5-3
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一月十四日、月曜日。
湾岸の超高層タワーマンションの窓外は、呪いの霧を煮詰めたような重苦しい曇天に覆われていた。
超高層タワーマンションの最上階に近いゲストルーム。日和は、昨夜もほとんど眠れぬまま朝を迎えていた。高級なエジプト綿のシーツの滑らかさも、身体が沈み込むような低反発のベッドも、今の彼女にとっては落ち着かない要素でしかなかった。隣の寝室から、地響きのように鳴り響く鬼塚の激しい「いびき」が止んだ時、それは日和にとって、残酷なタイムリミットを告げるカウントダウンの開始を意味していた。
「おはよー、ヒヨちゃん! 準備はいいかい?」
リビングへ出ると、そこには既に戦闘態勢を整えた鬼塚が立っていた。その巨体は、朝の逆光を浴びて、部屋の中に巨大な闇を落としている。彼女はダボついたオーバーサイズのパーカーのフードを被り、手首に巻かれた特大の数珠をジャラリと鳴らした。
「さあ、出発だよヒヨちゃん! シャキッとしなよぉ!今日はボクたちが、そのデジタルな死神の鎌をへし折ってやる日だからね!」
鬼塚の力強い言葉とは裏腹に、日和の脚は、冷たい鉛を詰め込まれたように重い。二人はエレベーターを降り、タワマンのエントランスを出た。
通勤ラッシュの波が押し寄せる駅までの道中、鬼塚の存在感はもはや一種の「暴力」に近かった。180cmを優に超える巨躯、そして隠しきれない異様なオーラ。すれ違うサラリーマンも、登校中の学生も、一様に足を止め、あるいは振り返って彼女を見上げる。鬼塚はそんな視線を「あはは、今日もボクは人気者だねぇ」と少年のように笑い飛ばし、ズンズンと歩を進めていく。
「鬼塚さん……本当に、目立ちすぎです。学校までついてくるなんて」
「いいんだよ、ヒヨちゃん。ボクはアウトドア派だからさ、こういう視線には慣れてるんだよね。それにさ、ボクが見てないと不安でしょ? 昨日の調査でわかった通り、今日が一ノ瀬ちゃんの『三日目』だ。何が起きてもおかしくない」
鬼塚は、日和が制服の胸元をぎゅっと握りしめているのを見て、静かに目を細めた。そこには、陽子から託された厄払いのお守りがある。二日間の共同生活で、鬼塚は日和が一度もそれを外さなかったことを知っている。
「……じゃあ、ボクはあそこの植え込み付近に潜伏してるよ。何かあったらすぐにアプリで呼んでよね。ボクの腕力が必要になったら、いつでも殴り込んであげるから」
「……それだけは本当に勘弁してください」
校門の前でそう言い残すと、鬼塚は不自然に大きな体を折り曲げるようにして、学校前の並木道へと消えていった。
日和は深い溜息をつき、一人で校舎へと足を踏み入れた。
◎
一時間目のチャイムが、教室の冷たい空気を切り裂く。
いつも通りの月曜日の朝。週末の疲れを引きずった生徒たちの私語が、重低音のように室内に漂っている。しかし、日和の目に映る景色は、他の誰とも違っていた。
窓際の特等席。冬の鈍い光を浴びる一ノ瀬愛の姿。
先週の金曜日、最後にお祓いをした時と比べれば、彼女の消耗は明らかだった。死病に侵されているわけではない。だが、顔色はどこか土気色を含んだ青白さを見せ、彼女はしきりに喉元を摩っていた。時折、肺の奥まで空気が届かないかのように、短く、浅い呼吸を繰り返している。
そして、その背後には。
そこには、もはや「影」や「靄」と呼ぶには生々しすぎる【能面のような赤ん坊】が、一ノ瀬の肩にその黒く膨らんだ腹を乗せていた。赤ん坊は無機質な視線を虚空へ向けたまま、小さな、しかし力強い五本の指で、一ノ瀬の白く細い喉を――。
それは絞め殺すというより、まるで、愛しいものを愛でるように。
ゆっくりと、じっくりと、指の腹で喉を撫で回していた。
(……また赤ちゃんの姿になってる。もう猶予がない)
日和は恐怖で震える手を、教科書の下に隠した。机の中で、スマートフォンを操作する。メッセージアプリ『rain』の画面が、薄暗い教室内で不気味に発光した。
『鬼塚さん、一ノ瀬さんの様子、先週よりずっと悪いです。あの赤ちゃん……ずっと彼女の喉を撫でてます……』
即座に画面が震える。
『見てるよぉ。ヒヨちゃんの教室、三階の右から二番目の窓だよね? ボク、今フェンスの影にいるから。ほら、見える?』
日和が視線を窓の外へ向けると、校門脇の植え込みから、不自然に巨大な頭部がひょっこりと顔を出しているのが見えた。あの巨体がフェンスに隠れきれるはずもなく、通行人が怪訝そうな顔で彼女を避けていく。
変質者ギリギリの不審な動きだが、本人は少年のように楽しそうに手を振っている。
『……鬼塚さん、本当にお願いですから隠れてください。通報されます』
スマホを閉じ、日和は再び一ノ瀬の背後を注視した。お祓いをすれば、一時的にはあの赤ん坊を消せるだろう。だが、スマホの中にある『不幸の手紙』という供給源を断たない限り、翌日にはまたあの指が彼女の喉に戻ってくる。本体をどうにかしなければならないのだ。
四時間目の終わりを告げるチャイム。それは日和にとって、処刑台へ向かう合図のように聞こえた。
教室内が弁当の匂いと喧騒に包まれる中、日和は震える膝に力を込め、立ち上がった。心臓の音が耳元でうるさいほど鳴り響いている。
(言わなきゃ。私から、話しかけなきゃ……!)
一ノ瀬は、仲の良い二階堂と三橋に囲まれ、お弁当を広げようとしていた。日和はその輪の中へ、泥沼に踏み込むような覚悟で歩み寄った。視界の隅で、赤ん坊の指が一ノ瀬の喉元をひときわ強く愛撫した。
「……あ、あの。一ノ瀬さん」
日和の声は、騒がしい教室内で今にも消えてしまいそうだった。
一ノ瀬は、仲の良い二階堂と三橋と共に机を合わせていたが、弱々しく顔を上げた。
「……何? 小林さん。ごめん、今ちょっと……喉が変なんだ。風邪かな。あんまり、喋りたくないんだけど」
一ノ瀬の声はかすれていた。首を傾げるたびに、背後の赤ん坊が嬉しそうに手足をバタつかせる。
「……ごめんなさい。でも、どうしても、一ノ瀬さんのスマホを見せてほしいの。変なメールが届いてないか、確認させてもらえませんか……?」
一ノ瀬の瞳に、明らかな不快の色が宿った。
「……はあ? またそういう話? 朝からずっと私のことジロジロ見てたよね。……正直、気味悪いよ」
「……お願い! 一瞬でいいから! 本当に、命に関わることなの!」
日和の異常なまでの必死さに気圧されたのか、一ノ瀬は「……勝手にしてよ」と、投げ出すようにスマートフォンを差し出した。
日和はひったくるようにそれを受け取り、メールボックスを検索する。
――見つけた。
昨日、鬼塚のパソコン画面で見たものと全く同じ、鎖の絵文字で縁取られた『不幸の手紙』。
日和は迷わず削除ボタンを押した。ゴミ箱からも完全消去する。これで供給源は消える。はずだった。
しかし、画面中央で同期のマークが呪わしく回転した直後。
ピコン、という無機質な着信音と共に、消したはずのメールが再び受信トレイの最上段に君臨した。
「……っ!? なんで……削除したのに……!」
「……もういい? 返してよ。気分悪いんだってば」
一ノ瀬がスマホを奪い返す。彼女の顔は、体調の悪さからくる苛立ちで今にも泣き出しそうだった。
「一ノ瀬さん、今の見たでしょ!? 勝手に復活したの! そのメール、呪われてるんだよ。今日中にどうにかしないと、一ノ瀬さんの身に、取り返しのつかないことが……!」
「……いい加減にしてよっ!!」
一ノ瀬が、残った力を振り絞るように叫んだ。その衝撃で、彼女の背後の赤ん坊が、ニタリと能面のような笑みを浮かべた。
「あんた、私が具合悪い時に、何なの!? 呪い? 命? バカじゃないの? 普段暗いくせに、急に絡んでこないでよ!」
一ノ瀬の激しい拒絶の意志。教室内の一角が、急速に凍りつく。一ノ瀬は肩で息をしながら、日和を拒絶するように背を向けた。
「……ちょっと、あいっち。言い過ぎだよ。ひよりんも、心配してくれてるみたいなんだし……」
二階堂が、一ノ瀬の激昂にたじろぎながらも、宥めるように声をかける。
「そうだよ。愛は今日、本当に体調悪いんだから。……小林さんも、今はそっとしておいてあげて。ね?」
三橋も、一ノ瀬の背中をさすりながら、困ったように日和を遠ざけようとした。
「……ごめん。ごめんなさい……」
拒絶の言葉を背中に受けながら、日和は逃げるように教室を飛び出した。
日和の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
だが、その涙が乾く前に、日和は自らの胸元……制服の下にある「お守り」の感触を確かめた。
(どうすればいいの……陽子さん。私じゃ、一ノ瀬さんを救えない……)
視界が涙で歪む。手足は氷のように冷たい。屋上へ続く階段の踊り場、人影のない場所で日和はスマートフォンを取り出した。震える指で『rain』を起動し、縋るような思いで鬼塚へメッセージを送る。
『鬼塚さん、ダメでした。メールを消しても一瞬で復元されます。一ノ瀬さんにも……拒絶されてしまって。もう、どうすればいいか分かりません』
すぐに返信が来る。だが、その内容は日和が期待していた「魔法のような解決策」ではなかった。
『……クラウドの自動同期と呪いのプログラムが完全にリンクしてるんだね。正直に言うよ、ヒヨちゃん。ボクは古今東西の呪物や文献には詳しいけど、現代のネットワーク技術と呪詛が高度に融合しちゃったものは、ボクの専門外だ。論理的な対処法が見当たらない』
鬼塚の言葉が、最後の日光を遮るように日和の心を閉ざした。
知識の宝庫である鬼塚ですら分からない。最強の守護者である陽子はいない。
一ノ瀬の背後で、あの能面の赤ん坊が今この瞬間も、彼女の喉元を愛おしげに――そして確実に命を奪うために――撫で回している光景が目に浮かぶ。
(どうすればいいの……。このままじゃ、一ノ瀬さんが……)
日和は膝を突き、冷たいコンクリートの床にうずくまった。
その時。閉じた瞼の裏に、かつて自分に居場所をくれた大切な人たちの声が響いた。
『日和、あんたってさ、自分で思ってるよりずっと「強い」んだよ?』
それは、親友・美咲の屈託のない笑顔と、確信に満ちた声だった。
続いて、重厚で、どこか突き放すようでいて深い慈愛に満ちた、あの師匠の声が脳裏を打つ。
『お前はもう、そこらのガキ共には見えない世界を歩き、祟り神と対峙した。修羅場をくぐった奴の拳は重くなる。お前の視座は、もう以前とは違うはずだ』
陽子の言葉。あの廃旅館で、死の淵を彷徨いながらも「生」を掴み取った自分。
日和はゆっくりと目を開けた。涙はまだ止まらない。けれど、瞳の奥には静かな、暗い焔が宿っていた。
(……視座を変える。根本を、どうにかする)
鬼塚が言っていた。本体がある限り、外側を何度祓っても無効だと。
一ノ瀬はスマホを手放さない。ならば、物理的に手放させるしかない。
陽子が言っていた。自分は、人より「重い」ものを持っていると。
(私には……人を救う力なんてないかもしれない。でも、他者を不幸にする才能なら、呪いそのものとして、私の中に流れてる)
日和は、制服の胸元に手を伸ばした。
指先が、陽子から借りている「厄払いのお守り」の紐に触れる。これを着けている限り、日和は「無害な少女」でいられる。だが、今のままでは、大切な友人を救うための「牙」さえ持てない。
(ごめんなさい、陽子さん。……一度だけ、この封印を解きます)
日和は覚悟を決め、首にかかった紐を解いた。
肌身離さず持っていたお守りが、日和の体から離れる。
その瞬間――。
ドロリとした、墨汁を血管に流し込まれたような、悍ましい重圧が全身を駆け巡った。
かつては「なぜか運が悪い」という感覚でしかなかったその不吉な重みが、今ははっきりと、自分の一部である『呪詛』として知覚できる。廃旅館での全開放、そして陽子の指導を経て、日和は己の中に眠る底なしの深淵を正しく認識してしまっていた。
肉体への直接的なダメージはない。しかし、精神を圧迫する圧倒的な「不浄」の質量が、日和の輪郭を歪ませる。指先から黒い澱みのような気が滲み出し、彼女の周囲の温度がわずかに下がった。
「……ごめんなさい、一ノ瀬さん」
日和は、一ノ瀬を「守る」ためではなく、明確に「呪う」ためにその力を行使した。
イメージするのは、彼女の「喪失」。
彼女が大切に握りしめている、あの呪いの依代――スマートフォンを、強制的に、修復不能な形で失わせる「不幸」。
「……いけ」
日和が解き放った黒い糸が、壁を抜け、床を這い、一ノ瀬愛というターゲットへ向かって真っ直ぐに伸びていった。
放課後。
一ノ瀬は二階堂と三橋と共に校門を出た。
一歩、また一歩。駅へ向かう彼女の足取りは、呪いの影響でいつになく覚束ない。
校門のすぐそば、不自然に巨大な影を落として電柱の陰に隠れている鬼塚が、日和に視線で合図を送る。
日和は、少し離れた位置から彼女たちの後を追った。
お守りを外した日和は、いつもの「目立たない少女」ではなかった。その身に纏う空気は鋭く尖り、彼女が歩くたびに周囲の人間が無意識に身をすくめて道を開ける。瞳の輝きは変わらないが、その奥底に潜む凄まじい威圧感は、もはや普通の女子高生のそれではない。
「愛、大丈夫? やっぱり顔色悪いよ」
「うん、なんか……足元がフワフワして……」
一ノ瀬が、カバンからスマートフォンを取り出した。時刻を確認しようとした、その時だった。
日和が放った「不幸の呪い」が、彼女の足元に絡みつく。
「あ――っ!」
何もない平坦なアスファルトの上で、一ノ瀬が激しく躓いた。
彼女の手から、スマートフォンが放り出される。
それだけではない。日和がかけた呪いは、残酷な連鎖を引き起こした。転びそうになった一ノ瀬の体は、大きく車道側へとよろめき、そこへ――。
――ッ!!
脇道を曲がってきた配送トラックが、猛スピードで一ノ瀬に迫る。
キィィィィッ!! という耳を劈くような制動音。
すべては日和の計算通り。いや、計算を超えた「最悪の幸運」。
「一ノ瀬さん!!」
日和は、自分の中に残る全神経を叩き込み、一ノ瀬の背中を全力で突き飛ばした。
二人の体は歩道のアスファルトへ転がり込み、間一髪でトラックのバンパーをすり抜ける。
だが、彼女の手から離れ、路上に落ちたスマートフォンは。
――バキィッ、という、嫌な音が響いた。
トラックの重厚なタイヤが、一ノ瀬のスマートフォンを、逃げ場のないアスファルトとの間で無慈悲に踏み潰した。
最新型の端末は、一瞬でガラスとプラスチックの破片へと変わり、中身の基板ごと粉々に粉砕された。
「……あ、あぁ……」
歩道に倒れ込んだ一ノ瀬が、呆然と車道の中央を見つめる。
そこには、かつて彼女の生活のすべてだった、黒い瓦礫の山が散らばっていた。
日和の視界。
スマートフォンの破壊と同時に、一ノ瀬の背後で絶脳面のように無表情な赤ん坊が絶叫し、形を失っていくのが見えた。
依代が物理的に完全破壊されたことで、残データごと呪いの拠り所が消滅したのだ。呪いのエネルギーは行き場を失い、寒空の下で霧散していった。
「愛! 大丈夫!? 愛!!」
駆け寄る友人たちの声。
「……小林、さん……? 助けて、くれたの……?」
一ノ瀬が、震える手で日和の腕を掴んだ。彼女の顔には、恐怖と、そしてそれ以上に深い感謝の色が浮かんでいた。
「……ありがとう。私、死ぬかと思った。スマホ……壊れちゃったけど、小林さんが助けてくれなかったら……」
感謝の言葉。
けれど、その言葉は鋭い刃となって日和の胸を抉った。
自分が彼女を呪い、事故を誘発させ、スマホを壊したのだ。
助けたのも自分だが、原因を作ったのも自分だ。
陽子さんのような鮮やかな「お祓い」ではない。自分ができるのは、こんな、泥を泥で洗うようなマッチポンプの救済だけ。
「……ううん。ごめんね、一ノ瀬さん。スマホ……壊しちゃって。本当に、ごめん……」
日和は、握られた一ノ瀬の手を振り払うようにして、その場に立ち尽くした。
やり切れない。吐き気がする。救ったはずなのに、心は真っ黒な泥に浸されたようだった。
「……ヒヨちゃん」
いつの間にか、背後に慣れ親しんだ巨体が立っていた。
鬼塚百は、いつもの少年のように明るい笑顔ではなく、どこか哀しげな、慈しむような目で日和を見つめていた。
「……やり方は最悪だったかもしれないけどさ。ボクは、今のヒヨちゃん、嫌いじゃないよ。……ほら、これ」
鬼塚が、日和の手から零れ落ちそうになっていた「紐」を指差し、お守りを着けるように促した。
「……さあ、戻りなよ。自分を許せなくてもいいけど、その『重い拳』の使い方は、ボクがちゃんと見てたからさ」
日和は震える手でお守りを再び首にかけた。
瞬時に、世界を覆っていた禍々しい圧迫感が消え、元の灰色の景色に戻る。
一ノ瀬愛の命は助かった。
デジタルな呪いの連鎖は、一人の少女の、最も不器用で身勝手な「呪い」によって、完全に幕を閉じたのだ。
日和は、泣き出しそうな一ノ瀬を支える友人たちの輪を背に、鬼塚と共に歩き出した。
その背中は、ほんの少しだけ、以前よりも頼もしく、そして孤独に揺れていた。
誤字・脱字報告、感想コメント、評価、お待ちしております。
書いた後に気が付いたのですが、14日は成人の日でした。参りました。
この日は短縮日課で授業は午前中だけだったということで。




