5-4
「……うん、やっぱりこのドレッシング美味しい。ね、日和!」
「あ、うん……」
一月二十一日。冬の冷たい陽光が差し込む教室で、日和は自分の耳を疑うような光景の真ん中にいた。
一ノ瀬、二階堂、三橋。クラスの中でも華やかで、以前の自分なら遠巻きに眺めることしかできなかったグループの輪の中に、今、日和は当たり前のように座ってお弁当を広げていたのだ。
あの日、アスファルトの上でスマートフォンが粉々に砕け散った瞬間、一ノ瀬愛を縛り付けていた「死の秒読み」は完全に消滅した。
物理的な破壊という、日和が選んだ最も強引で、最も不器用な救済。それは一ノ瀬にとって「九死に一生を得た事故」として記憶され、同時に日和を「命の恩人」という特別な存在へと変えていた。
冬の冷たい陽光が差し込む昼下がりの教室。日和は、以前の自分なら遠巻きに眺めることしかできなかった華やかな輪の中に、当たり前のように座ってお弁当を広げている。
「ねえ、日和。昨日送った『rain』のスタンプ、見た? あれ、新しく買い直したスマホで一番最初にダウンロードしたんだから」
一ノ瀬が、新品のスマートフォンを器用に操りながら、屈託のない笑顔を日和に向けた。
「あ、うん。見たよ。……可愛いスタンプだね」
日和は少し照れくさそうに、卵焼きを口に運ぶ。一ノ瀬の顔色はすっかり良くなり、あの能面の赤ん坊に撫でられていた喉元には、今や何の影もなかった。
「もう、愛ったら日和ばっかり贔屓して。ねえ、小林さん……あ、日和。聞いてよ、私、最近すっごいついてないんだよね」
三橋が、不満そうに頬を膨らませて身を乗り出してきた。
「お気に入りのショップの抽選は外れるし、今朝は駅の階段で盛大に足踏み外しちゃうし……これって、何かの呪いかな? 日和なら分かるでしょ?」
冗談めかした三橋の言葉に、日和は箸を動かしたまま、彼女の背後へ視線を向けた。
もはや「集中」など必要ない。陽子の下で鍛えられた彼女の視覚は、意識せずとも世界の裏側を捉える。三橋の肩、その背後、淀みゆく空気。――だが、そこには何もいなかった。冬の乾燥した埃が舞っているだけで、呪いの残滓一つ落ちていない。
「……ううん。何もついてないよ、三橋さん。ただの不運、かな。たまにはそういう時もあるよ」
「そっかぁ、日和が言うなら安心かな! でも、もし何か変なのが寄ってきたら、すぐにお祓いしてよね?」
「……うん。私にできることなら」
笑い声が弾ける。
それは、数週間前の自分には想像もできなかった、あまりに眩しい「日常」だった。日和は、制服の胸元にあるお守りの感触をそっと確かめた。あの日、自分の意志で外した封印。その代償として手に入れたこの光景を、彼女は大切に、壊さないように抱きしめていた。
放課後。日和は学校帰りに、いつもの病院へと向かった。
リハビリテーション室の重い扉を開けると、そこには並行棒を掴んで懸命に体を支える美咲の姿があった。
「一、二、……一、二……!」
額に玉のような汗を浮かべ、歯を食いしばりながら一歩を踏み出す親友。両足骨折という重傷を負いながらも、彼女のリハビリは驚異的なスピードで進んでいた。
「あら、小林さん。今日も来てくれたのね」
担当の看護師が、心底不思議そうに声をかけてくる。
「美咲さん、本当に凄いのよ。普通ならまだ寝たきりでもおかしくないのに。お医者様も驚くほどの生命力っていうか……化け物じみた治癒力よね」
日和は並行棒の脇で立ち止まり、親友の懸命な姿を見つめた。
陽子や日和が何か特別な術を施したわけではない。美咲の驚異的な回復力は、彼女自身の「地力」によるものだ。
日和という「呪いの塊」のような存在の親友として、長年隣に居続けた結果。日和が無意識に漏らし続けてきた毒を全身で浴び、それを自前の免疫だけで弾き飛ばしてきたのだ。
高地で暮らす者の心肺機能が極限まで鍛えられるように。
美咲の生命力は、日和という特級の毒の中で生き抜くために、通常の人間を遥かに凌駕するレベルまで「進化」を遂げていた。
「あ、日和……! 見てて、もうちょっとで端まで行けるから!」
日和の姿を見つけるなり、美咲の顔がパッと明るくなった。彼女は汗を拭うのも忘れ、満面の笑みで大きく手を振る。
日和は胸が熱くなるのを感じながら、精一杯、手を振り返した。
「無理しないで、美咲! 応援してるから!」
病院を後にし、日和はようやく二週間ぶりに、バイト先である「ハルナシ」へと向かった。
冬の早い日没。夕闇に沈む街角で、あの独特な沈香の香りが漂ってくると、日和は「帰ってきた」という実感を覚える。
カラリ、と引き戸を開けると――。
「……陽子さん。お疲れ様です」
カウンターの奥、いつもの特等席。
そこには、一月六日の冬休み最終日以来、二週間以上「まともな姿」を見せていなかった師匠が座っていた。
「………………」
陽子は、文字通り真っ白になっていた。
肌は透き通るほどに蒼白く、焦点の合わない瞳は虚空を彷徨っている。デスクの上には、血の滲むような戦いの跡――山のような領収書の束、複雑快奇な青色申告の書類、そして「修正」の二文字が躍る税務署からの通知。
「……陽子さん? 生きてますか?」
「…………あー。……四万八千……五百……二十円……。あの経費は……どこへ……」
陽子の口から漏れるのは、呪文ではなくただの数字だ。
日和は呆れ果てて、カバンを置いてカウンターに歩み寄った。
「陽子さん! ちゃんと聞いてください! この一週間、本当に大変だったんです。陽子さんが書類に埋もれて助けてくれないから、私、鬼塚さんのタワマンに泊まり込んで、死に物狂いで調べたんですよ! デジタルな『不幸の手紙』と連動して、一ノ瀬さんの喉を撫で回す赤ん坊がいて……!」
日和は、自分が経験した恐怖、鬼塚との奇妙な共闘、そして最後にお守りを外して自らの呪いを行使した決断について、熱を込めて話した。誰かに聞いてほしかった。師匠として、何らかの言葉が欲しかった。
しかし。
「……あー。うん。よかったな。……それよりよ、ヒヨコ。お前、タクシーの領収書とか持ってねえか。……一枚でいい。一枚あれば、世界が救われるんだよ……」
陽子の意識は、完全に税務上の不整合に囚われていた。日和の渾身の報告は、右から左へと、虚空へ向かって無惨に受け流されていく。
「……もう! 最低です、陽子さん! 私の修羅場より確定申告の方が大事なんですか!?」
「当たり前だろ……。祟り神は殺しゃ済むが、税務署は死んでも追いかけてくるんだよ……。あー……あたしの精神が、一円単位で削られていく……」
ガクッと、陽子の首が折れるように机に突っ伏した。
「知りません! もう勝手に真っ白になっててください!」
日和は頬を膨らませ、プンプンと怒りながら、乱暴に雑巾を絞って店内の掃除を始めた。
棚を拭きながら、ふと視線を感じて顔を上げると、店の隅に鎮座する市松人形……表情豊かな「あの子」と目が合った。
人形は、どこか「災難だったね」とでも言いたげな、慈愛に満ちた、しかしどこか茶目っ気のある表情で日和を見つめている。
「……貴女もそう思うでしょ? あの人、自分の精算で手一杯で、私のことなんて眼中にないんだから」
日和は人形に愚痴をこぼしながら、埃を払った。
怒りながらも、どこかで安心している自分に気づく。燃え尽きた師匠、喋らない人形。この不格好で、どこか狂った場所こそが、自分の居場所なのだと。
けれど、窓の外を見つめる日和の瞳が、ふと陰った。
自分たちの日常は、こうして守られた。美咲は笑い、一ノ瀬も救われた。
だが、あの日和が感じた「デジタルな呪いの気配」は、今もどこかで、知らない誰かの日常を侵食しているのではないか。
(私の力も……あのお守りを外せば、人を救うどころか、容易く命を奪い取れるものなんだ)
日和は、再び首にかけたお守りの上から、自分の鼓動を確かめるように手を当てた。
救済と殺戮は、表裏一体。
灰になった陽子の背中を見つめながら、日和は、以前とは違う、少しだけ重くなった自分の「視座」を噛み締めていた。
◎
湾岸の夜景を眼下に見下ろす、静寂に包まれたタワーマンションの一室。
鬼塚百は、数台のモニターが青白く発光するデスクの前で、一心不乱にキーボードを叩いていた。彼女のその巨体は、このハイテクな空間においてもなお異質な圧迫感を放ち、手首の数珠が微かな電子音に混じってジャラリと不吉な音を立てる。
部屋の明かりを落とした書斎で、鬼塚の鋭い眼光がモニターの文字列を走る。
彼女が対峙しているのは、もはや古文書に記された怨霊や、土着の因習といった「アナログ」な呪いではない。ネットワークの海を光速で駆け抜け、無差別に命を刈り取るデジタル・カース。
「……よし。これで、ボクが繋がってる主要なオカルト・コネクションには全部回したかな」
鬼塚が送信ボタンを押すと、暗号化されたメールが各所の「専門家」たちへと飛んでいった。内容は、現在拡散されつつある『不幸の手紙』の真実と、その唯一の対処法について。
『――警告。現在拡散中のチェーンメールは、単なる悪戯ではない。受信者の精神とデバイスをリンクさせ、物理的な窒息を引き起こす高度な呪詛プログラムである。既存のお祓いやデータ消去は無効。対処法は唯一つ、受信したデバイス自体の物理的完全破壊のみ。躊躇は死を招く。各員、速やかに周知徹底されたし』
鬼塚は深く椅子に背を預け、天井を仰いだ。
この呪いの最も凶悪な点は、「気づかないこと」がそのまま「死」に直結するという構造にあった。
現代においてメールは既にメインの連絡手段から外れつつある。そのため、呪いのメールが届いても、多くの場合は迷惑メールボックスに振り分けられるか、通知が来ても他の情報に埋もれて見逃される。
だが、その「見逃し」こそが、呪いのプログラムを完成させる。
受信に気づき、スマホを物理的に破壊するという「外科手術」を行わなかった者は、例外なく、背後に現れた赤ん坊に喉を撫で回され、そのまま絞め殺される。今回の被害者の大半は、この「無自覚な放置」によって命を落としていた。
「……しかも、これ。メールの指示通りに三人に転送しても、結局助からないんだよねぇ」
鬼塚が解析したこの呪いのアルゴリズムは、あまりに悪趣味だった。
たとえ恐怖に駆られて三人に拡散したとしても、この呪いの定着率はわずか4割から5割程度。残りの半分は、対象が持つ強固な「自前の免疫」――異常な生命力や、神仏、先祖、守護霊といった霊的な加護――によって無慈悲に弾かれる。
そして弾かれた呪いは、霧散することなく「呪い返し」として送信者へと逆流するのだ。
「拡散したところで定着しなきゃ自分が死ぬ。拡散しなければ当然死ぬ。……最初から、生き残る道なんて用意されてない。悪辣だなぁ」
極稀に、発症した瞬間に高度な医療行為を施されたり、あるいは偶然にも霊験あらたかな大神社や古刹に参拝中だったりした者が、その場で解呪されて助かったという「極少数の奇跡」が報告されている。だが、それは文字通り、宝くじに当たるような確率でしかなかった。
鬼塚は、警察内部のパイプから流してもらった、発信源とされる主婦の一家の捜査報告書を眺めた。
「……この主婦、なんと千通もバラ撒いてる。……これじゃあ、家族も保たないよ」
彼女がバラ撒いた千通のうち、約六百通分が「自前の免疫」を持つ者たちによって弾き返された。
人一人を確実に呪殺するエネルギーが、六百倍の質量となって、一人の主婦へと逆流したのだ。
非公開の捜査資料に記された現場は、地獄という言葉すら生温いものだった。
主婦の夫、そして息子と娘。彼らは、逃げ場のない呪いの激流に巻き込まれ、首を九十度以上、不自然な方向へネジ切られた状態で発見されていた。
そして発信源である主婦自身は、さらに凄惨だ。全身の関節、内臓、首、そのすべてが、巨大な目に見えない力によって、雑巾のようにネジ切られていた。
テレビのニュースでは、今も「外部からの侵入者による他殺」として報じられている。
鬼塚は、その歪な報道を鼻で笑った。
「この主婦はただの『起爆剤』だろうね。……これを作った奴は別にいる」
鬼塚や世界中のオカルト関係者がいくらネットワークを遡っても、この呪詛プログラムを書き上げた「真の製作者」の正体は、深い霧の向こう側だった。
そいつは何が目的で、こんな呪殺テロを仕掛けたのか。
確かなのは、主婦という駒を使い潰し、膨大な「呪い返し」のリスクさえも計算に入れて、そいつは今もどこかで静かに笑っているということだ。
『……さて! ここで残念なニュースが入ってきました! 国民的人気アイドルの星野さんが、本日、自身のブログで電撃引退を発表。突然の報告に、ネット上では悲しみの声が溢れています。星野さんは今後……』
モニターの中で、アナウンサーの声が一段と明るくなる。
凄惨な一家心中(のような不審死)も、ネットワークの裏側で蠢く死の連鎖も。
すべては「アイドルの引退」という、大衆にとってより消費しやすい情報に塗り潰されていく。
「……いいよ、それで。そのまま、忘れ去られて消えていけばいい」
皮肉にも、現代人の「飽きっぽさ」と、ターゲットの半分が持つ「自前の免疫」による呪い返しのリスクが、この最悪な呪いを終息へと向かわせていた。
鬼塚はモニターの電源を切り、暗闇の中に独り残された。
(ヒヨちゃん。ボクたちは、こういう『塗り潰される側の真実』を一生背負っていくしかない。……あの日、君が手を汚して救った日常は、そうやって守られていくんだよ)
鬼塚は、再びキーボードに向き合った。
その巨体は、眠らない街の灯りを背に、次の「悪意」が芽吹くのを監視し続ける。
湾岸の夜は深く、沈黙だけが、ただ重く降り積もっていった。
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