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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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7-1

 

 三月。春の兆しが冬の居座る寒さをじわじわと侵食し始める季節。

 確定申告という「現代の呪い」から解放された陽子の足取りは、いつになく軽やかだ。しかし、その足先が向かう現場は、春の陽気とはおよそ無縁の場所だった。


 三月上旬。

 道端の梅がようやく蕾を綻ばせ、風の中に微かな春の香りが混じり始めた頃。


「あー、終わった終わった! 国に金を毟り取られるのは納得いかねえが、帳尻が合った時のこの爽快感よ!」


 軽トラックのハンドルを叩きながら、陽子は上機嫌で声を上げた。助手席に座る日和は、窓の外を流れるのどかな景色を眺めながら、深い溜息を漏らす。


「陽子さん……確定申告が終わって機嫌がいいのは分かりますけど、連れて行かれる場所が、その、あんまりですよ」


 二人が向かっていたのは、新興住宅街の隅に建つ、築年数の浅い小綺麗なアパートだった。一見すれば何の変哲もない物件だが、その周囲だけは、妙に重苦しい空気が停滞している。

 特殊清掃会社からの依頼。いわゆる「孤独死」が発生し、発見が遅れた部屋の遺品買取だった。


「いいか、ヒヨコ。事故物件ってのはな、宝の山なんだよ。遺族は一刻も早く縁を切りたいから、価値のある家具でも叩き値で手放す。……まあ、普通の古道具屋は『付いてるもの』を怖がって手を出さねえがな」

「だからって……」


 日和はアパートの入り口に立った瞬間、背筋に走った不快な戦慄に身を震わせた。

 部屋の鍵を開け、一歩中へ踏み込む。

 特殊清掃の手が入った後だというのに、鼻腔を突くのは、薬品の匂いでは消し去れない「生温かい腐敗」の残り香だった。そしてそれ以上に、リビングの中央に置かれた重厚な革張りのソファから、ドロリとした黒い影が這い出しているのが、日和の瞳にははっきりと見えた。

 前住人の、この世に対する未練。あるいは、唐突に断ち切られた生への執着。それが「澱み」となって家具にこびりつき、部屋の温度を不自然に下げている。


「……陽子さん。あのソファ、泣いてるみたいに見えます」

「そうかい。あたしにゃ、ただの『値打ちもののカウチ』にしか見えねえよ。――ほら、ヒヨコ。さっさと掃除しな」


 陽子に背中を叩かれ、日和はお守りを外した。

 自分の中に湧き上がる、あのドロリとした呪詛。週末の特訓を経て、日和はそれを「流し込む」感覚を僅かに掴みかけていた。

 日和がソファに歩み寄り、指先をその表面に滑らせる。

 ――消えて。

 祈りというよりは、上書き。日和の中から溢れ出した強大な「澱み」が、家具にこびり付いていた前住人の微弱な怨念を、まるで大波が砂の城を攫っていくように、あっさりと、そして残酷に呑み込んでいく。

 黒い影が霧散し、部屋の空気がふっと軽くなった。


「お、いい手際だ。一分もかからねえな。……こりゃ便利だわ。お前がいれば、呪物を使う必要もねえ」

「便利って……私、結構精神的に削られるんですけど。事故物件っていうだけで、もう怖いんですよ……」

「何を怖がる必要があるんだよ。お前のその真っ黒な呪詛に比べりゃ、そこら辺の幽霊の未練なんて、薄めたカルピスみたいなもんだろ」


 陽子はさっさとソファを運び出し始め、日和をこき使った。

 テレビ台、ダイニングテーブル、そして曰く付きの姿見。そのすべてを、日和の「呪い」が浄化――という名の破壊的な上書きで、ただの無機物へと戻していく。

 陽子は、商品価値を維持したまま「曰く」だけが消えた家具を眺め、ほくそ笑んだ。


 午後。二人の乗った軽トラックは、住宅街の端にあるリユースショップ「ハルナシ」の前に滑り込んだ。

 荷台には、つい数時間前まで「死者」と共にあった家具たちが積み込まれている。日和の手によって浄化されたそれらは、今やただの「状態の良い中古品」として、春の柔らかな日差しを浴びていた。


「よし。ソファとテーブルは店の中に入れる。タンスと鏡台は在庫に回すから、倉庫だな。……ヒヨコ、商品を降ろすのを手伝え。腰を入れろよ」

「はいはい、分かりましたよ……。あ、腰が……これ、絶対に女子高生のバイト内容じゃないですよねぇ」


 重い革張りのソファを二人で抱え、店内の展示スペースへと運び込む。

 店内には、所狭しと家電や家具、得体のしれない絵画等が並んでいる。陽子は手際よく配置を決めると、パンパンと手を叩いて埃を払った。


「そしたらあたしは、残りのデカい奴らを裏の倉庫へ置いてくる。店番、任せたぞ。誰か来たら『すぐ戻る』って言っとけ」

「えっ、一人でですか?」

「すぐそこだよ。……お前、事故物件の霊は平気で消すくせに、誰もいない店は怖いのか?」

「そうじゃなくて! ……まあ、いいですけど」


 陽子は軽快なエンジン音を残して、軽トラックで走り去っていった。

 静かになった店内に、日和は一人取り残される。

 柱時計のカチ、カチという規則正しい音だけが、店内の埃っぽい空気の中に響いていた。日和はレジカウンターの中に座り、在庫管理用のノートを開きながら、時折、店先の通りを眺める。

 三月の風はまだ冷たく、道ゆく人々は皆、新生活への期待と不安を混ぜ合わせたような顔で、急ぎ足で通り過ぎていく。

 ふと、店先の郵便受けに、赤いバイクが止まる音がした。

 郵便配達員が数通の手紙を投げ込み、また慌ただしく走り去っていく。


「……あ、郵便。取ってこなきゃ」


 日和は重い腰を上げ、店先のポストへと向かった。

 中には、光熱費の請求書や、どこかの家具メーカーのカタログ、そして事務的な封筒が数通混じっていた。


「ええと、電気代、水道代……あ、これはチラシ。ん?」


 その束の一番下に、ひときわ異質なものが紛れていた。

 それは、他の安っぽい封筒とは明らかに一線を画す、厚手の、それでいて肌にしっとりと吸い付くような上質な和紙で作られた封筒だった。

 封蝋には、奇妙な紋章が刻まれている。蛇が自らの尾を噛み、円を描く図案――ウロボロス。

 表書きには、達筆な毛筆の文字でこう記されていた。

 ――『ハルナシ 店主 夏秋冬 陽子 殿』

 【招待状】

 日和はその封筒を手に取った瞬間、指先に微かな、しかし刺すような「冷たさ」を感じた。

 それは、先ほど事故物件で触れたような、死者の未練とは違う。

 もっと研ぎ澄まされた、人工的な、そして長い年月をかけて磨かれた「洗練された魔」の感触。


「……何、これ。陽子さん宛……。招待状? 結婚式とかじゃないよね……?」


 日和はその手紙を握りしめたまま、戻ってきた軽トラックの音を待つことにした。

 窓の外では、春の兆しを拒むように、どんよりとした曇天が広がり始めていた。



 ◎



 軽トラックが吐き出す鈍い排気音が、宵闇に沈みかけた路地裏を震わせた。

 陽子が運転席から飛び降り、手際よくシャッターを半分ほど下ろすと、店内に三月の、少し埃っぽく湿った春の空気が流れ込む。


「ただいま。ふぅ、倉庫の整理も一苦労だわ。……ヒヨコ、何か変わりはなかったか?」

「おかえりなさい、陽子さん。……ええ、特には。あ、でも郵便が届いてました。なんだか豪華なのが一通」


 日和はレジカウンターの上に置かれた封筒の束を差し出した。

 その一番下に沈んでいた異彩。陽子の瞳が、厚手の和紙と深い紅の封蝋を認めた瞬間、鋭く細められた。それは、まるで獲物を視認した猛禽のような、静かな熱を宿した眼差しだった。


「……へえ。もう、そんな時期か」


 陽子は無造作に、けれどどこか儀式的な慎重さで封蝋を弾いた。現れたのは、格式高い毛筆の便箋。


「やっぱりな。『呪物オークション』の招待状だ」

「じゅぶつ……オークション」


 日和の口から漏れた言葉は、春の闇に溶けて消えた。

 不意に、あの廃旅館での一夜が脳裏をかすめる。泥と硫黄の匂いの中で、鬼塚が口にした言葉。「ヨウちゃんとはオークションで知り合った」――。漠然と存在を知ってはいたが、それが今、上質な和紙の手触りとなって自分の目の前に現れたことに、日和は言葉にできない重圧を感じていた。


「表の競り市じゃ到底流せないような、業の深い代物を売り買いする裏の祭典だよ。あたしも時々、目利きとして呼ばれたり、在庫にある呪物を流したりしてるんだ。主催者は代々この界隈を仕切ってる古株一族でね。ここに参加できるのは、この招待状が届いた奴らだけさ」


 陽子は在庫管理用の厚いノートを開き、ペンを指先で遊ばせながら、どこか遠く――ここではない「どこか」を見るような目で語り始めた。


「出品されるのは、呪いの染み付いた古刀や、出所不明のミイラ……ひどい時には、人間の骨や、呪術的に処理された死体の一部なんてのも出る。鬼塚が持ってる『指骨』や『金の腕』も、元を辿ればこういう場所で競り落とされたもんだ。法や倫理なんて言葉は、あそこじゃただの雑音に過ぎねえ。札束と呪詛が飛び交う、文字通りの魔窟だよ」


 日和は唾を飲み込んだ。鬼塚が喜んで自慢していた、あの不気味な指の骨。それが天秤にかけられ、無機質な数字で取引される光景。背筋を這い上がる戦慄。しかし、それ以上に、自分が足を踏み入れてしまったこの世界の、澱んだ本質を見極めたいという、抗いがたい誘惑が胸の奥で疼いていた。


「……陽子さん。私、それ、着いて行ってもいいですか?」


 陽子のペンが、ピタリと止まった。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、心底嫌そうな、あるいは教え子の無謀を憐れむような眉根の寄せ方をした。


「……正気か、ヒヨコ。あそこはお前みたいな普通の女子高生が、物見遊山で行くような場所じゃねえぞ。客は揃いも揃って、良心なんてものはとっくにドブに捨てたような連中ばかりだ」

「分かってます。でも、陽子さんが言ってたじゃないですか。私はもう『踏み外した』って。これから先、自分がどんな場所の淵に立っているのか、知らないままなのは……そっちの方が、もっと怖いんです」


 陽子は長く、重い溜息を吐き、天井を仰いだ。

 日和という少女に宿る、あまりにも巨大で純粋な「澱み」。陽子には、彼女を弟子としてこの世界に繋ぎ止める自負はあったが、その資質を、外界の飢えた獣たちに晒すつもりはなかった。もし知られれば、彼女は一生、誰かの所有物として呪詛を絞り取られるだけの「器」に成り下がるだろう。


(……まあ、遅かれ早かれ、こういう汚い部分に触れる日はくるだろうしな)


「……ったく。好奇心は猫を殺すって言葉、教えてやらなかったか。……いいか、あそこはドレスコードが必須だ。お前を連れて行くなら、それなりの装いをさせなきゃならねえ」

「ドレスコード……。パーティーみたいな感じですか?」

「ああ。小汚い格好で歩ける場所じゃない。……ハルナシの在庫から、お前に似合いそうなのを選んでやるよ。呪物じゃねえが、少し『念』が重い程度のやつをな」


 陽子は店の奥、高級なヴィンテージを保管している一角から、一着のドレスを取り出した。

 それは、深いミッドナイトブルーのシルクで作られた、膝丈のセミフォーマルドレスだった。繊細なレースが袖口にあしらわれ、控えめながらも気品のある美しさを放っている。日和が思わず「可愛い……」と声を漏らすほど、それは少女の好みに合致していた。


「これはな、ある旧家の令嬢が、一度も袖を通すことなく世を去った時に残されたものだ。呪物ってほどじゃねえが、着られなかった悔しさというか、執着みたいなもんが繊維に少しこびり付いてる。……まあ、お前の呪詛なら、そんなもん一瞬で消し飛ばして、ただの綺麗な服にしてくれるだろ」


 日和は恐る恐る、その滑らかな絹の生地に触れた。確かに、指先から伝わる微かな「重み」はある。だが、彼女の内側から溢れ出す圧倒的な澱みが触れた瞬間、その執着は心地よい温かさに塗り替えられた。


「……これ、すごく素敵です。ありがとうございます、陽子さん」

「よし、決まりだ。開催は来週末。あたしの傍を絶対に離れるな。誰に何を囁かれても、そのお守りを手放すな。いいな?」

「はい……!」


 三月の夕暮れ。

 店内に差し込む茜色の光が、窓ガラスの汚れを歪な紋様のように浮かび上がらせ、二人の影を長く、細く伸ばしていた。

 陽子は、日和の才能を覆い隠しながら、彼女を裏社会の門へと導く。それは弟子への教育であり、同時に彼女を深淵から守るための、危うい綱渡りでもあった。


「さあ、店を閉めるぞ。今日は事故物件の片付けも頑張ったし、特訓明けの景気付けだ。……ヒヨコ、何が食いたい? 昨日の罰ゲームみたいに、お前の嫌いな納豆を無理やり食わせるような真似はもうさせねえよ」

「納豆はもう、一生分食べた気がします……。絶対に嫌です!」


 日和は露骨に顔をしかめ、ぶんぶんと首を振った。あの独特の匂いと粘り気を思い出すだけで、胃のあたりが落ち着かなくなる。


「あはは、分かった分かった。なら何がいい?」

「オムライス! ……あ、やっぱり、たっぷりのカレーライスがいいです!」

「ははっ、ガキだな」


 陽子の軽口に、日和は年相応の、どこか幼い笑顔で応えた。

 シャッターを完全に下ろす重厚な音が、夜の静寂を切り裂く。

 一週間後のオークション。そこが、小林日和という少女の運命を決定的に変える舞台になるとも知らず、二人は春の湿った夜風の中を、並んで歩き出した。



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