6-2
冬の短い陽光は、あっさりと地平線の向こうへと逃げ去っていった。
道場の高い天窓から差し込んでいた光が、茜色から群青色へと変わり、やがて完全な闇が訪れるまで、二人の特訓は続いた。
「……そこまで。終わりだ、ヒヨコ」
陽子の声が、静まり返った道場に響く。
日和は返事をする余裕もなかった。板張りの床に「大」の字になって倒れ込み、肩を激しく上下させながら、酸素を求めて喉を鳴らしている。お守りを外した状態での数時間に及ぶ集中と、陽子の超人的な三次元機動。それは、日和の短い人生の中で、文字通り最も過酷な時間だった。
陽子は汗一つかいていない涼しい顔で、ボトルの水を飲み干した。
「今日はもう休め。……そうだ。ヒヨコ、家の方には泊まりの許可を取っておけ。明日も朝からやるからな」
「え……と、泊まり……ですか?」
「ああ。あたしが連絡してやってもいいが、親御さんも心配するだろ」
日和は震える手でスマートフォンを取り出し、母親に電話をかけた。
前回の事件以来、日和の「バイト」に対して少しずつ理解を示し始めていた母は、陽子が電話口で「きちんと面倒を見ます」と一言添えたことで、案外あっさりと宿泊を許可してくれた。
「……それにしても、陽子さん。本当に何にもないんですね」
隣接する和風の屋敷に移動した日和は、思わず苦笑した。
かつては重厚な調度品が並んでいたであろう室内は、驚くほどガランとしている。冷蔵庫や洗濯機といった生活家電は、老夫婦が引越しの際に持って行ってしまったという。
「ああ。箪笥や文机の類はな、あたしの店で売っちまった。いい値段がついたよ」
「師匠さんの家なのに……」
「管理代の現物支給だ。文句は言わせねぇよ」
二人は近くのスーパーへと買い出しに向かった。
夕食は、備え付けの古いガスコンロで煮炊きした簡単な鍋になった。電気とガス、そして風呂のボイラーが生きていたのは、せめてもの救いだ。
二人で囲む小さな鍋。湯気の向こうで、陽子が肉を頬張る。
「陽子さん、あの……」
「なんだ」
「さっきのデコピン、やっぱりまだ痛いです……」
「避けないお前が悪い。食って寝ろ」
食後、木造の深い浴槽に溜めた熱い湯に浸かると、日和は思わず深い溜息を漏らした。
陽子が用意してくれた布団に潜り込んだ瞬間、日和の意識は泥のように深い眠りへと沈んでいった。明日もまた、地獄が待っているとも知らずに。
◎
翌日、日曜日。
障子を透かして届く、冬の鋭い朝日が日和の瞼を叩いた。
身体を動かそうとした瞬間、全身に走る激痛。「あ、痛たたた……」と呻きながら、日和は這い出すようにして布団を畳んだ。
道場に移動すると、陽子は既に中央に座していた。その前には、昨日まではなかった大量の和紙と、裁断用の小刀、そして小さな水差しが用意されている。
「……おはよう、ヒヨコ。体は動くか」
「おはようございます、陽子さん。……バキバキです。おばあちゃんになった気分です」
「ふん、若い証拠だ。……さて、今日は動く代わりに、その不気味な呪いを形にする特訓を始める」
陽子は、一枚の和紙を指先で弾いた。
その所作には、昨日までの荒々しい武術家の影はない。陽子が語り始めたのは、この世界の裏側に流れる、残酷なまでの「格差」についてだった。
陽子や鬼塚が操る力――それは『霊力』と呼ばれる、生命の残り火のようなものだ。気やオドとも称されるそれは、誰の魂にも等しく備わった、いわば汎用的な燃料に過ぎない。呪詛のような破壊性も無い。鍛えることで量を増やすことは出来るが、結局は呪詛の代替品でしかない。
命ある限り精製出来るが、それにも限度がある。
「……あたしみたいな凡人には、呪いの才能なんて欠片もねぇんだよ」
陽子は自嘲気味に笑い、日和の瞳を真っ直ぐに見据えた。
だからこそ、彼女たちは出来合いの呪物や、先人が残したお札等という「既製品」を頼る。リスクを承知で呪物の毒を喰らい、消耗品である札をやりくりしながら、かろうじて怪異の深淵に爪を立てているのだ。
「だがな、ヒヨコ。お前という器は、根本から構造が違う」
陽子の眼差しが、日和の両手を見据える。
日和の奥底に淀む「呪い」は、生命力とは別の源泉から湧き出していた。それは人の負の感情という汚泥から精製される、致死性の劇薬。混ぜ方一つで万能薬にもなれば、世界を腐食させる毒にもなる。そして何より、それは彼女が絶望や恐怖を感じる限り、無尽蔵に湧き出し続けるのだ。
既製品を必死に使い回す凡夫の横で、彼女は「呪い」という最高級の素材をゼロから生み出せる、いわば生体工場だった。
陽子は、その圧倒的な格差を、羨望とも憐憫ともつかない複雑な笑みで肯定した。霊力は呪いの下位互換。その事実を突きつけるように、陽子は最初の課題を提示した。
「まずは類感呪術の基礎、『形代』だ」
和紙をヒトの形に切り抜く。お守りを外し、指先を針で突く――。
理屈は分かっていても、いざ実践となると日和の手は止まった。銀色に光る鋭利な針先を、自らの指の柔らかな腹へ向ける。普通の女子高生として生きてきた彼女にとって、「自分の体を傷つける」という行為は、本能的な恐怖と強烈な拒絶感を伴うものだった。
「……無理です、陽子さん。痛いの、やっぱり怖いです」
「針一本で死にゃしねぇよ。さっさと刺せ、時間がもったいねぇ」
「そう言われても……っ!」
針を近づけては離し、深呼吸をしてはまた躊躇う。
数分間の葛藤の末、陽子の冷ややかな視線に追い詰められた日和は、ギュッと目を閉じ、決死の覚悟で針を押し当てた。
鋭い痛みが走り、指先に小さな、しかし鮮やかな紅い玉が浮かぶ。
その血が紙の心臓部に染み込んだ瞬間、日和は自分の中の澱みを、その白い断片へと強引に流し込んだ。
――「同質のものは、互いに影響し合う」。
呪術的な定義により、ただの紙片が「小林日和」という存在へと変質していく。
ドクン、と紙が脈打ったように見えた。
霊感を持つ二人の目には、その形代が日和と同じ負の波動を纏い、まるで小さな分身のように板の上で呼吸を始めたのが分かった。
「……できた。これが、私の身代わり?」
「ああ。お前が致命傷を負っても、こいつが代わりに引き受けて『無かったこと』にする。呪詛そのものを編み込めるお前にしか作れない、外道の救済だ」
陽子は完成した形代を眺め、不敵に口角を上げた。その瞳の奥には、事務的な確定申告から逃避した女の、剥き出しの商売人としての光が宿っている。
「ちなみにこれ、ツテで買えば一枚十万は下らねぇ。ヒヨコ、お前がこれ量産できるようになれば、あたしの将来の年金も、このクソ忌々しい確定申告も、全部解決すると思わねぇか?」
「……陽子さん。 顔が真っ黒ですよ……」
「バカ言え、弟子の門出を祝う師匠の慈愛だろ。……ケッケッケッ」
欲望にまみれた師匠の計算を余所目に、特訓は次なる段階、『式』へと進む。
「次はこれだ。燕を折ってみな。鳥の形をしていれば、世界はその紙切れを『鳥』だと誤認する。……折り方はスマホで調べろ。現代っ子だろ?」
日和は苦笑し、文明の利器を頼りに和紙と格闘した。検索画面に躍る折り紙の手順を追い、指先を細かく動かすこと十数分。
出来上がったのは、まだ何の力も宿っていない、ただの白い和紙の燕だった。どこにでもある子供の遊びの延長。しかし、そこには「形」という呪術的な土台が完成していた。
「……よし。そこに呪詛を込めろ。命を吹き込むイメージだ」
日和が深く息を吸い込み、燕に呪いを流し込む。
その瞬間、真っ白だった紙の燕から、黒く、淀んだ赤紫のオーラが揺らめき立った。
パサパサと音を立てて、燕は日和の手のひらから飛び立ち、道場の静謐な空気の中を不器用に泳ぎ始める。
「わあ……飛んだ……」
「……色々と便利だが、耐久性は和紙のままだぞ。文字通りの紙装甲だな」
燕は日和の指先の動きに合わせ、力なく、しかし確かに空を舞った。まだ遠く離れた場所の景色を共有したり、複雑な偵察をこなしたりする器用さはない。ただ、自分の延長として「操る」だけで精一杯だ。それでも、耐久性は和紙のままという脆さを抱えながら、それは紛れもなく、日和の意志で動く「命」の模造品だった。
冬の乾いた日差しが、ゆっくりと板の間を移動していく。
精密性を高める特訓は、ただの女子高生だった自分の指先が、死を肩代わりさせ、命を捏造するという「業」に染まっていく過程でもあった。日和の指先は、和紙の端で切れた小さな傷と、止まらない呪詛の熱で、じんわりと痺れ続けていた。
和紙の燕が、役目を終えた亡骸のように板の間へ力なく落ちた。道場の高い天窓から差し込む光は、いつの間にか鋭い白から、すべてを溶かすような濃密な琥珀色へと変わっている。冬の夕暮れは、まるで逃げるように足早だ。
陽子は、舞い散った和紙の屑を無造作に足で寄せると、懐から古びた三本のリボンを取り出した。
「『類感』が形の模倣なら、『感染』は縁の追跡だ。……ヒヨコ、丑の刻参りの藁人形に、なぜ標的の爪や髪を埋めるか分かるか?」
陽子の問いは、答えを待つためのものではなかった。彼女は、日和の瞳の奥にある「澱み」を覗き込むように、静かに言葉を継ぐ。
「一度触れ合ったものは、たとえ物理的な距離が離れても、目に見えない糸で繋がり続ける。この世は、無数の『縁』という名の毛細血管で覆われている。お前が持つその毒は、その血管を逆流して、標的の心臓にまで届く。……理屈は単純だが、使いこなすには五感を捨てなきゃならねぇ」
陽子はリボンを一本、日和の膝元へ放り投げた。
「そのリボンは、ある三体の熊のぬいぐるみから剥ぎ取ったものだ。あたしはその本体を、この道場、隣の屋敷、そして裏の庭……この敷地内のどこかに隠した。……制限時間は一時間。その切れ端に残った『縁』、お前の澱みで手繰り寄せてみな」
日和はリボンを掌に乗せた。手触りはただのサテン生地。どこにでもある安物。
そこから何か感じたりはしない。
「そんな……、ここ、結構広いですよ?」
「だからこその特訓だ。一時間以内に全部見つけられたら、褒美に一万円の特別ボーナスを出してやる。あたしの自腹だ」
「一万円!?」
日和の目が、現金な輝きを帯びた。高校生にとっての一万円は、空から降ってくる大金に等しい。
「……ただし、一秒でも過ぎたら罰ゲームだ。いいな?」
「やります! 絶対に見つけます!」
日和はリボンを握りしめた。だが、指先に伝わるのはただの乾いた布の感触だけだ。日和は欲望に突き動かされ、冷え切った縁側の床下を覗き、冬の枯れた庭木の根元をかき分けた。しかし、視覚が捉えるのは冬の夕闇が落とす長い影ばかりで、目的の「熊」はどこにもいない。
(どこ……? 全然、何も聞こえないし、何も見えない……)
焦れば焦るほど、日和の中の呪詛は形を失い、ただの不快な悪寒となって皮膚から散逸していく。それは、穴の開いたバケツから水が漏れ出すような、無力感に満ちた感覚だった。
「……残り、十分だ」
陽子の声が、冷たい風のように静寂を裂く。
日和は道場の中央で膝をついた。手の中のリボンは、もう自分の体温で生温かくなっている。一時間が過ぎ、約束の終わりを告げる陽子の足音が、板の間に重く響いた。
「……終了。ボーナスは没収だ」
「……無理ですよ。あんなに広いのに、ヒントもなしでなんて」
俯く日和の肩を、道場を包み始めた暗闇が重く抑えつける。陽子は、そんな弟子の姿を冷ややかに、けれどどこか試すような眼差しで見下ろした。
「……ヒヨコ。お前、あの不幸の手紙の件で一ノ瀬を助けた時のことを、あたしに話したのを覚えてるか?」
その言葉に、日和の記憶が疼いた。あの日、学校の階段の踊り場で、独り震えながら放った呪い。一ノ瀬を救いたいという必死な思いが、彼女のスマホを紛失させるという実害を伴って発動させた、あの瞬間。
「姿も見えない、壁の向こうにいる相手を、お前は確かに捉えたはずだ。あれは、お前とそいつの間にある『クラスメイト』という細い縁を、お前の澱みが辿ったんだよ。……リボンを『見る』んじゃない。お前の内側にある澱みを、このリボンが記憶している『向こう側の半身』へ注ぎ込め。自分の一部を、目に見えない触手にして伸ばすんだ」
日和は、もう一度深く目を閉じた。
リボンを「持つ」のではない。自分の中にある、あのドロリとした重たい感覚を、リボンの繊維一本一本に染み込ませ、その先にある「繋がり」を探る。
――静寂。
暗闇の底で、かすかな「引っかかり」があった。
同じ工場で生まれ、同じ時間を過ごした、ポリエステルと綿の震え。自分の中の澱みが、目に見えない糸となって、道場の深奥へと吸い込まれていく感覚。
「……いた」
日和は吸い寄せられるように立ち上がった。道場の北側、古びた神棚の裏。暗がりに沈んだわずかな隙間に、その「縁」は確かに繋がっていた。手を伸ばすと、埃を被った茶色い熊が、ひっそりと日和を待っていた。
「……見つけた」
「時間は過ぎたが……筋は悪くないな。残りの二体も見つけるまで、今夜の飯はお預けだぞ」
その後、日和は灯籠の陰、屋根裏の煤けた梁の上から、残りの二体を「釣り上げる」ようにして見つけ出した。すべてを並べ終えた頃には、指先は感覚を失うほど痺れ、魂そのものが削り取られたような疲労に包まれていた。
しかし、約束は約束である。
「一万円は無し。で、罰ゲームは……これだ」
陽子が取り出したのは、スーパーで買ってきた「納豆三連パック」が十セット。合計三十パック。
「あ、あ、ああ……」
「今夜の晩飯、これ全部な。一粒も残すなよ」
「鬼です! 陽子さんは鬼です……っ!」
泣きながら納豆をかき込む日和を、陽子は満足げに眺めながら、最後の一仕事を始めた。
道場には、陽子が持ってきた一本の空のペットボトルが置かれていた。
「……さて。ヒヨコ、特訓の仕上げに宿題だ。……お前があたしのジャージを揺らした時の、あの感触を思い出せ」
陽子が求めたのは、呪いという「霊的な事象」を、物理的な「質量」へと変換する試みだった。呪いそのものに実体を持たせ、世界に直接干渉する。それは、ただの破壊よりも遥かに高度な制御を要求する。
日和は、ネバネバとした口元を拭い、ボトルに指を向けた。
だが、それはあまりにも困難な壁だった。
呪いを濃縮しすぎれば、ボトルは不可視の力に押し潰されてボコりと凹み、緩めれば何も起きない。日和の中にある無尽蔵のエネルギーを、針の穴を通すような精密さで「指」の形に固定し続ける。それは、煮え立つ油の中に手を浸しながら、細い絹糸で刺繍をするような、神経を磨り潰す作業だった。
「く、っ……うぅ……!」
ボトルが、まるで恐怖に怯える小動物のようにガタガタと震える。日和の額からは脂汗が流れ、呼吸が荒くなる。ようやく一度だけ、ボトルを横倒しにすることに成功したが、それを再び直立させたり、ましてや空中に浮かせたりすることなど、今の彼女には不可能に思えた。
「……まあ、流石に一朝一夕じゃ無理か」
陽子は、夕闇が完全に道場を包み込み、夜の帳が降りるのを眺めながら、不敵に笑った。
「明日からはまた店だ。空き時間を見つけて、少しずつ練習してみな。……これができるようになったら、あたしももう少し、安心して背中を預けられるようになる」
「陽子さん……」
その言葉に含まれた、かすかな信頼の重みに、日和は疲れ果てた体で小さく頷いた。
日曜日、午後六時。
二日間にわたる、峻烈な「週末の修行」が、幕を閉じた。
道場を出る日和の足取りは、石のように重く、全身からは納豆の匂いと呪詛の残滓が漂っているようだった。
「……陽子さん。私、明日ちゃんとお店に行けるでしょうか……」
「来なきゃ欠勤扱いだぞ。……さあ、帰るぞ。明日からはまた、数字と格闘する日常が待ってるんだからな」
陽子の言葉に、日和は小さく、けれどどこか晴れやかな溜息をついた。
少女の指先には、和紙の端で切れた小さな傷の痛みと共に、確かに世界に「触れた」という奇妙な確信が、熱を持って居座り続けていた。
平凡な女子高生としての日常の裏側で、呪術師としての業を深めていく週末。
小林日和の歩みは、まだ始まったばかりだった。
夜道を歩く彼女の背中を、冬の月が静かに見守っていた。
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