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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第二章 『澱みの輪郭』

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5-1

土曜日なので、二つ目投稿です。

 

 一月七日。

 カレンダーの数字が黒く塗り替わるのと同時に、世界は「正月」という免罪符を剥ぎ取られ、容赦のない「日常」へと引き戻された。


 三学期の始業式。

 体育館の床から伝わる底冷えは、厚手の靴下を履いていてもなお、骨の芯を直接凍らせにくるような鋭さがあった。日和は、列の中で縮こまりながら、自分の右隣にある「空白」を見つめていた。

 いつもなら、そこには相野美咲という、騒がしくて温かい太陽がいたはずだった。


「ねーねえ日和、校長の話、あと三時間は続きそうだよね。終わったらそのままコンビニ寄らない?」


 そんな、他愛もなくて、どこか救われる囁き声はもう聞こえない。美咲がいないだけで、自分の存在が、水槽の隅に溜まった澱みのように希薄になっていく感覚に陥る。

 壇上では、校長先生が「新年の抱負」について、乾燥した煎餅のような味気ないスピーチを続けていた。


(……一ノ瀬さん、やっぱり)


 日和の視界に、数列前に並ぶ一ノ瀬の背中が入り込んだ。冬休みの最終日、街中ですれ違った時に見たあの「黒い影」は、今やはっきりとした【ヒト型の黒い塊】へと変質している。それは一ノ瀬の首元にしがみつき、親密な友人のように背負われていた。


(陽子さんに、相談しなきゃ。私一人じゃ、きっと……)


 式典が終わり、放課後のチャイムが鳴るやいなや、日和はカバンを掴んで教室を飛び出した。向かうはリユースショップ「ハルナシ」。

 しかし、辿り着いた店の前で日和を待っていたのは、無慈悲にシャッターを下ろされた店舗と、そこに貼り出された一枚の紙だった。


『臨時休業。確定申告につき、命に関わる急用以外は立ち入り禁止。ノックした奴は法的に精算する。 店主』


「ひ……っ!」


 事務所の奥からは、カタカタカタカタ……と機関銃のような勢いで電卓を叩く音と、「……合わねえ! 去年の棚卸し資産の評価、誰がこんな計算にしたんだよッ!」という、祟り神の絶叫よりも恐ろしい陽子の咆哮が漏れ聞こえてきた。


 途方に暮れた日和は、重い足取りで市内の総合病院へと向かった。

 陽子に頼れない今、日和の心が無意識に求めたのは、やはり親友の美咲だった。

 病室のドアを静かに開けると、そこにはベッドの上で退屈そうに過ごしていた美咲がいた。


「あ、日和! やっと来た! 始業式どうだった?」

「……美咲……」

「あはは、どうしたのその顔。校長先生に怒られた?」

「ううん、そうじゃないんだけど……あのね、美咲。ちょっと、聞いてくれる?」


 日和は、窓際のパイプ椅子に腰掛け、慎重に言葉を選んで「相談」を始めた。もちろん、自分が祓い屋のアルバイトをしていることや、一ノ瀬の背中に異形が憑いていること、オカルト的な表現はぼかして、「バイト先で任された仕事」という体裁で話をした。


「……私のバイト先でね、ちょっと複雑な……困っている人がいて。でも、その人を助けてあげたいんだけど、私じゃ力不足っていうか、どうしていいか分からなくて。店長さんも、今はそれどころじゃないみたいで……」


 美咲は手元にあった本を閉じ、じっと日和の言葉を聞いていた。


「ふーん。日和がそこまで悩むってことは、相当な困り事なんだね。でもさ」


 美咲はベッドの柵を掴み、身を乗り出した。


「日和、あんたってさ、自分で思ってるよりずっと『強い』んだよ?」

「えっ、私が?」

「そうだよ。ほら、歩道橋の時だってさ。私、痛くて怖くてパニックだったけど、日和がずっと手を握っててくれたでしょ。救急車が来るまで、あんたがしっかりしててくれたから、私は今こうやって笑ってられるんだよ」


 美咲は日和の手を、ぎゅっと握った。


「あんたが『何とかしたい』って思うなら、それはもう、あんたに解決できる力があるってことだよ。店長さんがダメなら、自分を信じてやりなよ。日和なら、絶対できる。私が保証する!」

「……美咲……」


 親友の真っ直ぐな言葉が、冷え切っていた日和の胸に、熱い火を灯した。


「よし、決まり! 気分転換に外行こう、外! 日和、車椅子、準備して!」


 日和は美咲を慎重に車椅子に乗せ、病院の中庭へと出た。

 冬の夕暮れ、澄んだ空気。枯れ木の間から差し込むオレンジ色の光が、白いギプスを淡く染める。


「わー! 自由だー! 病院の空気、消毒液の匂いしかしないから最高ー!」


 美咲は中庭の入り口で大きく深呼吸をすると、急にニヤリと笑った。


「ねえ、日和。ちょっとスピード上げよっか」

「えっ、ちょっと、危ないよ?」

「大丈夫、大丈夫! 行っけえええええええええッ!」


 美咲は自分で車輪を掴むと、全力で回転させた。


「わああっ!? 美咲、止まって! 転ぶよ、本当に転ぶから!」


 スロープを爆走する車椅子。日和は必死に後ろから追いかけ、その取手を掴もうと手を伸ばすが、美咲の「逃走」は止まらない。


「あははははは! 追い越してみなよ、不幸体質の日和ちゃんー!」

「笑い事じゃないってば! 誰か、止めてー!」


 結局、二人の暴走は、中庭にいた屈強な看護師によって強制停止させられた。


「相野さんッ!! 何を考えてるんですか! 怪我が悪化したらどうするんですか!」

「げっ、婦長さん……」

「小林さんも! 友達なら、止めるのがあなたの役目でしょう!」

「ご、ごめんなさいいいいぃぃぃっ!!」


 病院の廊下に響き渡る激怒の声。

 美咲は「テヘッ」と舌を出して笑い、日和は顔を真っ赤にして何度も頭を下げた。

 けれど、病室に戻った時の日和の心は、先ほどまでの重苦しさが嘘のように軽くなっていた。


「……ありがと、美咲」

「いいってことよ。……ほら、明日から頑張んなよ。あんたの気合で、その問題もパパッと解決しちゃいなよ!」


 翌日。

 日和は、昨日までとは違う、決意を秘めた目で登校した。

 放課後の教室。一ノ瀬、二階堂、三橋の三人組は、机を寄せて冬休みの写真を見せ合って盛り上がっていた。


「あー、なんか今日、マジで体が重いんだけど。昨日あんまり寝てないからかな」


 一ノ瀬が少し青白い顔で首を傾げる。

 彼女の背後には、もはや「影」と呼ぶには生々しすぎる【能面のように無表情な赤ん坊】、小さな手で一ノ瀬の喉元を愛撫するようにしがみついている。


(……今日だ。今日、何かが起きる)


 日和は教室の後ろ、一ノ瀬の座席のすぐ横を通るタイミングを図っていた。

 日和は深呼吸をし、自分の右手に意識を集中させる。陽子の事務所で叩き込まれた、力の制御。

 陽子からの指導は、無駄ではなかった。廃旅館の地獄を経て、日和は自分の内側に眠る膨大な呪いの奔流を、至近距離かつ低出力でなら指向性を持たせ、邪気を「相殺」する技術を身につけていた。


 一ノ瀬の背後を通り抜ける、一瞬の隙。

 日和は目立たぬよう指先を一ノ瀬の背中に向け、最小限の「毒」を放った。


「……消えて」


 パチン。

 指先から放たれた極小の呪いが、一ノ瀬に取り憑いた異形の中心を貫いた。ドロリとした黒い霧が散り、一ノ瀬の首から「重み」が消える。


「あ、あれ!? 急に肩が軽くなった! なんかラッキー!」


 一ノ瀬の明るい声が響く。日和は安堵の溜息をつき、自分の席に戻った。


(やった……。私、やり遂げたんだ)


 日和は自分の指先を見つめ、静かに震えた。美咲の言葉通り、自分にはできることがあった。

 だが、この成功が、終わりのない一週間の「幕開け」に過ぎないことに、日和はまだ気づいていなかった。


 ◎


 勝利を確信したはずの翌朝。一月九日。

 教室のドアを開けた日和を待っていたのは、冬の朝の冷たい光と、昨日と何一つ変わらない、残酷なまでに平穏な「日常」の風景だった。


「あ、おはよー日和。今日も早いね」


 一ノ瀬がいつものように屈託のない笑顔で手を振る。二階堂と三橋も、スマホを囲んで冬休みの旅行の話で盛り上がっている。

 だが、日和の視界には、その眩しい光景を塗りつぶすような「異物」が映り込んでいた。一ノ瀬の背中に、昨日確かに指先からの呪いで消滅させたはずの「黒い靄」が、まるですべてをなかったことにするかのように平然と漂っているのだ。


(……なんで?)


 血の気が引くのを感じながら、日和はフラフラと自分の座席に座った。一ノ瀬の背中の影は、まるで冬休みの最終日に初めて見た時のような、輪郭のないただのドロリとした汚れに戻っていた。昨日の自分の、あんなに必死だった「祓い」は、一体何だったのか。


 休み時間、一ノ瀬の背後を通り過ぎる瞬間に、日和は再び指先に意識を集中させた。

 パチン、という小さな弾ける音と共に、異形は再び霧散した。


「あ、あれ? また肩が軽くなった! 不思議ー!」


 一ノ瀬が明るい声を上げる。やり遂げたはずなのに、指先には奇妙な「空虚感」が残っていた。


 そして翌日。一月十日。

 日和が教室に入ると、そこにはまた「黒い靄」が漂っていた。


 そして、十一日も。

 日和の一週間は、地獄の業火で焼かれるよりも精神を摩耗させる「賽の河原」の石積みに似ていた。

 日和が毎日欠かさず祓い続けているおかげで、呪いの進行度は抑えられ、影が赤ん坊の姿に変質することはなかった。しかし、その「復元力」は日に日に増しているように感じられた。昨日までは一度の呪いで消し飛ばせた靄が、金曜日には、二度、三度と力を込めなければ完全に消えないほど、奇妙な「粘り」を持ち始めていた。


(陽子さんに……陽子さんなら……!)


 放課後、日和は何度もリユースショップ「ハルナシ」の門を叩いた。シャッターを叩き、インターホンを連打した。だが、返ってくるのは冷たい沈黙と、時折事務所の奥から聞こえる「断末魔」のような咆哮だけだった。


「……合わねえ! 去年の在庫評価額と、この振込受領書の数字が、何で合わねえんだよッ!!」


 ガッシャーン、という何かが壊れる音と共に、陽子の叫びが夕方の街に響き渡る。


「納税! 申告! 控除! ……いや、重加算税だけは……それだけは勘弁してくれ……ッ!」


 今の陽子は、この世のどんな怪異よりもはるかに強大な「税金」という名の法的な暴力に押し潰されていた。一円のミスさえ許さない「数字の怨霊」との死闘。日和は、シャッター越しに漏れ出る陽子の凄まじい「殺気」と、それに相反する「絶望」の気配に、相談を持ちかけることさえ命がけだと悟った。陽子さんは今、間違いなく廃人寸前の状態にある。


「……ダメだ。今の陽子さんは、この世にいない……」


 金曜日の夜。

 心身ともに限界を超えた日和は、自宅のリビングのソファに倒れ込んだ。暗い天井を見つめながら、一ノ瀬の背中にしがみつくあの不気味な影を思い出す。


『――さて、続いての特集です。現代社会に潜む、説明のつかない“因縁”。数多くの因縁物や呪物を所有するコレクターの方に、その知られざる世界を語っていただきます』


 ふと、テレビから流れてきた「因縁物」という言葉に、日和の意識が引き戻された。画面の隅に踊るテロップには、『特番・冬の怪奇ファイル』という、バラエティ番組特有のけばけばしい文字が並んでいる。


『ご紹介しましょう。古今東西の因縁物に精通する、現代の呪物研究家――鬼塚百先生です!』


 カメラが切り替わると、そこには、巨体を派手なブランドものの衣装で包み、自信満々に微笑むあの豪快な女性がいた。

 年末、あの忌まわしき廃旅館で生死を共にし、命からがら脱出した「戦友」。鬼塚百だ。


「……あ、鬼塚さん……」


 日和は弾かれたように自分のスマートフォンを手に取った。

 あの日、カレーを食べ終えた後に半ば強引に連絡先を交換させられたのを覚えている。

 陽子さんは今、税務署という怪物に敗北し、灰になっている。美咲は病院にいて、これ以上の心配はかけられない。今の自分に残された唯一の希望は、画面の中で高笑いをしている、この「鬼塚さん」だけだった。


「……お願いします。助けてください……!」


 日和は震える指で、メッセージアプリを開いた。

 そこに、クラスメイトが何らかのオカルト的トラブルに巻き込まれていること。陽子が確定申告のストレスで死にかけていること。頼れるのは鬼塚しかいないことを書き込んだ。

 送信ボタンを押すと、深夜の静寂の中、返信のバイブ音が鳴り響いたのは、それからわずか数秒後のことだった。


『ヒヨちゃん!? 元気してたー!? ヨウちゃんが確定申告で死んでるって話、最高に笑える……あ、いや、大変だねぇ(笑) ライターの仕事もやっと一段落ついたとこなんだよ。今すぐ住所送るから、明日遊びに来なよ。とびっきりの紅茶を用意して待ってるからぁ!』


 絵文字を多用した、画面から音が飛び出してくるようなパワフルな返信。

 日和は、ようやくこの一週間で初めて、肺の底にある空気をすべて吐き出すような安堵の溜息をついた。

 窓の外、冬の夜空には冷たい月が浮かんでいる。

 すべてが限界に達した金曜日の夜、物語は柏の街を離れ、都心の超高層タワーマンションへと舞台を移そうとしていた。



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