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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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5-2

仙台から帰宅しました。体調がまた悪くなりました。

 

 土曜日。日和は、湾岸エリアにそびえ立つ超高層タワーマンションの前に立っていた。

 オートロックのインターホンを鳴らすと、「はーい、ヒヨちゃん! 待ってたよぉ!」という、少年のように突き抜けて明るい声が返ってくる。

 最新鋭のエレベーターに揺られ、35階へ。指定された部屋の重厚な扉を開けた瞬間、日和は思わず息を呑んだ。

 そこに立っていたのは見上げるような巨躯、女性としては規格外の体格を持つ鬼塚百だった。


「やっほー、ヒヨちゃん! 遠いところよく来たねぇ!さあさあ、入って入って!」


 ダボっとしたオーバーサイズのパーカーに身を包んでいるが、それでも隠しきれない肩幅と四肢の長さ。巨木のような圧迫感があるはずなのに、彼女が浮かべる屈託のない笑みと、手首で常にジャラジャラと鳴らされている大きな数珠の音が、その威圧感を不思議な愛嬌へと変えていた。


「あ、あの……鬼塚さん、お久しぶりです。急に連絡しちゃってすみません」

「 いいってことよ!ヨウちゃんが例の件で使い物にならないって聞いて、ボク、もう心配で心配で……半分くらいは笑っちゃったけどさ!」


 鬼塚は、大きな手で日和の背中をポンと叩いた。それだけで日和の体は前方にのめりそうになり、慌てて体勢を立て直す。


「笑い事じゃないんですよ……」


 日和が大きく溜め息を吐きながら語ると、鬼塚はケラケラと喉を鳴らして笑った。

 案内されたリビングは、高級ホテルのスイートルームのようだったが、その一角にある書斎スペースは異様だった。床から天井まで届く本棚には、古今東西の民俗学、宗教学、オカルト雑誌、果ては出所不明の古文書が隙間なく詰め込まれている。


「で、そのクラスメイトの子の話だけどさ。もう一回詳しく聞かせてくれる?」


 日和は持参したメモを広げ、声を震わせながら話した。


「……毎日なんです。一月九日からずっと。私が毎日消しているのに、次の日学校で会うと……また同じ場所に、形の無い黒い靄が憑いてるんです。原因も分からないし。鬼塚さん、私、どうすればいいか分からなくて」


 鬼塚は、リビングのソファにどっしりと腰を下ろした。彼女が座るだけで、三人がけのソファが一人用にすら見える。数珠を指先で回しながら、彼女は少しだけ真剣な目をした。


「……なるほどねぇ。正直、今の話だけだとボクにも正体は絞り込めないかな。呪いってのはね、ヒヨちゃん。形は似てても、その『エンジン』が何かってことで対処法が全然変わるんだよ」


 鬼塚は立ち上がり、書斎から一冊の分厚い本を抱えて戻ってきた。


「ちょっとお勉強の時間だよ。呪術には大きく分けて二つの法則がある。一つは『類感呪術』。形が似ているものは、互いに影響し合うっていう考え方だ。藁人形なんてその典型だよね。相手に似せた人形を傷つければ、本人の体も傷つく。これを『模倣の法則』とも言うんだ」


 鬼塚は少年のように目を輝かせながら、ページをめくって日和に見せる。日和は身を乗り出して、その不気味な挿絵を見つめた。


「もう一つが『感染呪術』。一度接触したもの、あるいは体の一部だったものは、離れた後もずっと繋がっているっていう考え方だ。髪の毛や爪を使って呪うのは、この『接触の法則』を利用してるんだよ。……で、今回のヒヨちゃんが戦ってる相手だけど、消しても消しても湧いてくるってことは、どこかに強固な『繋がりの起点』があるはずなんだ」

「感染……繋がりの起点、ですか」


 日和は、鬼塚の言葉を必死に理解しようと食い入るように聞いた。陽子は経験則を元に感覚的に「叩き潰す」タイプだが、鬼塚は事前知識で理論立てて「解剖する」タイプなのだと気づく。


「でもさ、これだけじゃ答えは出ないね。ボクの蔵書をひっくり返して、似たような事例がないか調べてみるよ。ヒヨちゃんも手伝ってくれる?」


 それから数時間、二人は書斎に籠もった。

 日和は鬼塚に指示されるまま、埃を被った古い文献のページをめくり、不気味な挿絵が描かれた資料を整理した。鬼塚は巨体を折り曲げるようにしてデスクに向かい、時折「これは違うなぁ」「こっちは可能性あるかも?」と独り言を漏らしながら、情報を精査していく。

 気づけば、窓の外の景色は、まばゆい夜景へと変わっていた。


「あー! 腹減った! 脳みそ使うと胃袋が空っぽになるねぇ!」


 鬼塚は大きく伸びをして、天井に届きそうなほど両手を突き上げた。


「ヒヨちゃん、ボク、料理は全くしない主義なんだ! 今日はパーっと出前頼んじゃおう! ボクの行きつけの、味はいいけど量がバカみたいな中華があるんだ!」


 三十分後、リビングのテーブルには、到底二人分とは思えない量の中華料理が並んだ。

 山のような炒飯、真っ赤な麻婆豆腐、皿から溢れんばかりの唐揚げ、そして何十個もの餃子。


「鬼塚さん、これ、本当に二人分ですか……?」

「大丈夫、ボクが八割食べるから! さあ、食べて食べて! 遠慮してたらボクが全部平らげちゃうよぉ!」


 鬼塚は、巨体に見合った凄まじい食欲で、次々と料理を口に運んでいく。日和も釣られて箸を動かしたが、慣れないタワマンの豪華さと、目の前のバイタリティの塊のような女性に圧倒され、味はあまり分からなかった。


 食後、鬼塚は「先にシャワー浴びてきなよ、ヒヨちゃん!」と浴室を貸してくれた。

 大理石調のバスルームは、日和の家の自室よりも広いのではないかと思うほどで、自動で流れるヒーリングミュージックまでかかっている。お湯の温度すらも完璧に管理されていたが、日和は落ち着かなすぎて、カラスの行水のように慌ただしく上がってしまった。


「……ふぅ。寝る準備も万端だね!」


 鬼塚が用意してくれたゲスト用のベッドは、信じられないほどフカフカで、雲の上に寝ているようだった。しかし、ここでも日和は「落ち着かない」という壁にぶち当たる。

 さらに、追い打ちをかけるような事態が発生した。


「グガァァァ……! ズ、ズズー……ッ!!」


 隣の寝室から、地響きのような、あるいは重機が動いているような凄まじい音が聞こえてきたのだ。

 鬼塚のいびきだった。

 その巨体から放たれる呼吸音は、壁を越えて日和の枕元を振動させていた。


(……すごい。鬼塚さん、寝てる時までパワフルだ……)


 日和は枕に頭を沈め、耳を塞ごうとしたが、振動までは防げない。

 一ノ瀬の背中の影のこと。燃え尽きた陽子のこと。そして、この豪華すぎるタワマンの静寂を切り裂く、規格外のいびき。

 明日、何かが分かるだろうか。

 日和は結局、ほとんど眠れないまま、摩天楼の夜が明けていくのを待つことになった。


 ◎


 日曜日の朝。絶え間なく響いていた鬼塚の重機そっくりのいびきが止まり、タワーマンションに不自然な静寂が訪れました。

 日和は結局、数時間ほどまどろんだだけで、重い体を引きずるようにリビングへ向かいました。そこには、185cmの巨体をさらに大きく見せるように、朝の光を浴びながらコーヒーを啜る鬼塚の姿がありました。


「おはよー、ヒヨちゃん! 昨日はよく眠れたぁ?」

「……おはようございます、鬼塚さん。ええと、ベッドが凄すぎて、逆に緊張しちゃいました」


 日和の言葉に、鬼塚は「あはは、ボクも最初はそうだったよ!」と快活に笑い飛ばしました。



 日曜日。

 調査を開始してから丸一日が経過しようとしていた。鬼塚の広大な書斎には、開かれたままの古文書や、付箋だらけの民俗学の資料が散乱している。しかし、それだけの物量を持ってしても、一ノ瀬の背中の「消えない靄」の正体には辿り着けていなかった。


「……クソッ、掠りもしない。ボクの蔵書に載ってないタイプの呪いなんて、そうそう無いはずなんだけどなぁ……!」


 鬼塚が苛立ちを隠そうともせず、手首の大きな数珠をジャラジャラと乱暴に鳴らした。その巨体が動くたびに、上質な革の椅子が悲鳴のような音を上げる。彼女の額には脂汗が浮かび、少年のように明るかった表情は、焦燥感によって険しく歪んでいた。

 日和もまた、昨夜から続く緊張と寝不足で、思考が霧に包まれたようだった。


「鬼塚さん、こっちの『返り魂』の記述はどうでしょう。一度祓っても、術者の執着が強ければ戻ってくるっていう……」

「いや、それは違うね。ヒヨちゃんが祓った時の手応えは『霧散』だったんでしょ? 魂が戻るならもっと粘り気のある感触がするはずだ。……あー! イライラする! ボクの理論がこれっぽっちも役に立たないなんて、ヨウちゃんに知られたら一生バカにされるよぉ!」


 鬼塚は机を叩き、天井を仰いだ。巨体の彼女が本気で苛立つと、部屋全体の空気が震えるような錯覚に陥る。陽子のように現場の空気で解決できない自分へのもどかしさが、その大きな背中に滲み出ていた。


 二人の間に重苦しい沈黙が流れる。

 打開策が見つからないまま、時間だけが無情に過ぎていく。そんな停滞を切り裂いたのは、壁に埋め込まれた大型モニターから流れる、ニュース番組の速報音だった。


『――昨日午後、国道を走行中の大型トラックが中央分離帯に激突する事故がありました。ドライブレコーダーの映像には、運転手が突然、何かに喉を詰まらせたような仕草を見せ、急激な呼吸困難に陥った直後にハンドル操作を誤った様子が記録されています』


 画面には、無残にひしゃげたトラックのフロント部分が映し出される。日和はその映像をぼんやりと見つめていたが、続くニュースの言葉に、全身の毛穴が逆立つような感覚を覚えた。


『次のニュースです。本日未明、都内のマンションで大学生の男性が死亡しているのが発見されました。発見当時、目立った外傷はなく、現場に争った形跡もなかったようです。警察の調べによれば、死因は“急性窒息死”の可能性があるとのことです。同様の不審な急死は今週に入り、都内近郊で数件報告されており、一部では未知のウイルスによる感染症を懸念する声も上がっています』


 窒息。未知の感染症。

 その単語が耳に入った瞬間、日和の視界からリビングの豪華な景色が消えた。

 代わりに浮かんできたのは、一月八日。教室の窓際で、少し青白い顔をして「最近、肩が重くてさ」と首を傾げる一ノ瀬の姿だ。

 そして、その背後。靄が形を成した時の、あの悍ましい姿。


(……あの、赤ちゃん)


 生々しく、無機質な能面のような顔。それが一ノ瀬の細い喉元を、愛撫するように、しかし確実に力を込めてしがみついていた。


「鬼塚さん……! これ、テレビのニュース……事故も、不審死も、みんな『窒息』してます。私が一ノ瀬さんの背中に見たあの赤ん坊、彼女の首をずっと絞めようとしてたんです。これ、偶然じゃない気がします……!」


 日和の叫びに、鬼塚が弾かれたようにモニターへ向き直った。彼女の鋭い眼光がニュースの情報を飲み込んでいく。


「……窒息、ね。物理的な痕跡がないのに死に至る。世間じゃウイルスのせいにして逃げてるけど、ボクたちの領域じゃ答えは一つだ。呪いによる強制的な生命機能の停止。……よし、ちょっと待ってて。ボクの独自のルートで、この被害者たちの周辺を根こそぎ洗ってみる!」


 鬼塚は巨体を揺らしてデスクへ飛び戻ると、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。ライター、情報屋、裏社会のオカルト・コレクター。彼女が持つ広大なネットワークが、札束と脅し、そして執念によって駆動し始める。


 一時間後。

 鬼塚の指が止まった。モニターには、被害者たちの知人やSNSの裏アカウントから収集された断片的な情報が、一つの線となって繋がっていた。


「……共通点が出たよ。被害者の一人、不審死した大学生の友人が言ってた。『三日前に、変なメールが届いた』って。今時こんな古臭いイタズラが来るなんてウケる、とか言って、周りに見せて回ってたらしいんだよね」

「メール……?」


 日和が画面を覗き込む。そこには、スマホに表示された不気味なメッセージを写したと思われる画像が表示されていた。


『これは不幸の手紙です。このメッセージを受け取ったあなたは、三日以内に三人の親しい人へこのメールを送らなければなりません。送らなければ、あなたの一番大切なものが奪われます』


「……不幸の手紙。メールの、呪い……」

「そう。一部のネット界隈で、一週間前から急速に広まってるらしい。……ヒヨちゃん、一ノ瀬ちゃんが日を跨ぐ度に呪いが復活してたのは、これのせいだよ。このメール自体に、呪詛が埋め込まれてるんだ。届いた時点で、スマホの持ち主が呪いのターゲットとしてロックオンされる『感染呪術』だよ」


 鬼塚は、数珠を握りしめ、そのの巨体から放たれる圧倒的な存在感で日和を見据えた。


「きっと被害者のスマホを調べても、もう呪いの効力は消えてるだろうね。でも、一ノ瀬ちゃんはまだ『進行中』だ。本体……つまりスマホの中にあるそのメールをどうにかしない限り、外側からどれだけお祓いしても、供給源は断てない。蛇口が開いたまま、漏れた水を拭いてるだけだったんだよ」


 日和は戦慄した。明日の月曜日は、一ノ瀬が最初の異変を訴えてから、そして恐らくこの「手紙」を受信してから、運命の三日目にあたる。


「……明日。月曜日が、彼女の最期の日になるかもしれないんですね」

「……その可能性は高いね。でも、原因がわかれば叩きようはある。ボクはインドアな理論派だけどさ、原因がはっきりした相手を物理的にぶっ潰すのは大好きなんだ」


 鬼塚は立ち上がり、天井を突くような高さから日和を見下ろして、ニカッと不敵に笑った。


「ヒヨちゃん、明日の放課後、ボクも学校の近くまで行くよ。このデジタルな呪いの蛇口……ボクたちで力尽くで閉めてやろうじゃないか!」

「はい、鬼塚さん……! よろしくお願いします!」


 陽子という盾を失い、一人で賽の河原を歩いていた日和。

 しかし今、彼女の隣には、圧倒的な体躯と知識を持つ戦友、鬼塚百が立っていた。

 物語は、一人の少女の命を懸けた、月曜日の決戦へと加速していく。



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