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体調はよくなってきています。
よろしくお願いいたします。
陽子がバッグの底から取り出したのは、鈍い銀色を放つ一振りの鋏――【出雲の縁切り鋏】だった。
神域より由来するその呪具は、対象に結びついた霊的・物理的なあらゆる「縁」を一切合切切り裂く力を持つ。本来、この鋏を所有する者は、生を繋ぎ止めるすべての縁を断たれ、誰にも知られず孤独に死に絶えるという極めて強力な呪いを帯びているが、一切の霊的干渉を受け付けない陽子にとっては、指先の延長線上にある「事務用品」の一つに過ぎない。
池の中央で、数メートルに膨らんだ異形の仏像が、内側から爆ぜるような音を立てた。ひび割れた木肌の隙間からは、ドロドロとした赤黒い脂が膿のように噴き出している。
「ヒヨコ、下がってろ! 鬼塚、足止めしろ!」
「了解だよ、ヨウちゃん! ……ヒヨちゃん、ボクの後ろに隠れてなよ。この大きな図体は、こういう時に役立つからね!」
鬼塚が、一八五センチの巨躯を日和の前に壁のように割り込ませた。
彼女はコートの裏に隠していた、太い鉄鎖に繋がれた真鍮製の分銅を掴み出す。それは呪物というよりは、物理的な破壊を目的とした重量武器に近い。
仏像が吠えるような軋み声を上げると、周囲の立ち枯れた杉の枝が意思を持つ鞭のようにしなり、先端を鋭く尖らせて陽子の頭上から降り注いだ。
「フンッ!」
鬼塚がその丸太のような腕で鉄鎖を振り回し、猛速で飛来する枝を次々と粉砕していく。硬い真鍮が乾燥した木材を叩き折る乾いた音が、静まり返った森に響く。
だが、敵は木々だけではない。
仏像の力に呼応し、足元の泥濘が激しく脈打ち始めた。神隠しの犠牲者が遺した遺留品――割れた眼鏡、錆びた鍵、鋭利に砕けたデジタルカメラのレンズが、泥に押し出されるようにして集まり、三人を容赦なく襲う「礫」と化す。
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
日和は悲鳴を上げながら、泥に足を取られつつも必死に逃げ回った。背後からは、錆びた水筒や尖ったプラスチック片が、殺意を持って彼女の背中を狙う。
鬼塚はその岩のような背中で日和を庇い、コートの袖を盾にして破片を受け止めた。
「おっとぉ、危ないねぇ。ヒヨちゃん、止まっちゃダメだよ! 止まったらこの泥に呑み込まれちゃうからね!」
鬼塚の警告は冗談ではなかった。日和がさっきまで立っていた場所には、泥の中から這い出した木の根が、獲物を探す触手のようにのたうち回っている。日和は涙目で、ぬかるむ地面を転びそうになりながらも、なりふり構わず走り続けた。
陽子は、その乱戦の最中を風のように駆け抜けた。
空道の身体操作を応用し、沈み込む寸前の圧力を推進力へと変換する。隆起する土地。意思を持つようにしなる枝。陽子はそれらすべてを「物理的な障害物」として冷静に処理していった。
右から迫る杉の幹を、肘打ち一点に全体重を乗せてその軌道を逸らす。正面から突き出した鋭い木の杭は、跳躍しながら靴底で踏み砕き、その反動でさらに加速した。
「鬼塚、押さえろ! 土地が盛り上がってやがる!」
「任せてよ! よい、しょおっと!」
鬼塚が、鉄鎖の先に付いた数十キロはある分銅を、ハンマー投げの要領で隆起した土壁へと叩きつけた。圧倒的な質量と遠心力が、盛り上がった土地を物理的に粉砕し、平らにならす。魔法のような現象ではない。ただの暴力的なまでのパワーによる強制的な整地だ。
その刹那、仏像のひび割れた眉間から、無数の「文字」が溢れ出した。かつてこの場所で誰かが唱えた、歪んだ祈りの言葉。それが黒い糸となって陽子の全身に絡みつく。
本来なら精神を汚染し、肉体の自由を奪うはずの呪念だが、陽子は眉一つ動かさず、その黒い糸の群れを平然と突き抜けた。
「祈る相手を間違えてるぜ。……そんな紙切れ同然の言葉が、あたしに通用すると思ってんのか」
一切の霊的干渉を受け付けない陽子の異質な体質が、黒い糸をただの「無価値な霧」へと変える。
陽子は仏像の眼前に肉薄し、流れるような動作で懐に潜り込んだ。武術の極意――内部破壊の浸透勁を乗せた掌底を、膨張した木肌の急所へ叩き込む。
ズ、ンッ!!
重低音が空間を揺らし、仏像の背面が壊れ、その背後から蓄積された瘴気が噴水のように吹き出した。
仏像はさらに狂乱し、周囲の遺留品を盾にしようと、自分自身の周囲に「ゴミの嵐」を作り出す。鋭い金属片や硬質のプラスチックが猛烈な速度で旋回する中、陽子はその嵐の合間を、紙一重のステップですり抜けていく。
一歩、二歩。陽子の動きに無駄はない。
飛来する遺品を【縁切り鋏】の刀身で弾き、瞬時に死角へと回り込む。
日和は、陽子のそのアクロバティックな姿を、信じられないものを見るような目で見つめていた。泥を跳ね、枝を蹴り、呪いを踏みつけるその姿は、冷徹な会計士というよりは、戦場を支配する死神に近い。
「あ、危ない! 陽子さん、後ろから……!」
日和が叫んだ。仏像の影から、巨大な「泥の塊」が鎌首を上げて陽子に迫る。
だが、陽子が動くよりも早く、鬼塚の太い腕が空を切った。彼女は手近に転がっていた、かつての庭園の装飾品であったろう大きな石灯籠の頭を、軽々と片手で掴み上げ、それを泥の塊に向かって全力で放り投げた。
「――ヨウちゃんの邪魔をしないでくれるかな?」
凄まじい衝撃音と共に泥の塊が散乱する。鬼塚の放つ暴力は、もはや呪術を介在させる必要すら感じさせないほどに純粋だった。
その隙を、陽子が見逃すはずもなかった。
「仕上げだ。全ての縁を、きっちり清算してやるよ」
陽子は【縁切り鋏】を開き、大きく振りかぶった。
仏像が絶叫し、その全身から腐った根を無数に伸ばして、陽子を丸呑みにしようと口を開く。
だが、陽子は逃げない。むしろその絶望的な死の顎へと自ら飛び込み、空中であり得ない速度で鋏を交差させた。
――ジャキンッ。
空気を裂く鋭い音と共に、鋏の刃が仏像の眉間に深々と突き刺さった。
それは物理的な破壊ではない。仏像を無理やり膨張させていた呪念と、この土地が放つ怨念の「繋がり」そのものを、神威の鋏が無慈悲に断ち切ったのだ。
刹那、森を揺らしていた暴風が止まった。
隆起していた土地が静まり、宙を舞っていた遺品たちが、泥の中へと沈んでいく。
膨張していた仏像は、まるで空気が抜けるように萎んでいき、元のサイズ――古びた木像へと戻っていく。そこには先ほどまでの禍々しさはなく、ただ長年の湿気で傷んだ、憐れな廃物としての姿があるだけだった。
「……ふぅ。これで一旦、貸方と借方の数字は合ったな」
陽子は額に滲んだ汗を乱暴に拭い、鋏を畳んだ。銀の刀身には、ヘドロのような黒いシミが付着していたが、それもすぐに霧散していく。
「お見事! 素晴らしいよヨウちゃん!」
鬼塚がパチパチと拍手しながら寄ってきた。彼女の瞳は、足元に転がった「沈静化された仏像」に対して、恋い焦がれるような熱を帯びて輝いていた。
「ああ……見てよ、この縮み方。呪いを断たれて、本来の『無』に戻った後のこの侘しさ……。これこそが、ボクが求めていた歴史の残滓だ! さすがは出雲の鋏、最高の仕事をするね!」
鬼塚は泥に膝をつくのも構わず、沈静化した仏像の前に跪いていた。
陽子の掌打によって背面は無残に砕け散っていたが、前面は無数のひび割れが走りながらも、辛うじてその慈悲深い、あるいは呪わしい形を留めている。鬼塚はその無事な前面部分に熱っぽい視線を送り、まるで愛しい者の肌に触れるように、冷たくなった木肌を愛おしそうに撫で回した。
「……陽子さん、終わった、んですよね……?」
日和は泥だらけになった服を震える手で払いながら、恐る恐る尋ねた。心臓の鼓動はいまだに早く、耳の奥では先ほどまで聞こえていた異様な軋み音がこびりついて離れない。
しかし、陽子は答えない。
彼女はバッグに【出雲の縁切り鋏】を収めたものの、その視線は鋭く、周囲の霧の深奥を射抜いたままだった。陽子の脳内では、目に見えない計算式が猛スピードで組み上げられていた。
(……やっぱり数字が合わねぇんだよなぁ)
陽子は、仏像が置かれていた古びた「社」の土台を、忌々しげに踏みつけた。
「手応えが軽すぎる。……なぁ、ヒヨコ。あのじいさんが言ったよな。この仏像はオーナーが後から持ってきた『蓋』だって」
日和は突然話を振られ、肩を跳ねさせた。
「は、はい。確かに後から仏像を置いたって……」
顎に手を置いてかんがえこむ陽子。今までの情報から現状を整理しようとしている。
「……怪現象は仏像を置く前からあった。オーナーはこいつを重石にして、温泉に紐付いた『何か』を閉じ込めようとしていた。あたしは今、鋏で『仏像と怨念の縁』を切った。だが、それはあくまで表面の毒を拭っただけに過ぎねぇ。……今、この旅館を維持してる『本尊』は、まだこの下で眠っていやがる。この仏像は、そいつが漏れ出さないように閉じ込めるための、ただの『重石』か」
陽子の冷徹な指摘に、日和の顔から血の気が引いていく。その事実からおぞましい可能性に気が付いたのだ。
「……それじゃあ、陽子さん。今、一番危ないんじゃ……」
「あぁ。長年溜まってた毒を掃除して、蓋を軽くしてやったんだ。……下の本尊からすれば、今が一番『跳ね起きやすい』状況ってことだ。とっととここを離れるぞ。おい、鬼塚! 薪拾いは後回しだ、さっさと動けッ!」
陽子が鋭く叱り飛ばした、その刹那だった。
「――っ!?」
日和の足元が、唐突にぐらりと揺れた。地面そのものが、獲物を呑み込もうとする巨大な舌のように波打つ。
「うわあああぁっ!?」
日和の「不幸」が、最悪のタイミングで歯車を回した。ぬかるんだ泥、不規則な隆起。そして足元に転がっていた、仏像の手に持っていたであろう錫杖の折れ。それらが精密な罠のように噛み合い、日和の身体を前方へと投げ出した。
その直線上では、鬼塚が地面に這いつくばっていた。彼女は仏像の前面を撫でるだけでは飽き足らず、泥の中に散らばった背面の破片や装飾品、そして錫杖の部位を一つ残らず回収しようと、周囲の警戒を完全に解いて夢中で欠片を拾い集めていたのだ。
「わ、わっ、危な……ッ!」
日和の身体が、全体重と転倒の勢いを乗せたまま、前屈みになっていた鬼塚の巨大な腰のあたりへ砲弾のように突き刺さった。
「おっとぉ!?」
不意を突かれた一八五センチの巨躯。いくら鬼塚が怪力無双とはいえ、拾いものに夢中で重心を極端に前に落としていた状態では、踏ん張りが効くはずもない。鬼塚の身体は日和に押し出されるようにして、ドミノ倒しの勢いで前方へと倒れ込んだ。
その先にあるのは――仏像を祀っていた、あの古びた小さな「社」の支柱だ。
二十年以上、この土地の「底」にある何かを辛うじて封じ込めていた最後の物理的な結界に、鬼塚の巨体が攻城槌のような質量となって激突した。
バキィィィィンッ!!!
「「……あ」」
泥まみれで重なり合った二人の目の前で、社を構成していた古い材木が、役目を終えたかのように粉々に崩れ落ちていく。
「………………おい、てめぇら……?」
陽子の声は、低く、冷たく、そして地を這うような怒気に満ちていた。
「あ、あわわわ……陽子さん、違うんです! 地面がいきなり盛り上がって……!」
「そ、そうだよヨウちゃん! ボクもこの子の欠片を守ろうとしてただけで……まさかこんなに簡単に社が壊れちゃうなんて、言い訳をさせてもらえるなら……」
「黙れ、バカ共!!」
陽子がゆっくりと歩み寄る。その瞳には、実害への憤りからくる、容赦のない「ぶちギレ」の炎が宿っていた。
「蓋が壊れた。依頼完了寸前で損害を拡大させやがってぇ……。お前らが今しでかしたのは、倒産確定の会社に火を放ったのと同じだぞ、この大バカ共がッ!!」
「ご、ごめんなさいいぃぃぃっ!!」
「本当に申し訳ないと思ってるよぉ! でもボクの仏像は無事だから、ね!? ね!?」
「黙れ!!」
陽子の怒号と同時に、世界の理が崩壊を始めた。
社のあった場所から、魂まで凍てつかせるような「何か」の気配が溢れ出す。旅館全体が鳴動し、空間の座標がのたうち回る。
「ぎゃあああああああかっ!?」
日和が悲鳴を上げた瞬間、視界から重力が消失した。霧の夜空が客室の畳に置き換わり、足元の泥濘からは赤いカーペットが逆さまに突き出してくる。
「あだだだだだっ! ヨ、ヨウちゃん、世界が裏返ってるよぉ!」
「知るかッ!! 自分のケツは自分で拭けッ!!」
陽子が激昂しながら跳躍する。しかし、旅館そのものが巨大な粘土細工を握りつぶしたかのように捩じ切れ、天地左右が絶え間なく入れ替わる。襖の雨が降り注ぎ、激流のような泥混じりの温泉が三人を飲み込もうと迫る。
「陽子さん!! 助けて、陽子さぁん!!」
日和は必死に手を伸ばした。数メートル先で、陽子が険しい表情でこちらを見ているのが見えた。しかし、その間に廊下の床が九十度に折れ曲がり、巨大な「壁」となって二人を分断した。
「チッ、ヒヨコ!! 何かに掴まれ!!」
陽子の叫びが遠のいていく。日和の身体は、滑り台のような角度になった廊下を、抗う術もなく深淵へと滑り落ちていった。
どさり、と硬い床に放り出された時には、周囲に陽子や鬼塚の気配は微塵もなかった。
そこは、血のように赤い花柄の壁紙が続く、終わりのない古い廊下。
「……う、ううぅ……誰か……陽子さん……鬼塚さん……」
日和の震える声は、歪んだ空間の壁に吸い込まれる。その背後、廊下の角から、ギチリ……ギチリ……と。
「蓋」を失い、完全に自由になった「何か」の足音が、ゆっくりと近づいてきていた。
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