第4章:擬似ヒーローの雨宮太陽2
理人と浅岡のよろず商業部コンビと別れてから、夕焼け空を眺めつつ川辺を歩いた。
帰り道に遠回りをして帰るのは結構好きで、小学生の頃から通学路に縛られない人生を歩んできた。
草木の新芽が育ち青臭いけれど甘い香りに呼び止められるように足が止まった。
早朝にお婆さんたちが腰掛けて談笑するベンチからこちらを見つけて手を振る人影。大胆でも控えめでもない塩梅の仕草が妙に胸をざわつかせる。
「七海先輩」
「やあやあ。まさか君もここを通るとはね」
ゆらゆらと体を左右に動かしながらも隣に座るよう促されたので言われた通りにした。
七海先輩があまりにも上機嫌なのが気味悪くて尋ねてみる。
「何かあったんですか?」
「君に会ったんだ」
「は、はー」
「こういう偶然の中に生きていられるって凄く幸せなことだと思わない?」
「どちらかというと、互いの考えや境遇からこの場所を選択するっていう条件が重なっただけかと」
俺の返事を聞いて、七海先輩はケタケタと笑っていた。
「君は運命にも理屈をつけてきそうだな」
「運命なんてあるんですかね」
「さあ。どうだろうね。その辺、君はどう考えてるの?」
「運命なんてものは人が思考を停止した怠惰の象徴だって思います。生きてると毎日が選択の嵐でその小さな積み重ねが道になって、誰かと交わる。偶然や運命ってものがあるとしてもやっぱり根底にあるのは当人が何を選んできたかだと思っちゃいますね」
「それはそれでロマンがあるよ。そんな考えもまた素敵だと私は思うね」
そう呟きながらも七海先輩は足を伸ばしてパタパタと動かしていた。
やはり彼女は上機嫌である。
先輩と二人でこののどかな時間を沈黙という形で消費するのも悪くない。けど、せっかくなら色々と聞いてもらいたいことや訊きたいことがあったので話してみることにした。
「先輩はさ、中学時代の救えたか救えなかったか分からない同級生と再会できて嬉しかったですか?」
俺からの唐突な質問に対して動じることなく淡々と返答される。
「この前メッセージ送った通りだよ。人の心は物理とはかけ離れたところにあって、私の見えないところで花を咲かせていた。それも飛びきり綺麗な花をね」
「つまり嬉しかったと?」
「うん。嬉しかったし、感動した。あの時の私が彼女にしてあげられたことなんて本当は何もなかったはずなのに、私がいたから今があるって言ってくれて。全部を肯定された気分だった」
「それは良かったです」
「ねえ、私からも質問していい?」と身を乗り出して言われたので頷いて見せた。
七海先輩はニコッと微笑んでから口を開く。
「君が真桜ちゃんに干渉しようとしていたのは家族だから?」
「え?」
「それとも好みの女の子だったから?」
「え?」
何で知っているんだ、という困惑と向けられた質問の内容に動揺して言葉を失う。
でも、七海先輩は黙り込んでこちらの回答を待っているようで何かしら言わなくてはいけない。
「えっと。まず何で真桜のことを知ってるのかってのが疑問なんですけど、とりあえず質問にお答えすると家族だからです」
「ほー。君は出会って数日の家族にも愛を向けられると?」
「いや、マジでどこまで知ってるんですか。というか何で……」
不適な笑みを浮かべている先輩の顔を見て、先ほどの盗撮画像のことが脳裏を過ぎる。
犯人の最低条件は俺と真桜が同じ家に帰っていると知っている人間。候補者としては教師側と浅岡、佐倉だけが浮上していたがここにきて七海先輩も浮上するとは。
この人に限ってそんなことはないと思うが、今挙げた中でいくと一番掴みどころのない人だからな。
若干の疑いを含ませた視線を向けていると七海先輩が説明を始めた。
「私が再会した子と真桜ちゃんが不登校支援の学校で先輩後輩だったんだよ。それで、いろんな成り行きが重なって。というか、私と真桜ちゃんを巡り合わせたのは君だからね」
「俺?」
「そうだよ。真桜ちゃんが太陽さんにいじめられた〜って助けを求めてきたから急遽合流することになって。おかげで最高の再会と同時に最高に面白いハプニングで忘れられない一日になったんだけどね」
真桜が家を飛び出して行ったあの雨の日のことだな。
俺が苦い記憶に精神を削られているも七海先輩の話は続く。
「まあいじめられたとは言ってなかったけど。君との向き合い方に迷っていたのは確かだね」
「それは面目ないです」
「ふふ。まあ、私がお姉さんとして君がどういう人間かしっかり吹き込んでおいたから安心して」
「安心できないです。早く真桜に会って色々訂正しないと」
「待て待て、何を吹き込まれたと思ってるんだ。私が話したのは、君が私のためにしてくれたことを教えてあげただけだよ」
「それって、俺が先輩達の仲裁に入った話ですか?」
「そうそれ! やっぱ印象的だよね」
うんうんと頷く七海先輩とは対照的に青ざめた自分の顔が容易に想像できた。
「てか、ずっと沈黙してた真桜が急に話し出したのって七海先輩の影響?」
「それは少し違うよ。真桜ちゃんは自ら足掻いて光に向かって愚直に歩き続けただけ。そこに私や君の力は何も加わってない。あの子は最初からちゃんと強かったんだ。足りなかったのはほんの少しの勇気と自分を愛する気持ちかな」
この人はどこまでも適切に言語化してくる。そう思うほどに腑に落ちる説明だった。
だけど、拭えない違和感も俺は抱えていた。
「結局さ、真桜って何で入学式の日に途中で引き返しちゃったんだろう、何か聞いてます?」
「確かに。東陵高校に通いたい理由は聞いたけど、そっちは聞かなかったな」
「しっかりしてくださいよ」
「おいおい。君の方が長い時間を過ごしているのだから自分で聞きなよ」
「俺には東陵に通いたい理由すら教えてくれないんです」
「彼女は恥ずかしがり屋だからね」
微笑む七海先輩に免じてそういうことにしておこうか。とはいえ、何も言ってくれないのは寂しいものだ。
両手を空に掲げてグッと背伸びをした先輩は勢いよく立ち上がると俺を見下ろして呟いた。
「私だって恥ずかしがり屋なんだよ」
どういう文脈で話してるんだ、と思いながらも笑みが溢れた。
俺も負けじと勢いよく腰を上げてから、七海先輩を見下ろして呟く。
「俺の方が恥ずかしがり屋ですよ」
「そうだね。君の人生はさぞ恥ずかしかろう」
「バカにしましたね?」
そんな言葉を重ねながらもどちらからともなく岐路を歩き始める。
七海先輩はあははと愉快な声を漏らしながらも踊るような軽やかな足取りで俺を追い越して振り返った。
「一緒に笑われて行こうぜ!」
「……。っふふ。似合わな」
この穏やかな空気が春風に乗ってどこまでも遠くを旅してくれたのならどんなに素晴らしいかと考えて口に出そうと思ったけれど、今日の俺はカッコつけているように見られる傾向がありそうなので腹の中にしまい込む。
残り一年を切った七海先輩との時間は、いつどんなところのものでも貴重で。
どれだけ大切にしようと意識しても、わたあめが水にとけるように一瞬で消えていってしまうんだと思った。
それからは最近読んでる小説の話とか、ハマってる歌とかお笑い芸人について熱弁しあったりして二人だけの時間を過ごした。
溶けていくことが確定しているのならせめて濃くあって欲しいという想いが届いたかのように会話は途切れることなく日は沈んでいった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
何度も同じ道を往復したり、見つけた別のベンチに座ったり、川に近寄ってみたりとただの川辺を満喫したので俺も満足だった。
「そうですね。家まで送りますか?」
「そういうのはスマートに送っていくものだよ?」
「うん。ここからはもう先輩の家近いし大丈夫そうなのでさよなら」
「白状もの」
「冗談ですよ。お供します」
「よろしい。付いてきたまえ」
偉そうな人だな、と思いながらも互いに笑い合って歩き出す。意識せずとも合わせられる先輩の歩幅もいつしか忘れていくんだと考えつつ、必ず訪れる別れの日を寂しく思っていた。
七海先輩を送り届けて三十分ほど歩いていくと、ようやく自宅が見えてきた。
時刻は十九時を回っていて暗がりに包まれている。
母さんから、誠司さんと晩御飯を食べてくるというメッセージがあったので特段急ぐことはしなかったが、この暗闇に一人でいると歩調は早まる。
そんな中、今晩のおかずは何もないという可能性が浮かんできた。コンビニで何か買ってこようかと思いつつも面倒に感じて、適当にカップラーメンでも食べればいいという決断に至る。
玄関前に着いてから制服のポケットに手を突っ込み鍵を取り出して開錠する。
真桜達が来てからは誰かしらがいつも家にいて、一人の時間を過ごしていたのが遠い昔のようにすら感じつつドアを引いた。
「うわっ。びっくりした」
いざ家に入ろうとしたが、そこには玄関で座り込む真桜がいて大声を上げてしまった。
状況が飲み込めずにいるが真桜を避けるように玄関に入って家の鍵を施錠し電気を灯す。
あまりに反応のない真桜を不審に思い、肩に手を置いて軽くゆすってみるも、伝わってくるのは彼女の震えのみ。
状況が深刻なのだと悟る。
「おい、どうした。真桜? 真桜?」
何度も呼んでいるのに反応がまるでない。でも、意識はあるようで何が何だか分からず話しかけ続ける。
「お腹痛いとかか?
「それともどこか怪我した?」
よくよく様子を伺って気になったのは目の焦点がまるであっていないということ。
そして、次第に呼吸が荒れていった。
「もぅ……り」
掠れるような声で真桜はそう言った。
続けて、何かに怯えるように目に涙を浮かべながら「もう無理」と呟き始めた。
何が無理なのか理解が及ばない状況で俺の中にある不安が募っていく。
「真桜。立てる? 一先ずソファまで行こ」
とにかく落ち着いて欲しいという一心で声にすると小さく頷いて立ち上がってくれた。けれど、俺が支えていないとすぐに崩れ落ちてしまいそうな程、足に力入っていなかった。
ほとんど抱えるような形でリビングのソファに真桜を座らせてから、コップに水を入れて真桜に手渡した。
真桜はその水を一口啜るように飲んでからこちらに顔を向けて口を開く。
「太陽さん、私。無理みたいです」
眉尻を下げて目元から無惨に流れていく雫が頬を乾かすことなく顎先に溜まってはポツリと落ちる。
肩で息をするくらいに取り乱すような姿を見るのは初めてだった。
「何があったのか、説明できる?」
「……もう、無理です」
「そうじゃなくて……」
説明が欲しい。でも今の彼女に説明能力がないことなど明白だった。
スマホを手に取り藁にもすがる気持ちで佐倉に電話をかける。
「おかけになった電話番号は現在圏外に……」
数秒のコールで応答した佐倉は普段通りの声というか、少々迷惑そうに不在通知を演じていた。
「あのさ、真桜の様子が変なんだけど何かあった?」
彼女の冗談に乗ってやることも出来ずに緊迫した声をそのまま届けると真剣な声が返ってきた。
「いやなんもないですけど。普通にピザ食べて少し話して解散しましたし」
「そう、だよね」
佐倉と関係が悪化したことによるメンタル崩壊ということではなさそうだ。
「真桜って今近くにいます?」
「うん、横にいる」
「スピーカーにしてください」
言われるがままにスピーカーボタンを押して「したよ」と告げた。
「真桜〜? どうした。大丈夫か?」
「ほら、佐倉が話しかけてるよ」
そう呼びかけてみると真桜はゆっくりとスマホに目を落としてから一言。
「もう、無理……みたい。ごめんね」
「何が無理なの? 何がごめんなの? 話してくれないと分からないよ」
佐倉の声は虚しく空気に溶け込んで消えていく。その間も真桜が何かを発するような仕草すら感じられなかった。
「雨宮先輩。私行きましょうか?」
ふと、溢れた佐倉の言葉に真桜が勢いよく顔を上げる。
「ダメっ! 絶対来ちゃダメ」
突如大きな声を出した真桜。
情緒が不安定すぎて手に負えないと確信に変わり始めた時、真桜は自身の濡れた頬を拭ってから口を開いた。
「私……学校辞める」
「え、ちょっ……」
真桜が俺のスマホに手を伸ばして電話を切ったから佐倉の声が最後まで聞こえるはなかった。
すぐにかけ直そうかとも考えたが、それよりも話を聞くことが優先だと思った。けれど、真桜はフラッと立ち上がって病人のような足取りでリビングを出ていき、壁伝いに階段を登り自室に入っていった。
壊れてしまったかもしれない真桜を前にどんな言葉をかけるべきか分からず立ち尽くすことしか出来なかった。
そのことが悔しくて感情的になってしまいそうになるけれど、それは自分本位な感情であって真桜のための行動になり得ない。だから、今はそっとしておくことしかできないんだと歯を食いしばった。
翌日、真桜は体調不良を訴えて学校を休んだ。
誠司さんや母さんの前では取り繕っているが、隠そうにも隠しきれない不自然さが両親の不安を煽っているのは明白だった。
それでも以前のと違い会話が成り立っている。それだけに下手に踏み込めない。
一つのミスが彼女から言葉を奪う結果になってしまうかも知れないと考えて足がすくむ。
昼休みに入り、浅岡と理人からの声かけによって俺はよろず商業部の部室を訪ねていた。
そこには意外なことに佐倉の姿もあった。
室内には緊迫した空気が漂っていて浅岡が話し出すまで誰一人として口を開かなかった。
「昨日話していた件で呼んだのだけど。一応、佐倉さんには昨晩説明させてもらったわ。日暮さんの話を佐倉さんから電話で知らされて。この件を話しても良いか確認しようとも思ってのだけど、雨宮君もそれどころじゃないと思って独断で決めてしまったわ。ごめんなさい」
頭を下げる浅岡に対して誰も思うところなんてない。
その思いを理人が言葉にした。
「大丈夫。皆、同じ選択をするだろうから」
「ありがとう。それじゃ話を進めるけれど。まずは、あの依頼を出してきた犯人の追跡は出来た?」
浅岡から進捗確認を受けて理人は渋い表情を浮かべた。
「それが、全く分からなかった。昨日は特定できるみたいに息巻いたけど俺も所詮はその辺の高校生。捨てアカ使われたらそれ以上は辿れない。日暮のことは今朝二人から聞いてなんとか力になりたかったんだが慣れそうにない、ごめんな太陽」
食いしばるように頭を下げる理人なんて初めて目にしたから、俺の胸がグッと熱くなってしまう。
「しょうがないよ。そう思ってくれてるだけで十分」
理人へに対しての返答を聞いてか佐倉が口を挟む。
「は? 何が十分なんですか?」
腹の底から溢れる憎悪の声だと直感だ感じさせてくる。
黙り込む俺たちを前に佐倉は席を立つと大きな音を立てるように手のひらを机に打ちつけた。
「雨宮先輩は真桜の様子見たんですよね。声だけ聞いた私が異常だって思うような状況なのに、その姿を目の当たりにしたあなたがなんで落ち着いてられるんですか。結局、上部だけカッコつけて本当に大事な時には逃げるんですか」
昨夜の真桜の様子が脳裏に浮かび、何も出来ずにいた俺自身の姿も想像してしまった。
「親同士の結婚で家族になったか知らないけど、所詮は他人てことなんですよね。ほんっと口だけでムカつく。無能な偽善者なら最初からそう言っとけっての」
クラスで清楚なイメージを作っているとは到底考えられない荒々しい罵倒。けれど、その声が大きければ大きいほどに彼女が真桜とどう向き合ってきたのかが窺える。
佐倉は俺よりも真桜の事を大切に想っているんだ。
「佐倉さん。気持ちは分かるけれどその辺にしなさい。怒りの矛先を雨宮君に向けても何も変わらないわ」
浅岡に諭された佐倉はあまり納得いっていない様子だったが腰を下ろして「ごめんなさい」とだけ言った。
崩れそうになる空気を取り持つかのように理人が言った。
「一旦解散してそれぞれ整理してからまた集まるのはどう?」
その提案に浅岡が頷き、佐倉もそっぽを向きながら「分かりました」と呟く。
理人と浅岡から視線を向けられ俺も回答を迫られているんだと自覚し膠着した口を動かす。
「そうしよう」
部室の鍵を閉め、ドタドタと怒りに満ちた足取りで歩いていく佐倉を宥めるように理人が後を追いかけていった。
自然と二人きりになった途端、浅岡がフッと笑みを漏らした。
「佐倉さん。随分と日暮さんを気に入っていたのね」
「みたいだね」
「彼女もあれだけ息巻いているけれど普通の女の子で弱いから。だから自分が守れなかった怒りとかもどかしさに潰されそうで、その憤りをあなたにぶつけたんだと思う。悪気はないと思うから気にしないで」
浅岡がそう言って優しく微笑みかけてくれた。
「さあね、本当にムカついてるかもよ?」
冗談まじりに言ってみるとふふふと静かに笑いながら「あの子、嘘は苦手だからね」と告げられる。
「今だから、浅岡があいつを庇ってた意味が良く分かるよ」
「でしょう? 喜怒哀楽がはっきりした可愛い後輩なの」
「確かに」
声に出して笑うことはないにしろ、微笑み合う程度の笑みが不安な心を優しく撫でてくれた。
まだよろず商業部に来た依頼人と真桜に起きた事が繋がったわけじゃない。だけど、点と点が生まれたのならどこかで必ず結びつく。
一つ一つの選択の連鎖がこの事象にも運命という幻を見せに来る時は近いのだと根拠のない確信があった。
放課後になり、よろず商業部を訪ねてみるがそこに佐倉の姿はなく責任を感じていると理人が気遣うように話し出す。
「佐倉には別の仕事を依頼したから。昼の事とは関係ないよ」
「気遣ってるのバレバレ」
「まあ、あいつがいない方が進む話もあるっていうだけのことだ」
浅岡も「そうね」と頷いてから話し出す。
「雨宮君は気にも留めなかったと思うけれど、あそこの掃除ロッカーの上に置いてあるゴミみたいな資料があるでしょう?」
「話の辻褄は分からないけど、ゴミは言いすぎじゃね?」
浅岡は曇り一つない表情で「いいえ、ゴミよ」と言い切り話を続ける。
「この教室は元々物置部屋だったから色んな不用物に塗れているの。一度掃除しようとも思ったのだけど、少しでも動かすと埃が凄くて。しかも、よろず商業部という変わった部活に興味を持った生徒からの依頼も多発したから掃除どころでもなくなっていてね」
話の着地が読めずに耳を傾けていると、理人がため息まじりに結論を口走る。
「盗聴だ」
「は?」
「椅子でも持っていってロッカーの上を見てみろよ」
促されるままに椅子を持って行き掃除ロッカーの上を確認してみた。けれど。
「何も変なところない、と思うんだけど」
「本当にそうか?」
「うん。塵一つとしてないけど……。え、掃除してないんだよね?」
浅岡の言ったことが真実だとして掃除ロッカーの上に塵一つとしてないなんていう普通の状態が異常さを物語っていた。
「その通りよ。これだけ汚い教室なのに一箇所だけ埃がないなんて不自然でしょ。これは誰かが侵入してるっていう証拠。おまけを言うと盗聴器が置かれている証拠も既に写真として収めてあるわ」
椅子から降りて二人の元に戻ってから「よく気が付いたな」と声を漏らすと理人が平然と答える。
「よろず商業部に暴露系の依頼を画像付きで送ってくるようなサイコパス変態野郎なら、何かしらのキモ行動を他にもしてると思ってな。一番手っ取り早いのが盗聴だって仮説を立ててたんだ」
「流石だな。でもどうやって盗聴器なんて仕掛けるんだ。毎日ちゃんと施錠してるんだろ?」
「ああ。俺と浅岡はしっかり鍵をかける。だがな、一人。開錠だけしてどっかにいく奴がいるんだよ」
そうは言っても鍵を持っているのは二人だけだし。
仮に盗み出したのだとしても鍵の保管は職員室だし敷居が不可能な気がする。
あっ。
ふと、一番あってはならない人物の顔が浮かんできた。しかも開錠だけして施錠はしないという光景が一番鮮明に想像できてしまう人物。
「カネ先か……」
「そうよ。何度言っても閉めてくれないの」
ため息まじりに頭を抑える浅岡。
「だな、何度言ってもこの部屋の物を持ち出されて喜ぶことはあっても困ることはないって言い訳ばっかして」
「それで盗聴器仕掛けられてんのかよ」
三人の深い深いため息が一点に集中して艶のない床に落ちていく。
「ちなみに今こうして話してるってことは盗聴はされてないんだよな?」
「今朝、隈なく探したけど見つかったのは一つだけで今はもう無い。今頃盗聴した音声でも聞いてんじゃないかな」
「すんなり回収されて良かったのか?」と疑問をぶつける
理人はあくまでも冷静に、だが少しだけ口角を上げて話し出す。
「勝負っては勝ったと確信した途端に負けるもんだから。犯人には盗聴がバレてないって確信を持ってもらいたくて、敢えて依頼人の話とかをしたんだ。普通盗聴に気が付いてたら確信めいたこと言わないだろ?」
「そうやって油断させておいて肝心な情報は渡さずに犯人を特定してくって魂胆か」
相変わらず頭の回るやつだなと感心していると浅岡が話し出す。
「正直、佐倉さんがあんな感じで声を荒げてくれたのは最高の結果だった。何も知らせていなくて良かったわ」
「だな。まあ、一つ懸念があるとしたらこっちサイドのキレ具合に犯人がビビって隠れるかもってことくらいか」
そう言って理人が微かに笑みを浮かべていたので寒気が走った。
「で、この後はどうする感じ?」
理人のことはさておき話を進める。
浅岡は、んーと唸ってから一度頷いて話し出す。
「盗聴されてるんなら、もう単純に隠しカメラで盗撮してしまえばいいと思うわ。もし怖気付くことなく悪事がバレてないと確信してるのならまた来るでしょうし」
「犯罪行為に犯罪行為で太刀打ちするのはちょっと気が引けるけど」と俺が言ってみると、浅岡は決意のこもった表情で口を開く。
「そうかも知れないけれど他に良い方法はある? 依頼が来たメールアドレスも捨てアカだったから手がかりなし。犯人を特定出来る可能性があるとしたら盗聴器を設置しに来る時を狙って盗撮するしかないわ」
淡々と語る浅岡に賛同するように理人も話し出す。
「悪いがこれは太陽と日暮の問題以前によろず商業部の問題だ。お前は正義感が強いから抵抗あるかも知れないけど、この方法が一番確実なんだよ。分かってくれ」
苦渋の選択だというのは伝わってくる。それでも暴力を暴力で返すような行為を二人に強要してしまっているこの状況が正しいと言えるのだろうか。
こんな綺麗事を並べている俺が間違っているのは分かってる。でも。
戸惑いを隠しきれず黙り込んでいると浅岡が静かに、それでいて凍てつくような口調で言った。
「私、こう見えて結構怒ってるの。こんなくだらないことに巻き込んで私たちの貴重な時間をバカにされてるみたいで本当に腹正しい。雨宮君が好まないやり方だって分かっているけれど、私も空木君も割と武闘派だから。舐められて黙ってはいられないの。こんな姑息な真似したこと後悔させてやる」
「止めても、無駄。だな」
力もなく吐き捨てるように呟いた。
理人はそんな俺の肩をポンっと叩いてから口を開く。
「盗聴犯のことは任せてくれ。でも、日暮のことは俺たちじゃどうにもできない。俺も浅岡も、多分佐倉もお前のことを信じてる。俺をこの部にぶち込んだ時みたいに、太陽らしく図々しく頼むぜ!」
「そうね。日暮さんにはあなたがいるから心配してないわ。彼女の事も救ってあげて」
俺は親友達から向けられる有り余るほどの信頼に応えたいと率直に感じていた。と、同時に凄まじいほどの二人の息の合いように身震いすらしてしまっている。
こんな気味の悪い状況下ですらタスクをこなしていくような顔付きで、それどころか非日常的な状況に楽しさすら感じていそうな。
いつかこの二人に並び立つ日が来るのだとしたら、それはこの青春時代が過ぎたずっと先の未来なんだろうな。
誇らしくも儚い位置関係に胸を打たれつつ、二人に向かって微笑んだ。
もう言葉なんていらない。
そう思っているのは俺だけじゃないのだと信じて、よろず商業部を後にした。
部室を出てからは全速力で足を動かし、階段も一段飛ばしで駆け降りて行く。足元に気をつけていても踏み外しそうになるが上手くバランスを保ちさらに速度を上げていった。
その時、踊り場の曲がり際で人にぶつかりそうになってギリギリのところで回避した。
「ごめんなさい」と反射的に謝り、再び走り出そうとしたが「雨宮先輩」と声をかけられて足が止まる。
相手の顔もよく見ずにいたから気が付かなかったが、そこにいたのは渡辺君だった。
確か、佐倉や真桜と同じ中学で。真桜の復学を望んでくれていた一人だ。
最近はすっかり姿を見なくなっていたので久しく談笑するもの良いと思うが今はその時ではない。
「ごめん、今急いでて」
それだけ言い残して去ろうとしたが彼が不安そうな表情で言った。
「真桜。大丈夫ですか?」
今日学校に来なかった事を危惧しているんだろうな。
思えば、俺と佐倉が対立関係になった時も彼だけが冷静に事を運ぼうとしてくれていた。視野の広い人なんだろう、それ故に些細なことにも敏感に気が入ってしまう。
可哀想だな。
「少し体調が優れないみたいで。でも大丈夫だよ」
「そっか。良かった」
ほっとする彼を見てから俺はまた足を進めた。
校門を抜けて帰路を走っている最中も思考は巡る。
先程の渡辺君を見ていて。いや、それだけじゃない。浅岡や理人、佐倉もそうだ。
復学して一週間ほどで日暮真桜は『ここに居て当然』と思われるような関係を築きつつあったんだ。だから、こんなところで放棄するなんてどんな理由があろうとも認めたくない。
未だに東陵高校へ通いたい理由の一つも聞かせてもらえてない義兄だけど、この一週間ずっと気にかけていたんだ。
用もなく一年一組の教室を覗きにいったり、ふと廊下ですれ違った時にはその表情を伺ったり。家では学校のことを話す姿を見て心底嬉しかったし。正直、俺の方が不審者なんじゃないかって思われるくらいだった。
だからこそ、真桜自身が変わっていったことを誰よりも知ってる。
何気なく見かけた時に前よりも顔が上がるようになっていたり、控えめに笑うような表情が消えていったり。
近くにいる自由奔放な相棒に引っ張られて行くように自分の意見を話すようにもなっていった。
その度に思うよ。
元々、日暮真桜はこういう人間だったんだなって。
人はそんなに早く変わらない。でも、取り繕った自分というシールが一度剥がれ出すと全てが繋がっているかのように連鎖的に剥がれていく。
シュレディンガーの猫が外に出て大きくなっていくのだとしたら、真桜も同じように二度と同じサイズの箱に入ることはできやしない。
もう、真桜の居場所はこっちにあるんだと伝えなきゃいけない。例え届かなくても言葉にしなければ何もしないのと同じだから。
最近走ってばかりだなと思いながらも自宅前で呼吸を整えていた。
心臓が口から飛び出しそうなぐらいに騒がしくて、血管もはち切れそうなくらいに踊っている。こんな汗臭い姿で真桜の部屋に立ち入る行為は好ましくないが、このたぎるような熱を冷ますよりかは余程良いな。
フッと息を吐き敷居を跨ぐ。
その時、カーテンで光が閉ざされた真桜の部屋からゆったりと流れるようなピアノの音が聴こえてきた。真桜が弾いてるとしか思えない状況とピアノなんてあったっけ? という疑問に脳が支配される。
そんな中、忍び込むように静かに帰宅する。
ピアノの音は確かに二階から聴こえてくる。
階段を上り真桜の部屋の前で腰を下ろす。彼女は俺の帰宅に気がついていないようで、静寂の中に響き渡る優しいメロディーに寂しさを堪えたような強く温かい声が加わり出し、俺はその歌に聴き込んでしまった。
『人には言葉があるって誰かが言った。
だけど、世界は暴力に塗れている。
人には想いがあるって誰かが言った。
だけど、世界は強欲に塗れている。
どれだけ声に出しても暴風に掻き消されてく。
心に届かない言葉に力はない。
それならば音の無い静かな世界が広がれば、声を枯らして惨めになることもないよね。
もう、何もいらないよね。
どれだけ
叫んでも、叫んでも、
近くのあなたに伝わらなくて。
言葉を
凝らしても、凝らしても
近くのあなたに響かなくて。
切なくて、虚しくて、もどかしくて。
音の無い世界が心地いい』
音のない世界に音を乗せて歌う声は、丸で真桜自身の心の叫びであり感じてきた想いの軌跡を辿っているかのようだった。
真桜が上手に歌うって知らなかった。
この歌詞に当人の想いがどのくらい反映されているのかも分からない。でも、この鼓動の高鳴りを感動の二文字で片付けてしまいたくないと思わされるのは、真桜の声一つから複雑な感情を感じ取れてしまったからなのかも知れない。
奇しくも向き合うべき相手の歌に背を押され、気が付くと真桜の部屋のドアを開けていた。
「えっ」
優しい表情で電子ピアノに手を置いていた真桜の表情が一瞬で曇った。
どうやって話を訊けばいいのか、そんな事ばかりを帰宅中考えていた。それなのに、まず言うべきことはそんな思考を凝らした言葉ではない。
身体の奥の。ずっと奥から込み上げる熱い想い。
「凄い良かった」
「あ、はい」
真桜は視線を逸らすように俯いた。
俺は真桜がピアノを弾けることも、歌が上手いことも、我が家に電子ピアノがあったと言うことさえも何も知らなかった。明らかに意図して隠されていた事実が今ここにある。
恥ずかしいとか自信がないとか、あるいはトラウマやコンプレックスがあるとか。真桜が隠したかった理由なんてものは無数にあって、気遣うのならそっとしておくべきだった。
でも、真桜が悪いんだ。
「真桜の声には想いがあって、力があるって思う。だってさ、普通このタイミングで女の子の部屋入るとかやばくない? 真桜の歌が俺を動かしたんだよ、俺に勇気ある一歩を踏み込ませたんだ」
真桜から返答はなかった。でも、しばらくの間無言で待っていると彼女がスッと立ち上がり視線がぶつかった。
「こ、この声は煩わしいとママに言われた声です。騒音を家で垂れ流すなと言われた音です。だから、家族のいない間に私はコソコソと歌うんです」
「ピアノはいつからあったの?」
「お父さんが車から持ってきてくれました。引っ越した時から放置していたので壊れているかもと思ったのですが」
俯きながら、でも顔を合わせようと努力しながら話す真桜。
俺は床に腰を下ろしてからもう一つ話したいと思ったことを口にした。
「真桜が良ければ、今晩母さんにも聴かせてあげようよ」
これは本当に今考えたこと。
俺や母さんはあまりにも真桜を知らなすぎる。そして、こんな素晴らしい才能を家族が認めてあげられないなんて間違っている。
この突拍子もない提案を受けてから真桜は再び椅子に腰掛けて首を振る。
「それはできません」
「否定されるかも知れないから?」
「はい。家の中で歌う行為というのは騒音なんです。だから、その。ご希望があればまた別の機会に……」
歌うこと自体を拒んでいるわけじゃないのなら、いずれは聴くことができるだろうし。
それならいいか……。
なんてならないよ。
「嫌だ」
「え?」
「嫌だ。今晩聴かせたい」
「えっと」
「真桜が何かに怯えてやりたいことができない姿見てるの嫌なんだよ。昨日の姿を見て。真桜の絶望に似た諦めの言葉を聞いて心底打ちのめされた」
「なんで太陽さんが……。でも、その、気にしなくて大丈夫ですよ。学校ももっと私に似合ってる定時制のものとか調べてるんで」
そう言って、綺麗に笑みを浮かべている姿が目に焼き付いて心臓を強く握り締めてきた。
真桜は自分の顔を見れないから分からないかも知れないけれど、君のその笑みは悲しみを隠すための仮面に過ぎないんだよ。作り物ですって丁寧に書いてあるんだよ。
「……あったんだろ」
「……」
「東陵がいい。東陵じゃないといけない、拘った理由が何かあったんだろ」
今の真桜を見ることは辛いけれど、ここで目を逸らして仕舞えばそのツケを払う時がきっとやってくる。
だから、もう目は逸らさない。
真桜は唇をキュッと結ぶようにしてから、視線を外しては合わせて。何かを言おうと口を少し開いては閉じて。震える自身の手をさらに震える手で押さえ込もうとする。
迷い、悩んで、思い浮かぶ答えが最良なのかに葛藤する。
やがて、真桜の瞳から溢れた雫が頬を撫でるように流れていき噤まれていた口が開く。
「私が不登校に……。なるまで。それと、なってから今に至るまでの話をしてもいいですか」
話してほしい。
もっと、家族のことを真桜のことを知りたいって本心で思っている。だけど、その話はきっといつでも聞けるもので。今ここで振り返るようなことではないんじゃないかと。
俺は、そう思うんだ。
だから。
真桜の震える手を掴んでから、君からもらった溢れるほどの歌の力を声に変える。
「行こうか!」
「え、どこへ……」
「もう母さんにも歌ってほしいとかどうでも良くなった。行く場所もどうでも良い。何も分からんけど、ほら、出かける準備して!」
何が何だか分からないといった様子の真桜は困惑しながら口を開く。
「じゃあ、着替えるので外で待っていてください」
「俺も制服着替えてくる」
それから五分くらいで着替え終わった俺は部屋の前の床に腰を下ろしてどこに行こうかとスマホでリサーチをていた。
カフェがいいかな。でも、向かい合って話すだけの状況なら今と変わらないしな。
じゃあ、いっそのこと運動がてらバッティングセンターとかか。いや、流石にないな。ゲーセンとかならワンチャンありかな。
結局何も決まることなく真桜が部屋から出てきてしまい、ため息まじりに立ち上がる。
「ため息……ですか?」
真桜の口からそんな声が聞こえてきて、慌てて自分の情けなさにため息が漏れたんだと弁明しようとした。
でも、目の前にいる真桜の姿を見て俺は語彙力というものを限りなくゼロに近しいくらい低下させてしまう。
脇のあたりにリボンがついた大きめのニットにチェックのボトムス。スラリと伸びる足までがファッションとでも言われているような、隠れてモデル活動をしていると言われても信じるレベルだ。
「めちゃくちゃオシャレしてるね」
「服だけですけど。お出かけなら、このくらいしてもいいですよね?」
「うん。かわ……。じゃなくてめちゃくちゃ似合ってる!」
「ありがとうございます。それで、どちらまで行くんですか?」
「うーんとね」と適当な相槌を打ちながらも俺は困惑の仕返しを受けていた。
真桜が乗り気かもしれないということにも驚きだが、何よりも驚きなのは俺の感情だ。
義理とはいえ妹を見て可愛いと口に出してしまいそうになるのはアウトだ。それだけは倫理的にダメだって思うし、家族が壊れる音すら聞こえてくる。
でも、真桜に対して恋愛感情とか下心があるかと言われればそういうのは感じてこなかった。
だけど、俺はシスコンというやつなのだろか。
開けていけない箱がこんなところに転がっていたとは。ぐおぉぉぉぉぉぉ。
「た、い、よ、う、さんっ!」
「うわっ。びっくりした」
「私、太陽さんの育ったこの町での思い出の場所を巡りたいです」
「そんなんでいいの? てか、もっと色々あるよ。パフェとかパンケーキとか。あとなんだ、食いもんしか出てこねーな」
「それも良いですが、今は太陽さんの思い出の地を巡礼したいなって」
「俺はそれでもいいけど。面白くないよ?」
「ふふ。それはこの町に失礼ですよ」
そんな会話も程々に外に出てみると、毎日見ても飽きることのない夕空が広がっていた。空気も美味しくてとても都心近くだとは思えない。
ふと、真桜の様子を伺ってみると辺りをキョロキョロしていて警戒しているようだ。
やっぱり、誰かに遭遇してしまったりしたんだろうか。確かに怪しげな影を俺も見たことがあったし、よろず商業部に来た依頼や盗聴とも全くの無関係には思えないよな。
「真桜、とっておきの場所へ行こうか!」
「はい!」
こういう元気な声が出せているのだから真桜の心は決して折れてやいない。ただ、自分の選んだ道を新たに選び直さなければいけないと思うような出来事があっただけだ。
勿論、その選択を否定するつもりはない。だけど、真桜自身が後悔するかもしれない未来への道を踏み出そうとしているのなら。やっぱりそれは嫌だ。
もう誠司さんがとか母さんがとか、佐倉や浅岡がとかどうだっていい。
俺はどこまで行っても他人という人達の人生でさえも関わりがある以上は自分の人生と等しく見てしまう。そういう性があるのだから仕方ない。自分のエゴに従って真桜が導き出した苦し紛れの選択を否定する。
結局否定しちゃうあたり、俺らしくていいじゃんね。
歩調を合わせるように意識して歩いていると真桜の方から話題を持ち出した。
「太陽さんってどんな子どもだったんですか?」
絶妙に難しいというか自分では答えにくい質問に戸惑いながらも、なるべく客観視した回答を心がけて話す。
「砂場があったら山を作って。ブランコがあったらよく飛び降りたりしてたな。あとは、友達の食べてるおにぎりが美味そうに見えてかじり付いちゃったりね。そういう日本男児でした」
「お友達のおにぎり食べちゃうんですか?」
真桜はクスクスと笑みを浮かべながらも若干引いているようだった。若干ね。
「なんか人の食べてるものって美味そうなんだよな」
「それは分かります。隣の芝は青いってやつですね」
「だね。結局自分以外が輝いてて、自分はそんな輝きに憧れ、焦がれているだけの存在なんだなって時間が経つほどに考えたりもしちゃってさ」
真桜は驚いたように目を見開いてから物珍しそうに呟いた。
「太陽さんでもそういうこと思うんですね」
彼女は俺のことをどういう目で見ているんだろうと考えてフッと笑みが溢れた。
「俺は結構理屈屋なところあるからさ。あれこれ考えてあーでもない、こーでもないって。その癖、不器用なところもあって、というか基本的に頭が良くないんだわ」
「太陽さんのそういう部分、少し分かります」
「いや、否定してよ」
「でも分かっちゃうんです」と微かな笑みを交えて断言されてしまった。
そんな会話の最中、幼い頃に家族でよく来ていた懐かしの公園に到着した。
三角形の形をしたこの公園には、ブランコや滑り台併設の砂場にシーソーがあるだけのチンケな広場だ。それでも当時はここが楽園の一片であるかのようにすら見えていた。
何気なくブランコの方へと歩いていき腰掛ける。
真桜も隣のブランコに腰掛けては身を揺らしていた。
「さっきの話の続きなんですけど。太陽さんって私と初めて会った時に変な子だなって思ってましたよね?」
「えーと、まあうん。不自然だとは思ってたかな」
「ふふ。そんな冷静な感じじゃなかったですよ。もっと血相変えて『なんだこの状況は!』って感じで」
確かにあの時は話しすらしない子を普通のように扱う空間が不自然に感じすぎて。
「そこまで顔に出てたかな」
「出てましたし、本気で心配してるんだろうなってことも感じました。だから、個人的にメッセージをしたんです」
そういえばそんなこともあったなと考えつつ会話を続ける。
「いきなり謝ってくるからびっくりしたな」
「なんかその、とりあえず謝っておくのが良いかなって思ったんです。でも、その返信がショートケーキ美味しかったか? というのには驚きました」
あの日、四人で無言の中食べたケーキがなんとく印象に残っていたからそんな話をしたんだよな。それで、真桜は『ショートケーキは嫌い』だと言った。
ふと、佐倉に言われた言葉を思い出す。
かつての幸せの味が不幸の味に反転してしまう、そんなことがあるのだとしたら。
俺が見過ごしているものが本当にあるのだとしたら。
「真桜はなんでショートケーキが嫌いなの?」
「唐突ですね」
「なんでかなって。乳製品が嫌いってわけでもなさそうだし」
真桜は自身の足元をじっと睨みつけるようにして「なんで、か……」と呟いた。
新しい家族との生活も一ヶ月弱が経過していると真桜自身が乳製品を苦手にしていないことなんて意識せずとも分かってしまう。
真桜は睨みつけていた視線をこちらに向けてから諦めたような笑みを浮かべた。
「ショートケーキはママの大好物だったんですよ。チョコレートケーキとかモンブランとかは私にも分けてくれるのにショートケーキだけは絶対に分けてくれなくって。ママを唯一子どもに感じる瞬間だったから、どうしてもその思い出が先行してしまうんです。だから……大嫌いなんです」
オセロのように反転していき、二度とひっくり返ることのない石の裏面を思い出してしまう。
そこにはプラスの感情が溢れていて、まるで幻想のようで現実だった過去。
佐倉がそうだったように、真桜も目を逸らしたいのかもしれない。
なんて返せばいいのかも分からず、夜に喰われていく夕空をじっと眺めていた。そこに何か答えがあるような気がして、ただじっと見つめる。
すると、真桜の方から空気を変えるように「今が一番綺麗な空です」と呟いた。
その言葉に賛同するように頷いてから俺も重たい口を開く。
「苦い記憶も楽しめるようになる時が来ると信じてる。大人になるにつれてコーヒーに入れる砂糖が減っていくみたいにさ」
「上手な言い回しですね。でも、コーヒーは元からブラック派なんです」
まさかの高校一年生にしてあの苦さを楽しめる舌を持っているとは。そのせいで、カッコつけて口走った言葉が反転して刺々しく自身の心臓に抉り刺さった。
恥ずかしくて真桜の方に顔を向けられずにいるとあははという笑い声と共に彼女が俺の前に立った。
「太陽さんと一緒にブラックコーヒーを楽しめる日が来るのなら素敵だな」
見上げた先にいる真桜が夜と夕の境界線で微笑んでいて、幻想的な映画のワンシーンでも魅せられているようだった。
「すぐ追いつくからさ、今度はカフェにでも行こうよ」
そう言って立ち上がると「うん!」と真桜が元気な声で返す。
それからもう少しだけ足を伸ばしていつも散歩に使わせてもらっている川辺の道に入ることにした。
ここは青葉との出会いや七海先輩と幾つもの言葉を交わした場所でもあり、中学生まで毎朝のランニングに使っていた道。
「ここはさ、俺が育った道なんだ」
すっかり暗くなった中にポツリポツリと設置されている街灯が夜道を照らし、反対岸の街並みから溢れる光が幾つもの点になってそれなりの夜景を作っていた。
絶景に届きはしないありふれた景色に真桜は見惚れているようだった。
「こういうのもいいですね」
「うん。お気に入りの場所なんだ」
「太陽さんはこういう景色を見て育ったから心が綺麗なんですね」
「どうだろう、そんなことないと思うけど」
夜風に心地よさを感じつつも言葉を交わし続ける。
「七海先輩から聞いちゃったんですよね、色々と」
突然七海先輩の名前が出たことで「えっ」と驚きを露わにしてしまった。すると真桜も慌てて説明を始める。
「その、七海先輩と面識があって。あーそうだよね。太陽さんに話しておくべきだったのに」
「大丈夫。一応、先輩から言われてるから」と取り乱している真桜を宥める。
「ほんとごめんなさい。別に隠してた訳ではないんです」
「マジで気にしなくていいよ。というか、俺としては何を告げ口されたのか気になるんだけど」
すると、真桜がにっこり口の両端を吊り上げて口を開く。
「雨宮太陽がどういう人間かを教えてもらったんです」
「濁してる感じがもう怖い。あの人何言うか分かんないからな」
「なんだろうな、どんなこともハッピーエンドにしてくれる偽りのヒーローとか言われましたね……」
またそういう言い回しをするんだな、と若干の呆れを覚えていると「あっ」と何かを思い出したように真桜は慌てて話し出す。
「世界から戦争が無くなるって本気で信じていますか?」
「は?」
何を言い出すかと思ったら、世界平和の話?
飛躍しすぎた規模の質問に困惑を示していると真桜は神妙な面持ちで口を開く。
「太陽さんは日本がどこかの国と戦争をしたら日本の味方ですか?」
質問の意図が分からずとも俺なりの解を口にする。
「これはあくまでも個人的な意見だから聞き流して欲しいんだけど」
「はい」
「誰かと対立し合った時にはどちら側の背景にも正義がある気がするんだよ。どちらにも家族がいて守るものがあって、大切にする人も大切に想ってくれる人もいて」
「はい」
「だとしたら、どちらかが涙を流す結末は見たくないな。どちらの正義にも歩み寄って認め合えたのなら、そんなハッピーエンドがいいなって思ってる。だから、俺はどちらの味方もしない。その代わりに両者を繋ぐ架け橋になれたらいいなって考えると思う」
臭くて気持ち悪い俺の言葉を親身に受け止めているかのように真桜は瞼を閉じる。
スッと空気を吸ってはゆっくりと吐き出す。
ゆっくりと瞼が開かれていくと同時に真桜の瞳からは涙がこぼれ落ちる。
「え、なんで泣いてるの。大丈夫?」
真桜は首を振り、唇を震わせながら口を開く。
「良かった。七海先輩が言っていた通りの人で」
「どういうこと?」
真桜は俺の言葉なんて無視するように話し出した。
「学校に行きたくても、私がいることで迷惑をかけてしまう人がいるんです。でも、私は東陵高校じゃないと嫌なんです。だから、太陽さんがその架け橋になってくれませんか?」
溢れる涙や震える唇と相反するように力強い声だった。
今ここで見せる彼女の涙は本心を曝け出している証明でもあり、心の限界を向えているというサインでもあり。
雨宮太陽という無鉄砲な義兄を認めているという疑いようのない叫びだった。
俺に何が出来るのか。
何も出来ない可能性だって大いにある。そんな中でも真桜自身が選んでくれたというのならば。
「そんなこと頼まなくていいよ。雨宮太陽はハッピーエンドに取り憑かれているから、断られても架け橋になる」
真桜は微かに口角を上げつつ、一人で抱えていた複雑に絡み合う紐のような錘を丁寧に解いては俺の肩に乗せていった。
受け取る度に真桜の考えていることが分かっていきゆっくりと真相へ歩いていくような感覚。
全ては真桜が不登校になった時。いや、その前から始まっていた。
これまで真桜を囲むように放たれていた無数の点を辿って。
やがて、真桜が抱えていたモノを全て話し終えた時、点は曲がりくねった一本の線となり道を示していた……。
家に帰るまでの道中、ぎこちない会話の中で俺は一つだけ真桜と約束をした。
「真桜も彼も……佐倉も。誰一人として取りこぼさない結末にするよ」
根拠のない宣言に真桜は「ありがとう」とだけ返した。




