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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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6-1

 

 二月二十三日、土曜日。

 空は薄灰色の雲に覆われ、底冷えのする風が路地の隅で寒々と鳴いている。

 日和が「ハルナシ」の古びた勝手口を開けると、いつもなら店を満たしているはずの沈香の香りは、紙とインクの乾いた匂いに塗り潰されていた。

 店の中央、卓の上。そこには法人税と消費税の申告書類という名の「紙の墓標」が、乱脈に積み上がっている。その山脈の陰で、陽子は椅子に深く沈み込み、死んだ魚のような眼で虚空を見つめて静止していた。


「……陽子さん? おはようございます」


 日和の控えめな声に、陽子の首がギチギチと、錆びついた歯車のような音を立ててこちらを向いた。かつての鋭い双眸は白濁し、肌は書類の白さに同化しそうなほどに蒼白い。


「……ヒヨコ。今日が何日か、言ってみろ」

「えっ、二月の二十三日ですけど」

「二十三日。……締切まで、あと六日か。……ふふ、六日か」


 陽子は力なく笑った。その乾いた笑い声が、静かな店内に虚しく反響する。彼女の限界は、とうに臨界点を超えていた。

 次の瞬間、陽子は突如として立ち上がり、机上の書類を無造作に一箇所に掻き集めた。それはもはや整理ではなく、忌まわしい現実を物理的に押し除けるような、粗暴な仕草だった。


「……やってられるか。税金なんて概念、この世から消し飛ばしてやる。……ヒヨコ、着替えはあるか。無いならあたしの古着を貸す。今から特訓だ」

「特訓……ですか? でも、書類は……」

「うるせえ。脳が煮える前に、体を動かす。……いいから、来い」


 有無を言わさぬ拒絶の拒絶。陽子は黒いボストンバッグを肩に担ぎ、冬の寒風の中へと迷いなく踏み出していった。


 陽子の背中を追って歩くこと数分。

 入り組んだ路地が迷路のように交差する下町の奥深くに、そこだけが周囲の喧騒から隔離されたような一角があった。黒ずんだ板塀が静寂を囲い込み、見事な瓦屋根を戴いた門構えが、訪れる者を拒むような厳かさを湛えている。

 門をくぐると、そこには砂利の敷かれた清廉な道が、奥へと続いていた。

 日和は思わず息を呑む。目の前に鎮座するのは、長い年月を経て黒光りする木材で組み上げられた、重厚な「道場」だった。

 道場に隣接する家屋は、今や失われつつある「真の和風」の粋を集めたような造りだった。深い庇が冬の低い陽光を遮り、手入れの行き届いた庭には、時折「カタン」と蹲の添水が鳴る音が響く。


「わあ……すごい。ここ、現代じゃないみたいです」


 日和は、その静謐な佇まいに魅入られていた。現代的な生活からは切り離された、古き良き、しかし峻厳な空気がそこには満ちている。


「あたしの空道の師匠の持ち物だ。老夫婦で地方の息子宅へ行っているから、管理を頼まれてる。……たまにはこうして、道場に人の気配を戻してやらんとな」


 陽子が鍵を開け、道場の扉が重々しく開かれた。

 板張りの床は、幾千、幾万の足裏に磨かれ、鈍い光を反射している。正面の神棚の下、凛と張り詰めた空気が日和の肌を優しく、しかし鋭く撫でた。

 日和は陽子に貸し出された、少しサイズの大きいスウェットに着替えた。生地に残る陽子の匂いと、冬の冷気が混じり合う。


「さて。ヒヨコ、お前は呪いの資質だけは一人前だが、体の方はただのガキだ。『八百万館』でもそうだったが、呪いだけでどうにかなるとは限らねぇ。……物理的に死んだら、そこでおしまいなんだよ」


 陽子が裸足で床を踏み鳴らす。乾いた音が、道場の天井まで響き渡った。


「教えるのは護身なんて生温いもんじゃねえ。『避けて、逃げ回る』死なないための動きだ。あたしが今からお前の周りを歩く。隙を見せれば小突くから、意地でも避けろ。……一発当たるごとに、お前の昼飯に納豆一パック、追加だ」

「ええっ! 納豆は、本当に無理ですよ!」

「なら、死ぬ気で避けな。……始めるぞ」


 最初は、陽子はただ静かに歩くだけだった。

 獲物の周囲を徘徊する捕食者のように、音もなく、一定の歩幅で。陽子の歩みは滑らかで、まるで板の上を滑る水滴のように、重心の揺らぎがない。

 日和は肩を震わせ、陽子の双眸から目を逸らさぬよう凝視した。陽子の歩行は何の脅威も感じさせない、ただの散歩のようにも見える。

 ――だが。


「ほら」

「痛っ!」


 認識が追いつく前に、陽子の指先が日和の額を弾いていた。


「瞬きが長い。足元が止まってる。……一パック追加だ」

「うぅ……今、いつの間に……」


 陽子の速度が跳ね上がった。

 タ、タ、タン、と乾いたリズムが道場内に木霊する。陽子は直線的に動くのではなく、日和の視界の端、いわゆる死角を突くように弧を描いて走り、急停止と急加速を繰り返した。


「あ、あわわ……っ!」


 日和は翻弄された。視界から陽子が消えるたびに、背後や真横から「小突き」という名の重い衝撃が飛んでくる。


「……視覚に頼りすぎるな、ヒヨコ。見えないものに頼れ」


 特訓が始まってから一時間が経過した頃、陽子の動きはもはや「人間の歩法」の範疇を逸脱し始めていた。

 壁を垂直に駆け上がり、その反動を利用して空中から飛びかかり、梁に手をかけて日和の頭上を音もなく飛び越える。重力を嘲笑うような三次元的な機動。


「ひ、陽子さん……っ、速すぎて、無理です……!」

「無理じゃねえ。生き残る奴はこれ以上をやってくるぞ。……よし、ここからは『反撃』を許可する」


 陽子が壁を蹴って着地し、日和の正面数メートルの位置で静止した。

 その瞳には、書類の数字に殺されていた時とは違う、鋭く冷徹な「武」の光が、深淵の底で揺らめいていた。


「お前の『呪い』を指先に集めろ。散らすな。一点に、鉄砲の弾丸のように絞り出すイメージだ。……お守りを外せ、ヒヨコ。……あたしに当ててみろ」


 日和の手が、ジャージの首元、あの枷へと伸びる。

 冬の午後の光が、静謐な道場に斜めに差し込み、埃が光の粒となって舞っていた。


「……わかりました。陽子さん、本気で……行きますよ」


 日和は震える指先をジャージの襟元へと滑り込ませた。指が触れたのは、陽子が自ら編み上げ、日和という「呪いの源泉」に蓋をしていた強固な封印――あのお守りだ。

 紐を解き、それが体から離れた瞬間。

 ――ズ、ンッ!!

 道場内の空気が、物理的な重さを伴って変質した。

 日和を中心として、ドロリとした重油のような、あるいは底なしの沼のような「負の気配」が溢れ出す。お守りという枷を失った彼女の体質は、周囲の光さえ吸い込むような暗い影を板の間に落とした。冬の冷気とは質の異なる、心臓を直接冷たい指で撫で回されるような悪寒が、静謐な空間を侵食していく。

 日和の瞳は、どす黒く、淀んだ赤紫の光をその奥底に湛えていた。

 苦痛に歪んでいた表情は消え、代わりに底知れない虚無と、それを御そうとする必死の意志が入り混じる。


「……ほう。いいじゃねえか、そのツラ。ようやくヒヨコが殻を割り始めたか」


 陽子が、不敵に口角を上げた。その瞳には、退屈な事務作業に殺されていた女の影はなく、戦場を謳歌する獣の輝きが宿っている。


「お守りをつけてりゃただのひ弱なガキだが、外せば一人前の『呪い屋』だ。……さあ、その指鉄砲、あたしに拝ませてみな」


 陽子の体が、爆発的な速度で弾けた。

 先程までとは次元が違う。床を蹴る音はもはや破裂音に近く、陽子は壁を垂直に三歩駆け上がると、そのまま天井の梁を支点にして日和の真後ろへと音もなく舞い降りた。


「っ……そこ!!」


 日和は反射的に振り返り、右手の二本指を突き出した。

 イメージするのは、体内の際限なき澱みを一箇所に凝縮し、細い管を通して超高速で射出する感覚。日和の呪詛は無尽蔵だ。使えば使うほど、彼女の奥底から際限なく湧き出してくる。それを強引に「弾丸」の形に成形する。

 パチン、と空間が爆ぜる音がした。

 指先から放たれたのは、黒く、そして毒々しい赤紫が混じった、ヘドロのように淀んだ色の「弾丸」。霊感を持つ二人の視界には、それが明確な殺意の軌跡を描き、陽子の眉間へと一直線に飛び込んでいくのがはっきりと見えていた。

 しかし。


「遅えよ」


 陽子は首をわずか数センチ傾けただけでそれを回避し、すれ違いざまに日和の横腹を鋭く突いた。


「痛っ……あ、うぅ……!」

「狙いが甘い。指先だけ動かしても当たらねえぞ。体幹で撃て。あと、一発撃った後の隙がデカすぎだ。次が来るぞ!」


 陽子の攻めは、もはや「小突き」の範疇を超えていた。

 梁から、壁から、あるいは床を這うような低位置から。陽子は三次元的な軌道を縦横無尽に描きながら、日和の「弾丸」を嘲笑うかのようにかわし続ける。

 日和は必死に指先を向け続けた。呪詛は枯渇しないが、それを「一点に絞る」という行為は、凄まじい精神的な集中力を要求する。脳が焼け付くような熱を帯び、呼吸が荒くなる。


「……はあ、はあ……っ、まだ……です!」


 日和は逃げるのをやめ、道場の中心にどっしりと腰を落とした。

 目を閉じ、五感の先にある「気配」を研ぎ澄ます。

 板の間を駆けるかすかな足音。空気を切り裂く師匠の鼓動。


(バラバラに撃つからダメなんだ。もっと……もっと鋭く、重く。陽子さんを……止めるだけの重さを……!)

 「――そこっ!!」


 日和は確信を持って、真横の空間へと指を突き出した。

 そこには、壁を蹴って急接近していた陽子の胸元があった。

 放たれた赤黒い一撃。それは、今日放った中で最も密度が高く、鋭い弾丸だった。

 ――バチィィィンッ!!

 激しい衝撃音が道場に響き渡った。

 呪いの弾丸は、陽子の胸元に正確に直撃した。


 「……!?」


 陽子の眉が、一瞬だけ驚愕に跳ね上がった。

 直撃した瞬間、陽子のジャージの胸元が、まるで目に見えない不可視の拳で殴られたかのように大きく波打ち、激しく揺れたのだ。


 陽子の体質は【完全邪気耐性】。

 本来、日和の呪いなど彼女の身体に触れた瞬間に霧散し、何の感覚も与えないはずだった。常人なら急激な体調不良や冷や汗ものの悪寒で立ち上がることもできなくなる一撃も、陽子にとっては「淀んだ風」が吹いた程度の認識でしかない。

 しかし、今の衝撃は明らかに異質だった。

 日和の呪いが、そのあまりの密度ゆえに、オカルト的な事象を超えて、物理的な影響力――念動力(サイコキネシス)に近い物理的な質量を持ち始めていた。


「……フン。今のは少し、驚いたぞ」


 陽子は止まることなく、そのまま日和の懐に飛び込んだ。

 呪詛そのものは陽子の耐性に弾き返されたが、その「衝撃」までは完全に消し去ることはできなかった。陽子は内心、この「ヒヨコ」の成長性に凄まじい危うさと期待を感じていた。


「あ――」


 日和の額に、陽子の人差し指が「トン」と置かれた。

 その直後。


 「あべしっ!?」


 強烈なデコピンが日和の脳天を揺らし、彼女はそのまま後ろにひっくり返った。


 「……詰めが甘い。当たって満足しただろ。呪いが効かねえ相手なら、次をどう動くかを考えろって言ったはずだ」


 陽子は息一つ切らさず、床に転がった日和を見下ろした。


「だが、まあ……今の弾丸は合格だ。物理的に物を揺らすレベルまで呪いを絞るとはな。大したもんだよ」


 床に転がったまま、日和は肩で荒い息を吐いた。

 全身の筋肉痛と、凄まじい集中による強烈な疲労感。けれど、不思議と心地よい達成感が胸を満たしていた。


「……陽子さん。納豆……今の当たったから、免除ですよね?」

「ああ、免除してやるよ。だがな、それまでに外した分……そうだな、二十パックは確定だ」

「そんな……! 私、そんなに食べられません……!!」


 夕暮れの茜色が差し込む道場で、日和の悲鳴が木霊した。

 特訓一日目。

 少女の指先に宿った弾丸は、世界に確かな「衝撃」を与える力を持ち始めていた。



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