7-4
暗闇は、単なる光の欠如ではなかった。それは粘り気を帯びた意志であり、肺の奥まで侵食してくる冷たい沈黙だった。
陽子が意識を取り戻したとき、最初に感じたのは、頬を撫でる冷徹なコンクリートの感触と、鼻腔を突く塩素の匂いだった。
「……チッ、最悪だな」
口の中に残る鉄錆のような不快な味を吐き捨て、陽子は身を起こした。視界が安定するのを待って周囲を見渡す。そこは、五つ星ホテルの煌びやかな表舞台とはかけ離れた、無機質な厨房だった。恐らくは別館にある、大規模な宴会用のメインキッチンだろう。
ステンレスの調理台が鈍く光り、巨大な換気扇が回ることもなく沈黙している。
そして、その異様な静寂の中には、陽子以外にも数人の「影」があった。
厨房の隅、煤けたローブを纏った若い女性が、自身の杖を確認しながら立ち上がった。彼女の視線は鋭く、陽子を一瞥すると、何の言葉も交わさずに勝手口の扉へと向かう。この状況で他者と協力する愚を知っている、裏の世界の住人の動きだった。
そのすぐ近くでは、立派な和装を着た老人が、傍らに控えるボディーガードの肩を借りて激昂していた。
「……無体な! 蛇目の一族ともあろうものが、これほど無体な真似を! 誰かいないのか! 主催者を呼べ!」
「……旦那様、今はまず安全の確保を」
ボディーガードのスーツの男は、主人の醜態を隠すように宥めながら、陽子に短く申し訳なさそうに会釈をした。そのまま、わめき散らす老人を連れて厨房を後にした。
陽子は、それらの退場劇を、冷めた、どこか倦怠感の混じった目で見送った。
そして、自分のすぐ横で震え、生まれたての小鹿のように腰を抜かしている男に視線を落とした。
「あ、貴女は……陽子さん! よかった、無事だったんですね、僕……もうダメかと……!」
「佐藤……だったな。アンタ、よくあの影に飲まれて生きてたな。運だけは一人前か」
佐藤は、涙目になりながら陽子のドレスの裾に縋り付かんばかりの勢いで近寄ってきた。その姿は、荒れ狂う海で浮き木を求めて足掻く溺死体と大差ない。
「あ、あれは何なんですか!? あの司会者を殺した影……。それに、この場所は一体……。僕たち、助かるんでしょうか!?」
「知らん。あたしは占い師でも救世主でもねぇよ。聞く相手を間違えてるぞ」
陽子はバッサリと切り捨てたが、その脳内では既に、冷徹な思考の歯車が高速で回転していた。
司会者を殺したあの影の狼。あれは対象の身代わりとなるものに干渉することで本体を破壊する『類感呪術』の高度な応用だ。恐らく呪詛の才能に長けた者の仕業だろう。
だが、会場にいた数百人を一度に飲み込んだこの「影の空間」は、個人の術の規模を遥かに超えている。
(……あの『影の国の鍵』。宣伝通りの『神話級』だったってわけね)
陽子の推察はそこまでだった。あの鍵が具体的にどのようなメカニズムで空間を構築し、どのような条件で解除されるのか。その詳細までは、古道具屋としての彼女の知識の範疇を超えている。ただ一つ、確かなのは、この異常な空間があの鍵によって引き起こされた「現実の裏側」――すなわち、偽物の世界であるということだけだ。
「……あら。あの方たちのように、慌てて飛び出していかないのですね?」
不意に、厨房の影そのものが言葉を発したかのような錯覚を覚えた。
陽子が視線を向けると、そこには一人の女性が、影の切れ目から浮かび上がるように立っていた。
漆黒のドレスに身を包み、顔には一切の感情を排した、能面のように真っ黒な仮面を貼り付けている。
陽子の本能が、静かに、けれど激しく警鐘を鳴らす。
女が立っている場所は、照明の届かない死角だ。しかし、彼女の存在はその暗闇よりもなお深い。呼吸音すら聞こえず、体温さえも周囲の冷えたステンレスに溶け込んでいるかのような、不気味なほどの「静止」。
この空間に飲まれてなお、彼女のドレスには皺一つなく、その立ち姿はまるで深夜の静まり返った美術館に展示された彫像のようだった。
「……はっ、 逃げ場のない鼠が迷路を走り回ったところで、行き着く先は捕食者の胃袋の中だぞ。……それに、アンタこそ、どうしてここに残っている?」
陽子は、いつでも懐の物に手をかけられる位置に重心を移しながら問いかけた。
「ふふ。貴女の方が、私よりもずっと『強い』。そう直感が告げているものですから」
黒い仮面の女は、鈴の音を転がすような、あまりにも透明で温度のない声で述べた。
その言葉には、追従も、媚びも、恐怖すらない。ただ、実験動物の性能を淡々と観察する学者のような、冷徹な客観性だけが宿っている。
陽子はカエルのお面の奥で、忌々しげに眉を寄せた。
(……食えねぇ女だ。直感、ねぇ。この土壇場で他人を値踏みする余裕があるってわけか)
陽子は彼女の視線を、皮膚を這う不快な這行感として感じ取っていた。この女は、死を恐れていない。それどころか、この異常事態そのものを愉しんでいる節さえある。
「お供してもよろしいかしら? 一人で歩くには、この場所は少しばかり、危険なようですから」
「好きにしろ。勝手についてきて勝手に死ぬ分には、文句は言わねぇよ。……で、名前は?」
「『黒鉄』と。そうお呼びください」
女は、漆黒の仮面の奥で僅かに目を細めたような気配を見せ、優雅に一礼した。その動作一つをとっても、一切の無駄がなく、鍛え上げられた武術家のそれとも、洗練された貴族の礼法ともつかない、独特の様式美を帯びている。
「源氏名かよ、気取ってんな」
三人は、明滅するライトを背に厨房を抜け、隣接するメイン食堂へと足を踏み入れた。
本来ならば、そこは全面ガラス張りの向こうに広がる美しい日本庭園を、食事と共に楽しむための贅沢な空間であるはずだった。
だが、今、窓の向こうに広がっているのは、そんな風雅な景色ではない。
「な……なんだこれ……。嘘だろ……」
佐藤が絶句し、震える手でスマホを掲げた。
窓の外には、空も、地面も、境界線すらも存在しなかった。ただ、すべてを飲み込むような「底の見えない闇」が、物理的な圧力を持って窓ガラスに張り付いている。星の光も、都会の喧騒も、そこには一切存在しない。
「圏外だ……。さっきまでバリ三だったのに、緊急通報すら繋がらない!」
「当たり前だろ。ここは現実のホテルじゃねぇんだから」
陽子は窓際のテーブルに指を走らせた。指先に伝わる高級家具特有の滑らかな木目の感触、室内の安定した電気の供給。それらは現実と何ら変わりない。
(……だが、『匂い』がねぇな)
陽子は、カエルのお面の裏側で僅かに鼻を鳴らした。
五光が差すような豪華な食堂。本来ならそこにあるはずの、厨房から漂う芳醇なソースの香り、参列者の香水が混じり合った華やかな残り香、あるいは空調が運んでくる生活の澱み。それらが一切、削ぎ落とされている。
ここにあるのは、新品の家具を袋から取り出した時のような、無機質で、あまりにも「潔癖」な物質感だけだ。
「ここはホテルの『影』……あるいはコインの裏側、鏡の中の異界といったところだな。物質的な位相が違うんだから、外と連絡がつくはずもない」
黒鉄は、陽子の言葉に興味深そうに首を傾げた。その漆黒の仮面が、窓の外の闇を吸い込んで一瞬、歪んだように見えた。
「物知りなのですね。まるで、最初からこうなることを知っていたかのように」
「ふんっ。仕事柄、嫌なものばかり見てきただけだ」
陽子は吐き捨てるように言い、テーブルの上のカトラリーを指先で弾いた。チィィン、と高く澄んだ、それでいてどこか虚ろな音が響く。
「……さて、佐藤。絶望してる暇があるなら、頭を使え。その半開きの口は、悲鳴を上げるためだけに付いてんのか?」
「だ、脱出するにはどうしたらいいんですか!? 陽子さん!」
佐藤はガタガタと震えながら、縋るような視線を陽子に送る。その瞳には、自分の人生がこの暗闇で終わることへの純粋な恐怖だけが張り付いていた。
「知らんと言ってんだろ。あたしが作った場所じゃねぇんだから」
陽子は、絶望に沈む佐藤を突き放しながらも、思考を止めることはなかった。
「……けれど、わざわざ数百人をばら撒いたのには理由がある。殺すだけならあの会場で済んだはずだ。出口があるとすれば、それは恐らく『最初の地点』」
陽子は、オークション会場があった方角を見据えた。
不気味なほどに静まり返った廊下。そこから漂ってくる、濃密な死の気配。
「わざわざ会場に人を集め、目玉商品を披露するタイミングでこれを発動させた。なら、会場に戻れば、何かしらの手がかりか、あるいは出口に繋がるものがあるだろうぜ」
そこで、黒鉄が静かに、死神の囁きのような言葉を添えた。
「なるほど。犯人さんは、オークション会場であの狼を侍らせて、誰かが辿り着くのを待ち構えている……ということですね」
「……だろうな」
それを聞き、佐藤は顔を真っ青にし、膝を震わせた。
人の頭を軽々と噛み千切る異形の怪物が、自分たちの向かう先に鎮座している。その事実だけで、彼の精神は飽和寸前だった。
「そんな……あんな怪物がいる場所に、戻るなんて自殺行為だ……!」
「嫌ならここで餓死してろ。……あたしは日和と鬼塚を拾いに行かなきゃいけねぇんだ。さあ、行くぞ」
陽子の瞳が、カエルのお面の奥で峻烈な決意を宿して細められた。
◎
陽子たちの歩みは、静寂という名の不協和音に支配されていた。
五光が差すような豪華な内装はそのままに、命の灯火だけがぷつりと断絶した空間。そのコントラストが、かえってこの「影のホテル」の異常性を際立たせていた。
絨毯の赤が、本来の色よりも毒々しく目に映る。
所々に飛び散った鮮血の飛沫や、何かに引きずられたような跡が、この閉鎖空間で繰り広げられた一方的な「狩り」の凄惨さを物語っていた。
「ひぃっ、あ、あそこに……誰か倒れて……!」
佐藤が震える指で廊下の隅を指差す。そこには、仮面が割れ、絶望の表情を浮かべたまま事切れた参列者の姿があった。佐藤は胃の中のものを逆流させそうになりながら、必死に陽子の背中にしがみつく。
「騒ぐな、佐藤。死体は喋らねぇよ。怖いのは死んでない方だ」
陽子は周囲の「影」の濃淡に意識を集中させながら、冷淡に言い放つ。
一方で、最後尾を歩く黒鉄は、まるで美術館でも巡っているかのように足取りも軽く、転がる死体や血痕を眺めては「あら、酷いこと」と、どこか芝居がかった感嘆を漏らしていた。
一行は別館から本館へと続く連絡通路に辿り着いたが、そこで歩みを止めざるを得なくなった。
通路を塞いでいるのは、重厚な金属製のシャッターだった。
「……閉まってる? 停電もしてないのに、どうして」
「嫌な予感しかしねぇな」
陽子は苛立ちを隠さず、シャッターの隙間に指をかけ、ありったけの力を込めてこじ開けようとした。だが、異変はすぐに気づいた。
それは「重い」とか「硬い」といった物理的な抵抗ではなかった。陽子の指先が金属に触れているはずなのに、感触がまるでないのだ。まるでホログラムを掴もうとしているかのような、奇妙な手応えのなさ。それでいて、物理的な進行だけは完璧に阻害されている。
「……なるほどな。ここは見た目通りの構造物じゃねぇ。影で作られた概念そのものってわけか」
陽子は忌々しげに舌打ちをし、シャッターを蹴りつけた。衝撃音すら響かない。この場所においては、物理法則すら主催者の胸先三寸で歪められている。力尽くでの突破は不可能。
「あ、あの! 遠回りになりますけど、植物園を抜ければ本館のロビーに出られるはずです。番組のロケハンで以前確認しましたから!」
佐藤が必死の形相で提案する。
「……案内してくれ。戻るよりかはマシだ」
一行は植物園へと続く、ガラス張りの細い回廊へと足を踏み入れた。
外は底知れない闇。照明に照らされた回廊の中だけが、浮島のように暗闇に浮かんでいる。
陽子の脳裏に、ふと日和の顔が浮かんだ。あの臆病な弟子が、今頃どこかで泣きべそをかいていないか。あるいは、鬼塚の馬鹿と無事に合流できているのだろうかと。
(……いや、アイツは意外としぶとい。心配すべきは、自分の足元だな)
そう思った直後だった。
通路の脇、非常口の僅かな隙間に溜まった濃い影が、爆ぜるように膨らんだ。
「――佐藤、伏せろ!」
陽子の思考よりも先に、身体が動いていた。
佐藤の背後の影から、漆黒の牙が飛び出した。その狙いは、恐怖で硬直している佐藤の影の喉笛だ。
陽子は佐藤の襟首を掴み、強引にその場から引き剥がす。
――ガフッ。
嫌な音が響いた。
佐藤を突き飛ばした代わりに、陽子の右腕が狼の牙に捉えられていた。
痛みは現実の肉体にダイレクトにフィードバックされる。狼が陽子の影の右腕を深く切り裂くと同時に、陽子の現実のドレスが裂け、そこから鮮血が激しく噴き出した。
「ぐ……っ!!」
「よ、陽子さん!? 血が……うわああ、すみません、僕のせいで……!」
地面に転がった佐藤が半狂乱で叫ぶ。
陽子は溢れ出る血を気にする風もなく、鋭い眼光で背後を振り返った。
そこには、悠然と立ち尽くす黒鉄の姿があった。彼女は仮面の奥で、陽子の負傷を、そしてその鮮血を、まるで極上の舞台装置でも見るかのように、口元に微かな笑みを湛えて見守っていた。
「……黒鉄、お前、助ける気も戦う気もないみたいだな」
「ふふ。私のような非力な女に何を期待されているのですか? それに……」
黒鉄は、流れる血を指し示し、陶酔したような声で続けた。
「 貴女のその流血、とても『様』になっていますよ。……とても、美しい」
「趣味の悪い女」
陽子は鼻で笑った。期待など最初からしていない。
この場にいる二人は、守るべき荷物か、あるいは得体の知れない観客だ。
ならば、自分がやるしかない。
右腕は深く、肉まで達している。指先が痺れ、まともに力が入らない。
影の狼は、一度の捕食成功に味を占めたのか、壁面に張り付きながら、次の獲物を狙って喉を鳴らしている。
「佐藤、アンタはそこで黙って見ていろ。邪魔だけはするんじゃねぇぞ」
陽子はドレスの裾、太ももに巻かれた革ベルトに手をやった。
そこにあるのは、「ハルナシ」の店主が、いかなる時も手放さない「本物」の呪具。
かつて『八百万館』でもその威力を知らしめた、因果の切断機。
――『出雲の縁切り鋏』。
鈍い銀色の輝きを放つその鋏を取り出すと、陽子はそれを使い物にならない右腕ではなく、左手へと持ち替えた。
呪詛の才能はない。だが、陽子には別の才能がある。
【完全邪気耐性】。
生まれ持った、異常な体質。
日和が「呪いを無限に生み出す器」であるならば、陽子は「あらゆる呪いを無効化する絶縁体」である。
呪詛の影響を一切受けず、本来なら使い手の精神や肉体を蝕むはずの呪物ですら、陽子はただの「便利な道具」として、そのデメリットを無視して行使できる。
「縁を切り、理を絶つ。……影の分際で、人の肉を欲しがるなんて百年早ぇよ」
左手に握られた鋏を、陽子は無造作に構えた。
「あたしが『精算』してやる」
影狼が、壁から床へと滑るように跳躍する。
暗闇を切り裂く断絶の音が、植物園の静寂を塗り替えた。
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