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春の職業作品に挑戦です。
よろしくお願いいたします。
小林日和の朝は、いつも小さな不幸から始まる。
目覚まし時計の電子音が鼓膜を叩く。それを止めようと伸ばした指先が、なぜか数ミリだけ狙いを外し、時計をサイドテーブルの端から叩き落とす。慌てて拾い上げようと身を乗り出せば、寝惚けた足がシーツに絡まり、重力に引かれるまま床へと転げ落ちる。
「……痛い」
鈍い痛みと共に床に這いつくばりながら、彼女は今日一日の「不幸」の総量を予感して溜息をついた。
日和は、自分が「何者でもない」と思っていた。
あるいは、自分という器の中身は空っぽで、そこには誰かが捨てていった「澱」のような不純物だけが詰まっているのだと。
情熱を注げる趣味もなければ、寝食を忘れるほど没頭できる対象もない。クラスメイトたちが「この新作スイーツ、映えるよね!」と言えば「本当だね、可愛い」と微笑み、SNSで流行りのダンス動画が流れてくれば、意味も分からず親指を立てる。彼女の日常は、他人の色彩を反射することで辛うじて形を保っている、無色透明な硝子細工のようだった。
そんな灰色の世界において唯一、暴力的なまでの光を放っていたのが、石田勇という存在だった。
きっかけは一年前の入学式。幼少期からの不幸体質は高校でも健在で、彼女は正門をくぐって早々、何もない平坦なアスファルトの上で盛大に転倒しかけた。「ああ、幸先悪いな」と思い、諦めていつもの痛みを受け入れようとした。
「おっと、危ない。大丈夫かい?」
地面に膝を打ちつける直前、温かい手のひらが彼女の肩を力強く、それでいて優しく支えた。
見上げると、そこには知的な眼鏡をかけた二年生が立っていた。生徒会書記を務める石田勇。彼は特定の部活動に所属していないにもかかわらず、その身のこなしは驚くほど軽やかで、彼が歩く場所だけは「不幸」という概念そのものが消滅しているかのように見えた。
勇は、日和を支えたまま穏やかに微笑んだ。
「怪我はないかな? 慣れないローファーは疲れやすいから、気をつけて」
「あ、ありがとうございます……」
その瞬間、日和の胸の奥で、何かが静かに爆ぜた。それは「恋」と呼ぶには少し重い、しかし確かに彼女の春の訪れを告げるものだった。
日和のもう一つの「光」であり、同時に深い「影」でもあったのが、親友の相野美咲だった。
美咲は日和とは対照的な、生命力に満ち溢れた少女だ。耳たぶにはいくつものピアスが光り、短く詰めたスカートにルーズなカーディガンを羽織る。いわゆる「ギャル」というカテゴリーに属しながらも、成績は学年上位で、運動神経も抜群。そして何より、地味で「転んでばかり」の日和を「日和!」と屈託のない笑顔で呼び、強引にクラスの輪の中に引き入れてくれる眩しさを持っていた。
十月の文化祭。日和のクラスの出し物は、定番の「お化け屋敷」だった。
「日和、こっちの血糊の塗り方、もっとドロっとさせた方が怖くない? ほら、こう!」
段ボールで作られた不気味な通路の中で、美咲が楽しそうに刷毛を動かす。日和は言われるままに、古びたマネキンにボロ布を巻きつけていた。
「……なるほど、そうだね。流石美咲、何でも器用にこなせるね」
「そんなことないよ! 私はただ、面白いことが好きなだけ。――ねえ、勇くんも驚いてくれるかな?」
美咲の口から、憧れの人の名前が出る。日和は、心臓の鼓動がわずかに早まるのを感じながら、曖昧に頷いた。
文化祭当日、日和の役割は受付だった。薄暗い廊下に立ち、来場者に整理券を渡す地味な仕事。だが、その日の日和はいつになく期待に胸を膨らませていた。生徒会役員として見回りに来る勇先輩に会えるからだ。
「小林さん、お疲れ様。随分と盛況だね」
腕章を巻いた勇が、日和に声をかけた。
「あ……勇先輩。ありがとうございます。……あの、これ、よろしければ」
日和は勇に、クラスで手作りした小さな記念バッジを渡そうとした。だが、指先が微かに震え、バッジは日和の手をすり抜けて床へ落ち、そのまま転がって姿を消してしまった。
「あ、ごめんなさい! わたし、本当にドジで……っ」
這いつくばって探そうとする日和を、勇は優しく制した。
「いいよ、気にしないで。小林さんはいつも一生懸命だから、少し疲れてるんじゃないかな。後でゆっくり休んで」
勇の温かい言葉。彼が自分にだけ向けてくれた慈しみ。日和がその残響に浸ろうとした、その直後だった。
「あ、勇くん! 見回りに来てくれたんだ!」
奥のお化け屋敷から、メイクを崩した美咲が飛び出してきた。
「相野さん。準備、大変だっただろう? 廊下まで悲鳴が聞こえてたよ」
「でしょ? 勇くんも入ってよ、私が特別に案内してあげるから!」
二人の会話。美咲の眩しい笑顔と、それに応える勇の柔らかな眼差し。
日和は、受付のカウンターの下で自分の拳を強く握りしめた。
(……お似合いだ。美咲と先輩なら、きっと誰もが認める素敵な二人になる)
心からそう思っている。一点の曇りもなく、親友と憧れの人の幸せを願っている。
だが、その瞬間。
日和の背後の壁に貼られていた不気味な「お札」の装飾が、風もないのにハラリと剥がれ落ちた。
お化け屋敷の中から、誰かの短い悲鳴が上がる。
「キャッ!? 今、誰かに足を掴まれたような……」
演出用の仕掛けではない場所での、不可解な現象。日和は剥がれ落ちたお札を拾い上げながら、自分の胸の奥が、氷を詰め込まれたように冷え切っていることに気づかなかった。
文化祭は大成功のうちに幕を閉じた。
後片付けの最中も、美咲は勇と一緒に生徒会室へ備品を返しに行ったりと、二人の距離は誰の目にも明らかなほど急速に縮まっていた。
クラスメイトたちは口々に二人の噂をした。
「あの二人、絶対いい感じだよね」「美咲、勇先輩のこと落としたんじゃない?」
日和はそれらの言葉を聞くたびに、「そうだね、本当にお似合いだね」と、クラスで最も熱心な賛同者として振る舞った。
日和は、自分が「選ばれなかった側」であることを、これまでの人生で嫌というほど学んできたのだ。
小学校の運動会では、バトンの受け渡しで必ず転倒し、自分のチームを最下位にした。中学校の合唱コンクールでは、本番直前に謎の喉の痛みに襲われ、声が出なくなった。修学旅行の自由行動では、彼女が選んだコースだけが局地的な豪雨に見舞われた。
自分という存在は、誰かの幸せを引き立てるための背景であり、不幸というスパイスを添えるだけのモブキャラに過ぎない。
だからこそ、美咲のような光り輝く存在が傍にいてくれることが誇らしかった。美咲と勇先輩が結ばれることは、日和にとっても一種の「正解」であるはずだった。
文化祭の打ち上げは、学校近くのカラオケボックスで行われることが決まった。
「ひよりんも絶対来てよ! 美咲が寂しがるからさ」
クラスの幹事の言葉に、日和は「うん、行くね。楽しみにしてる」と答えた。
その日の帰り道。一人で歩く、自宅までの三十分の徒歩登校路。
日和はふと、向かいの歩道へと続く歩道橋の上で足を止めた。
沈みゆく夕陽が、町並みを血のような赤に染めている。
(……わたし、どうしてこんなに身体が重いんだろう)
理由は分かっていた。冬が近づいているのだ。
乾燥し、冷え切った空気。それは日和の「不幸」を、より鋭く、より冷酷に研ぎ澄ませていく。
歩道橋の手すりに触れた瞬間、パチリと大きな静電気が走った。
指先に走る鋭い痛み。
日和はそれを、いつもの些細な不幸だと片付け、再び歩き出した。
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