壱話 「その苦しさはね、嫉妬だよ♡」
2025年8月8日(金)。
私は玄関ドアを開けた。
地名という珍しい名字のネームプレートの下にある受け取りボックスから、新聞紙を取り出してリビングに置く。
「行ってきます」
早朝、寝ている家族に優しく声をかけるようにいって家を飛び出し、日課のランニングをする。
熱風とも思えるような温度と風を感じながらランニングコースに合流し、舗装されたコースの上を走る。アスファルトから立ち上がる熱気がさらに暑さを上げながらも、それを無視できるような速さで私は走る。
突風のような速さを保ちつつ、それをできるだけ限界まで引き伸ばす。限界まで、いや、限界なんてないと決めて。
「はぁ……はぁ……」
三十分ほど走り切った私は家に戻る。
洗面所に移動し、運動着、下着を脱いで、浴室でシャワーを浴びる。
この一連の行動はルーティンだ。私はこれがないと落ち着けなくなる。
「幻ちゃんは否定気味だったわよねー」
以前、幻ちゃんにこのルーティンを話したら「青春を送るならルーティンなんていらないじゃないか! 青春はいつも違うことして楽しんだり、子どものときしかできないことをしてこそだ!」と胸を張りながら快活に笑っていたな。
実際、彼の意見もわかる。青春すべてを謳歌する。そういう特別もあるんだと思うし、実際幻ちゃんのおかげで楽しい青春を送れているのは事実だ。中には『七怪奇』なんていう奇妙な出会いもしている。
ただ、それを通じて気にしているのはやはり、このままでは幻ちゃんが死んでしまう事実。そしてその死を回避するためには『七怪奇』の青春を未来の私に共有しないといけない。そこから助ける糸口を見つけていく。そんな回りくどいともいえる方法を取らないと死別回避することはできないと聞いていた。
「『七怪奇』にはめっきり会えなくなっちゃったよねー」
シャンプーをあわあわさせてから、菫色の髪全体に優しく揉み洗いしていく。
私はどこか焦りがあると自覚しちゃってる。私の精神が死に、幻ちゃんは死ぬ。その事実を知ったのが一年以上前。
そして『七怪奇』の三つには出会えたものの、残りの四つにであることもできず、その青春を感じることも当然できていない。
焦りはあるものの、焦って行動しても『七怪奇』に出会えるかは運ともいえる。
ただ、運とはいっても確率をあげる方法を取ることはできる。
「今日も学校行きますかー」
そういいながら身体まで洗い終えたので浴室から出ていき、その後は学校へ行く身支度を手早く済ませ、七怪奇高校へと向かった。
学校に行くことこそが、『七怪奇』に出会える確率を上げる方法だからだ。
*****
目的地は学校の図書室だった。ここでは本を読むこともできるが、勉強スペースの利用も公認されている。
私は夏休みに入ってから、ここで勉強するのが日課になっていた。
幻ちゃんもたまに来るものの、毎日は来ていない。……勉強あんまり好きじゃなさそうなんだよねー。ただ勉強は得意っていう……不思議なんだよね。
そんな思いを馳せながら、勉強するために席を確認しようとすると、珍しい人がいた。
「由衣ちゃん?」
「うげぇ、地名じゃん……」
小悪魔と呼び声高い由衣ちゃん。ただ、それも最近は鳴りを潜めているはずだった。
「珍しいねー、大ちゃんと一緒じゃないんだ。何かあったのー?」
彼女は大ちゃんと付き合った。だから小悪魔的行動は男相手全員ではなく、大ちゃん限定になった。そして付き合ってそろそろ九カ月になるはず。
以前、『幻惑空間の独断恋愛』を使ったはずなのに、幻ちゃんが何かしたらしく、そのときの告白はなかったことになったと聞いてる。その後、『七怪奇』を使わなくても告白して大ちゃんが顔をすごい真っ赤にしてOKし、ラブラブな生活だと幻ちゃん伝手に聞いてる。……幻ちゃんどんだけ情報持ってるんだろう。
そんなことを思い返していると由衣ちゃんは「何かあったのよ」とはぐらかす。泣いてないのでちょっとした愚痴のように見える。そして顔の動き――眉の動き、瞳孔の色の変化、俯きの角度、服の着こなしに乱れはなくむしろ清潔、アシンメトリー気味の表情などなど。これら情報から考えを読み取ってみる。
「大ちゃんが受験勉強に根を詰めすぎてる。それでデートに誘えにくい雰囲気だし一緒に勉強するのも集中力が気が散っちゃうから、仕方なく図書室で勉強してるのかなー?」
「アンタぁ、ほんっとに心読んでないのよね?」
「心は読めないんだよねー。読めるのは相手の表情だけ」
由衣ちゃんは「はー」と深くため息をついたあと、勉強をしている姿勢を解いて、リラックスした状態になる。
「まあ、アンタの思っている通りよ。大ちゃんは受験勉強に根を詰めすぎているわ。同じ大学に行こうとしているんだけど、大ちゃんの成績が芳しくなくてね……」
「そして大ちゃんのためを想って別の大学を提案したけど、大ちゃんがその提案を却下して一生懸命勉強をしている。そんなふうに見えるねー」
「……どこまで思考読み解いてんのよ。もはや大ちゃんの心まで読んでない?」
「まさかー。今のは由衣ちゃんの表情から、話しそうなことを事前にいっただけだよー」
思わず先走って由衣ちゃんの話すことをいいきってしまうと、ジト目で私を睨んできた。
「そんなにパーソナルスペースを荒らすから友達が著しく少ないのよ、アンタ」
「でも由衣ちゃんと私は友達でしょ?」
私はにやりと由衣ちゃんをからかって見ると、ムカリと由衣ちゃんが少しふくれっ面を見せたが、怒ることを六秒間我慢したあと、「はっ」と鼻を鳴らすようにしていう。
「そうね。でもアンタには恋人がいないけど、私にはいるわ。明日はちょっとわがままいって大ちゃんと勉強デートかしようかな。アンタにはできないでしょうね」
「…………」
恋人……確かにいない。彼女には当然大ちゃんという彼氏がいる。
私は高校二年まで友達がいなかった。そこから由衣ちゃん、大ちゃん、幻ちゃんと友達ができた。
その中でも幻ちゃんは特別。私が彼を視ても心情を読み取れない。それはミステリアスなようで、されど青春したいと声を大にする裏表がなさそうな友達。
でも幻ちゃんは恋人じゃない。あくまで友達。それがこんなにも、こんなにも、こんなにも。
「…………」
苦しいことだなんて、気づかなかった。
「まるで鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔して、どうしたの?」
「なんだろうね、この苦しさ」
私は思わず胸をぎゅっと抑えてしまう。苦しい。なんで私は幻ちゃんの恋人になれてないんだろう。どうして、幻ちゃんと恋人になれてないんだっけ。
そして『幻惑空間の独断恋愛』を一度使った目の前の友達は、どうして恋人ができているんだろう。
ずるい、ずるいなー。
あれ、こんなこと思っちゃダメなのに。どうして嫌な感情がとめどなくあふれちゃうんだろう。
初めて感じた、この感情はなんていうんだろう。
「その苦しさはね、嫉妬だよ♡」
「「――!?」」
突然の第三者の声に振り返ると――景色ががらりと変わっていた。
ピンクと黒で形成されたメルヘンな世界。
ピンクと黒のタイルが敷き詰められている。その中で円形のピンクのテーブルと、ハート形の椅子があった。すでに由衣ちゃんは椅子に座っていて、その状況に理解が追い付かずにぼうっとしていた。
私はこの情景と、眼前の小さな少女を瞳に焼き焦がす。
少女は図書室にいたら場違いにしかみえない格好だ。
黒の厚底ブーツ。黒とピンクのゴスロリで身を包みこんでいる。黒髪が肩幅まで揃えられ、前髪ぱっつんとピンクのメッシュが入ったヘアスタイル。
そして、逆さハートの瞳をもつ少女。ピンクの瞳は私を捉えて、格好の獲物を見つけたような恍惚とした微笑を向ける。
「びっくりさせちゃってごめんね♡ ラブはね、嫉妬人間『黒部愛』。気軽にラブちゃんって呼んでくれると嬉しいんだよ♡」




