3-6
鼻をかみすぎて、鼓膜がおかしくなりました。
よろしくお願いいたします。
一月四日。仕事始めの朝。
かつて、山そのものを飲み込むかのような威容を誇っていた「八百万館」の跡地は、荒涼とした静寂に包まれていた。
地上に残されたのは、役目を終えたかのように完全に崩壊した廃旅館の残骸と、ひび割れたアスファルトだけだった。正月休みのため、本格的な解体業者が重機を運び込んでくるのはまだ先のことだろう。
しかし、その広大な瓦礫の山の一角、その場所だけは三人の手によって奇妙なほど丁寧に整えられていた。
あの事件の後、陽子は珍しく「後片付け」を提案した。それは崩れた壁を直すような建設的な意味ではない。あの地下で見つけた「モノ」への、呪術的な落とし所をつけるための、静かな儀式だった。
「よし。ヒヨちゃん、そこの大きな石、危ないからこっちに寄せてくれる?」
鬼塚が、場違いに明るい声を上げながら竹箒を振るう。
「はいっ! ……あだっ!?」
返事をした瞬間、日和が抱えようとした瓦礫が指から滑り、彼女の向こうずねを直撃した。
「……何してんだ、お前は。動く時は一歩ずつ確認しろって、あれほど言っただろ」
軽トラの荷台で、ホームセンターで買い揃えた真新しい建材の寸法を測っていた陽子が、呆れたように、しかしどこか見守るような視線を向けた。
三人は朝一番で、開店直後のホームセンターへ向かっていた。
陽子が選んだのは、節一つない最高級のヒノキ材と、錆に強い真鍮製の金物だ。
「ヨウちゃん、この材木、メートル単価で見ると目玉が飛び出しそうだよぉ。ボクへの請求、もう少しだけ……優しくしてくれないかな?」
カートを押す鬼塚が情けない声を出すが、陽子は一瞥もくれない。
「黙れ。八百万館からの救出費用の一部だと思え。材料費、手間賃。……全部お前に請求する。文句があるなら、あの祟り神と直接交渉してこい。出来ればの話だがな」
「ひえっ……そ、それは遠慮しておくよぉ」
現場では、陽子の手際の良さが際立った。
彼女がノミと金槌を振るうたび、硬いヒノキが吸い込まれるように組み合わさっていく。陽子が作っているのは、単なる木の箱ではない。複雑な組み継ぎと、目に見えない呪術的な補強が施された、強固な「器」だ。
日和は、自分の不幸が資材に飛び火しないよう、細心の注意を払いながら作業を手伝った。
「あの、陽子さん……ここ、釘打っていいですか?」
「角度に気をつけろ。一ミリでも曲がれば、打ち直しだぞ」
日和は何度も自分の指を叩きそうになりながらも、懸命に金槌を振るった。
数時間の格闘の末、更地の隅に、小さくも凛とした佇まいの祠が完成した。
その中には、あの大昔の寺院の記憶の中から日和が救い出した、墨の掠れた「木札」が、清められた布に包まれて納められている。
「よし。ヒヨちゃん、お酒持ってきた?」
鬼塚が汗を拭いながら笑う。日和は、麓の酒屋で買った地元の安酒を祠の前に供え、静かに手を合わせた。
(どうか……今度こそ、ゆっくり休んでください。もう、誰もあなたを無理に起こしたり、利用したりしませんから)
◎
作業を終え、麓の温泉街へと続く帰り道。
軽トラの窓から差し込む冬の陽光は穏やかだが、車内に流れる空気は、一通の茶封筒によって一変した。
助手席で小さくなっていた日和に、陽子が不愛想に封筒を突き出した。
日和は渡された封筒の中身を見て、目を見開いた。
「……えっ!? じゅ、十万円!? 陽子さん、これ、本当にもらっちゃっていいんですか!?」
一瞬、日和の顔にぱあっと花が咲く。あんな地獄のような思いをして、ようやく手に入ったまとまった現金。だが、陽子の口角が、意地悪く吊り上がった。
「待て。喜ぶのはこれを見てからにしろ」
陽子が続いて差し出したのは、あまりにも無慈悲な一通の「明細書」だった。
特注お守り紐・交換及び修繕費(身内価格):¥45,000
【天狗の邪気祓い札】使用料(日和分・身内値引き):¥50,000
『呪いのビデオ依頼』残債・分割:¥3,000
現場指導料(特別危険手当相殺分):¥0(サービス)
差引支給額:¥2,000
「……えっ、ええええええっ!?」
日和の声が裏返った。何度もスマホの電卓を叩き直すが、結果は変わらない。
「陽子さん!? 100,000円から、98,000円引くんですか……!? 残り、二千円……?」
「そうだ。感謝しろ、お前が焼き切ったお守りの紐、あれは特注の霊木で編んだやつなんだ。住職には相当無理を言って安くしてもらったんだぞ。本来なら赤字だ」
そう無慈悲に告げる陽子に、流石に日和も食い下がった。
「そんなっ! 陽子さん、そこをなんとか! 私、あの旅館で泥まみれになったり、怪物に追いかけ回されたり、心臓が止まるかと思ったんですよ!? 命懸けで、あの神様の札を拾ってきたんですよ!?」
日和が必死に食い下がるが、陽子は前を見据えたまま鼻で笑った。
「お前、勘違いするな。これは『ビジネス』だ。命と健康が残っただけ幸運だと思え。お前のその体、見てみろ。あの旅館で負った無数の切り傷も、泥に掴まれた嫌な痣も、綺麗さっぱり消えてるだろ」
【天狗の邪気祓い札】の霊験は凄まじく、あの迷宮のような旅館で負った無数の切り傷や打撲、そして泥の化物に掴まれた際の嫌な痣まで、跡形もなく消え去っている。身体の重みは消え、むしろ入社以来一番と言っていいほど血色が良かった。
「お前は自分の命を、十万弱で買い戻したんだよ。……安いもんだろ」
「ううぅ……確かに、体はすごく元気ですけど……。でも、お年玉より少ないです……」
日和ががっくりと肩を落とすと、荷台からひょいと鬼塚が顔を出した。
「あはは! そうだよヨウちゃん、ヒヨちゃんがいなきゃ、ボクら今頃あの泥の胃袋の中だったよぉ。せめて半分、いや三割くらいにしてあげなよ。ねぇ?」
鬼塚が助け舟を出すと、陽子はバックミラー越しに冷徹な視線を飛ばした。
「お前、自分が何言ってるか分かってんのか? ヒヨコを甘やかすなら、お前がその分を肩代わりするか?」
「……あ、いや。それはそれ、これはこれだよぉ!」
鬼塚は瞬時に自分の値引き交渉に切り替えた。
「ボクの分の札も、十万円は高くないかなぁ!? ほら、ボクはヨウちゃんの長年の友人で、しかも大事なお得意様じゃないか! せめて半額、身内値段の五万円くらいにしてくれても……」
「……はぁ? 何寝ぼけたこと言ってんだ。日和はあたしのバイトだから身内値引きしてやったが、お前はただの客だ。札は一枚十万。お前からは一円も負ける気はねえよ。そもそも、今回はお前の救助がメインだ。宣言通り通常の五倍の費用。整地代と材料費も乗せて、たっぷり搾り取らせてもらうからな」
「ひえっ、ヨウちゃん、鬼! 悪魔! 祟り神より怖いよぉ!」
陽子の無慈悲な一言に、鬼塚は苦笑いしながら再び荷台へと引っ込んだ。
日和は絶望に打ちひしがれ、封筒から取り出した二枚の千円札を、親の形見のように大事に握りしめた。
「……に、二千円……。あんなに、あんなに死にかけたのに、手元に残るのが、ランチ一回分……」
「文句を言うな、ヒヨコ。二千円残ればランチくらい食えるだろ。……おい、鬼塚。案内所に着いたら、ヒヨコに何か奢ってやれ」
「えっ、ボクが!? ……あ、あはは。まあ、命の恩人だしねぇ。いいよ、ヒヨちゃん! 案内所の食堂で、特製イノシシカレーでも食べよっか! ボクが全額出すからさ!」
「……え!? 本当ですか!? 鬼塚さん、ありがとうございます!」
日和の表情に、ようやく少しだけ明るさが戻った。
バックミラー越しに、遠ざかる八百万館の跡地が見える。更地の隅に建てられた小さな祠。その中に納められた木札は、もはや墨も掠れ、神の名前を読み取ることは叶わない。
だが、その存在を知り、祠を供えた者が三人もいる。それだけで、あの祟り神の怒りは、今はかろうじて凪いでいた。
だが、二十年以上積み上げられた怨念は、そう簡単に消えはしない。
地下から湧き出る温泉には、今なお黒い因縁の滓が混ざり、硫黄とは異なる生臭さが漂っている。かつての活気を取り戻すには、まだ長い年月が必要だろう。
「陽子さん……あの祠、ずっとあそこに置いたままで大丈夫なんでしょうか。もし誰かが壊しちゃったら……」
「もし壊されりゃ、今度は『蓋』も『器』もねぇ。あの祟り神は、このふもとの温泉街を丸ごと食い殺しに来るだろうぜ」
陽子の言葉に、日和の背筋が凍る。
「え、じゃ、じゃあ、私たちが定期的に見守らないと!」
「……あたしは慈善事業家じゃねぇ。わざわざあんな不便な場所、何の儲けにもならねぇのに見回るかよ。せいぜい、壊されないように祈るんだな」
陽子は無関心を装うようにハンドルを切った。彼女にとって、仕事はあくまで「精算」までだ。
ただ。
もし、数年後に近くを通る仕事が入ったら。
あるいは、この横で震えている少女が、どうしても行きたいと泣きついてきたら。
その時は、気が向いたついでに、あの小さな祠が雪に埋もれていないか、確認しにきてやるくらいの「気まぐれ」は、あってもいいかもしれない。
そんな考えを口に出すことはなく、陽子はアクセルを踏み込んだのだった。
◎
麓の観光案内所兼、簡易休憩所。冬の平日の昼下がり、そこには数人の地元客がテレビのニュースを眺めているだけの、のどかな時間が流れていた。
陽子たちの軽トラが駐車場に滑り込むと、日和は真っ先に車を降りた。
「陽子さん、私、お手洗い借りてきます! あと、食堂の券売機見てきますね!」
二千円しか残らなかったショックを、鬼塚の「奢り」という言葉で何とか上書きした日和は、駆けるように建物の中へ消えていった。
駐車場に残されたのは、軽トラのドアに寄りかかり、手慣れた動作で電子タバコを取り出した陽子と、荷台から飛び降りて伸びをする鬼塚の二人だけになった。
陽子がカチリとスイッチを入れ、深く吸い込んだ紫煙を冬の澄んだ空気に吐き出す。その横顔を、鬼塚はいつもの軽薄な笑みを消し、値踏みするような真剣な眼差しで見つめていた。
「……で、ヨウちゃん。そろそろ『本当のこと』を話してよ」
鬼塚が、先程までの明るい声とは一転して、探るような低い声で切り出した。
「何の話だ。明細ならさっき渡しただろ」
「そっちじゃない。……あの子のことだよ。ヒヨちゃん、一体何者なの?」
陽子は視線を動かさず、ただ静かに煙を吐き出し続ける。
「ただのバイトだ。不幸を呼び寄せる体質だが、お前みたいな不届き者を助けるには丁度良く役立ったろ」
「冗談はやめてよ」
鬼塚が、懐からおもむろに一つの物体を取り出し、陽子の目の前に差し出した。
それは、彼女が常に首から提げていた、持ち主の被害を代わりに引き受ける『身代数珠』だった。名のある祈祷師が、数百年経った霊木の芯から削り出したという逸品。だが、今鬼塚の手にあるそれは、見る影もなく粉々にひび割れ、真っ黒に変色していた。
「……旅館を脱出する時さ、ボクは彼女を抱えていた。だから、受け止めたんだ。あの子が放ったあの呪いの奔流……その『余波』に触れただけで、この数珠が死んだんだ」
鬼塚の指が、無残に砕けた珠をなぞる。
「これ、ただの身代わりじゃないんだよ? 多少の祟りなら三度は耐えるはずの代物だ。それが、彼女が呪いを解放した瞬間に、一気に全部持っていかれた。……あれは、人間が持てる器のサイズじゃない。ヨウちゃん、あの子を側に置いている理由は、ただの『不幸体質』だからじゃないよね?」
陽子は電子タバコをポケットにしまい、重い口を開いた。
「……あたしにとっても、想定外だったよ。あの旅館の迷宮化を一時的に妨害できれば御の字だと思って使わせたが……まさか、現役の祟り神と真っ向から拮抗する出力を出すとはな」
陽子の脳裏には、廃旅館内部で見た光景が焼き付いている。
儀式も、複雑な触媒も、血の契約もなし。ただの子供が、子供じみた純粋な感情だけで、二十年以上蓄積された神の悪意を押し戻したのだ。
「あいつの『呪いの才能』は、あたしの想定を遥かに超えて規格外だ。……話に聞く日本の三大怨霊、菅原道真あたりにでも並ぶ器かもしれないぜ、あいつは」
陽子の言葉に、鬼塚が息を呑む。
「道真……? あの、天神様として祀り上げなきゃ日本が滅ぶって言われた、あのクラスの化け物だって言うの?」
「出力だけ見ればな。今のところは、本人が無自覚で、そのエネルギーが全部自分への『不幸』として逆流してるから、なんとか人型を保ててはいるが……」
場に、重苦しい沈黙が流れる。
もし、あの日和という少女が、自らの意思でその出力を自在に操れるようになったら。あるいは、彼女の「不幸の器」が溢れ出し、周囲に完全に決壊してしまったら。
それは、一地域の祟りなどというレベルではなく、現代社会そのものを書き換えかねない未曾有の災厄になるだろう。
「……それで、ヨウちゃん。あの子をどうするつもり?」
「どうもこうもねぇ。今はただのバイトだ。……だが、野放しにはできねぇだろ。だから、お前に新しい依頼だ、鬼塚」
陽子が冷徹な瞳で鬼塚を射抜く。その視線は、友人としての甘えを一切排除した「祓い屋」のそれだった。
「日和の経歴、血縁関係、先祖の代まで徹底的に洗い出せ。戸籍謄本なんかの表の記録じゃない。お前のコネクションを使って、各地方の古い伝承や、陰陽道の名家、あるいは忘れ去られた分家の記録まで辿れ」
「……随分と大掛かりだね。ボクのツケを全部帳消しにしてくれるくらいじゃないと割に合わないよ?」
「ツケの一部免除だ。……お前なら、マスコミ各社や公的な治安組織の裏側にまで顔が利くだろ。あいつがどこから来て、何故これほどのモノを背負っているのか。その『出処』を突き止めろ」
鬼塚は、砕けた数珠を握り込み、ふっといつもの薄気味悪い笑みを浮かべた。
「……ふふ、厳しいなぁ。でも、ボクも彼女の正体には興味がある。あんな『特級品』を目の前にして、呪物コレクターとして知らん顔はできないからね。……引き受けたよ。ヨウちゃんへの年貢代わりにね」
「お待たせしましたー!」
そこへ、能天気な声を上げて日和が案内所の自動ドアから飛び出してきた。その手には、自販機で購入したらしいペットボトル三本を抱えている。
「自販機、お茶しかなかったですよー。ええと、緑茶と、ほうじ茶と、麦茶。どれがいいですか? あ、食堂、イノシシカレーありました! すごくいい匂いしてましたよ!」
先ほどまで「三大怨霊」だの「血統の調査」だの、一人の少女の運命を解体するような物騒な話をしていた二人は、瞬時に「日常」の仮面を被った。
陽子はポケットから手を出し、不愛想に顎をしゃくる。
「あたしは麦茶。……さっさと行くぞ。飯を食ったらすぐに店へ戻るからな」
「ボクはほうじ茶にしよっかな! ヒヨちゃん、ありがとうね。喉カラカラだったんだ」
日和からペットボトルを受け取った二人は、そのまま食堂の入り口へと歩き出す。
自分の内に、一国を滅ぼしかねないほどの巨大な闇が眠っていること。
そして、信頼しているはずの「師匠」が、自分の過去を暴こうと闇のネットワークを動かし始めたこと。
彼女は、それを知る由もない。
「陽子さん、お茶、冷えてて美味しいですよ!」
「……そうかよ」
陽子は、日和が手渡したペットボトルのキャップを開け、一気に飲み干した。
彼女の不運を「精算」し続ける日々。それは、いつ爆発するか分からない爆弾の信管を、薄氷の上で調整し続けるような綱渡りだ。
だが、その横で屈託なくカレーの味を想像している少女の横顔を見て、陽子は微かに、自分でも気づかないほど小さな溜息を吐いた。
「よし、鬼塚。さっさと案内所に入るぞ。お前の奢りなんだから、一番高いのを注文させろ」
「ひえっ、お手柔らかに頼むよぉ!」
冬の午後の穏やかな光の中、三人は案内所の食堂へと向かった。
その背後で、陽子が吐き出した最後の紫煙が、形を成さないまま、冷たい風に流されて消えていった。
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