
ふいに、研ぎ澄まされた日和の感覚が、廊下からの「異変」を捉えた。
影の狼が立てる、あのカサカサとした不快な爪音ではない。もっと重く、実感を伴い、一定の律動を持った「人間の足音」だ。
日和は瞬時に背後の鬼塚を庇うように立ち上がり、扉の方へと右手を向けた。
――来る。
日和の脳裏に、廊下を歩く誰かの「感情」が流れ込んでくる。
それは狼たちが持っていた、ひたすらに飢えた殺意ではなかった。そこにあるのは、張り詰めた緊張感、深い焦燥、そして――誰かを守らねばならないという、悲痛なほどの切実さ。
感覚的に、敵ではない。そう直感が告げていた。けれど、お守りの制限を突き抜けて溢れ出した日和の呪詛は、過剰な自衛本能となって彼女の指先を赤紫に燃え上がらせる。
カツン、と靴音が扉のすぐ外で止まった。
次の瞬間、無機質な鉄の扉がゆっくりと開き、一人の女性が姿を現した。
「……っ! 動かないで!」
日和の声がリネン室に響く。
入ってきたのは、ホテルのスタッフ制服を纏い、眼鏡をかけた四十代半ばの女性だった。
その女性は、部屋に入った瞬間に、その場に釘付けになった。彼女の指先には、すでに数枚のお札が挟み込まれ、日和の眉間に向けられている。
対峙。
女性の目から見れば、目の前の光景は「惨劇の現場」そのものだった。
床には血塗れで意識を失っている著名な呪物コレクター、鬼塚。そしてその前に立ち、全身から見たこともないほど濃密で凶悪な呪詛を噴き出している、人ならざる貌をした少女。
女性の頬を冷や汗が伝う。彼女がこれまでの人生で見てきたどんな怪異よりも、目の前の少女が纏う「澱み」は深く、そして圧倒的だった。
「貴女……貴女が、この異常事態の首謀者なの……?」
女性の声は震えていた。もし目の前の少女が、このホテルを影の領域に変えた犯人であるならば、自分ごときが何枚札を重ねようと、対抗できるはずがない。あまりにも絶望的な実力差。
「違います……! 私は……私は!」
日和の指先が、微かな振動と共に赤紫の閃光を散らす。
お互いに、相手がこの地獄の仕掛け人ではないかと疑い、空気が爆発寸前の極限状態まで膨れ上がる。
だが。
女性は、日和の瞳をじっと見つめた。
赤紫に燃えるその瞳の奥にあるのは、支配欲でも殺意でもない。ただ純粋に、背後の負傷者を案じる、幼いほどに真っ直ぐな「恐怖」と「優しさ」だった。
「……はぁ。ダメね。老眼のせいか、それとも私の勘が錆びたのか……」
女性はふっと息を吐くと、日和に向けていたお札を下ろした。降参の合図だ。
「……いいわ。貴女が犯人なら、私がこうして喋っている間に、私の命はとっくに犬のエサの筈よ。……賭けるわよ、お嬢ちゃん。貴女のその真っ直ぐな瞳にね」
女性は、ゆっくりと日和に向けて名乗った。
「私は蛇目 鞠。この会場の警備スタッフとして働いている、一族の出来損ないよ。貴女は?」
「……私は、小林 日和です」
日和は指鉄砲を向けたまま、その名を聞いて陽子の言葉を思い出していた。『蛇目』は呪物のオークションを牛耳っている一族だと言っていた。目の前の女性は、その関係者なのだろう。
「蛇目さん……」
「鞠、でいいわ。その名字は嫌いなの」
どうやら彼女は蛇目の一族に良い感情は抱いていないようだ。日和の呼び方に心底嫌そうな顔をした。
「……それより小林さん、後ろの人。鬼塚さんでしょ? その傷、このままじゃ命に関わるわ。……私に診させて。この狼の呪いなら、一応、私にも処置の心当たりがあるから」
日和は葛藤した。だが、鬼塚の顔色は刻一刻と土色に近づいている。
「……わかって、います。でも、怪しい真似をしたら……撃ちます。いいですね?」
日和は指先に呪詛を凝縮させたまま、瞬きもせずに鞠の動きを監視する。
鞠はゆっくりと鬼塚の側に跪くと、懐から新しいお札を取り出し、その傷口にかざした。
「『境界を分かち、因縁を断たん。これより内は、外ならぬ。閉じよ、蒼の壁』――」
お札から溢れ出した静かな蒼色の光が、鬼塚の傷口を包み込む。
すると、日和がどれだけ解呪を試みても止まらなかった「紫の痣」の侵食が、ピタリと止まる。
「凄い……解呪出来るんですか?」
「いいえ。これはあくまで応急処置。呪いの供給を一時的に止めているだけよ。お札が持っている霊力を使い果たせば、また元の黙阿弥」
それは傷口と呪いの原因を繋げる縁を阻害する結界であった。確かに根本を解決した訳ではないので、時間稼ぎにしかならない。
それでも、確かに鬼塚の命を繋ぎ止めた。
「……ん、ぁ……っ」
呪いの供給が止められたことで、鬼塚の顔色が少しずつ良くなっていく。
鬼塚の胸が大きく上下し、彼女はうっすらと目を開けた。
「……ヒヨ……ちゃん……? あぁ、よかった……無事なんだね……。……その人は?」
鬼塚は、見知らぬ眼鏡の女性と、変貌した日和の姿を交互に見つめ、困惑した声を出す。
「鬼塚さん! よかった……本当によかった……! この方は蛇目さん……あ、鞠さんです。助けてくれたんです」
日和はたまらず鬼塚に縋り付き、大粒の涙を流した。
先ほどまでの峻烈な「無敵の少女」の貌は霧散し、そこにはただ、大切な人の無事を心の底から喜ぶ一人の少女がいた。その様子を見て、鞠は確信した。この小林という少女は、決して怪物などではない。ただ、あまりにも巨大すぎる運命を、その細い肩に背負わされてしまっただけの、普通の女の子なのだと。
「……ありがとうございます。疑って、ごめんなさい……鞠さん」
「いいのよ。これだけの状況だもの、疑わない方がどうかしてるわ」
鞠は眼鏡を押し上げ、疲れたように溜息をついた。
日和と鬼塚は、現状を話した。夏秋冬 陽子という師匠と共にオークションに来たこと。離れ離れになり、陽子と合流しなければならないこと。
鞠もまた、自らの胸に秘めた切実な目的を明かした。
「私の目的も同じよ。この会場に、私の息子が巻き込まれているの。あの子を助けて、このホテルから連れ出す。そのためなら、私は命を捨てることも厭わない」
「鞠さんの、息子さん……」
日和は、鞠の語る「息子」が何処の誰かも知らぬまま、ただその母親としての強い覚悟に胸を打たれた。
「……利害は一致したわね、小林さん、鬼塚さん。貴女たちは夏秋冬さんの元へ。私は息子の元へ。場所はどちらにせよ、あのオークション会場よ」
日和は立ち上がり、お守りから漏れ出す「最後の熱」を握りしめた。
「行きましょう。私も、陽子さんのところへ行かなきゃ。……みんなで、一緒に帰りましょう」
リネン室の扉が、再び開く。
今度は、逃げるためではない。反撃の一歩を踏み出すために。
◎
鬼塚の呼吸が安定し、死の淵からひとまず遠ざかったことを確認した日和は、肺の奥に溜まった熱い呼気をゆっくりと吐き出す。
全身を巡る呪詛の奔流は、いまだ衰えることを知らず、日和の感覚を鋭利な刃物のように研ぎ澄ませていた。
鬼塚の体力が僅かでも回復するのを待つ間、日和は鞠が広げたホテルの図面に目を落とした。
この巨大な迷宮の構造を知らぬまま闇雲に突き進むのは、あまりにも無謀だ。ましてや、今の自分には守るべき背中が二つもある。
「……現在地を確認しましょう。私たちが今いるのは、別館Bの九階よ」
鞠の指が、図面の一点を指し示した。
このホテルは、想像以上に広大で歪な構造をしていた。オークション会場や巨大な上映館を擁する「本館」、華やかな社交の場である「別館A」、そして今自分たちがいる、宿泊客のための静寂が支配する「別館B」。他にも植物園や温水プールといった贅の限りを尽くした施設が、血管のような回廊で繋がっている。
「オークション会場は、本館の二階。そこへ辿り着くには、まずこの別館Bの一階まで降り、本館へと続く連絡通路を渡る必要があるわ」
鞠の言葉に、日和は廊下から漂ってくる腐肉のような死臭を思い出した。
「一階まで……。でも、犯人がそれを放っておくとは思えません」
「ええ。その通りよ、小林さん。別館と本館を繋ぐ回廊は、まさに絶好の迎撃地点。敵が何も仕掛けてこないはずがないわ」
鞠の表情は、老眼を気にする日常のそれではなく、戦場に立つ術師の厳しさを帯びていた。
日和がどれほど圧倒的な力で狼をねじ伏せようと、鞠と鬼塚は生身の人間だ。少しの油断が、彼女たちの命を容易く奪い去るだろう。
「私の結界術で守るつもりだけど……限界があるわ。このお札が、私の術の源。残りは九枚。……これを使い切れば、私はただの非力な中年よ」
鞠が自嘲気味に提示した、九枚の薄い紙片。それが彼女たちの命の残数だった。
日和は迷うことなく、自らの懐に潜ませていた三枚の形代を取り出した。
「鞠さん、これを使ってください。私の自作ですが、陽子さんの指導で作った形代です」
「……いいの? これは貴女を守るためのものでしょう」
「今の私には必要ありません。それよりも、お二人の安全が優先です」
呪詛の鎧を纏う今、日和の肉体はそのものが最強の盾であり矛だ。三枚の形代を鞠に託す日和の手は、一点の曇りもなく安定していた。
「陽子さんも、きっと会場に向かっているはずです。あの人なら、絶対に。……陽子さんと合流できれば、二人を安全に連れていけます。それまでは――私が、絶対に二人を傷つけさせません」
その言葉は、もはや怯える少女の震えを伴っていなかった。
鞠は、日和の瞳の奥に宿る「覚悟」を真正面から受け止めた。先ほどまでの、化け物を見るような警戒心はどこかへ消え、代わりに奇妙な信頼が胸の中に芽生えていた。
「わかったわ、小林さん。貴女に命を預けるわ。……準備はいい? 鬼塚さん」
「……うん。足手まといにはならないよ。これでも、修羅場は慣れているからね」
鞠が鬼塚の肩を借り、片手には常に次の一手を放つためのお札を握りしめる。
その数歩先。赤紫の陽炎を纏った日和が、先陣を切ってリネン室の扉を開けた。
廊下は、死のような静寂に包まれていた。
三人は、フロアの中央に位置するエレベーターホールを目指して進む。鞠の案では、エレベーターという閉鎖空間を自身の結界術で丸ごとコーティングし、影の狼の侵入を防ぎ、一気に一階まで強行突破するつもりだった。
だが、迷宮の主がそれを許すはずもない。
カサリ、と微かな音がした。
客室のわずかな隙間、曲がり角の深い影。そこから、三つの「飢え」が這い出してきた。
「来たわ……っ!」
鞠がお札を掲げ、結界を展開しようとしたその刹那。
彼女よりも、音よりも、光よりも早く、日和が動いた。
三匹の狼が放つ殺意の波動を、日和は全方位展開された感覚器官で完璧に捉えていた。
右手に二本、左手に一本。
狼たちが地面を蹴る寸前、日和は既に「指鉄砲」の照準を完了させていた。
「――消えて」
冷徹な一言。
放たれた赤紫の閃光は、先ほどまでの「脆弱な自分」が放ったそれとは比較にならない速度と威力を伴っていた。
前方の二匹、そして背後から音もなく迫っていた一匹。
断末魔の叫びすら許さない、純然たる滅び。
着弾した狼たちは、肉体が弾ける音すら残さず、光の奔流に呑み込まれて因縁の彼方へと消滅した。
鞠は息を呑んだ。
目の前に立つ少女の背中から、先ほど鬼塚を抱きしめて泣いていた時の脆弱さは微塵も感じられない。
敵を視界に入れた瞬間、日和から滲み出る呪詛はさらに禍々しく、濃密に膨れ上がっていた。それは慈悲を排した、破壊のための意志。
大切な存在を脅かす者に対し、彼女は神の如き冷酷さで裁きを下していた。
「……終わりました。行きましょう」
日和は振り返ることもなく、何事もなかったかのように歩き出す。
その足取りに迷いはない。ただ、一秒でも早く陽子の元へ辿り着くという、一途な情念だけが彼女を突き動かしていた。
鞠は、背筋に走る戦慄を抑えながら、日和の後に続いた。
(……正解だったわ)
鞠は内心で、自分自身の判断を深く肯定した。
(この少女と敵対する道を選んでいたら。……今頃、私の命はなかった)
エレベーターホールの金色の扉が、三人を招き入れるように静かに開く。
九階から一階へ。地獄の深淵へと向かう降下が、今、始まろうとしていた。
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追伸(章タイトルを設定しました。どうでしょうか?)




