幕間 1
その男、佐々木にとって、人生のすべてが反転したのは八月の終わり、湿り気を帯びた不快な熱帯夜のことだった。
都内にある築四十年のボロアパート。万年床の湿気と、放置されたコンビニ弁当の空き殻が放つ異臭が充満する六畳一間で、彼は自身の無価値さに押し潰されていた。派遣の仕事は一週間前に打ち切られ、通帳の残高は数千円。ネットの掲示板に匿名で「死ね」と書き込む指先だけが、彼が自分が生きていると実感できる唯一の接点だった。
深夜二時、公園のベンチで安酒を煽りながら、街灯に群がる虫を眺めていた。自分もあの虫と同じだ。光に集まり、焦げて死ぬ。
そんな泥濘の底に、場違いなほどの芳香を纏って「彼女」は現れた。
夜の闇をそのまま布にしたような黒髪、清楚な黒セーラー服、そして、月光さえも恥じらうほどに整った美貌。少女――藤原は、うなだれる佐々木の前に静かに立ち、春の陽だまりのような微笑を浮かべた。
「……こんなところで、何をされているのですか? あなたのその悲しみ、そして世界への正当な怒り。私には、とても美しく見えますよ」
その瞬間、佐々木の心臓は、死にかけていた拍動を取り戻した。
普通なら警戒するはずだ。深夜の公園に現れた美しい女子高生。だが、佐々木は彼女の瞳に吸い込まれた。そこには、これまで三十余年の人生で出会った誰の目にもなかった、深い慈愛と「全肯定」があった。絶望の淵にいた佐々木にとって、彼女は天から遣わされた救いの天使以外の何者でもなかった。
「私でよければ、お話を聞かせていただけませんか?」
彼女はそう言って、佐々木の隣に腰を下ろした。柔らかな布地の擦れる音、微かに香る高価な石鹸の匂い。佐々木は堰を切ったように、自分の不遇を、社会への呪いを、惨めな生い立ちを語った。彼女はそれを一度も否定せず、時折「それは辛かったですね」と優しく相槌を打ちながら、日の出まで彼の隣にいてくれた。
九月に入り、藤原は頻繁に佐々木のアパートを訪れるようになった。
彼女は、佐々木にとっての「聖母」となった。政治家の娘であるという育ちの良さを感じさせる言葉遣い、アイドル顔負けの容姿。そんな彼女が、エプロンを締めて汚い台所に立ち、佐々木のために料理を作る。
「今日は、お野菜もたくさん入れました。佐々木さんはもっと体力をつけなくてはいけませんからね」
彼女が作る料理は、どれも完璧だった。出汁の加減、塩加減、そして盛り付け。佐々木はそれを泣きながら食べた。自分を慈しみ、必要としてくれる存在が、この地上にいた。その事実だけで、彼は自分の人生に初めて価値を感じ、彼女のためなら命を投げ出してもいいと本気で思うようになった。
二人のデートは、佐々木にとっての凱旋パレードだった。
かつては人目を避けるように歩いていた新宿や渋谷の街を、彼は胸を張って闊歩した。隣には誰もが振り返るほどの美少女、藤原がいる。佐々木は、周囲の男性たちの視線を肌で感じるのが快感で仕方がなかった。
お洒落な大学生、高級スーツのエリート、チャラついたナンパ師。彼らが一様に藤原に目を奪われ、その後に隣に立つ冴えない、年上の自分を見て、驚愕と嫉妬を露わにする。
(ざまあ見ろ。お前らが逆立ちしても手に入らない宝が、俺の隣にいるんだ。俺は選ばれたんだ)
その瞬間、彼はこれまで自分を虐げてきた世界に対して「完全なる勝利」を収めたのだと確信していた。
ブランドショップが立ち並ぶ通りを歩くとき、佐々木は優越感で頭がどうにかなりそうだった。周囲の「なぜあんな男があの美女を?」という囁き。それらすべてが、彼にとっては極上の賛辞となり、彼を万能感の頂点へと押し上げていった。
藤原はいつでも「はい、嬉しいですよ。佐々木さんと一緒なら、どこへ行っても楽しいです」と、その潤んだ瞳を細めて穏やかに微笑む。彼女は佐々木の腕にそっと手を添え、まるで彼こそが世界で最も価値のある男性であるかのように振る舞い続けた。
「佐々木さん、とても良いお顔をされていますね。あなたのその自信に満ちた姿が見られて、私は本当に幸せですよ」
九月中旬、幸福の絶頂にいる佐々木に、藤原は一つの「聖なる使命」を与えた。
「佐々木さん。あなたのその怒り、この世界に向けた純粋な意志を、形にしてみませんか? これが完成すれば、あなたを正当に評価しなかったこの不公平な世界に、一石を投じることができます。私たち、二人だけの秘密の贈り物を作りましょう」
彼女が実家の倉から持ち出したという、不気味な気配を放つ古道具や、因縁の染み付いた触媒。それらを用いて、特定の場所で「世界を呪う儀式」を映像として記録すること。佐々木は狂信的な熱意で応じた。藤原が教える呪術的な配合、カメラワーク、そして映像に込めるべき「怨嗟の練り方」。
彼は都内の廃屋や、かつて凄惨な心中事件が起きた現場を回り、藤原の指示通りに撮影を続けた。撮影中、佐々木は激しい頭痛や幻覚に襲われることもあったが、そのたびに藤原が甲斐甲斐しく彼を支えた。冷えた指先を自らの手で温め、精神を削り続ける彼のために最高に栄養価の高い、心のこもった食事を毎日欠かさず用意した。
「あと少しです、佐々木さん。あなたは歴史を変える芸術家になれるのですよ」
十月の頭、ついに「呪いのビデオ」は完成した。
藤原の手によって、それは複数の匿名掲示板や動画サイトへと放流された。佐々木は、モニターに映る再生数の伸びを見て、これまでにない万能感に震えた。自分の怨念が、ネットの海を通じて見知らぬ誰かを、幸福な誰かを壊していく。
だが、その勝利の美酒を味わえたのは、ほんの数日だった。
配信から一週間が過ぎた頃、佐々木の肉体は音を立てて崩壊し始めた。
最初は、内臓を雑巾で絞られるような鈍い痛みだった。次に、四肢から力が抜け、指先さえ動かせなくなるほどの極度の倦怠感。
「……藤原、さん……なんだか、ひどく、体が重いんだ。……ごめん、せっかく完成したのに……」
「謝らないでください、佐々木さん。あなたは素晴らしいことを成し遂げたのです。……報われるまで、私がずっと、枕元でお守りしますから」
藤原は、言葉通り佐々木のアパートに詰め切り、二十四時間体制で彼を支えた。彼女の献身は、傍目にはこれ以上なく純粋な愛に見えた。弱りゆく佐々木のために粥を煮て、一口ずつ丁寧に食べさせる。熱に浮かされる彼の額を何度も拭い、夜通しその手を握りしめて励まし続けた。
だが、佐々木の容態は悪化の一途を辿った。
医学的には、多臓器不全を伴う極度の衰弱死。急激な栄養失調と、原因不明のバイタル低下。傍らにはあれほど献身的な美少女がいる。病院へ行くことを佐々木本人が「彼女と離れたくない」と拒んだという形跡さえ、彼女は丁寧に偽装していた。不運な、けれど純愛の果ての自然死。科学的にも司法的にも、そこには事件性の欠片も存在しなかった。
十月十四日。東京の空は、呪わしいほどに青く、冷たく澄み渡っていた。
佐々木はもはや、自力で目を開けることさえままならなかった。皮下脂肪は失われ、骨が浮き出た幽霊のような姿。彼の意識は暗い海を漂う小舟のように、消えかけていた。
そんな彼の頬に、ひんやりとした指先が触れた。
「……佐々木さん。聞こえますか?」
藤原の声だ。あの日、公園で救ってくれた、天使の声。
佐々木は最期の力を振り絞り、微かに目を開けた。そこには、逆光の中で微笑む、世界で一番美しい彼女の顔があった。
「あ……藤原……さん……。……君……がいて……僕は……本当に……幸せ……」
感謝の言葉を、愛の告白を伝えようとした。だが、その瞬間。
佐々木の瞳が、至近距離で自分を覗き込む彼女の「目」を捉えた。
そこには、愛などなかった。
悲しみも、憐れみも、一欠片も存在しなかった。
藤原の瞳は、まるで顕微鏡のレンズのように無機質だった。
彼女は、佐々木が吐き出す最後の一息を、肺が潰れる瞬間の微かな痙攣を、瞳孔が散大していくプロセスを、ただひたすらに「観察」していた。
実は、これは彼女にとって至高の「神秘学」の実験だった。
呪いのビデオを視聴した数万人からの「免疫反応」による、呪力の逆流。数千、数万の人々が「不気味だ」「見たくない」と弾いた念の残滓が、因果の糸を遡り、製作者であり依り代となった佐々木の肉体へ集中砲火を浴びせている。藤原は、佐々木が吐血するたびに、その量を正確に目測し、細胞が壊死していくプロセスを冷徹にデータ化していた。
彼女にとって、九月のデートは、被験者の承認欲求がもたらす神経伝達物質の変化を測定するフィールドワークに過ぎなかった。
彼女が毎日作った料理は、実験体の生命活動をどこまで引き延ばせるかを試すための、ただの調整剤だった。
そして今、彼女は、呪力の質量が人間の肉体をどう内側から破壊し、魂をどう変質させるのかを、最高の特等席で「実測」していたのだ。
(ああ……)
佐々木は、最後の瞬間に理解した。
目の前の少女は天使ではない。彼女にとって自分は人間ですらなく、神秘学という名の「科学」の真理へ辿り着くための、使い捨ての試験管に過ぎなかった。
自分を温めてくれたあの微笑みは、道端の石の硬度を確かめるような、冷酷なまでの学術的関心の表れだった。
「ご苦労様でした、佐々木さん。……あなたの死は、神秘学における非常に美しい『証明』になりましたよ」
藤原――本名不詳、通称「黒鉄」。
彼女は、佐々木の絶望に歪んだ顔を見て、満足そうに頷いた。死の直前、最も強い感情――「信じていたものへの裏切り」が走った瞬間に、呪いの結晶化が最大値に達し、魂が最も輝く。その瞬間を見逃さないよう、彼女は彼の瞳を最後まで覗き込み続けた。
佐々木の瞳から、光が消える。
絶望の中で息絶えた男の体から、目に見えない黒い霧が立ち昇り、藤原が用意した特製の小瓶へと吸い込まれていく。
「……ふふ。ごきげんよう。……次の方は、もっと大切に、もっと丁寧に壊して差し上げないといけませんね」
藤原は、事切れた男の骸には二度と視線を向けず、丁寧に小瓶の蓋を閉めた。
彼女は鼻歌を歌いながら、エプロンを外し、セーラー服の襟を整える。
アパートを出る際、彼女はちょうど廊下を通りかかった住人に、深々と頭を下げた。
「長らく看病でお邪魔いたしました。……最期まで、穏やかなお顔でしたよ」
非の打ち所のない笑顔。
一人の男を地獄へ叩き落とし、その魂を燃料に変えた少女は、軽やかな足取りで街の喧騒へと消えていった。
◎
一月七日。私立聖マリアンナ女学院の始業式。
凍てつく廊下で、藤原は友人たちに囲まれていた。冬休み中、献身的に「ある人」の看病を続けていたという彼女に、級友たちは尊敬に満ちた視線を送る。
「藤原さん、冬休み中ずっと看病されていたんでしょう? 本当にお疲れ様ですわ」
「ええ、ありがとうございます。……でも、もう大丈夫。看病の必要はなくなりましたから。本当によかったわ」
藤原は、心底ほっとしたような、春の陽だまりのように温かな微笑みを浮かべて答えた。
友人たちは「ああ、その方は回復されたのね」と解釈し、胸をなでおろす。だが、藤原の内心にある「福音」は、検体(佐々木)の絶命とデータ採取の完了を指している。彼女は一切の嘘を吐いていない。ただ、彼女の幸福が、常人にとっての絶望であるというだけだ。
「ええ、本当に。……それでは、ごきげんよう」
鈴の鳴るような声で挨拶を交わし、彼女は優雅に教室へと向かう。完璧な聖女の仮面は、今日も一ミリの綻びもなく彼女の素顔を隠していた。
午後。下校した藤原は、世田谷の自宅にある自身の作業室に籠もった。
壁一面を埋めるのは、平安時代から続く家系の古文書と、最新の自作PC、そして空間の歪みを検知する複数の精密観測機器。
彼女は暗号化されたブラウザから、自身が運営する呪殺サイト「K」の受注リストを確認した。
十万単位:ターゲットへの不運、あるいは一時的な入院を要する怪我の誘発。
百万単位:再起不能の重傷、精神の完全な崩壊、あるいは「不慮の事故」による致死。
一千万を払える人間は限られるが、百万なら「人生を賭けてでも誰かを殺したい」と願う人間が必死に工面できる絶妙なラインだ。藤原は、依頼主がコインロッカーに預けていたターゲットの「髪の毛」を、銀の長針の先に固定した。
「報酬を渋る方は、依頼主としての権利を放棄したと見なします。その際は、あなたが次の実験体になるだけですよ」
針を人形に刺し、PC上のシミュレーターで因果の書き換えを観測する。彼女にとって、呪いとは悪意の感情論ではなく、世界の理を書き換える「高次元の物理学」だ。そして、自分が「悪」側に立っているという自覚も十分にある。
(警察や司法は怖くない。けれど……)
自分が平安から続く呪い師の家系であるならば、この歴史の裏側に、同じように術式を操る「同業者」がいてもおかしくはない。あるいは、現代の秩序を守るためにオカルトを狩る、公的な治安組織とは別の「何か」が。彼女はその未知の対抗勢力を想像し、恐怖よりも先に、ゾクゾクとするような期待感を覚えた。
深夜。藤原のスマートフォンに、一つの完了報告が届いた。
それは、彼女が「外注」した実務の報告だった。
今回の呪術媒体――「不幸の手紙」の文面作成と、指定された膨大なアドレスへの送信作業。それを担わせたのは、ギャンブル中毒で首が回らなくなった、ある中年の主婦だった。
家族に隠して膨らんだ数百万の借金。毎日届く督促状に怯える彼女にとって、SNSの裏垢を通じて接触してきた「女子高生」からの奇妙な依頼は、蜘蛛の糸に見えた。
「『呪いのメールを千通送るだけで、借金が半分消える? ……馬鹿馬鹿しい。でも、これくらいなら、子供のごっこ遊びだわ』とでも思っているのでしょうね」
主婦は、藤原が送った「指定の文章」の意味も知らず、そこに込められた呪力の重圧も感じ取れない。ただ、金のために機械的に指を動かし、メールをネットワークの海へと放流し続けた。
藤原はその様子を、自作のモニタリングソフト越しに眺めている。
「信じていない者の手を通すことで、呪いの指向性が消え、より『自然な不運』として広まる……。彼女の切迫した金銭欲が、いい隠し味になっています」
呪いのビデオで得た純度の高い絶望を、借金まみれの主婦というフィルターを通して拡散させる。ビデオよりもはるかに洗練され、ターゲットを逃がさない「電子の鎖」が完成した。
「三日以内に三人に転送しなければ、自身の最も大切なものを失う。……ビデオよりもはるかに純度が高く、逃げ場のないシステムですね」
既に東京都内のいくつかの「アドレス」を起点に、この死の連鎖は、目に見えない電子の疫病のようにネットワークを侵食し始めている。
「さて……私のプログラムが、いつ、どこで『否定』されるかしら」
藤原は、佐々木の絶望から抽出した霧が詰まった小瓶を愛おしそうに撫でた。
自分の完璧な理論を覆す「何か」が現れるその時まで、彼女はこの残酷なフィールドワークを止めるつもりはなかった。
「楽しみですね。……この理が、どこまで世界を侵食できるのか」
完璧な聖女の微笑みを浮かべたまま、黒鉄は深夜の静寂の中で、次の実験フェーズへの移行を宣言した。
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