7-6
2025/4/27
後書き、付け忘れしてました。
(7-4と7-5)
申し訳ありません。
植物園の極彩色の花々が、死の臭気と混ざり合い、ねっとりとした静寂を紡ぎ出している。
宙を舞っていた影狼の煤が、雪のように床に降り積もり、消えゆく。その光景を背景に、緊張感のとけた陽子は膝をつき、荒い呼吸を整えた。
左手に握りしめた『出雲の縁切り鋏』を鞘に収める。
疲労と痛みで視界の端が、明滅する蛍光灯のようにチカチカと白く爆ぜる。
「……ハァ、ハァ……クソッ、左じゃやっぱり、重心がブレる……」
額から流れる脂汗を、血に濡れた袖で拭う。
陽子の傍らでは、佐藤が魂を抜かれたような顔でへたり込んでいた。
彼は先ほど、少女の巨大な影が目の前に迫った瞬間、文字通り「走馬灯」を見ていた。
幼少期の夏休み、初めて貰った仕事のギャラ、制作現場で怒鳴り散らされた日々、大切な母と妹……それらが万華鏡のように脳裏を駆け抜け、死の予感に震えていたのだ。今、五体満足で生きていることが信じられないというように、自分の手足を何度も何度も確かめている。
「い、生きてる……。僕、まだ死んでないんですよね、陽子さん……?」
「うるせぇ。死にたくなければシャキッとしてろ」
陽子は突き放すように言い放つが、その足取りもまた、おぼつかない。
そんな二人を余所に、静寂の中で最初に「機能」し始めたのは、やはりあの女――黒鉄だった。
黒鉄は、少女が逃げ去った闇を見送ることさえしなかった。
漆黒のドレスを揺らし、迷いのない足取りで円形広場に転がる死体の山へと歩み寄る。そして、事もなげにその懐に手を入れ、何かを探り始めた。
「……おい、アンタ。何してんだ」
陽子が呆れたような、それでいて警戒を解かない低い声で問う。
「何って、死者の知恵を拝借しようと思いまして。出口のない迷路を彷徨うより、この場所のヒントくらい、誰か持っているかもしれませんから」
黒鉄は微笑を湛えたまま、血に汚れたホテルマンの遺体を「点検」していく。その指先の動きは精密で、感情の一切を排した外科医のようでもあった。
その光景に、ようやく現実へと意識を引き戻された佐藤が、青い顔をして絶句した。
「な、何てことを……! 陽子さん、止めなくていいんですか!?」
「……いや、正しいな。あたしたちはこの場所について無知すぎんだよ」
陽子は忌々しげに鼻を鳴らすと、痛む身体を無理やり引きずり、黒鉄に倣って別の遺体へと膝をついた。遺体を弄ぶ趣味はない。だが、リユースショップ「ハルナシ」の店主として、物の価値と情報の重要性は誰よりも理解している。生き残るためには死人の懐を漁ることも厭わない。それがこの「裏の世界」の剥き出しの理だ。
ふと、陽子の目が一際惨たらしい遺体で止まった。
先ほど、あの正体を現した少女が連れていた狼に、頭部を損壊されたホテルマンだ。
だが、陽子のプロとしての眼差しが、死体の違和感を捉えた。
「……待て。こいつ、おかしいぞ」
周囲に転がっている客たちの遺体は、一撃で急所を破壊され、抵抗の隙もなく絶命していた。いわば「効率的な殺害」だ。
しかし、この男の身体に刻まれた無数の傷は――。
「数だけは多いが、どれも浅い。血管や臓器といった、即死に繋がる部位を執拗に避けてやがる。……これじゃあまるで、拷問だ」
陽子は顔をしかめた。犯人の少女は、この男から何かを聞き出そうとしていたのだろうか。
だからこそ、つい先ほど陽子たちが到着するまで、男は激痛に苛まれながら「虫の息」で生かされていた。少女が最後にトドメを刺したのは、陽子たちという邪魔者が現れたことで、口を封じる必要が生じたからだろう。
陽子は、血に染まった男の胸元から名札を剥ぎ取った。
「『蛇目 雄一』……。蛇目、か」
今回のオークションの主催一族の名。客を影の世界に閉じ込め、無差別に殺戮を繰り返している犯人。犯人とこの男には一体どんな接点があるのだろうか。
「蛇目一族の方を拷問してまで、何を聞き出そうとしたのでしょうね……」
黒鉄が背後から、音もなく覗き込む。彼女の黒い仮面が、陽子の手元に影を落とした。
陽子は男のジャケットの内ポケットを弄り、一冊の小さな、けれど使い込まれた分厚い手帳を見つけ出した。
表紙には蛇目家の家紋が箔押しされており、中を捲ると、そこには今回のオークションに出品された呪物や忌みものの詳細なリストが、綺麗な文字で書き連ねられていた。
「管理用の秘匿手帳……ビンゴだ」
陽子はページを高速で捲り、目当ての項目を叩き出した。
『影の国の鍵(Key to the Land of Shadows)』
そこには、古道具屋としての陽子ですら聞いたことのなかった、この大呪物の具体的な「仕様」が記載されていた。
「……事前に登録した建築物を、影の位相に再構築し、空間を固定する。鍵の所有者はその領域内を自由に出入りできる……か。ふん、やっぱりな」
そして、陽子の目が、一際太い線で囲まれた項目に釘付けになる。
脱出方法――。
「『影の建築物より脱出するには、空間内に存在する唯一の実体――「鍵穴」に触れる必要がある』。……鍵穴、ね」
手帳によれば、この影の世界は完璧な複製だが、一箇所だけ現実へと繋がる「接点」が残される。
それが鍵穴だ。
そして、その鍵穴に触れ、特定の操作を行うことで、この空間そのものを「閉じる」ことが可能になるという。
「空間を閉じれば、中にいる生命は、座標の反転に伴い、強制的に現実世界へと排出される……。なるほど、これなら一人一人出口を探す必要はねぇ。ここを畳んじまえば、全員助かるってわけだ」
「鍵穴の場所は、書いてありますか?」
黒鉄の声が、期待に弾んでいるようにも、試しているようにも聞こえた。
陽子は廊下の先、本館の方角を指差した。
「手帳には『建築物の中枢』とある。……あたしたちの最初の推論通り、あのオークション会場だろうな。鍵穴を置くなら、そこしかねぇ」
目標は明確になった。
第一目標は、会場にある「鍵穴」の奪取と空間の強制閉鎖。
第二目標は、その過程での日和と鬼塚との合流。
鍵穴さえ手に入れれば、合流できずとも強制的に全員を引きずり戻せる。
陽子の脳内にあった霧が、一気に晴れていった。
陽子は手帳を閉じ、懐に収めた。
立ち上がり際、彼女は足元に転がる『蛇目 雄一』の遺体に視線を落とした。主催者側の人間とはいえ、身内に裏切られ、惨たらしい苦痛の果てに消された男。犯人の少女に文字通り食い荒らされた、哀れな捨て駒。
「……死人に口なし、か。嫌な仕事だな」
陽子は無言で、血に濡れた左手を胸の前で合わせ、短く黙祷を捧げた。
彼女にとって、呪物や死者は単なる「道具」や「現象」ではない。それらはすべて、かつて誰かの想いや理不尽な死が積み重なってできた「縁」の終着点なのだ。その縁を預かる古道具屋として、最期の敬意を払うのは、彼女の譲れない矜持だった。
「……陽子さん」
その光景を見て、佐藤もまた、震える手で同じように遺体へ手を合わせた。彼なりの、そして一般人としての、ささやかな、けれど真摯な供養。
ただ一人、黒鉄だけはそれを見てもピクリとも動かなかった。彼女は仮面の奥で、その祈りを滑稽な演劇でも見るかのように冷ややかに眺めると、一言も発さずに植物園の出口へと歩き出した。
「行くぞ。……もたもたしてると、あのガキが鍵穴を埋めちまうかもしれないからな」
陽子は、不自由な右腕を庇いながら、闇の深淵へと続く回廊を見据えた。
◎
本館へと続く回廊の入り口。豪奢な装飾が闇に沈むその境界線で、彼女は不意に足を止める。漆黒のドレスが、微かな風もないはずの空間で、夜の海のように波打った。
「……さて。私は、ここで失礼させていただきますね」
唐突に放たれた離脱の宣言。
その言葉に含まれた純然たる拒絶に、佐藤が狼狽の声を上げた。
「えっ!? 失礼って……どこへ行くんですか!?」
出口の見えない閉鎖空間、頼みの綱である「戦力」が欠けることへの本能的な恐怖。彼はその理由を問い質そうと必死に言葉を紡ぐが、黒鉄は扇の影に口元を潜め、それを煙に巻く。
「ふふ、野暮なことを聞くものではありませんよ、佐藤様。レディには誰にも踏み込ませない秘密が、一つや二つはあるものですから」
レディの秘密。そんな、およそこの地獄には不釣り合いな優雅な響きを持って、彼女は沈黙を貫いた。
陽子は、壁にその身を預け、荒い息を吐きながら黒鉄の背中を見つめていた。
「……好きにしろ」
引き留める理由はあっても、引き留める権利が存在しない。元よりこの三人は、一艘の泥舟に乗り合わせただけの「他人」に過ぎないのだ。互いの目的が重なる間は肩を並べるが、その糸が解ければ、またそれぞれの闇へと還る。それがこの世界の、ひどく清潔で冷酷な連帯の形だった。
「……でも陽子さん、その怪我で……!」
佐藤が悲鳴に近い声を上げる。だが、黒鉄はその視線を、陽子の真っ赤に染まった右腕へと向け、仮面の奥で艶然と微笑んだ。
「……心配には及びませんよ、佐藤様。ほら」
「え……?」
黒鉄に促され、佐藤が陽子の右腕を注視する。
異変は、静かに、しかし確実に起きていた。
つい先ほどまで、ドクドクと鮮血を溢れさせ、陽子の生命を床に刻んでいたはずの右腕。その、布越しでも判るほどの深い裂傷が、今は不気味なほどに静まり返っている。
それだけではない。
全身に刻まれていた微細な傷までもが、古い記憶が薄れるように、端から順に塞がってゆく。失われた皮膚が再生し、裂かれた肉が自ら口を閉じる。人間の回復力という概念を根底から覆す、異常なまでの回復力。
完治には程遠いが、陽子の肉体は、刻一刻と健やかさを取り戻していた。
「ふふ……やはり、私の直感は間違っていませんでした」
黒鉄の声には、確信に満ちた悦楽が混じっていた。
最初に相まみえた時から感じていた、陽子という存在の異質さ。彼女は一人の人間である前に、それ自体が強大な因縁を内包した「神秘」のようなものなのではないか。
黒鉄は、再生を続ける陽子の肌を、慈しむような、あるいは鑑定するような眼差しで見つめる。
「貴女は、本当に『強い』。そして……実に興味深い。ふふ……それでは、ごきげんよう」
黒鉄は、未だ困惑の渦中にいる佐藤を一瞥もせず、漆黒の闇が凝固したような植物園の奥深くへと、その身を翻した。一度も振り返ることはない。彼女の目的が何であれ、それはもはや陽子たちの脱出劇とは無関係な場所にあるのだ。
残された佐藤は、目の前で繰り広げられた人外の再生現象に、言葉を失い立ち尽くしていた。
しかし、陽子はそれを一顧だにしない。
右腕に力を込める。指先にはまだ痺れは残っている。鋏を振るう際の重心のズレも、完全には解消されていない。だが、凍りついていた時間は動き出した。
「……行くぞ、佐藤。出口は待ってちゃくれない」
カエルのお面を捨て、不敵な光を宿したその瞳は、もはや一点の曇りもない。
再生し始めた肉体と、決して折れることのない古道具屋としての矜持。
彼女は再び、戦場という名の暗闇へ、確かな足取りで踏み込んでいった。
誤字・脱字報告、感想コメント、評価、お待ちしております。




