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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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7-2

 

 東京の夜を貫く白亜の巨塔。

 都心の夜景を足元に見下ろすその五つ星ホテルは、今夜、選ばれた「毒」を持つ者たちの社交場へと姿を変えていた。表向きには、ある慈善財団によるプライベート・レセプション。だが、その実態は、法と倫理の網目を潜り抜けた呪物たちが、血と金で取引される魔窟である。

 重厚な石造りの車寄せに、一台のタクシーが滑り込む。

 扉が開くと、そこには場に不釣り合いなほど冷たく研ぎ澄まされた空気と、春の夜の湿り気を纏った二人の影があった。


「……ねえ、陽子さん。やっぱりこのヒヨコのお面、おかしくないですか?」


 日和は、顔を覆う黄色いプラスチック製の仮面を指先でいじりながら、恨めしげに呟いた。

 商業施設のおもちゃ売り場、駄菓子屋の片隅にぶら下がっているような、あまりにもチープな『ひよこ』のお面。それが、ミッドナイトブルーの気品あるドレスと残酷なまでのコントラストを描いている。視界の端で揺れるプラスチックの黄色が、自分の場違いさを強調しているようでならない。


「文句言うな。参加条件は『素顔を隠すこと』だ。判別できなきゃ何だっていいんだよ」


 隣に立つ陽子は、こともなげに言い放つ。

 彼女の顔には、これまたシュールな緑色の『カエル』のお面が張り付いていた。ドレスコードを意識した、動きやすさ重視のタイトなイブニングドレスを纏いながら、頭部だけが児童公園の遊具のような有様。


「それにしても、このヒール。歩きづれぇ。戦うどころか、逃げるのにも向いてねぇ。……女の虚栄心ってのは、時として呪物よりタチが悪いな」


 カツン、と大理石の床を鳴らし、陽子は苛立たしげに足を運ぶ。

 エントランスで待ち構えていたホテルマンは、その異様な仮面の二人組に対しても眉一つ動かさず、深々と頭を下げた。


「招待状を」


 無機質な声に促され、陽子が例のウロボロスの封筒を差し出す。

 ホテルマンは恭しくそれを受け取ると、懐中電灯のようなデバイスで封蝋の裏側に隠された不可視の印影を確認した。


 その時だった。

 懃懃なホテルマンの影に隠れるようにして、音もなく控えていた一人の少女が、日和の視界に飛び込んできた。

 荷物持ちの制服を纏ったその少女は、あまりに痩せこけていた。

 頬は病的に削げ落ち、ぶかぶかの制服に包まれた肢体は、春の夜風にさえ容易に折れてしまいそうなほどに細い。

 彼女は一言も発さず、ただ伏せたまつ毛の隙間から、無機質に大理石の床を見つめていた。


(……あんなに幼い子も、ここで働いているんだ)


 日和は胸の奥に、さざ波のような違和感を覚えた。

 この場所を埋め尽くす誰もが、虚栄や欲望を仮面の下で煮え立たせ、ギラついた「生」を誇示している。だが、その少女だけは違った。彼女はまるで、魂の抜け殻がそこにあるかのように空っぽで、周囲の贅沢な闇に自ら溶け込もうとしているように見えた。

 少女と一瞬、視線が交差した気がした。

 その瞳の奥――。光の届かない泥沼の底のような絶望が沈んでいるのを、日和の内に棲む「澱み」が敏感に察知し、ざわりと産毛が逆立った。


「……ヒヨコ、行くぞ」


 陽子の冷徹な声に促され、日和は後ろ髪を引かれる思いで、豪華なロビーへと足を進めた。

 ロビーの吹き抜けを貫く大階段を上り、重厚な観音開きの扉を潜る。

 そこには、日和がこれまでの人生で一度も目にしたことのない、眩暈のするような「極彩色の闇」が広がっていた。

 巨大なクリスタル・シャンデリアが放つ光は、煌びやかであると同時に、どこか葬儀場の灯火のような寒々しさを帯びている。

 会場を埋め尽くすのは、数百人の参加者。

 隙のないタキシードに身を包んだ紳士。

 家紋を背負い、厳かな空気を纏った和装の老婦人。

 あるいは、現代社会から切り離されたような、煤けたローブに身を包んだ異形の者たち。

 その全員が、顔を隠している。鳥の嘴を模したベネチアンマスク、精巧な能面、あるいは無機質なガスマスク。そこにあるのは、社会的地位と匿名性が同居する、異常な熱気を孕んだ沈黙だった。


「……陽子さん、ここ、空気が重いです。まるで水槽の底にいるみたいで……」

「気にするな。お前の中にある『黒いの』に比べれば、この程度の邪気、換気扇を回してるのと変わらねぇよ」


 陽子は軽口を叩きながらも、カエルのお面の奥で鋭く周囲を走査していた。彼女の指先は、常に不測の事態に備えて、ドレスの中に隠した道具の感触を確かめている。

 ふと、彼女の視線が会場の最前方、一段高い特別席の近くで止まる。


「……ちっ、あの大柄なのは隠しようがねぇな。どこにいても山が動いてるみたいだわ」


 そこには、ドレスアップした参加者たちの中でも、物理的な意味で「山」のように突き抜けた影があった。

 成人男性を優に超える圧倒的な体躯。それが、背中の大きく開いた真紅のドレスに包まれている。高く聳え立つヒールのせいで、その頭頂部は周囲の男性たちの頭一つ分上にあり、まるで会場を見下ろす巨像のようだった。

 顔には、怒りに燃えるような真紅の『鬼』のお面。


「あ、あの背丈……鬼塚さんだ!」


 日和が声を弾ませる。陽子がその背中を軽く叩くと、鬼のお面がゆっくりとこちらを向き、瞬時に華やかな声が響いた。


「おー! ヨウちゃんにヒヨちゃん! 来てたんだね!」


 近づいてくる鬼塚は、一歩ごとに床を揺らすような威圧感があったが、その所作には不思議と優雅さが同居していた。


「見てよこの格好! ボク、普段こんなの着ないから肩が凝っちゃってさ。でもヨウちゃん、そのカエル……相変わらずセンスが尖ってるねぇ! どこで買ったの、それ?」

「お前の鬼面よりはマシだ。商業施設の三階にあるトイステーション。……で、隣のその『普通』なのは?」


 陽子の視線が、鬼塚の傍らに立つ、アイマスクを着けた中肉中背の男性に向けられた。


「あ、紹介するよ。ボクがいつもお世話になってるオカルト番組のプロデューサー、佐藤さん! 今回の招待状は佐藤さんの伝手なんだ。彼、こういう裏の繋がりには目ざとくてさ」


 佐藤は丁寧な物腰で一礼した。


「初めまして。鬼塚さんにはいつも、視聴率の取れるエグいネタを提供していただいてまして……。今回はそのお礼も兼ねて、業界の『お勉強』にお誘いしたんですよ。まあ、私のような凡人にはいささか刺激が強すぎますがね」


 佐藤は声を潜め、周囲を伺うように続けた。


「……ここだけの話ですが、今夜はあそこに並んでいる面々を見てください。某財閥の会長に、政界の大御所、それに民放キー局のお偉いさん……。表の世界でニュースを動かしている連中が、こぞって『本物』を求めて集まっている。何せ、今回の目玉は『数十年ぶりに流出する、神話級の遺物』だっていう噂ですからね。主催側も気合が入っていて、警備の質も例年とは比較になりません」

「神話級……?」


 日和が繰り返す。ヒヨコのお面の下で、彼女の瞳が不安と好奇心に揺れた。この場所にあるすべてのものが、自分の知らない恐ろしい重みを持っているように感じられる。


「へぇ。あたしが出品した『ちょっとしたお呪い付きの茶器』なんて、そんな化け物が出たら露払いにもなりゃしねぇな。まあ、適当に売れてくれればそれでいいわ」


 陽子は鼻を鳴らしたが、鬼塚は鬼の面の奥で期待に目を輝かせている。


「そんなことないよヨウちゃん! ハルナシの出品物は質が良いって有名なんだから。ボクなんてね、今夜は狙ってるのがあるんだ。東欧の魔女が使ってたって言われる、銀のメス……。ああ、想像しただけでゾクゾクするねぇ、ヒヨちゃん!」


 鬼塚は日和の肩を大きな手でぽん、と叩いた。その手の温かさは、この異様な会場の中で唯一、日和が知っている「人間」の体温だった。

 その時、会場の照明がゆっくりと落ち、重厚なドラの音が響き渡った。

 壇上の緞帳が上がり、スポットライトの下に、一人の男が現れる。

 燕尾服に身を包み、黄金の仮面を着けたオークショニア。

 彼が木槌(ガベル)を高く掲げた瞬間、会場の熱気が一気に沸点へと達した。


「――淑女、ならびに紳士の皆様。今宵、深淵の扉を開きましょう」


 欲望が紙幣に姿を変え、命を削る呪いが「商品」として定義される狂宴。

 日和は、隣に座る陽子の腕を思わず掴んだ。自分の中の『澱み』が、会場を満たす何百人もの欲望と悪意に反応して、熱く脈打つのを感じていた。

 だが、その時。

 日和の視界の端で、先ほどの荷物持ちの少女が、音もなく壇上の袖へと移動したのが見えた。

 彼女はもう、荷物など持っていない。

 ただ、自らの影に引きずられるように、ふらふらと、それでいて確かな足取りで「舞台」へと近づいていた。

 黄金の仮面を被った男が、狂乱の幕開けを告げる。

 日和は、言いようのない悪寒に襲われ、震える指先を自身の影へと向けた。

 会場を埋め尽くす欲望の陰で、何かが胎動を始めていた。



 ◎



 シャンデリアの輝きが、欲望の海に溶けていく。

 競り落とされる呪物の数々。それは歴史の断片であり、かつて誰かが流した血と涙の結晶。日和は、隣で目を輝かせる鬼塚と、呆れたようにため息を吐く陽子の間で、浮遊する悪意の毒気に当てられたような心地で座っていた。


「八千万! 八千万はございませんか? はい、そちらの紳士、一億入りました!」


 黄金の仮面を被ったオークショニアの声が、狂乱に拍車をかける。鬼槌が叩かれるたび、会場の空気は密度を増し、吐き気をもよおすほどの熱を帯びていった。


「鬼塚さん、また買ったんですか……?」

「いいじゃない、ヒヨちゃん! 見てよ、あの儀式用の短剣。あの濁った刃紋、最高にゾクゾクするねぇ!」


 隣に座る佐藤は、もはや乾いた笑みを浮かべることしかできない様子で、手帳に何やらメモを走らせている。一方、陽子はといえば、自身の出品物が無事に落札されたことに安堵したのか、優雅に脚を組み替えた。

 そんな喧騒の中、日和は不意に、腹の底から突き上げるような冷えを感じた。


「……あの、陽子さん。ちょっと、お手洗いに」

「はあ? この土壇場でお前……。いいか、あんまりフラフラすんなよ。ここには化け物の皮を被った人間と、人間の皮を被った化け物が入り乱れてんだからな」


 陽子の呆れ顔を背に、日和は逃げるように会場を後にした。

 分厚い絨毯が敷き詰められた廊下は、会場の狂乱が嘘のように静まり返っていた。

 日和は、ヒヨコのお面を少しだけ持ち上げ、息を吐く。豪華な内装、等間隔に配置されたアンティークの調度品。そのどれもが、先ほど見た呪物たちと同じように、長い年月を経て、人の情念を吸い込んでいるように見えてならない。

 ホテルマンから聞いたトイレの場所を目指し、角を急ぎ足で曲がろうとした、その時だった。


「わっ……!」


 不意に、向こう側から現れた「影」に気づかず、日和は肩を強くぶつけてしまった。

 反動でよろけそうになり、慌てて頭を下げる。


「すみません! ごめんなさい、前をよく見てなくて……!」

「――いいえ、こちらこそ。お怪我はありませんか?」


 返ってきたのは、驚くほど穏やかで、氷のように澄んだ声だった。

 日和が顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。

 夜を切り取って仕立てたような、上品で深みのある漆黒のドレス。そして、その顔を覆っているのは、装飾を一切排した、能面のように真っ黒な仮面。

 日和は胸の奥を、冷たい指先で撫でられたような錯覚に陥った。

 日和の首元には、いつも通りの「お守り」がある。内側に秘めたどす黒い澱みは完璧に封じられているはずだった。だが、この真っ黒な仮面の女性と対峙した瞬間、そのお守りがひどく頼りない、薄い硝子細工のように感じられた。


「あ、はい……大丈夫です。失礼しました」


 日和が視線を落とすと、女性はふわりとドレスの裾を揺らした。


「……それは良かったです。今夜は特に、足元が暗いですから。あなたのようなお嬢さんは、どうかお気をつけて」


 女性はそれ以上何も言わず、優雅な所作で一礼すると、静かに日和の横を通り過ぎていった。

 廊下の角に消えていく、漆黒のドレスの背中。

 日和はその場に立ち尽くし、ぶつかった肩に残る奇妙な「寒気」を振り払うように身震いした。

 知らないはずの女性。けれど、その歩き方、空気感。どこかで、あるいはもっと深い場所で、この気配を知っているような気がしてならなかった。


 会場に戻った日和を待っていたのは、最高潮に達した熱狂だった。


「――さあ、皆様! お待たせいたしました! 今宵、最後の目玉商品……『影の国の鍵』の登場です!」


 司会者の高揚した声と共に、壇上に重厚な黒い石箱が運び込まれる。

 日和は自分の席に戻り、陽子の隣に滑り込んだ。


「……遅かったな。変な奴に捕まらなかっただろうな?」

「あ、ええ。ちょっと、ぶつかっちゃった人がいて……」


 日和が答えようとした、その時だった。

 壇上で司会者が木槌を振りかぶる。スポットライトが彼を強烈に照らし出し、壇上の床には、彼のくっきりとした影が伸びていた。

 その影が、突如として「変貌」した。

 壁から床へ、墨をぶちまけたような漆黒の影が滑り込み、司会者の影へと襲いかかる。それは物理的な実体を持たない狼型の影だ。

 狼型の影は無機質な床の上で大きく顎を開くと、司会者の影の「頭部」を無慈悲に噛み千切った。


「――ぐぶ、っ!?」


 言葉にならない声が漏れる。次の瞬間、スポットライトを浴びていた司会者の現実の頭部が、まるで透明な巨顎に噛まれたかのように、ぐしゃりと潰れた。

 首から上が消滅した肉体が、噴水のような血飛沫を上げながら壇上に崩れ落ちる。黄金の仮面が、血溜まりの中を虚しく転がった。


「な、なんだ!? 何が起きた!」

「死んだ……!? 司会者が死んだぞ!」


 会場は一瞬で阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。

 だが、惨劇はまだ序の口に過ぎなかった。

 司会者の死を合図にするように、会場の床一面が生き物のようにうねり始めたのだ。

 シャンデリアの光が強くなればなるほど、足元の「影」はより深く、より鋭く牙を剥く。床から這い出した漆黒の粘体が、参加者たちの足を、椅子を、そして逃げ惑う人々の影を次々と侵食していく。


「影に……吸い込まれる!?」


 鬼塚が叫ぶ。彼女の巨体さえも、足元に広がった底なしの闇に、じわじわと沈み込んでいく。

 日和もまた、例外ではなかった。

 ミッドナイトブルーのドレスが、真っ黒な影に飲み込まれていく。重い。冷たい。まるで心臓を冷水に浸されたような、絶対的な絶望。

 視界が影の色に染まり、世界の音が遠のいていく中。

 日和の耳に、震えるような、けれどどこか晴れやかな、一人の少女の声が届いた。


『……全員、死ねばいい』


 それは、祈りにも似た復讐の呟きだった。

 次の瞬間、五つ星ホテルの豪華な大ホールは、完全な無音と、完全な暗黒に包まれた。



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