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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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7-12

第二章も早くもクライマックスですね。

 

 衝突の瞬間、日和の視界から「色」が失われた。

 衝撃波は大気を破砕し、物理的な音を超えた「意味」となって日和の脳髄を直撃する。赤紫色の呪詛が瑠衣の精神の防壁を穿った刹那、日和の意識は現実の座標を離れ、底なしの泥濘(ぬかるみ)のような深層心理へと引き摺り込まれていった。

 気がつくと、そこは静寂すらも質量を持ったかのような、暗く重い「影の沼」の底だった。


「……ここ、は?」


 日和は息を呑もうとしたが、喉にまとわりつくのは冷たい粘土のような影の泥。視界はどこまでも黒く、足元からは絶えず、無数の指が這い上がってくるような寒気が立ち上っている。それは瑠衣の精神そのものであり、彼女が二十年かけて積み上げてきた絶望の貯水池だった。

 沈黙を破り、最初に聞こえてきたのは、肺を焼くような烈火の如き「憎悪」だった。


『――壊したい。全てを、塵一つ残さず壊してしまいたい』


 それは瑠衣の喉を震わせる咆哮ではなく、魂の裂け目から溢れ出したドロドロの殺意だった。

 自分を「一族の出来損ない」と蔑み、人間以下の玩具として弄び続けた蛇目の一族。私利私欲のために不吉な呪物を鋳造し、他者の尊厳を泥靴で踏みにじるオカルトに関わる全ての害悪ども。そして、自分が冷たい地下室で爪を剥がされ、飢えに震えていた間、何食わぬ顔で陽光の下を歩いていた、私を「救わなかった」世界。


『許さない。蛇目も、術師も、人間も、この世の不条理の全てを――殺し、壊し、喰らい尽くしてやる』


 日和が温かな日常で一度も触れたことのない、黒く重い重圧。それは山が崩落するかのような質量を持って、日和の華奢な精神を押し潰しにかかる。あまりの毒々しさに眩暈がし、日和の視界が明滅する。

 同時に、瑠衣のものではない「声」たちが、嵐となって吹き荒れ始めた。


『お前なんて産まなければよかった。お前さえいなければ、私は、私は……ッ!』

『……お前、まだ生きていたのか』

『頑張ればいつかいいことあるよ。だから、頑張って!』


 日和の知らない男女の、冷酷な、あるいは無責任な善意という名の暴力。

 嘲笑、罵倒、憐憫。数えきれない言葉の刃が日和の心に突き刺さる。瑠衣が幼少期から、その小さな心臓に一本ずつ打ち込まれてきた釘の感触。

 しかし、さらに悍ましいのは、その後に続く「合唱」だった。


『助けてくれ! やめろ、来ないでくれ!』

『痛い、痛いよぉ……! 熱い、影に、溶かされる……!』

『呪ってやる……貴様も同じ地獄に堕ちろ……!』


 それは、瑠衣がこれまでに殺戮してきた人々、そして禁忌の術「魂食い」によって無理矢理取り込まれた犠牲者たちの怨嗟だった。彼らの魂は消化されることもなく、瑠衣の精神の底で今も鮮血を撒き散らし、自分たちをこんな姿に変えた少女を呪い続けている。

 日和は耳を塞いだ。掌に力を込め、必死に拒絶しようとする。しかし、日和の感知能力は、主人の意思とは無関係にそれらの呪詛を過剰に「受信」し続ける。頭蓋の裏側で、千人の死者が同時に叫んでいるような地獄。


「嫌……聞きたくない、聞きたくない……っ!」


 逃げるように、日和は深層心理のさらに奥、怨嗟の声が遠のく暗闇の深淵へと足を進めた。

 もはや自分が立っているのか、沈んでいるのかも分からない。けれど、進まなければならないという本能だけが彼女を突き動かす。

 やがて、声の嵐が遠く凪いだ場所に、彼女はいた。

 影の沼のただ中に、一人の幼い少女がいた。骨と皮ばかりに(やつ)れ、不潔な布を纏った少女が、膝に顔を埋めて体育座りをしている。彼女の周囲だけは、憎悪も怨念も入り込めないほど、純粋で絶対的な「欠落」に満ちていた。


『……楽になりたい』


 それは、瑠衣の本音だった。凄まじい憎悪の殻を破った先にあった、あまりにも細く、透明な願い。


『もう痛いのは嫌だ。苦しいのも、辛いのも嫌。……誰も助けてくれない。悲しいよ、お腹が空いたよ』


 それは、人生の全てを諦めてしまった子供が、最期に零す嘆息だった。

 日和の心は、その悲哀に過剰に共鳴した。感知能力が、瑠衣の空腹を日和の胃の痛みに変え、瑠衣の絶望を日和の絶望として脳に焼き付ける。

 自分の感情ではないはずなのに。二十年間の重みが、日和の瞼から滝のような涙を溢れさせる。


「ああ、……っ、あぁ……」


 日和は自然と膝をついた。崩れ落ちるように床に蹲ると、彼女の意識はさらにズブズブと、精神の最深層……生命の根源へと落ちていく。

 そこには、もはや思考すら存在しなかった。

 ただ、名状しがたい、生物としての剥き出しの「震え」が渦巻いていた。


『――死にたくない』


 禁忌である「魂食い」を行い、自らをも呪いに捧げて死へと邁進していたはずの瑠衣の、最期の盾。


『死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。――怖い。死ぬのは……怖いよ』


 死を望み、死を撒き散らしていたはずの少女の正体は、誰よりも死を恐れ、生の光に縋りつこうとする、一匹の怯えた生命に他ならなかった。

 日和はその生存本能の慟哭に、暴力的なまでに無理矢理「共感」させられた。

 自身の心臓が、瑠衣の恐怖に合わせて異常な速さで脈打つ。肺が酸素を拒絶し、全身の細胞が「消滅」という概念を前にしてのたうち回る。


「あ、あああぁぁぁぁッ!!!」


 日和は精神世界で絶叫した。感知能力という呪いが、彼女を瑠衣の苦痛と同化させ、発狂の淵へと追い詰めてゆく。


 暗い、暗い影の沼。

 そこで二人の少女は、分かち合えないはずの絶望を分かち合い、共になきがらのように震えていた。



 ◎



 ――日和。

 ――日和、起きやがれ! この、馬鹿野郎!!


 脳髄の芯を直接揺さぶるような、峻烈な怒号が闇を裂いた。

 他者の絶望と剥き出しの生存本能が渦巻く影の泥濘(ぬかるみ)に呑まれ、自我の境界を失いかけていた日和の意識は、その一喝によって強引に現実へと引き戻された。


「あ……、……がはっ……!!」


 肺に冷たい空気が流れ込み、日和は激しく咳き込んだ。

 視界を覆っていた白濁が急速に晴れてゆく。気がつくと、日和は冷たい床の上ではなく、淡い蒼光を放つ半球状の障壁――鞠が最後の気力を振り絞って維持している二重結界の中に横たわっていた。

 すぐ傍らには、肩で荒い息をつきながら、ボロボロになった左手で日和の襟首を掴んでいた陽子がいた。


「陽子……さん……?」

「ようやくお帰りか、寝坊助」


 陽子は忌々しげに吐き捨てたが、カエルのお面の奥にある瞳には、隠しきれない安堵の色が混じっていた。

 日和が頭突きの直後に意識を失った際、彼女は白目を剥き、目からは滝のような涙を流しながら、この世のものとは思えない呻き声を上げ続けていたのだ。陽子は迫り来る影の残滓を切り払いながら、気絶した弟子の襟首を掴んでここまで引き摺ってきた。その足取りの重さと、握られた拳の震えが、陽子の払った労苦を無言で物語っていた。


「……私、……瑠衣さんの、心の中に……」

「いいから、前を見な」


 陽子の言葉に促され、日和は結界の外へと視線を向けた。

 そこに、もはや「少女」の輪郭を保った怪物の姿はなかった。

 ロビーの中央で、蛇目瑠衣は、自身の内側から溢れ出した漆黒の粘土のような影に完全に飲み込まれていた。それは意思を持った生命体というより、制御を失い、ただ肥大化を続ける「影の繭」だ。ドロドロと波打ち、一刻ごとにその体積を増していくそれは、呼吸の代わりに不気味な脈動を繰り返し、ロビーの空間を物理的な質量で圧迫し続けている。


「……日和さんが、あの子に渾身の頭突きを食らわせた直後です」


 傍らで震えていた佐藤が、蒼白な顔で呪わしい繭を指差した。

 彼が語るには、日和の呪詛が触れた瞬間、瑠衣は狂ったように悶え始め、振り回していた影の腕が熱に溶けるように彼女自身へと絡みついたのだという。


「ヒヨコの放ったあの呪詛を受けて、影の術式が内部から暴走し始めたんだろうよ」


 陽子は、顎に手を当てて繭を冷徹に見据えた。

 本来なら依代である身体が耐えきれるはずのない高密度の仮想の質量。それは進化でも変容でもなく、中身ごと影の質量に押し潰される「自壊」のプロセスだった。


「チャンスです……!」


 佐藤の瞳に、恐怖を塗り潰すような、決死の殺意が宿った。

 あんな、ただ膨らんでいるだけの無防備な状態なら、今、全員で総攻撃を仕掛ければ確実に息の根を止められる。あの中で圧死するのを待つより、自分たちの手で終わらせるべきだ。そうでなければ、あの肥大する影がどこまで広がるか分かったものではない。

 それは、地獄を生き延びようとする生存者の、あまりにも正しく、冷徹な結論だった。

 だが。


「……待って、ください……!!」


 日和の声は、思考を介さず漏れていた。

 震える手で陽子の袖を掴む。頭突きをした瞬間に流れ込んできた、あの「死にたくない」という、あまりにも惨めで、切実な生命の慟哭が、今も日和の心臓を内側から締め付けていた。

 理屈ではない。ただ、一人の人間として、心優しい彼女は、あの絶望的な叫びを無視することができなかった。


「助け……られないでしょうか。あの子を……どうにかして、連れ戻すことは……」


 日和の言葉に、佐藤が絶句し、次いで激昂した。


「何を……何を言っているんですか、日和さん!?」


 これまで彼女が奪ってきた命。自分たちが何度も死にかけた事実。それを踏まえれば、救いを口にすること自体、生存者への冒涜に等しい。

 佐藤の叫びは、日和の心に鋭く突き刺さる。彼の言う通りだ。瑠衣の手はすでに、取り返しのつかないほどの鮮血に染まっている。ここで彼女を救うという選択は、亡くなった人々への裏切りかもしれない。


「でも、あの子……あの影の中で、今も泣いてるんです!」


 しどろもどろになり、言葉を紡げない日和。

 その甘さを断ち切るように、陽子がこれ以上ないほど深い、重い溜め息を吐いた。

 陽子は立ち上がると、日和の目の前まで歩み寄り、そのおでこに「パチンッ」と軽快な音を立ててデコピンを見舞った。


「痛っ……!?」

「しゃあねぇな。……佐藤、あたしはもともと、あのガキを殺す気なんてねぇよ」


 陽子は、カエルのお面の奥で不敵にニヤリと微笑んだ。

 彼女が掲げた理由は、道徳でも慈悲でもなかった。


「あのクソガキには、こんな目に遭わされた『借り』がある。あたしは、一銭の貸しでも踏み倒されるのは嫌なんだよ。あの中で潰れて死ぬなんて、そんな安い逃げは許さねぇ」


 その不遜な言葉に、満身創痍の鬼塚も力なく笑った。

 師匠も弟子も、結局は同じ種類の「甘さ」を抱えている。


「……相変わらずだね、ヨウちゃん。何だかんだ言って甘いんだから」

「甘かねぇよ、合理主義だと言いな」


 陽子は鼻で笑い飛ばすが、その構えにはもはや瑠衣への殺意は混じっていなかった。日和は、二人の様子を見て、視界が再び涙で滲むのを感じた。

 独りじゃない。自分の独りよがりな願いを、この最強の査定人は「貸し借り」という皮肉で包んで背負ってくれたのだ。

 さらに、結界を支えていた鞠が、青白い顔で佐藤を見つめた。


「……ソウちゃん。お母さんも、あの子を……瑠衣ちゃんを助けたいの」

「母さんまで……っ!!」


 鞠の震える声が、佐藤の反論を封じた。

 一族が彼女を一人にした罪。その報いとして、せめて最後くらい、あの影の檻から連れ戻してあげたい。母の悲痛な願いと、日和の涙、そして陽子の不敵な決意。合理性よりも情動が勝利した歪な多数決を前に、佐藤は頭をかきむしり、苦渋の表情で拳を握り直した。


「……分かった、分かりましたよ! もう、どうなったって知りませんからね!!」


 その時。

 ロビー中央の影の繭が、ミシミシと不気味な音を立ててさらに膨張した。

 膨らみきった呪詛の塊は、今にも依代である瑠衣の肉体を粉砕し、全方位へと弾け飛ばんとしている。


「お喋りは終わりだ。繭が弾ける前に、あのクソガキを引きずり出すぞ」



 ◎



 静寂が、質量を伴ってロビーを支配していた。

 中央に鎮座する「影の繭」は、もはや一つの山のように肥大し、不気味な脈動と共に空間を歪ませている。ミシミシと大気が軋む音は、内側に閉じ込められた少女の肉体が、暴走する仮想質量に押し潰されゆく悲鳴そのものだった。


「……鬼塚。まだ、動けるか」


 陽子の低い声が、静寂を切り裂いた。壁に背を預け、血塗れの顔を上げた鬼塚は、自嘲気味に口の端を吊り上げる。


「愚問だね、ヨウちゃん。……ボクの辞書に、降参の文字はないよ」


 陽子は冷徹に、かつ迅速に最終作戦を告げた。

 彼女と鬼塚が繭をこじ開け、本体を引きずり出す。その刹那、日和はお守りを外し、内部に巣食う怨念と術式を規格外の呪詛で焼き払う。

 二重の防御結界を維持する鞠と佐藤には、鬼塚の回収を厳命した。陽子自身も最終的には結界の維持に回り、日和という名の「呪いの奔流」から全員を守り抜く。薄氷を踏むような、地獄の綱渡りだった。


 「……行くぞ」


 陽子の呟きと共に、最終局面が動き出した。

 陽子が疾走する。

 暴走した影の繭は、接近する陽子を明確な敵と見なし、全方位から漆黒の触手を突き出した。陽子は『出雲の縁切り鋏』を振るい、物理法則を無視した軌道で迫る影の刃を次々と剪断していく。

 右から、左から、上空から。絶え間ない影の豪雨。陽子は鋏の銀光を盾にし、一歩、また一歩と死の領域へと踏み込んでいった。


 やがて、影の繭はその全ての憎悪を陽子へと収束させた。

 ロビー中の影が一本の巨大な奔流となり、彼女を圧殺せんと殺到する。流石の陽子もその物量を捌ききれず、鋭い影が彼女の肉を抉り、鮮血が舞った。


「今だッ!! 鬼塚!!」


 陽子の裂帛の気合が響き渡る。

 その真向かい――陽子が全ての攻撃を引き受けていた反対側から、一筋の影が駆け抜けた。


「おおおおおぉぉぉぉッ!!!」


 鬼塚だった。彼女は最後の力を振り絞り、跳躍。肥大した繭の深部へと、その右腕を勢いよく突き入れた。

 肉を焼くような不快な音。だが、鬼塚は止まらない。繭の奥底に沈んでいた、冷たく小さな「体」を掴み取る。

 だが、繭も無抵抗ではない。侵入者を排除せんとした影の触手が、一斉に鬼塚へと収束した。


 ――ドシュッ、と。

 肉を貫く鈍い音が重なり、鬼塚の喉と心臓を、漆黒の槍が真っ向から貫通した。


「鬼塚さんっ!!!」


 日和の悲鳴が上がる。血飛沫が舞い、鬼塚の命が散ったかに見えたその瞬間。

 彼女のドレスの懐から、二枚の紙片がひらりと舞い落ちた。日和が持たせていた『形代』。致命傷を肩代わりするその呪具が、役割を終えてボロボロに崩れ去る。一瞬、鬼塚の傷口が幻影のように揺らぎ、消滅した。

 創り出された、奇跡のような数秒の猶予。

 鬼塚は咆哮と共に右腕を振り上げ、掴んでいた瑠衣の身体を、高く、上空へと投げ飛ばした。


「――仕舞いだ」


 繭の正面へと接近した陽子が、鋏を横一文字に薙ぐ。

 瑠衣と、暴走する繭を繋いでいた細い影の「縁」が、断ち切られた。

 機能を停止し、一時的に活動を止める繭。


 陽子はそのまま落下する瑠衣へと飛び上がり接近する。意識を失いかけている瑠衣は、正気を欠いたまま、野獣のように爪を立てて陽子の顔を引っ掻こうとした。だが、その幼い抵抗を陽子は難なくかわし、鞠の懐から掠め取っていた最後のお札を、瑠衣の額へと叩きつけた。


「繋げ――『帯結び』!」


 展開された帯状の結界が、暴れる瑠衣の身体を雁字搦めに拘束する。陽子はその小さな身体を、日和の待つ方向へと全力で放り投げた。


「今だヒヨコッ!! 受け取れ!!」


 いつの間にか、佐藤が瀕死の鬼塚を引き摺って結界の内側へと戻っていた。陽子もまた、着地と同時に結界へと滑り込む。

 日和は駆け寄り、空から降ってきた瑠衣をその腕でしっかりと受け止めた。

 そして、日和は迷うことなく、首元のお守りの紐を解いた。


 「……ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」


 瑠衣の中で今なお泣き叫んでいる被害者たちの魂に向けて、心の中で深く頭を下げる。

 直後、日和という「門」が開かれた。


 ドォッ、という衝撃と共に、この世のものとは思えない禍々しい呪詛が放出される。

 それはかつての八百万館での出力を遥かに上回っていた。日和が重ねてきた修練の結果か、あるいは瑠衣への「共感」が呪いの純度を高めたのか。


 日和の感知能力は、無慈悲にその結果を伝えてくる。

 放たれた呪詛が、瑠衣の中の怨念を、術式を、文字通り「焼き殺していく」音。

 断末魔のような叫び声が脳髄に直接響き、日和の精神を削り取る。それでも、目の前の小さな少女を救うために、日和は唇を噛み締め、放流を止めなかった。


「くっ……ここまでとはな……!」


 結界の端では、陽子が鞠と共に必死に障壁を維持していた。

 日和から溢れ出す黒い光の奔流は、不壊の属性を持つホテルの構造そのものを激しく軋ませ、二重結界の外側に配置された調度品を黒い影で塗り潰していく。破壊不可能な壁や床が、日和の呪詛に耐えかねて震動し、ロビー全体が異界の深淵へと変貌したかのようだった。陽子の額からも冷や汗が流れ、その腕が負荷で激しく震える。


 長いようで、あまりにも短い、地獄のような時間。

 やがて、日和から噴き出していた黒い煙が、消えた。

 陽子が顔を上げると、日和は腕の中の瑠衣を抱いたまま、静かに呼吸を整えていた。ロビーを埋め尽くしていた影の繭は、煤のように、あるいは燃え尽きた紙屑のように、静かに夜風に溶けて消えていく。


「……全部、焼き尽くしました」


 日和の声は、どこか遠い場所から響いているようだった。腕の中の瑠衣は、意識こそ戻らないものの、その小さな胸が確かに上下している。


「……よくやった、ヒヨコ」


 陽子が歩み寄り、日和の髪を乱暴に、けれど優しく撫でた。


「お、終わったんですよね……」


 佐藤が震える声で呟き、膝をつく。鞠もまた、満身創痍の身体を引き摺りながら瑠衣の穏やかな寝顔を確認し、安堵の涙を零した。転がっている鬼塚は、もはや指一本動かす気力もないのか、天井を見上げて「あーあ」と小さく吐息した。


 終わった。

 誰もがそう確信し、張り詰めていた糸がふっつりと切れた、その瞬間だった。


「さて。お喋りは、オークション会場へ行ってからにしようか」


 陽子がそう口にした、刹那。

 ――世界が、反転した。

 ロビー一面、いや、ホテルの壁も、床も、天井も。

 あらゆる物質が、突如として音もなく漆黒の「影」へと変貌した。不壊のはずの建築材さえも、底なしの闇に塗り潰されていく。それはかつて、オークション会場で自分たちが飲み込まれた、あの底なしの闇。


「なっ……!?」


 陽子の驚愕の声すら、闇に吸い込まれていく。

 足掻くことも、叫ぶことも許されない。

 一行は再び、逃れようのない絶対的な闇の底へと、沈んでいった。



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