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ハルナシの仕入れ帳  作者: 真水 地恵
第一章 『不幸の代償』

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4-2

今夜、仙台に行ってきます。

よろしくお願いいたします。

 

 一月六日。

 カレンダーの数字が明日から始まる「日常」という名の義務を無慈悲に予告する中、リユースショップ「ハルナシ」の店主、陽子にとって、この日は数少ない「まともな休日」であった。


 午前十時。陽子は自宅のソファに深く沈み込み、至福の時間を過ごしていた。

 カーテンの隙間から差し込む冬の冷たくも透明な陽光が、室内に浮遊する微かな埃を照らし出している。彼女の膝の上にあるのは、魔術書でも古文書でもない。愛用のスマートフォンだ。


「……よし、単発で引けた。やっぱ物欲センサーだな」


 陽子の密かな趣味の一つは、ソーシャルゲームだ。それも、意地でも金を落とさない「無課金勢」を貫いている。限られたリソースでいかに効率よく最強の布陣を組むか。そのストイックな駆け引きが、祓い屋としての仕事に通じるものがあるのかもしれなかった。イベント終了間際、ギリギリまで粘って引き当てた新キャラクターのステータスを眺めながら、彼女の口元に微かな満足感が浮かぶ。


 サイドテーブルには、近所の評判の良いパティスリーで買ってきた、濃厚なフォンダンショコラ。そして、豆から丁寧に挽いた、酸味の少ない深煎りのブラックコーヒーが置かれている。

 陽子は無類のチョコレート好きだ。特にカカオ濃度の高い、舌に絡みつくような重厚な甘みを、熱く苦いコーヒーで流し込む瞬間は、祓い屋としての神経を休める唯一の聖域と言ってもいい。


「……さて、一気に見るか」


 リモコンを膝に乗せ、年末の繁忙期に未視聴のまま溜まっていたサブスクのミステリードラマを再生する。

 北欧の凍てつく空気を背景に、無愛想な刑事が複雑に絡み合った因縁を解き明かしていく物語だ。陽子はフォークを動かし、フォンダンショコラのとろけるような甘みを楽しみながら、画面の中の伏線を鋭い洞察力で拾い上げていく。


(……このシーンで映った古時計、針が二分ずれてる。これが後半のトリックの肝か)


 刑事の推理を先回りしながら、コーヒーの香りに包まれる。ドラマの暗い雰囲気と、チョコレートの甘美な快楽。その対比に浸りながら、時折スマートフォンの画面をタップし、ソシャゲのルーチン周回をこなす。無課金勢としての矜持を保ちつつ、無駄なく効率的に。それもまた、彼女にとっての「規律」であり、休日らしい穏やかなルーティンだった。


 午後一時。陽子は重い腰を上げ、ジャージに着替え、自宅のガレージへと向かった。

 彼女のもう一つの趣味であり、精神安定剤。それは愛車である軽トラックの整備だ。


「……少し、プラグが汚れ始めてるな。冬場の始動性が落ちる前に変えておくか」


 ジャッキアップし、車体の下に潜り込んで手際よく工具を操る。機械はいい。霊的な澱みや祟り神の理不尽とは違い、手をかければかけた分だけ、物理法則に従って正解を返してくれる。オイルの焼ける匂いと、金属が擦れ合う感触。複雑な因縁を扱う祓い屋にとって、この「分かりやすさ」こそが最大の救いだった。

 整備を終えると、軽く汗を流すために馴染みの道場へ寄り、「空道」の自主稽古を行った。

 打撃、投げ、関節技。実戦武道である空道の動きは、祓い屋としての現場での立ち回りに直結する。誰もいない道場で、サンドバッグを叩く乾いた音が響く。拳から伝わる確かな衝撃が、身体の中に澱んでいた冬の空気を切り裂いていった。


 午後四時。

 シャワーを浴びてスッキリした陽子は、お気に入りの黒いロングコートを羽織ると、自宅を出た。

 向かうは、知り合いの看護師が勤める総合病院。借りていた私物の資料を返すという、ごく個人的な用件だ。

 冬の空は、燃えるようなオレンジから、冷淡な紫へとグラデーションを描き始めていた。駅前の商店街は、正月飾りを片付け終え、明日からの日常に戻ろうとする人々の生活臭で満ちている。


 陽子は電子タバコを口に咥え、無機質な歩道を進む。

 その視界には、一般人には見えない「ノイズ」が当然のように映り込んでいた。

 曲がり角の電柱の陰。日和が怯えていた「半透明の犬」が、今日もそこに座り込み、うつろな瞳で通行人の生気を眺めていた。のたれ死んだ野良犬の浮遊霊。念も弱く、あと数日もすれば自然に冬の風に溶けて消えるであろう脆弱な存在だ。

 犬が陽子の気配に気づき、微かに喉を鳴らすが、陽子は視線さえ合わせない。


(……ほっとけば消えるな)


 精算する価値も、追い払う手間さえも惜しい。陽子はその横を、ただの景色として通り過ぎる。

 さらに数百メートル進んだ宝くじ売り場の前。数匹の「お札を食べる小人」が、売り場のカウンターにしがみついていた。購入者の金運を吸い取り、代わりに不運の種を撒き散らす、害のある厄病神の一種だ。

 小人の一人が、近づいてきた陽子のコートに気づき、ニヤリと下品な笑みを浮かべて飛び移ろうとした。


「……失せろ」


 陽子は歩調を崩さず、口に咥えた電子タバコを指先で軽く弄ぶ。

 弾かれたのは灰ではない。電子タバコの先端から放たれた、目に見えないほど微細な「熱」と、練り上げられた殺気だ。

 ジ、という嫌な音と共に、小人は不可視の衝撃を受けてのたうち回り、売り場の奥へと逃げ去った。他の小人たちも、陽子の圧倒的な「格」の違いを察知し、蜘蛛の子を散らすように物陰へ隠れていく。


 陽子にとって、街中に溢れる霊的な存在は、歩道に落ちているゴミや、うるさい羽虫と変わらない。見えるだけで不都合はなく、向こうから無礼を働かない限りは、気にも留めない。それが、この世界の「真実」を知る者の、本来あるべき強者の姿だった。


 病院の広い敷地に入り、自動ドアへと近づいた、その時だった。


「ご、ごめんなさいいいいいぃぃぃぃっ!!」


 鼓膜を劈くような、聞き覚えのある悲鳴。

 自動ドアが爆発したかのような勢いで開き、中から飛び出してきたのは、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした日和だった。

 日和は陽子の目の前で、清掃直後の濡れた路面に足を滑らせ、派手な転倒を見せた。


「ぶふぉっ!」


 という情けない音が響き、日和は陽子のブーツのすぐそばで地面に這いつくばった。


「……おい。病院で何をしてんだ、お前は」


 陽子は電子タバコを口に咥えたまま、冷ややかな視線を落とした。


「ひゃっ、よ、陽子さん!? なんで……うう、違うんです、わざとじゃないんです! あの、おじいさんのペットボトルが……それで先生のズボンのベルトをガッて……!」


 背後のロビーからは、スラックスを必死に手で押さえ、憤死しそうな形相の医師が追いかけてきている。

 陽子は深く、深く、肺の底にあるすべての空気を吐き出すように溜息をついた。今日という休日が終わりを告げたようだ。


「チッ……面倒な……。おいヒヨコ、立て。鼻水を拭け」


 陽子は逃げようとする日和の襟首を掴んで固定した。そのまま、猛り狂う医師の前に立ち、名刺を差し出すでもなく、ただその鋭い眼光を向けた。


「お騒がせしました。この娘は私の事務所の者でして。あまりにドジな上に不運が極まった性質なもので……。悪気はなかったんです。……悪意の欠片もない不幸な事故だというのは、先生が一番よくお分かりでしょう」

「し、しかし君! 公衆の面前でこのような――」

「ええ。ですから、この通り本人も反省しております。な、ヒヨコ?」


 陽子に襟首を揺さぶられ、日和は「ひいいっ!」と悲鳴を上げながら、腰が抜けんばかりの勢いで何度も頭を下げた。


「本当に、本当にすみませんでした! 先生のトランクスの柄、一生忘れません……じゃなくて、絶対忘れます! 許してくださいっ!!」

「……ぐ、むう……」


 必死すぎる日和の謝罪と、その後ろで腕を組み、底冷えのするような威圧感を放つ陽子。医師はその奇妙な二人の空気に毒気を抜かれ、最後には「……もういい、以後気をつけなさい」と、力なくロビーへ戻っていった。


 嵐が去った後、陽子は本来の用件だった看護師との約束を、スマホを片手で操作して「また今度にする」と一言だけ送ってキャンセルした。

 今にも消えてしまいそうなほど小さくなっている日和を、このまま冬の街に放り出すわけにもいかなかったからだ。


「……ったく。明日から学校だってのに、そんな死相が出たような顔で歩くんじゃねぇ。見てるこっちの運気が下がる。ほら、行くぞ」

「えっ、どこへ……?」

「飯だ。冬休み最終日の打ち上げと、厄払いだ。……奢ってやる」

「ええっ!? い、いいんですか……?」


 日和は信じられないものを見るような目で陽子を見上げた。

 二人は夕闇の迫る街を歩き出した。陽子は日和の歩幅に合わせることなくスタスタと進むが、日和は必死にその後ろを追った。道中、日和は震える手で実家に電話をかけた。


「あ、お母さん? うん、今、バイト先の店長さんに……そう、いつもお世話になってる方。一緒に食事することになって。……うん、晩御飯はいらないから。大丈夫、ちゃんと遅くならないうちに帰るよ」


 向かったのは、病院から少し歩いたところにあるチェーンの焼肉屋だった。

 店内は、肉が焼ける香ばしい煙と、客たちの活気に満ちていた。

 陽子は手際よく注文を済ませると、テーブルの上のトングを、空道の捌きを彷彿とさせる手つきで弄んだ。


「いいか、ヒヨコ。食え。肉は生命力だ。お前みたいな虚弱な体質は、まず物理的に重くならないと不幸に吹き飛ばされる」


 陽子は手際よく網に牛タンを並べ、絶妙な焼き加減で日和の皿に放り込んだ。


「いいか。お前のその不幸体質は、常に油断をしないことが鉄則だ。不幸ってのは、お前が『これくらいなら大丈夫だろう』と気を抜いた瞬間に、そのわずかな隙間に滑り込んでくる」


 空いた網のスペースに今度はカルビを並べていく。カルビの油が滴り、網の火力を上げていく。


「だが、悲観的になるな。お前の中に巣食う呪いの制御を覚え、それを完全に物にできれば、もう勝手にお節介な不幸が発動することもなくなる」

「……そんなこと、できるんでしょうか」

「お前次第だな。だから放課後は出来るだけ店に来い」


 陽子は焼き上がったカルビを口に運び、冷めた目で日和を見た。


「それから、その霊感だ。いい加減、慣れろ。見えるだけで、実害としての不都合はまずありはしない。普通の奴らだって、街中をよく目を凝らして歩けば、汚い虫や見たくないゴミ屑なんていくらでも見えるだろう? 霊も結局は似たようなもんだ。慣れてしまえば、ただの背景と変わらん」


 日和は熱い肉をハフハフと頬張りながら、陽子の言葉を噛み締めた。


「むしろ、見えるものが多い方が危機察知しやすいだろう。死角から来る不意打ちを食らうよりは、あらかじめ不快なものが見えていた方がマシだと思え」


 陽子は厚切りのカルビをウーロンハイで流し込むと、小皿のカクテキをつまんでいく。


「……年長者としてのアドバイスだ。明日から学校に行けば、また色々言われるだろうが、お前はもう、そこらのガキ共には見えない世界を歩き、祟り神と対峙した。修羅場をくぐった奴の拳は重くなる。お前の視座は、もう以前とは違うはずだ」

「……はい。……くすっ、そうですね。少し、気が楽になりました」


 日和の顔に、ようやく今日初めての本物の笑顔が浮かんだ。


「陽子さん……ありがとうございます。私、明日から、少しだけ前を向いて学校に行けそうです。美咲のお見舞いも、ちゃんと続けます」

「……ふん。ま、せいぜい頑張れ。ただし、放課後に店に来るのを忘れるな。まだお前の請求額も足りてないんだからな」


 陽子は照れ隠しのように、さらに山盛りの肉を網に乗せた。

 冬休み最後の日。

 賑やかな焼肉屋の片隅で、二人の間を漂う煙は、切ない失恋の痛みも、重い罪悪感も、すべてを「日常」という名の力強い営みの中へと昇華させていった。


「陽子さん、ごちそうさまです!」

「まだあるぞ、ヒヨコ。ほら、ホルモンも追加だ。お前はもっと太れ」


 新しい日常は、すぐそこまで来ている。

 日和は、陽子が奢ってくれた肉の味と、その不器用な優しさを、明日からの武器にすることを決めた。



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