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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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7-5

 

 植物園へと続く回廊。その静寂を支配するのは、実体を持たぬ獣が漏らす、地を這うような低い唸り声だった。

 陽子の右腕から滴る鮮血が、絨毯にどす黒い花を咲かせ続けている。だが、彼女が左手に握る『出雲の縁切り鋏』は、その熱を吸い込むように冷徹な銀色の光を放っていた。


「……佐藤、動くな。アンタの影が揺れるたびに、あいつに隙を与えることになる」


 陽子は、左手で鋏を構えたまま、鋭い眼光を天井の照明へと向けた。

 この影の世界においても、光と影の理屈は死んでいない。相手は三次元の肉体を持たず、影への干渉を通じてこちらにダメージをフィードバックさせてくる。ならば、自らの影が壁の凹凸や、重なり合う調度品の影に紛れるよう立ち回るのが定石だ。

 不意に、狼が動いた。

 音もなく床を滑り、陽子の背後に伸びた影に向かって、漆黒の顎を大きく開く。


「そこだッ!」


 陽子は振り返りざま、左手の鋏を振るった。

 本来、物理的な刃などすり抜けるはずの影。しかし、出雲の理を宿したその刃は、狼の「頭部」と「胴体」を繋ぐ因果の糸を捉え、ジリリと焦げるような音を立ててその先端を切り裂いた。

 キャンッ、と、獣の悲鳴が回廊に響く。

 切り離された影の破片が、床に落ちる前に煤となって消えていく。


「……チッ、やっぱり相性が悪いな」


 陽子は荒い息を吐きながら、鋏を握り直した。

『出雲の縁切り鋏』は、対象の持つ「縁」や「理」を絶つための道具だ。対霊、あるいは怪異相手なら一撃で核との縁を切り落とせる代物だが、この狼のように、不定形で、かつ『影の国の鍵』という巨大な呪物のバックアップを受けている存在を完全に殺し切るには情報も、切断の密度も足りない。


 狼は傷を負い、怯みはする。だが、致命傷となる「首の切断」を狙おうとすると、本能的な危うさを察知するのか、素早く距離を取って影の中に潜伏し、執拗にこちらの隙を伺ってくる。

 利き手ではない左手で振っているのも致命的だった。

 それは、陽子にとって「単に使いにくい」以上の重枷だった。一撃一撃の後に生じる僅かな硬直、切断の瞬間に走る微かな震え。超一流の術者であれば見逃さないその隙を、本能だけで動く獣は冷酷に突いてくる。


 お互いに決定打を欠いたまま、照明の死角を突くヒット・アンド・アウェイの消耗戦が続く。

 狼は壁から床、床から天井へと、物理的な重力を無視して縦横無尽に駆け巡る。陽子の影が床に落ちるたび、狼の爪先がその輪郭を執拗に削り取り、フィードバックされる痛みが陽子の神経を逆撫でした。

 回廊を駆ける陽子の足取りが、僅かに乱れた。

 絨毯に染みた自らの血。その僅かな滑りに、平衡感覚が狂う。

 その隙を、二次元の捕食者は見逃さなかった。


 壁面に張り付いていた狼が、爆ぜるような加速で陽子の背後の影へと突っ込む。

 ――狙いは影の喉笛。

 陽子は反射的に身体を捻ったが、左手の鋏は空を切り、狼の漆黒の爪が彼女の影の肩口を深々と掠める。


「ぐっ……!」


 現実の陽子の肩から、鮮血が噴き出した。

 ドレスはもはやボロ布のように裂け、白い肌には赤い線が幾重にも重なっていく。右腕の激痛、失血による視界の歪み。


「……ッ、この野郎……!」


 陽子は溢れ出す血を気にする余裕もなく、右膝を突き、左手の鋏を逆手に持ち替えて床へ突き立てた。

 狼が次の跳躍を仕掛けるより早く、彼女は自らの影をあえて複雑な調度品の影に重ね合わせることで、一時的に実体を「消した」のだ。

 標的を見失い、焦れた狼が床の上で低く唸る。

 その刹那、陽子は荒い呼吸を殺し、お面の奥で血走った瞳をぎらつかせた。


「……ハァ、ハァ……。しぶといんだよ、犬っころが」


 陽子は、佐藤の後ろで微動だにせず、この殺し合いを「鑑賞」している黒鉄を視界の端に捉えた。

 助ける気がないのは勝手だが、このままではこちらの体力が底をつく。


 狼もまた、この獲物が想定以上に「硬い」ことを悟ったようだった。

 何度か影を削り、出血を強いているはずなのに、陽子の闘志は衰えるどころか、鋏に宿る銀色の光を増していく。

 やがて狼は、このままでは拉致があかないと悟ったのか、あるいは獲物を仕留め損なうリスクを嫌ったのか、唐突にその場から離脱。壁の隅から暗い廊下の奥へと、文字通り脱兎のごとく逃げ去っていった。


「……逃げた、のか?」


 佐藤が震える声で尋ねる。陽子は鋏をベルトの鞘へ収めると、強がりの言葉を吐き捨てた。


「あるいは、もっと効率のいい獲物を見つけたかだな。……はあ、命拾いしたのはこっちの方だぜ」


 膝が笑っていた。膝から崩れ落ちそうになるのを、店主としての意地だけで支える。

 【完全邪気耐性】があるからこそ、狼の攻撃に含まれる呪詛の毒に侵されずに済んでいるが、物理的な出血と疲労は確実に彼女の体力を削っていた。

 もし、いつものように店から持ち出せる状況であれば、もっと有効な呪物を選び出せたはずだ。だが、今あるのはこの鋏一本。

 最強の矛を持ちながら、不慣れな左手と、環境の不利に、陽子の背中を冷たい汗が伝った。


「陽子さん、あの……応急処置を……!」


 佐藤が、どこから持ってきたのか、予備のテーブルクロスを裂いた布を抱えて駆け寄ってきた。

 その必死な様子に、陽子は少しだけ毒気を抜かれた。


「アンタ、意外と気が利くな」

「番組の制作現場は戦場ですから……。これくらいしか、できないですけど」


 佐藤は震える手で、陽子の右腕の深い傷を縛り、全身の裂傷を布で覆っていく。

 プロの医療には程遠い。だが、その無骨な止血は、陽子の身体に僅かな「熱」を取り戻させた。

 右腕は依然として痺れ、指先一つ動かすことは叶わない。だが、戦場を歩くための支柱としては、これで十分だった。


「……よし。行くぞ、佐藤、黒鉄。植物園を抜けて、本館に戻る。ヒヨコたちが狼の餌になる前に、あのオークション会場に辿り着かなきゃならねぇ」


 陽子は不自由な右腕を庇いながら、闇に沈んだ植物園の入り口へと再び足を踏み出した。

 カエルのお面を捨て、剥き出しになった彼女の表情には、一人の少女を、そして仲間を連れ戻すという、古道具屋としての意地が宿っていた。



 ◎



 ガラスの天井を叩く雨の音すら聞こえない、密閉された静寂の楽園。

 植物園(コンサバトリー)へと足を踏み入れた陽子たちを待っていたのは、むせ返るような土の匂いと、暗闇の中にぼんやりと浮き上がる熱帯植物の群れだった。

 豪奢な空間。だが、そこに漂う空気は死の腐臭を含み、見通しの悪い葉の陰からは、今にも漆黒の顎が飛び出してきそうだった。


 陽子は左手に握った『出雲の縁切り鋏』を低く構え、油断なく周囲をねめつける。右腕の応急処置を終えた佐藤は、彼女の背中に隠れるようにして、震える足取りでついてきた。最後尾の黒鉄だけが、まるでお気に入りの温室を散策するかのように、ヒールの音を軽やかに響かせている。


「……助けて。誰か、誰か助けて……ッ」


 植物の迷宮の奥から、か細い、けれど切実な少女の悲鳴が届いた。

 声の方へ向かうと、そこは開けた円形広場になっていた。床には、ホテルの制服を着た男たちや、夜会服を纏った客たちが、無残に折り重なるように倒れ伏している。

 その惨状の只中。一人の少女が、壁に寄りかかって虫の息となっているホテルマンの傷口を、血まみれの手で必死に押さえていた。


「あれは……ホテルに入る時にいた、荷物持ちの少女、ですよね……!?」


 佐藤が驚きに声を上げる。陽子の記憶にも、その姿は刻まれていた。蛇目の一族、あるいはホテル側の関係者として、荷物を運んでいた控えめな少女。

 佐藤は反射的に駆け出そうとした。だが、その襟首を陽子が強引に掴んで引き戻す。


「動くな、佐藤。……おい、そこのガキ。その傷、どうしたんだ」


 陽子のぶっきらぼうな問いかけに、少女は肩を震わせ、涙を溜めた瞳でこちらを振り返った。


「影の、影の化け物が……急にみんなを襲って……。私、怖くて……」

「そうかよ。嘘は言ってねぇんだろうな。だが、肝心なことを隠してやがる」


 陽子は、迷いなく左手の鋏を少女に向けた。その切っ先は、少女の心臓ではなく、彼女が必死に「負っている」はずの傷跡を指している。


「お前のその傷、周囲に転がってる連中の無残な抉れ方とは違いすぎるぞ。まるで、自分で丁寧に切り裂いたみたいに……傷口の線が綺麗すぎんだよ。不自然なんだよ、何もかもな」


 瞬間、周囲の温度がさらに数度下がったような錯覚に陥った。

 少女の瞳から涙が引く。泣きじゃくっていた表情は霧散し、代わりに浮かび上がったのは、底の知れない嫌悪と、ひどく事務的な面倒くささを湛えた「大人の女」の貌だった。


「……勘のいいヤツ」


 少女が低く吐き捨てると同時に、彼女の足元に広がる影が、沸騰した油のように煮え立ち、膨れ上がった。そこから一匹、また一匹と、漆黒の毛並みを持つ狼たちが這い出してくる。その数、四匹。


「あら。早くも犯人さんとご対面、というわけですね。奇遇だわ」


 黒鉄が、楽しげに仮面の奥で笑った。

 少女は陽子たちに冷淡な一瞥を投げると、飽きた玩具を捨てるかのような無造作な動作で、傍らにいた瀕死のホテルマンの胸ぐらを掴んだ。

 そして、一匹の狼に顎で合図を送る。


「食べていいよ。もう使い物にならないし」


 ――ガフッ!!

 狼の漆黒の顎が、ホテルマンの「影の頭部」を深々と食い破った。

 直後、現実の空間で、男の頭部が熟しすぎた果実のようにパンッとはじけ飛ぶ。

 

 血飛沫が少女の頬を汚すが、彼女はそれを拭いもしない。ただ、ゴミでも見るような目で、事切れた肉の塊を蹴り飛ばした。


「……お前、趣味が最悪だな」


 陽子は左手の鋏を強く握りしめた。


「行け」


 短く冷酷な命令。四匹の狼が、同時に陽子たちへと牙を剥いた。

 流石に左手一本で四匹の相手は無理だと、陽子は内心で毒づく。

 だが、その予想を裏切る動きを見せたのは、意外にも観客を決め込んでいた黒鉄だった。


「あまり私に向けないでくださる? ドレスが汚れてしまいますから」


 黒鉄がドレスの袖から、数本の「釘」を滑り込ませた。

 それを指の間に挟み、ダーツでも投げるような軽やかなスナップで放つ。

 放たれた釘は、目にも留まらぬ速さで空気を裂き、襲いかかろうとしていた四匹の狼の体に、寸分の狂いなく突き刺さった。


「ッ……!?」


 狼たちが苦悶の声を上げ、動きを止める。釘は実体を持たぬ影の体に、まるで楔のように深く打ち込まれていた。驚くべきは、釘が影を貫通して床に転がることなく、影の中に「定着」していることだった。


「ふふ、流石に自分にも被害が出そうでしたから、少しだけ手伝わせていただきました」


 黒鉄は相変わらず微笑んでいる。だが、陽子の注意を引いたのは、狼のダメージと同時に響いた、もう一つの悲鳴だった。

 見れば、影を操っていた少女が、自らの腕や足を抑えて顔を歪ませていた。彼女の四肢には、たった今、黒鉄が狼に刺したはずの釘と同じ箇所に、鮮血が滲み出している。


「……なるほどな。影の受けたダメージが、本体にそのまま反映されるって仕様は同じ訳だ」


 陽子はチャンスを逃さない。


「黒鉄! 援護を頼む! アンタを信用したわけじゃねぇが、今は背中を預けてやる!」

「光栄です。前衛はお任せします」


 陽子は『出雲の縁切り鋏』を握りしめ、地面を蹴った。佐藤は黒鉄の背後で完全に石化しているが、今はそれでいい。

 少女は幼い身体を活かした素早い動きで、陽子の剪断を紙一重でかわしていく。体が小さい分、小回りが利くのだ。

 陽子は鋏を大振りにせず、最短距離で少女と狼たちの因果を切り裂こうとする。狼の一匹が陽子の足元の影を狙って食らいつこうとするが、間一髪で黒鉄の釘がその狼の喉元を貫いた。


「グアッ……ッ!」


 狼が怯むと同時に、少女の首筋にも、まるで何かが突き刺さったような赤い穴が穿たれる。


「この、汚らわしい連中が! どいつもこいつも、邪魔ばっかり……ッ!」


 少女が罵詈雑言を吐き散らす。その身体には、陽子の鋏が掠めるたびに、薄皮を剥ぐような鋭い切り傷が増えていった。

 焦れた少女が、全霊力を叩きつけるようにして大きく影を膨らませた。


「消えろッ!」


 一体の狼が巨大化し、陽子の影を真正面から跳ね飛ばした。

 その衝撃は陽子自身を数メートル後方へと吹き飛ばす。陽子は受身を取りながら立ち上がるが、少女の狙いはもはや陽子ではなかった。彼女は最も厄介な「狙撃手」である黒鉄を排除すべく、猛然と突進を開始した。


 黒鉄は、突進してくる少女の凶刃を前にしても、眉ひとつ動かさない。柳のような軽やかなステップでその一撃を回避し、漆黒のドレスを翻す。

 だが、その背後に隠れていた佐藤は、あまりに唐突な「盾」の消失に、逃げることさえ忘れて硬直した。少女の漆黒の爪が、剥き出しになった佐藤の喉笛を、その絶望ごと刈り取ろうと振り下ろされる。


「あ……」


 佐藤が死を覚悟した、その瞬間だった。

 ――ッ!!

 現実には存在しないはずの、衝撃波が駆け抜ける。

 何の前触れもなく、少女の左腕に、あたかも大口径の弾丸で正面から撃ち抜かれたかのような巨大な穴が穿たれた。


「ぎ、あああああぁぁぁッ!!?」


 少女は絶叫を上げ、突進の勢いのまま床を転がり、のたうち回った。左腕からはドクドクと鮮血が溢れ出し、肉が爆ぜたような凄惨な傷口が晒されている。それは陽子の鋏でも、黒鉄の釘でもない。


「……何が起きた? いや、そうか」


 陽子は、直感的に察した。この影の世界のどこかで、今、誰かがこの少女とリンクしている別の狼を、「完全に消滅させた」のだ。その凄まじいフィードバックが、術者である少女の腕を貫通した。


「……クソッ、覚えてなさい。まだ、夜は明けてないんだから……ッ!」


 少女は激痛に顔を歪ませながら、不利を悟り、残った狼たちを囮として放つと、闇の奥へと逃走した。

 陽子は追いたかったが、残された狼たちが、腰を抜かしている佐藤に向かって牙を剥いている。


「逃がさない、と言いたいところだが……。佐藤、アンタ本当に手がかかるな!」


 陽子は左手の鋏を、流れるような円の軌道で振るった。

 狼との戦闘。その「縁」の見極めに、彼女の勘は既に研ぎ澄まされていた。

 一体目、首筋の因果を断つ。

 二体目、空中の跳躍に合わせて腹部を剪断。

 三体目――。


 三体目の狼は、陽子がカウンター気味に()()()()を切り裂くと煤となって消えた。

 植物園には再び、重苦しい静寂が戻ってきた。


「……はぁ、全く。どいつもこいつも、好き勝手やってくれるぜ」


 陽子は止まらず滲み続ける右腕の出血を忌々しげに一瞥し、逃げていった少女の闇の先を見据えた。


 

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