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一月六日。
カレンダーの数字が明日から始まる「日常」という名の義務を無慈悲に予告する中、街は数日前までの華やぎを脱ぎ捨てようとしていた。
浮ついた祝祭の残滓が冬の乾いた風にさらわれるのを見ながら、日和は駅前の商店街を、何かに追われるような足取りで歩いていた。
右手のポケットには、あの「精算」を経てなお手元に残った労働の結晶――お見舞い代として二千円分の予算、そして小銭が収まっている。
「二千円……二千円……。美咲が喜んでくれて、かつ私の不注意で壊したりしないもの……」
以前なら、ただの「優柔不断な女子高生の買い物」で済んでいたはずだ。しかし、今の彼女にとって買い物は、不可視の地雷原を歩くような極限の緊張感を伴っていた。この二週間弱、呪いのビデオや八百万館での地獄を経て、日和の霊感は本人の望まぬ方向へ嫌なほど研ぎ澄まされていた。
(……あ、あの路地の角。また、あの『半透明の犬』が座ってる。……あっちの宝くじ売り場には、お札の切れ端を咀嚼している太った小人が……)
見えなくていいものが、日常の風景にデジタルノイズのように混じって見える。日和は視線を地面に落とし、できるだけ意識のシャッターを閉じようとしたが、研ぎ澄まされた感覚は容赦なく周囲の違和感を拾い上げた。
ふと、前方から賑やかな声が近づいてくる。同じクラスの女子三人組だ。
「あ、小林さん! 久しぶりー。冬休み、ずっとバイトだったんだっけ?」
「あ、え、あ……うん。久しぶり。……ちょっと、いろいろ忙しくて」
彼女たちにとって、日和は「物静かで真面目、でも放っておけないくらいドジな子」。いつも隣に太陽のような美咲がいたからこそ成立していた関係だ。美咲という強力な接着剤を欠いた今の状況では、その微妙な距離感が、ひび割れたガラスのような不自然な沈黙を生んでいた。
引きつった愛想笑いを浮かべながらも、日和の視線は一人の女子の「背後」に釘付けになった。彼女の右肩に、ドロリとした粘り気のある「黒い靄」が、まるで重い泥の塊のようにのしかかっている。それは彼女の笑い声に反応するように、時折ピクリと震え、生気を吸い上げているように見えた。
「あの、その……肩、重くない? もしよかったら、お風呂に多めにお塩とか、入れたほうがいいかも……」
「えっ、何それ、怖いよー! 小林さんってたまに不思議なこと言うよね。さすが真面目すぎて天然っていうか、オカルト系?」
彼女たちはクスクスと顔を見合わせ、軽く手を振って「じゃあ、明日ね!」と去っていく。日和は伸ばしかけた手を、冷えた空気を掴むように力なく下ろした。
自分の不幸や違和感を「ドジな天然」「不思議な子」というラベルで許容してくれている彼女たちの善意は、今の自分にはあまりにも眩しく、そして遠い。その善意の向こう側、泥と怨念が渦巻く世界の真実に、自分だけが足を踏み入れてしまったという圧倒的な疎外感が、冬の冷たい空気よりも深く、心臓に突き刺さった。
結局、三十分以上も商店街を彷徨った末、日和は駅ビルの中にある書店と、格式高い老舗の和菓子屋に立ち寄った。美咲が熱心に集めているミステリー作家の待望の新刊一冊と、個包装の高級大福。お見舞い代の二千円は、二十円の小銭を残して綺麗に姿を消した。
(……よし。これなら、不幸の入り込む隙はないはず)
自分に言い聞かせるように何度も頷き、日和は市内の総合病院へと向かった。
病室のドアを静かに開けると、ベッドの上で読書をしていた美咲が、弾けるような笑顔でこちらを向いた。
「日和! 遅いよ、連絡無いから心配してたんだからね!」
「ごめんね……ちょっと、迷っちゃって」
美咲の両足は、未だに重々しい純白のギプスで固められている。全治三ヶ月。この凄惨な怪我を彼女に負わせたのは、日和の「不幸」と、あの日放たれた「呪い」の余波だ。
そして、あの日――終業式の日。
日和にとってその日は、親友が重傷を負った日であると同時に、自分が密かに、けれど誰よりも切実に想いを寄せていた生徒会書記、石田勇先輩が美咲に告白した日でもあった。
積極的にアプローチを続けていた美咲の恋が実ったことを、日和は心から祝福した。……したつもりだった。けれど、その直後に自分の嫉妬と不幸が美咲を壊したのだ。失恋と罪悪感。二つの痛みが日和の胸を、今も鋭利な刃となって抉り続けている。
「……美咲。明日から学校だけど、やっぱり、まだ無理だよね」
「あはは、当たり前でしょ。でもさ、日和が学校始まったら、放課後とかにまた顔出してよ。日和がいないとさ、なんだか静かすぎて調子狂っちゃうんだもん」
日和がそばにいることで起きる、騒がしく不条理な日常。美咲はそれを「自分たちの色」として肯定してくれている。日和は、美咲が先輩に想いを寄せていたことを知っていた。だが美咲も勇先輩も、日和が同じ人を好きだったことなど、夢にも思っていない。
この秘密だけは、墓場まで持っていかなければならない。日和はそう心に決めて、小さく頷いた。
一時間ほど他愛のない会話で笑い合い、日和は病室を後にした。廊下に出ると、窓の外はすでに夕暮れの濃い紫を帯び始めている。
「……ふぅ。……頑張ろう。明日から、ちゃんと」
自分自身に気合を入れるように頬を叩いた、その時だった。
前方から、静かな、けれど規則正しく知性を感じさせる足音が近づいてきた。
清潔感のある制服の着こなしに、知的な縁なしの眼鏡。手には、美咲の好きな花をまとめた上品な花束。
「あ……勇先輩」
日和の鼓動が、一瞬だけ不規則に跳ねる。石田勇先輩は、そこに立っているだけで周囲の空気を清めるような、凛とした佇まいをしていた。
「おや、小林さん。お見舞いですか?」
「は、はい! 今、美咲と話してきました。……すごく喜んでましたよ、先輩が来るの」
日和は努めて明るく、親友の友人としての顔を作った。先輩は眼鏡のブリッジを押し上げ、じっと日和の瞳を見つめた。
「そうですか。……小林さん、なんだか少し、雰囲気が変わりましたね。今は、どこか覚悟が決まったというか……視線が強く、真っ直ぐになった気がします」
失恋して、さらに地獄を見て。今の自分はどう変質してしまったのだろう。「色々、あったんです。バイトとかで……」と曖昧に濁すと、先輩は「良い経験をされたようですね」と優しく微笑んだ。その微笑みが、かつて自分が焦がれたものであることを思い出し、胸の奥がチクリと痛む。
「……美咲のことは、僕が責任を持って励ましてきます。彼女も、小林さんの顔を見て元気をもらったはずですから」
「……はい! よろしくお願いします!」
勇先輩は丁寧な所作で一礼し、最愛の彼女が待つ病室へと歩いていった。その背中を見送りながら、日和は深く息を吐き出した。
美咲と先輩。二人の幸せを壊したくない。けれど、先輩の言葉に一喜一憂してしまう自分がまだどこかにいて、それが情けなくて仕方がなかった。
勇先輩の凛とした背中を見送り、日和はロビーへと向かった。
財布の中には、お見舞い代の余りの二十円が申し訳なさそうに収まっている。明日からの学校生活、それから陽子の事務所での仕事。その両立はきっと過酷だろう。けれど、今の自分なら……あの地獄を生き延びた今の自分なら、少しはマシに立ち回れるかもしれない。
そんな、柄にもない前向きな、希望に近い思考が「隙」となった。
病院の広いロビー。自動ドアへと向かう日和の数メートル先を、腰の曲がったお年寄りがゆっくりと歩いていた。その手から、ついさっき売店で買ったばかりであろう、未開封の五〇〇ミリリットルのペットボトルがポロリとこぼれ落ちる。
ペットボトルは床の上を無慈悲な速度で転がり、日和が踏み出そうとした右足の真下へと滑り込んだ。
「あ……」
完璧なタイミングだった。
日和の靴底が円柱形のボトルを捉え、スケートのように滑る。身体が真後ろに仰け反り、視界がぐにゃりと歪んだ。
「わっ、わわっ!?」
このまま後頭部を打つ。そう直感した日和は、無意識に、死に物狂いで「支え」を求めて右手を伸ばした。
運悪く、その瞬間に日和の真横を、重々しい足取りの初老の医師が通りかかっていた。
ガシッ。
日和の指先が、その医師の腰回りにあった「丈夫な革ベルト」を、信じられないほどの力で掴み取った。
「ぬっ!?」
「きゃああああああっ!」
日和の全体重が、その一点に集中する。
ズルリ、という嫌な手応えと共に、重力に従って日和が床へと倒れ込む。
その勢いは凄まじく、医師のズボンのホックとベルトの抵抗を容易く突破した。
――ストン。
静寂が支配するロビーに、衣服が擦れる柔らかな音が響いた。
日和が尻餅をついた床のすぐ目の前には、足首まで完全にずり落ちたスラックスと、そこから露わになった、なんとも形容しがたい派手な柄のトランクス、そして呆然と立ち尽くす医師の生足があった。
「……………………は?」
医師が、深い困惑と共にゆっくりと下を向く。
周囲にいた看護師や、会計待ちの患者たちの視線が一斉に、その「現場」に突き刺さった。
「ち、違うんです……! 私は、ただ、ペットボトルが……!」
顔面が沸騰したかのように真っ赤に染まる。医師の顔が困惑から怒号へと変わるのを見た瞬間、日和の防衛本能が限界を超えた。
「ご、ごめんなさいいいいいぃぃぃぃっ!!」
日和は転がるように立ち上がると、そのまま脇目も振らずに自動ドアへと突っ込んだ。
背後から「コラ待て! 君! 何を考えてるんだ!」という怒鳴り声が聞こえてくる。
恥ずかしさと、情けなさと、やっぱり自分はダメだという絶望感。
息を切らし、ようやく病院の外へと逃げ出した日和だったが、冬の冷たい夕風が顔を撫でた瞬間、目の前に「大きな影」が立ち塞がった。
「……おい。病院で何してんだ、お前は」
そこには、呆れたように電子タバコをくゆらす、私服姿の陽子が立っていた。
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