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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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7-7

ゴールデンウィーク、皆さんはどう過ごしますか?


 

 リネン室の分厚い鉄扉が閉まる音は、外界の喧騒を遮断した。しかし、それは安息の訪れではなく、逃げ場のない小さな檻に閉じ込められたことを告げる葬送の鐘のようにも聞こえた。

 日和は棚から震える手で清潔そうなバスタオルを数枚引き抜き、鬼塚の傷口に押し当てた。止血のための応急処置。だが、指先に伝わる彼女の体温は、ドレスの真紅とは対照的に、恐ろしいほどに冷たくなっていた。


 静寂が、鼓膜を圧迫してくる。

 つい先ほど、廊下で「指鉄砲」を放った時の感触が、右手の人差し指と中指に鮮明に残っていた。

 陽子との過酷な特訓の末に手に入れた、自らの呪詛を弾丸として撃ち出す技術。それは、陽子が「お前の器は底なしだ」と評した通り、日和の魂から溢れ出す澱みを一点に凝縮し、顕現させる力技。


 お守りによって制限された今の出力では、物理的な壁を砕くことも、人を吹き飛ばすこともできない。けれど、あの実体のない悪意の塊――影の狼だけは、確実に穿つことができた。


 撃ち抜いたのは、人ですらない怪物。だから、誰かを傷つけたという倫理的な嫌悪感はなかった。

 けれど、その代わりに、どろりとした真っ黒な後悔が日和の胸を支配していた。


(もっと早く、撃てていれば……。私がもっと、怖がらずに撃てていれば……!)


 シーツの山に横たわる鬼塚の姿は、あまりにも痛々しかった。

 確実に当てるために、狼が鬼塚を仕留める「確実な隙」を見せるまで待ってしまった。自分が臆病であったがゆえに、鬼塚という盾を極限まで削らせてしまったのだ。もし、自分に陽子のような冷徹な判断力と、迷いのない強さがあれば。


 止血を試みる日和の手は、自分の意志に反してガタガタと震え、バスタオルを傷口にうまく固定することすらままならない。


「あ……っ、ごめんなさい、ごめんなさい鬼塚さん……っ」


 タオルの上から必死に圧迫を繰り返すが、傷口からは止まることのない血液が、日和のミッドナイトブルーのドレスをじわじわと黒く染めていく。


「……ひ、よちゃん。そんな、顔しないでよ。ボクは、まだ……大丈夫。ちょっと、休憩してるだけだから……」


 鬼塚の掠れた声が、日和の思考を引き戻す。

 彼女の白い肌を侵食しているのは、鋭い爪跡だけではなかった。傷口の周囲には不気味な薄紫色の痣が広がり、そこから熱を奪うような冷たい「重み」が絶え間なく溢れ出している。影の狼が残した、生命力を削り取る呪い。放置すれば、彼女はそのまま枯れ木のように衰弱し、果ててしまうだろう。


「鬼塚さん、今、解呪してみせます……!」


 日和は必死に自分を奮い立たせ、鬼塚の傷口に手をかざした。

 以前、一ノ瀬の呪いに立ち向かった時と同じように、自分の呪詛を微弱に放射し、相手の呪いを「食わせる」ことで相殺させる。毒をもって毒を制す、日和にしかできない力業。

 日和の指先から、赤紫色の微かな光が漏れ出す。

 彼女の呪詛が傷口に触れると、狼の影は一瞬、苦悶するようにのたうち回り、霧散していった。


「……あ、消えた……!」


 希望の光が見えたのも束の間だった。

 相殺されたはずの影が、次の瞬間には傷口の奥底から、湧き出す黒い水のように再び溢れ出してきたのだ。

 一度や二度ではない。何度日和が呪詛をぶつけても、まるで蛇口から流れ落ちる水のように、狼の呪いは絶え間なく供給され続け、鬼塚の体力をじわじわと奪っていく。


(どうして……? どうして消えないの……っ!)


 日和は絶望的な焦燥に駆られ、何度も呪詛を練り直す。

 一ノ瀬の時もそうだった。あの時も、いくら表面の呪いを相殺しても、根元を叩かなければ呪いは止まらなかった。今の状況も、どこかに「供給源」があるはずなのだ。

 だが、経験の浅い日和には、それが何なのかが分からない。あの巨大な狼の影そのものに原因があるのか、それともこの空間そのものの仕業なのか。今の彼女には、原因を特定する術も、それを断ち切る手段もなかった。

 日和が行っているのは、穴の開いたバケツに必死で水を注ぎ続けるような、空虚で無意味な作業に過ぎなかった。


「……ヒヨちゃん、もういいんだよ。ボクなら平気だから……ボクは、君がそこにいてくれるだけで、心強いよ……」


 鬼塚の手が、震えながら日和の頭を優しく撫でる。

 その手の冷たさに、日和は己の無力さを残酷に突きつけられた。自分を励まそうとする彼女の優しさが、今はどんな叱責よりも深く、日和の心に杭を打ち込む。守りたい人を守ることも、癒やすこともできない。自分にできるのは、ただ彼女の血をタオルで拭うことだけだ。


(陽子さんなら……陽子さんなら、もっと上手くやれるのに……!)


 視界が涙で滲む。

 厳しく、口が悪く、けれど誰よりも確実に因縁を剪断してみせる師匠。陽子の持つ『出雲の縁切り鋏』があれば、こんな理不尽な供給源ごと、呪いの縁を切り裂いてくれただろう。


 日和は、自らの胸元にある重厚な「お守り」を、壊れ物を扱うように握りしめた。

 それは、日和という歩く呪いの源泉に蓋をし、彼女が一般社会で生きていくための安全弁。

 陽子からは「絶対に外すな」ときつく言い含められている。だが、このお守りは日和の呪詛を封じると同時に、彼女の「出力」をも大幅に制限していた。


(これを外せば……この蓋さえ取ってしまえば、もっと強い力を出せる。陽子さんとの特訓の時のように、指鉄砲を連射して、あんな狼なんて一瞬で……。鬼塚さんの呪いだって、圧倒的な物量で塗りつぶせるかもしれない……)


 震える指が、お守りの紐にかかる。

 けれど、陽子の冷徹な警告が、冷たい水のように脳裏をよぎった。


『お前の呪いは、お前が思うよりずっと残酷だ。制御を失えば、味方から真っ先に腐らせるぞ』


 日和は恐怖に身を震わせた。

 今、極限まで衰弱している鬼塚の傍で、この「蓋」を外せばどうなるか。

 制御を失い、日和から無意識に溢れ出す死の澱みが、鬼塚という弱った生命を真っ先に飲み込んでしまうだろう。狼に殺される前に、自分の呪いで、彼女を殺してしまう。


「……う、うう……陽子さん、助けて……怖いよ……」


 シーツの山に顔を埋め、日和は声を殺して泣いた。

 力を出せば鬼塚を殺し、力を抑えれば狼に殺される。

 出口のない迷路の中で、少女の精神は泥濘へと沈んでいく。


 その時だった。

 リネン室の天井にある蛍光灯が、不吉な音を立てて激しく明滅した。

 部屋の隅、通気口のルーバーの僅かな隙間から、まるで生きているかのようにドロリとした影が、粘り気を伴って床へと滴り落ちる。

 それは無音で形を成し、再びあの金色の瞳が暗闇の中で、飢えた捕食者の輝きを持って燃え上がった。

 泣きじゃくる少女の背後に、逃げ場のない「影」が、再びその顎を大きく開こうとしていた。



 ◎



 リネン室を支配する沈黙は、死神の足音に似ていた。

 日和はシーツの山に顔を埋め、止まらない涙の熱さを感じていた。だが、その絶望の淵にあっても、彼女の「才能」は残酷なまでに研ぎ澄まされていた。

 陽子が「最悪のギフト」と呼んだその感応力は、空気の密度の微かな変化、光の届かない場所から漏れ出る「悪意の体温」を、肌に突き刺さるような鋭敏さで捉えていた。


 ――来る。

 背筋を凍りつかせるような死の気配。それは、物理的な音よりも早く、日和の魂を直接掴み取ろうとする冷たい手となって迫っていた。

 通気口から滴り落ち、形を成した影の狼。その金色の瞳が、泣きじゃくる少女の無防備な背中を捕らえ、鎌のような鉤爪が振り上げられる。


「……っ!」


 咄嗟だった。

 陽子との「回避の特訓」という名の死地。不意打ち、不条理な暴力、それらを紙一重で躱し続けなければならない地獄のような時間が、日和の肉体に反射という名の本能を刻み込んでいた。

 日和は地面を蹴り、無様に、けれど電光石火の速さで横へと転がった。

 直後、彼女の影がいた場所に黒い塊が風を切るように通過した。

 狼は一瞬、戸惑ったようにその首を傾げた。目の前の、ただ怯えているだけに見えた「小動物」が、自分の不可視の初撃を躱したことが理解できないようだった。しかし、狼の優先順位は冷酷だ。

 自分を警戒し始めた日和から視線を外し、狼はその背後で死の淵を彷徨う、より確実な獲物――鬼塚へと狙いを定めた。


(だめ……っ、鬼塚さんは、ダメ!)


 日和は叫ぶよりも早く動いていた。

 狼の標的は「影」だ。鬼塚の影が食われれば、彼女の命はそこで終わる。

 日和は近くの備品棚へと手をかけ、火事場の馬鹿力で駆け上がった。ドレスの裾が棚の角に引っかかり、嫌な裂け音を立てるが、そんなことを気にしている余裕はない。

 天井近く、剥き出しの電球にその身を晒す。

 強い光を背負えば、その分、自身の影は大きく、濃くなる。

 日和は身を乗り出し、自らの巨大な影を、床に横たわる鬼塚の影の上に覆い被せた。


「――がっ!」


 衝撃。

 狼の爪が、鬼塚の代わりに日和の影を深く抉った。

 本来なら肉体を爆ぜさせるはずの一撃。だが、胸元にある陽子のお守りが、その身に余る衝撃を吸収し、不吉な鈍色に光る。

 傷は、思いの外浅かった。だが、一般家庭の娘として育てられ、ついこの間まで「呪い」の現実を知らなかった少女にとって、それは耐え難い苦痛だった。影を傷つけられる感覚は、熱した針で直接神経をかき回されるような、筆舌に尽くしがたい拒絶反応を伴う。


「……痛い……、痛い……っ」


 日和は棚の上でうずくまり、涙を溢れさせた。

 痛みに怯え、震える少女を見て、狼はまるで見せつけるように影の形を歪めた。それはこの異界に響くことのない、残酷な「嘲笑」だった。

 狼はいたぶることを決めた。

 一息に仕留めるのではなく、その柔らかい影を少しずつ噛みちぎり、恐怖と悲鳴を愉しむように。

 再び、鉤爪が日和を襲う。

 一度、二度。避けることのできない高台で、日和は自らの影を差し出し続け、鬼塚を守る肉の壁となった。

 お守りのおかげで、致命傷には至らない。

 けれど、止まない痛みと、絶え間なく繰り返される暴力が、日和の中で「何か」を呼び覚ましていた。


(どうして……どうして、こんな目に遭わなきゃいけないの……)


 最初は、ただの悲しみだった。

 次は、底知れない恐怖。

 けれど、それらは次第に、熱を帯びた「別の感情」へと変質していく。

 不甲斐ない自分への、烈火の如き怒り。

 何よりも大切な、自分を信じてくれた鬼塚を、こんな冷たい床で苦しませている現状への怒り。

 そして――何より、自分をいたぶり、目の前で命を弄んでいる、この黒い泥のような存在への、純粋な殺意を伴う怒り。


「……あ、あ……っ」


 日和の胸元で、お守りが微弱に振動を始めた。

 以前、「八百万館」で起きた暴走の際、日和の呪詛に耐えきれずお守りの紐は焼き切れた。陽子はその反省を活かし、このお守りに「安全弁」としての機能を組み込んでいた。

 負の感情が爆発し、日和の「器」から呪詛が溢れ出した際、それをすべて封じ込めて破綻するのではなく、ある程度を制御下に置いたまま漏洩させ、身体に纏わせるための調整。

 お守りが、触れれば火傷しそうなほどの熱を持つ。

 日和の瞳が、溢れ出る呪詛の影響で赤紫色に燃え上がった。

 その瞳に射抜かれた狼は、本能的な恐怖に駆られ、弾かれたように後ろへ飛び下がった。


「…………」


 日和は無言で棚から降りた。

 彼女の全身からは、目に見えるほどの密度を持った赤紫色の靄――日和自身の呪詛が溢れ出し、彼女を護る鎧のように渦巻いている。

 その呪詛は、周囲を汚染することなく、ただ主人である日和の意志に従って、その四肢を、そして足元の影を強固に保護していた。

 呪詛は宿主の意思に関係なく、その身を変質させる。日和の魂の形を参照し、傷だらけの身体を「万全な状態」へと変質させた。


 狼は焦り、闇雲に日和へと襲いかかる。

 先ほどまで日和の影を容易く切り裂いていた鉤爪。だが、今、日和の影は微動だにしない。

 影に干渉する感染呪術。それを、日和は「溢れんばかりの呪詛で呪術を相殺する」という、あまりにも強引で、あまりにも規格外な力業で無効化していた。


 影が傷つかない。

 それは、狼にとって「武器」を奪われたも同然だった。

 日和は、目の前で困惑し、影を震わせる狼を冷たく見下ろした。

 その瞳にあるのは、もはや心優しい娘の慈悲ではない。因縁を預かり、呪いを精算する「ハルナシ」の弟子の貌。

 日和は、ゆっくりと指を丸めた。

 イメージするのは、初めて陽子と出会ったあの夜のこと。

 己にかけられていた醜い呪いを、陽子が何でもないように、デコピン一つで霧散させてくれた、あの救いの記憶。


「……消えろ」


 日和が放ったのは、デコピンの動作を模した、純粋な呪詛の爆縮。

 指先が空を弾いた瞬間、お守りの制限を突き抜けた「規格外」の呪詛が、リネン室の空間そのものを歪めながら狼を直撃した。


「――っ!?」


 狼は断末魔を上げる暇さえなかった。

 影の体躯は、日和の放った圧倒的な呪いの質量に耐えきれず、まるで台風に晒された煤煙のように、跡形もなく、徹底的に、その存在を消滅させられた。

 再び訪れた静寂。

 日和は、熱を失い始めたお守りを握り、ゆっくりと膝をついた。

 怒りの炎が引いた後の心には、心地よい疲労と、ようやく果たせた「守る」という行為への確かな手応えだけが残っていた。


「……鬼塚、さん……。もう、大丈夫ですよ……」


 日和は、衰弱した鬼塚の傍らに寄り添い、彼女の冷たい手を握った。

 少女の細い肩は、もう震えてはいなかった。



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