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第3章:シュレディンガーの箱に秘めるモノ 3

 一人だけになったリビングで悩んでいた。

 軽率な発言から真桜を傷つけてしまったこと。

 佐倉を悪だと一括りにして浅岡とも対立してしまったこと。

 歩み寄ってくれた青葉を煙たがりその優しさを蔑ろにしてしまったこと。

 全部が俺らしくなくて俺なんだと思い知る。

 思い知るほどに自己嫌悪という、これまでは無縁だった感情に呑み込まれていきそうになる。

 麦茶を何度口に注いでもどんな味なのか、冷たいのかぬるいのかさえも分からない。

 気が付くと窓から見える空模様が時刻に見合わない暗さを演出していた。

 すぐに雨音が大きくなり始め、それと同時に家のドアが開かれる。母さんと誠司さんが急いでリビングへと入ってきて俺を見てから一瞬膠着したのが見て取れた。

 俺はそんなにひどい顔をしているんだろうか。心外だな。

 何かを察した母さんに「真桜ちゃんは?」と訊かれて黙り込む。

 緊迫した空気が流れ出す中、誠司さんは一人冷静に「どこにいったんだろうね」と呟いて台所の方へと歩き出す。

 そんな優しい声の後に母さんの荒げた声が耳に障る。

「あんた何したの?」

 本気で怒るにしては気が早いな。

 それに今更怒ったってもう遅いのに。

「円香さん。落ち着いて」

「でも」

「良いんだって。真桜ももう高校生だよ? 少しくらい外にも出たくなるさ」

 誠司さんが母さんを宥めて何食わぬ顔で買い物袋の中身を冷蔵庫に詰めていった。

 本来ならこの優しさを快く思うのかもしれないけれど、今の俺には穿った見方しかできずにまた余計なことを口走ってしまった。

「誠司さんは。自分の娘が心配じゃないの?」

 一瞬、野菜をしまう手が止まった。けれど、再び何食わぬ顔で作業を開始して答える。

「心配だよ」

「なら、なんで…」

「信じてるから。真桜は不登校になったけれど。自分で頭を下げてフリースクールっていう学校の選択肢を見つけてきた。そして、高校受験も見事突破した。太陽君から見たらまだ弱々しい女の子かもしれないけれど、真桜は強い。僕はね、そんなあの子を信じてる」

 心臓を直で殴られたような気分だった。

 やっぱり親だな。俺は、真桜の今しか知らないからか、そんな風に彼女のことを信じることができない。

 いや、そういうことじゃないんだ。

 家族として以前に人として俺よりも器が大きいんだ。

 亡き父も誠司さんと同様に器が大きく、俺よりも大胆な性格で。

 俺は二人とは違って想像以上に弱くてすぐに取り乱してしまう。

 今日だけでも多くの間違いを犯したはずだ。

 もっと浅岡の言葉に耳を傾けて、彼女がなんで佐倉を庇ったのか考えるべきだった。

 これまでの紡いできた時間を蔑ろにしてしまうような俺個人の軽率な判断が、彼女に似つかわしくない涙という結果を生んでしまった。

 現状がどうであれ、もっと真桜の意向を考えておくべきだった。

 わざわざ進学校でもある東陵高校を選んで勉強してきたのだから、きっと、うちの高校でないといけない理由があるはずだったんだ。それなのに、勝手に諦めさせる方向に考えて挙げ句の果てにはトラウマを掘り起こすような発言まで。

 結局、弱いのは涙を見せた浅岡でも塞ぎ込んでいた真桜でもなく、自分を棚に上げてしまった俺だけだったんだ。

 冷蔵庫に野菜をしまい終えた誠司さんは俺の元へと歩み寄り、頭をポンと撫で出した。

 誠司さんに触れられて気持ちが落ち着く。けれど、俺は弱いから素直な言葉を吐けやしない。

「男同士なんでキモいですよ」

 ふと、視線を母さんの方へ向け助けを目で訴えたが何も言わず静観するのみだった。

 誠司さんは俺にキモいと言われてからふふっと息を吐くように笑い、話し出す。

「太陽君と真桜に何かがあったのは分かる。でも、何かが起きるくらいに太陽君が頑張って踏み込んでいってくれたことがまず凄いって感心するよ」

 違うじゃん、そうじゃないじゃんか。

 俺は食い下がるよう口を開いた。

「誠司さんに忠告されたのに余計なことして。結果として傷つけた。まだ誠司さん達がきて一週間も経ってないのに、本当にごめんなさい」

「結果ならまだ出ていないさ。確かに、どんな速度で走ったら三日足らずでここまで踏み込めるのかは不思議だけど、僕も真桜も太陽君の凄さに驚いているだけだよ」

 結果ならもう出てる。そんな感情を込めて「俺が間違えました」と告げる。

 自分の口から溢れる言葉なのに程よく尖った針でプツプツと心臓を刺されているような生殺しの気分が込み上げてきた。

 誠司さんは俺の頭をわしゃわしゃと激しく掻き乱してから声のトーンを落として話し出す。

「僕と円香さんが作ったこの家族の形は想像以上に歪でどうしたって上手くはいかないってずっと決めつけてきた」

「え?」

「僕は元々再婚しないつもりだったんだ。理由は単純で、真桜が話せなくなるくらい精神的に参っていたから。でも、全ては運命かのように動き出し真桜が東陵高校への進学を決めた。円香さんが本気で向き合ってくれた。だけど、どうしても不安だなって。何かあと一歩踏み出すのには足らずに悶々としていた時期がある。そんな時、川辺で可愛らしい女の子といる君を見つけたんだ」

 川辺で女子と俺。そう言われて思い当たるのは七海先輩くらいなものだが、いつのことだか分からないのと母さんがこの場にいることで気まずさがあった。

 そんな俺のことはお構いなしに誠司さんの話が続く。

「その時はまだ太陽君と面識なかったけど写真は沢山見せてもらってたらから一発で分かったよ」

「母さん」

「普通息子の写真は見せるもんでしょ」

 俺と母さんのやりとりを見ながら誠司さんはゆっくりと目の前の椅子に腰けてと口を開く。

「僕が初めて見た太陽君は横で泣いている女の子にたじろぎながら、決意に満ちた表情で『好きにやりなよ。俺はずっと味方でいるから』って」

 え、言ったっけ。

「あんたカッコつけすぎ。どうせ自分に浸ってるだけでしょ」

 実母からの手厳しい指摘に残りの体力が僅かとなる。母の攻撃は効果抜群のようだな。

 誠司さんは優しく微笑みながらこちらをじっと見つめて言った。

「その時。あーそうか、この子が僕の。僕らの味方になるのかって思ったら色んな不安要素が全部消し飛んでいったよ。君は、たったの一言で女の子と僕の二人を同時に救ったんだ。でもさ、太陽君の強さにだけに乗っかるわけにはいかないからね。この前は少々カッコつけて太陽君の人生だけ考えてなんて言っちゃって」

「……」

「僕の見栄が君を困らせてしまったんだと思う。あの時も言ったけど太陽君には妬けるよ。真桜はもう僕相手じゃ前を向こうとはしないだろうし向き合ってはくれない。こんなことを父親の身で言うのは気が引けるんだけど、娘と。真桜ととことん向き合って、あわよくば救ってやってほしい。人との交流が少ない今の真桜をこの鳥籠から連れ出せるとしたら……」

 誠司さんは上唇を軽く噛み、一息ついてから芯のある強い声で言った。

「太陽君しかあの子の光にはなれない」

 母さんがスッと立ち上がり誠司さんの肩ぶポンと手を置きこちらに視線を向けた。

「家族が何かに悩んでる。家族が学校に行けずにいる。家族が自己嫌悪に潰されそうな顔をしてる。そう言うのを見過ごせるような賢い子なんて私のお腹からじゃ生まれないわよ」

「……」

「たとえ不自然な始まり方でも真桜ちゃんは私の娘であんたの妹。過ごしてきた時間の少なさなんて微塵も関係ない。大丈夫、どれだけ間違えても生きてるうちは全部取り返しが付くんだから!」

 さっきまで怒っていた人間の言葉とは思えないな。なんて屁理屈でも考えていないとみっともない何かが流れてきそうで。

 何か声を出してしまえば心の底に沈めているこの感情が身体的に反応してしまいそうで。

 黙り込んでいる俺に母さんは最大級の笑みを浮かべて言った。

「ほら、さっさと真桜ちゃんのとこ行きなさい」

 言葉は何もなかった。

 いや、あったかもしれないけれど発言するよりも早く足が動いた。

 外が大雨だとか真央の居場所とか細かいことを気にすることなく、駅の方へと駆け出した。

 靴の中からズボンかけて染みていくのが分かった。

 時折、水溜まりを踏んづけてしまうけれど不快感を通り越して、どこか清々しさすら感じていた。

 自分の過ちを認め、自分の愚かさを認め、他者の考えを認める。

 雨だってずっと降らなかったら穀物が育たない。一見して不快に思える現象にも意味があって喜ぶ人がいて、だから認めることからしか何も生まれなかったんだと今更に気がつく。

 世の中には悪も正義もない、全てが表裏一体なんだと心底思い知る。答えなんてすぐ近くにあったのに…。

「俺の…バカ野郎が!!!」

 公共の場を走り抜けながら叫んでいるヤバい奴。

 それが雨宮太陽の現在地。

 幸いなことに、今だけはこの激しい雨音が俺から出る全ての騒音を掻き消して羞恥さえも洗い流してくれていた。

 視界を遮るような雨粒を咲くように走り続け、髪の毛までぐっしょり濡らし草加駅に辿り着くと偶然にも佐倉と鉢合わせた。

 正直、今顔を合わせるのが気まずい人物の一人だった。それは彼女も同じらしい。

「なんでいるんですか」

 ゴミを見るような敵意剥き出しの視線に出会った頃の浅岡を思い出す。

 後輩ってこんなに似るもんなのかな。

 そう考えながら「最寄だから」と告げた。

「それで、どうしたんですか。びしょ濡れですけど」

 以外にも会話は続けるらしい。

 自分を犯罪者扱いしたような男と対峙しているにしては彼女からの嫌悪感が薄いように思える。彼女もまた強い人だ。

「水も滴る良い男だと思わないか?」と少しふざけて言ってみた。

「絞った後の雑巾みたいです」 とガチトーンでディスられる。

「あ、そういうこと言っちゃう?」

「私、嘘はつかないので」

 佐倉の口から溢れでた『嘘はつかない』という言葉を受けて、今言うべきなんじゃないかと思い一呼吸置いてから口を開く。

「今日はごめん。何も知らないくせに君の一言だけで分かった気になって犯罪者扱いした。謝って済む問題じゃないけどごめん」

 許してもらえなくとも誠意だけは見せなくちゃいけない。

 そんな想いから深々と頭を下げた。

「別に気にしてないです。それに犯罪者って言葉使ったの雪音先輩だし。私が言いたいのは、キレやすい男に雪音先輩を預けられないってのと、女を泣かせる男なんてクズだってことくらいです」

 絶対怒ってるじゃん。

 でも、顔を上げた先にいる彼女の表情はあろうことか満面の笑みだった。

「なんで笑ってんの」

 無意識にそんな言葉が飛び出した。

 佐倉は表情を崩さぬまま答える。

「過ちに気が付いて反省できる素直な男は好きなんです」

 そう言って上唇をぺろりと舐める彼女をみて背筋が凍るような寒気を感じた。

 浅岡や青葉、七海先輩。俺の周囲にいる女子とはまた違った危うさという魅力を持った佐倉葉月。非常に厄介で気を抜いて接しちゃいけない相手だと認定しよう。

 「そうだ。先輩って今時間あります? てか、電車乗るにしても乾いてからの方がいいですよ」

 半ば強引に諭されて近くのカフェに入店ことになった。

 草加駅近辺にはカフェが多く、どのカフェに行くかを考える時間もかなり至福なひと時ではあるのだが、今日に限っては駅から雨に当たらず行けるカフェに限定された。

 店内に入ってすぐの四人席を陣取った佐倉は「私ミルクティー」と呟いていた。

 なんだ、この流れは買ってこいってことか?

 まあ、今日のところは色々とあったし奢らせてもらうが、普段からこの態度をしてくるんだとしたらそのうち絶対やり返してやる。

「なんですか? 文句ですか?」

「いえ。とんでもないです。最高級のミルクティーをご用意します」

「普通のでいいから早くしてくださいね」

「は、はい」

 脳内の血管が千切れてしまったんだじゃないかと疑うほどイラッとしたが無理やり笑みを作ってから逃げるようにしてレジに並ぶ。

 大して混んでいない週明けは店員側もこちらもストレスなく注文することができるのでカフェ好きにはおすすめな曜日だな。

 そんなことを考えながらも佐倉に頼まれたミルクティーとブラックコーヒーを頼んだ。

 数分カウンター前で待ってからカップを二つ受け取り席に戻ると、そこには浅岡の姿があり足が止まる。

 幻でも見ているんじゃないかと疑いながらも座席に戻り腰掛ける。互いに気まずさがあるから何も話せずにいたのだが、佐倉が俺の足を蹴ってきたので慌てて口を開く。

「あ、浅岡もいたのか」

「え、ええ。ちょうどそこの本屋にいて。彼女に声かけられたのよ」

「そ、そうなのか」

「う、うん」

 店内に流れる洋楽のBGMと食器同士がぶつかる音に紛れながらも緊迫した重たい空気がこの卓でのみ流れている。

 俺がどうにか会話を広げて、謝らなければいけないのに。

 ごめんって言うだけで良いんだ。まずはそれだけ発しろ。

 気持ちと行動が交差する不快な状態と向き合い、机に視線を落としていると浅岡の影が動き始めて大きくなった。その瞬間、ふわりと柔らかなフレグランスの香りが漂い、ふわりとした布を頭に被せられた。

「あなたなんでそんな濡れてるのよ」

 そう言いながら、浅岡はいつもよりぎこちなくとも俺の頭をわしゃわしゃと拭いてくれていた。

「ちょっと、自分が嫌になって走ってた」

「はあ。相変わらずバカなのね。現代にはカッパや傘という便利な道具あるのだから次からは活用しなさい」

「そんくらい知ってる。なんなら電気で光る傘持ってるし」

「何それ。雨水を伝って感電とかしない? 大丈夫?」

「そう言われると自信はないな」

「何それ」

 ふふっとどちらかともなく笑みが溢れる。

「ありがとう。あとは自分でやるよ」

 身を乗り出してきつい体制で拭いてくれていることにも気がついていたから、甘えるのはここまでにしようと区切りをつけた。

「あ、うん」と呟きながら浅岡は視線を逸らしていた。

 そりゃそうだ。泣かされた相手を目の前にして正常でいられるわけなんてない。

 今に見せた優しさをいつでも誰にでも、どんな時もできてしまうのが彼女の良さでブレない『らしさ』なんだ。

 そのことを俺は誰よりも理解していたはずなのに。

「疑ってごめん。浅岡が佐倉を庇った時点でもっと冷静になるべきだった」

「私に謝られても困るわ」

「あー。私はもう許したんで雪音先輩のお好きにどうぞって感じです」

「そう、なのね。だとしたら、私から言いたいのは一つだけ」

「なんでしょうか」

「日暮真桜さんとあなたの関係ってなに?」

 いつもならこういう場面で睨みを効かせた鋭い視線を送るような奴なのに、今回に限っては弱々しくも不安そうな瞳を向けてくる。

「えっと」

 でもどこまでいうべきなのかを迷い口吃る。すると、彼女は静かな口調で自分の想いを語り出す。

「何か隠されているみたいで悲しかったの。同時にムカつきもしたけれど、それはあなたに認められてると勘違いしていた自分に対しての怒り。どれだけ手を伸ばしてもあなたには届かないのかなって悔しかった」

「そんなことない」

「なら、少しでもいいから言って。隠し事なんてあなたらしくないことしないで……」

「……」

「全部じゃなくていいから。お願い…」

 届いてるよ。痛いほどに伝わってるよ。

 でも、真桜との関係を話してしまうことは彼女の復学に対して何かのノイズになってしまうのではないかという懸念から口を噤んでいた。家族となった人を優先して行動するのは至極当然のことだったから。

 一度はそう決めていたけれど、俺は『でも』を重ねる。

 浅岡雪音と過ごした短い時間の中で築き上げた関係を壊すくらいなら家族なんて優先したくない。

 ノイズになるかならないかも定まらない『もしも』に怯えてはいられない。そう思って静かに口を開く。

「親同士の再婚で義理の妹になったんだ。それでこの前から一緒に暮らしてるから不登校なのも知ってた。俺は、仮にも家族だからなんとかしたいって思ってた」

 俺の口から飛び出た真実を前に佐倉が驚きを見せて声を出す。

「マジ…?」

「大マジ」

「と、いうことらしいですが雪音先輩はどう思いますか? この人この後に及んで大勝負かけてきたかもしれないですよ」

 こんなところで俺が嘘つくわけないだろ。どんだけ疑い深いんだ、というか失礼な後輩だな。

 浅岡はふふっと息を吐くように笑みを漏らしてからしたり顔で話し出す。

「そこの男はあなたと同じで嘘が苦手だから信用して大丈夫よ。それに、腑に落ちた」

「腑に落ちたって何がですか?」

「雨宮太陽って人は、普段なら善悪の線引きをしないの。誰が悪くかろうが悪くなかろうが関係ないような顔で対立者同士の間に立つ人。それなのに今回は白黒はっきりさせたがって牙を剥いてくるからなんでそんな必死になるんだろうと不思議に思ってた」

「つまり、曖昧な男ってことですね。先輩、やっぱりこんな男は良くないです。きっと周囲に何人もの女性を侍らせて曖昧な関係を続けてるようなクズですよ」

「あなたは時々なんの話をしているのか分からなくなるわね」

「分からなくていいので帰りましょう、ほら早く!」

 いそいそと身支度を整える佐倉の手を浅岡が掴んで静止させるとこちらに視線を戻して呟く。

「あなたは本当にバカなのよ」

「一応言っておくと俺も傷つくからね」

「だからなに? たった一人で不登校になってしまった生徒を立ち直らせられると思ってる愚者を肯定しろと?」

 バカと言われるよりも愚者と言われる方がなんだかダメージがでかいな。

「でも、少しずつだけどコミュニケーションが取れる様になってきたんだ。これは今の段階じゃ俺にしかできないことな気がしてる」

 浅岡ははあっと深いため息を漏らしてから呆れたように言った。

「あなたにしか出来ないことはもっと他にあるわよ」

「具体的に言ってほしいな」

「解決のために必要な人間を頼りなさい。雨宮太陽の為ならと皆が持ってる力の最大値を出すと思う。佐倉さんやあの一年生の男子、必要であれば空木君達も。あと、私を頼ってもいいのよ?」

「でも」

「でもじゃない。大体、今回のような一件で雨宮君一人が動いてどうにかなるの? 女の子の繊細な心が分かるの?」

 ぐうの音も出ないとはこのことだな。

「一緒に打開策を見つけていきましょう。きっと大丈夫だから」

 そう言って微笑む彼女を見ていて胸を締め付けられるような、苦しくも心地よい矛盾に包まれた感覚に襲われる。

 こんな未知の感覚に名前があるとも思えず、頼れる仲間がいるという事実にただ感謝した。

「えーっと。じゃあ、一旦はこの三人がメインで日暮真桜復学計画を練るってことでいいんですかね?」

「二人が良ければそれでいいわ」

「ああ。頼むよ。相談させてくれ」

 話しはまとまり、昼休みから止まってしまっていた時間は緩やかに動き始める。

 蟠りがなくなり一段と深い絆で結ばれたと実感する。

 ふと、窓の外から見える地面を打ち付けるような雨に対して世界は美しい雫に溢れているんだと思う。

「まあ、真剣な話しはここまでにして、私から雪音先輩に訊きたい事があるんですが」

 かすかな笑みを浮かべている彼女からは怪しさしが漂っており浅岡も警戒気味に「なにか?」と問いただす。

「えーっとぉ〜ですね。そもそもの話、雪音先輩はどうしてここに居たんですか?」

「だ、だから偶然本屋に」

「なんの本を買ってたんですか?」

「な、何も買ってないわ」

 顔を赤らめてたじろいでいる浅岡を見て俺も何か違和感を感じた。すると、佐倉は「ふーん」と油断させるような相槌を打ってから浅岡の鞄に手を伸ばし一冊の本を取り出した。

「あ、ちょっと」

 ブックカバーはこのカフェに併設してる書店のもので、何かを買ったことが今確定した。

 そして佐倉が本のページを捲り、あははと声を大にして笑い俺にも見せてきた。

 タイトルを見て思わず俺も吹き出して笑ってしまった。

 浅岡は今にも爆発してしまいそうなほど顔を真っ赤にしてから「最悪よ」と呟いた。

 だから、俺は彼女と反対の言葉を言ってやることにする。

「何言ってんだ。最高じゃんか」

 佐倉の手によって開示された本のタイトルは、またしても浅岡らしくなくてでもそう思ってくれていたことが素直に嬉しかった。

 『仲直りのメカニズム』のタイトルを持つ本を浅岡が奪い取って鞄の奥底へと沈めていた。

 こういう不器用さを時折見せるから彼女にどんどん惹かれていく。俺を散々バカだというけれど浅岡だって負けず劣らずの真面目バカだな。

 そんなことを思いながらも佐倉に命令されて、浅岡のカフェオレをこれまた俺の奢りという形で買いに行く。

 不本意ではあったが文句を言っても始まらないので俺が大人になり堪えることで、真剣なフェーズへと入っていく。

 口火を切ったのは佐倉だった。

「一旦、すり合わせだと思うんですけど。雨宮先輩は実際に一緒に住んでてどのくらい日暮真桜のことを知ってるんですか」

 そう言われて考えてみるととんでもないことに気がついてしまった。

「ショートケーキは嫌い…とか? 家では誰とも話さないとか。俺、あんま知らないんだわ」

 正面から二人分の呆れたため息を吹きかけられた。

 浅岡が現状を整理する様に言った。

「真桜さんは家では話さない。あとはショートケーキが嫌い。こちらが知っている情報としては、中学二年生の時にいじめが原因となり不登校。それから復学することはなかったけれどフリースクールという学校に通っていた。それで入学式にも来ていたけれど、校内に入らずに失踪してしまったと。こんなところね」

「雨宮先輩からの情報って、家族と話さない以外に重要なこと何もないですね。やっぱり、義妹になったとか苦し紛れの嘘だったんじゃ」

「いいえ。寧ろ、嫌いな食べ物を知っていただけ頑張っている方よ。この人、他人のプライベートにずけずけと踏み込んでくるくせに相手のことよく知らないことばかりだから」

「それ不法侵入ですよ。あ、ちょうど交番がすぐそこにあるんで…」

「俺に自首しろと?」

「早いほうがいいですよ。きっと自覚がない罪も沢山あるはずなので檻に入らないと繰り返します」

「おい、浅岡。お前は中学時代、佐倉に何を仕込んだんだ」

「仕込んでいないわよ。佐倉さんは元からこんな感じだったと思うわ」

「私のことは一旦置いておいて話を戻しますが……」

 佐倉は両肘着いて俺の方をじっと睨みつけてから口を開く。

「日暮真桜になんでショートケーキが嫌いだったのか訊きました?」

「え? その話は関係ないんじゃないの?」

「だからバカだって言われるんです」

 この子本当に言葉選ばないよな。これって俺に対する嫌悪感からくるものなんだろう。

 浅岡には気を遣ってるというか、崇拝しているみたいだしな。

 俺が何も言い返すにいると浅岡が「どう関係するのか説明して」と淡白な返答した。

 崇拝する先輩からの問いに対して「例えばですね…」と佐倉が話し始めた。

「ショートケーキが嫌いと言っても乳製品全般無理とか牛乳っぽいクリームが苦手とか何かしらあるわけですよ。もっと言うとそれがもしかしたら当人にとってはトラウマ級の何かだったりもするんです。現状を打開する情報としてはゴミ以下ですけど彼女を知るのには見過ごすべきじゃない情報ですよ」

「でも。それって結構レアなケースじゃない?」

 何気なくそんな発言を漏らすと佐倉がただ無心に口を開いた。

「あるんです。雨宮先輩も片親みたいですけど、別に捨てられたわけじゃないですよね?」

「ま、まあ」

 佐倉葉月という少女の根幹に迫るような話が始まりそうな予感がして浅岡の方へと視線を向けたが、その先にいる彼女があまりに儚げな顔でカップを覗き込んでいるから思わず息を呑んだ。

 佐倉はありふれた話かのように自然と話し始める。

「私も日暮真桜も親に捨てられてるんです。そんな私は小さい頃にお母さんが焼いてくれたホットケーキが好きだったんです。普段家にいない仕事人間で料理もしないから一度しか食べてないし、どうやったらあんなに焦がせるんだろうかってくらい真っ黒で酷い味だった。だけど、二人で不味いねって笑い合えた思い出の味だったんです」

「良い話だね」

「そんなことないですよ。中二の時、私は親に捨てられたから。ほんと私何も言わず気づいたら両親は離婚していて、学校から家に帰るともぬけのから状態。その時、幸せの味は不幸の味にひっくり返ったんです。本当の絶望を経験するとオセロみたいにくるっと全てが反転する。私にはそういう経験があるから些細なところも見逃しちゃいけないって思うんです」

「っ…」

 何かを言おうとして言えなかった。代わりと言えるかは分からないが浅岡がカフェオレを啜ってから口を開く。

「思い返してみれば、日暮真桜という名前は有名だった。あの子って結構可愛らしいでしょ。だから男子からチヤホヤされていて、それでも謙虚で物静かな感じだったからそれも他の子にとっては鼻についたんだと思う。助けるまでは行かずとも彼女に寄り添うことは容易に出来る状況だったはずのに誰もそうはしなかった。私は、多学年の揉め事に興味がないから無関心だった」

 浅岡はそこで一度言葉を切り、自嘲気味に口角を上げた。

「けど佐倉さんは私とは違う。自分のことで精一杯ながらにも自分の友達が招いたことだからって、現代に相応しくない落とし前をつけて孤立していた。そんな時に出会ったから、自ら加害者面する姿なんて見たくない」

 浅岡が佐倉葉月という後輩を気にかけている理由を知り、先ほどの謝罪では足り得ないと思い、俺は深々と頭を下げ直した。

「本当に申し訳なかった」

 でも、佐倉は「もういいんですって」と歯に噛むような笑みを浮かべ話を続ける。

「多分日暮真桜を一番理解出来るのは私だと思うんです。あの子も母と離れて。そういう境遇があるから仲間意識とかそういう感情を抱いちゃうんです。だから同じ高校って知った時には絶対に友達になろうって決めてて、クラス表見たら同じクラスでマジ運命じゃんって。でも、日暮真桜は私を見て素っ頓狂な顔して逃げ出したんですよ。入学式も欠席してとうとう不登校に戻った。私と同じ高校になってしまったが為に」

 佐倉は自分がどう思うかよりも相手にどう見られているかを理解しようとする。それ故に感じて責任が他人よりも多いんだな。

「佐倉が気にする必要ないと思うよ。それぞれが苦悩の時期を超えて別々のところに居ながら選んだ進路が重なったのならそれは運命だと俺も思うから」

「まあ今んところはそこまでの後悔してないので。全ては日暮真桜が私をどう捉えてくれるか次第ですね」

 不安をかき消すような不器用な笑みを浮かべる佐倉を見ていて根拠のない自信が込み上げてきた。

「大丈夫だよ。真桜は分かってくれる」

「そう、だといいんですけどね」

「分かってくれる、だなんて。出会って日も浅いくせに信頼してるのね。まさか、あなたも真桜さんに惚れたとか?」

 浅岡が空気の読めない質問を飛ばしてくるものだから、俺と佐倉は目を見合わせて笑みを浮かべた。

「俺は真桜を信じてる。って言えはしないのが本音だよ。でもさ、なんというか凄い真っ直ぐな人なんだなってことは分かるんだよ。というか家族だぞ? 惚れるとか倫理的にヤバくね。社会的に殺す方向へ転ばそうとするのそろそろやめような」

「別に、そういうつもりじゃないけれど」

「へー。じゃあどういうつもりだったのか説明してくれます? 雪音先輩」

「う、うるさい。そんなことよりも、今は真桜さんの事よ。家にいるのよね?」

 無理やりすぎる話の転換に驚きつつも「出て行っちゃって」と告げると、二人から今日一番のリアクションを獲得することができた。

 次に、どういう流れでそんなことになっているのかという話になるのは至極当然で、嘘偽りなく話し終えた時には軽蔑を超えてしまったような、適切な言葉を見つけることすら困難な視線を向けられた。

「雨宮君。あなたは人の心をどこに忘れてしまったの」

「いや。俺なりに考えたつもりの優しさだったんだよ」

「雨宮先輩。流石にトラウマの名前出すとかありえないっす」

「お前が張本人だろうが」

 変な空気感になってしまい困り果てているとタイミング良くスマホの通知音が鳴った。

『真桜ちゃん帰ってきたよ』

 母からのそのメッセージを見て思わず席を立ち上がり、両足が机に引っかかってしまう。

「痛てっ」

「ちょっと、何よ」

「母さんから連絡入って、真桜が戻ってきたって」

「それは丁度いいわね。あなたはさっさと家に帰って話してきなさい」

「雪音先輩。それは危険じゃないですか? この人、聖人の皮被ったノンデリカシー男ですよ。拒絶されて関わるコマが消えるのが見えてます」

「え、コマって俺のことか。マジで容赦ないね」

 言い方は気になるけど佐倉の言っている事は正しいし、俺も自分がちゃんと向き合うことができるのかには不安が残る。

 それに、学校には行かなくていいという自分勝手な願いから、トラウマを呼び起こすような行為をしてしまった奴がどの面下げて対話すればいいというのか。

 俺自身が自分という人間を信じれずにいるというのに、浅岡雪音は雨も止むような自信に満ちた表情を浮かべて口を開く。

「佐倉さんは知らないけれど。この人の不器用さは時に器用さをも上回るの。そうやって何人もの人を導いている姿を私はたったの一年間で沢山見てきた。だから、情報を渡したわ。真桜さんと会えない私達が方針を固めるよりも、あとは擬似ヒーローの雨宮君に任せましょう」

「ぎ、じ?ヒーロー?」

「ええ。彼が誰かの問題に首を突っ込む姿を見た時にはそう呼べと金城先生に言われているわ。恥ずかしいけれど通り名みたいなものね。本当に恥ずかしいけれど」

「マジで恥ずかしいから言わないでくれる? てか、あの人どんだけ広めてんだよ」

「ふふっ。金城先生がある意味、一番少年のようだからね」

 そんな会話をしている最中、佐倉が眉に皺を寄せて何かを考え込んだと思ったら急にハッとなりニヤリと口角を上げた。

「通り名なら中学時代の雪音先輩にもめっちゃカッコいいのがありましたよ!」

「ちょっと、本当にやめなさい」

「待て、聞かせろ。もう一回くらいならカフェ奢ってやるから」

 佐倉は口を塞ごうとする浅岡の手を掻い潜りながらもどこか楽しげにその名を声にした。

「山猫の女王」

 吹き出して笑うわけにはいかないと思って口いっぱいに空気を含んで耐える。状況は浅岡の通り名を発表した佐倉も同様で、視線がぶつかった瞬間に吹き出して笑ってしまった。

「あははは。やばいな。山猫か〜、的確すぎる」

「ですよね。センスを感じます」

「はあ。もう分かったから、早く帰りましょう。もうほんと嫌だ。やっぱり佐倉さんとは関わらせるべきではなかったわね」

 こめかみを抑えながらも肩を落としている浅岡を横目にしししと笑みを浮かべている佐倉。二人の仲の良さというか深い関係値に羨ましさすら覚えつつも口元が緩んでしまう。

 これも青春ど真ん中な光景だな。

 それからカフェを後にして外に出てみると先ほどよりも雨は激しくなっていた。

「雨宮君はまたずぶ濡れで帰るつもり?」

「あーうん。まあ、そんなに家まで遠くないからね」

 そう回答すると浅岡が鞄の中から折り畳み傘を取り出し差し出してきた。

 俺の見る限り彼女も傘を持っているわけではないので借りるわけにいかず突っぱねるのだが、それもまた跳ね返される。

「本当にいいのよ。私は佐倉さんの傘に入れてもらうから」

「え、雪音先輩と相合い傘ですか。それはご褒美ですね」

「ということみたいだから本当に大丈夫」

 佐倉をあしらうように振る舞う姿や強情な姿には彼女らしさを感じる。

 きっと、俺が傘を借りるまで差し出し続けるんだろうな。

「分かった。ありがたく使わせてもらう」

 そう言って受け取った折りたたみ傘を開き、彼女らとは逆方向へと足を踏み出す。

 とても傘では防げないような重たい雨粒をボツボツと受け止めながら一歩、また一歩と足を進める。

 ふと、振り返った先に二人の姿は既になく名残惜しさを感じつつもこれからの学校生活への期待感が芽生えていた。

 雨降って地固まると言われるが、まさにそんな一日だった。この雨が止む頃には、浅岡との絆もさらに強固なもになってほしいと願っている。

 真桜との関係も然り。

 帰宅までの道中、首にかけられた浅岡のタオルからは彼女の香りが雨に消されることなく顕在していて、近くで見張られているような緊張感があった。

 下を向いて歩いていた叱責されそうだし、空元気で上を向いて歩いていたら前を見ろと言われそうで、不器用な人だから俺とも衝突するし対立構造になることが今後もあるかもしれない。だけど、浅岡雪音が俺の味方であり、俺が浅岡雪音の味方であるという根本的な構造は一生揺るぐことのない一つの真理なのだと信じている。 

 足先から冷え始めるけれど胸の内は温かく、少々むず痒い。解消しようのないもどかしさすらも心地よく雨道はこんなにも青に溢れていたんだと気付かされた。

 自分を見つめ直し新たな発見をして、ようやく家の屋根が見えたところで足を止めた。

「誰だ?」

 俺の家の前に誰かが立っていて傘すらも指していない光景に奇妙さすら覚えた。

 背丈や体型からは男である可能性が高いが大きめの黒ジャンバーにフードを深く被っていて肝心の顔が一切見えない状態だった。

 怖さがないと言えば嘘になるがいつまでもここで眺めている訳にはいかず足を動かした。けれど、それと同時にフードの人物は逃げるように走り去っていく。

 あっという間に過ぎ去って行った姿を見届けながら、気にしても仕方ないと思っていた。だって、あのくらいの不審な人物って結構存在していて、いくら警戒しても大概が杞憂に終わるから。

 そんなことを考えつつ家の中に入るとリビングから慌ただしい足音と共に母さんがやって来た。

「あんた傘持って行かなかったでしょ」

「あー、うん。でも、友達に会って借してもらった。タオルも」

「そうなのね。取り敢えず風呂入ってきな」

 そう言われて玄関で靴下を脱いだ俺は風呂場へ向かう途中で「真桜は?」と母さんに尋ねた。すると「自分の部屋じゃないかな」と相変わらずの状況を知らされる。

 さて、どう向き合うべきか。

 現状の真桜がどういう心理状態にあるのかも分からないのに出方を考えるだけ無駄かもしれない。けれど、出来る限りのことはしておきたいという俺の業が働いていく。

 風呂から上がって食卓を囲むもそこに真桜の姿はなく、誠司さんも母さんも「大丈夫」だと根拠のない励ましをしてくれていた。

 今日の今日で彼女が大丈夫なわけもないしここは日を跨ぐというが最適解だと思う。

 自室に戻ってから、そのことを浅岡にも相談してみると『その方がいいと思うわ』と返事が返ってきた。

 よし、今日のところは眠りについてまた明日の朝に考えよう。なんなら学校で佐倉や浅岡、渡辺君なんかも交えて相談してみるのも確実かもしれないな。もう何度も間違えてしまったから自分の判断だけで決めない方がいい。

 うん、絶対にそうだ。

 自分を何度も言い聞かせるように自問自答を繰り返す時間。

 ふと、窓の外が気になって覗いてみると久しく見るほどに大きな満月がこちらを覗き返してきた。眩しいくらいに輝いているあの惑星でさえも自ら輝きを放つことができないという不思議に気を取られていた。

 その時、背後から気配を感じて振り返る。

 そこにはポツリと佇む真桜の姿があった。

 若干俯き気味なその姿勢がなんとも愛おしく見えてしまうのは、多分俺が変な奴だからだろう。あるいは、彼女自身の魅力に翻弄されているからか。

「真桜…ご、」

 ごめんと言いかけて、止めた。

 違うよな。

 俺は真桜に対していつも謝ってばかりだった。

 勿論、余計なことをしてしまっているのだから謝るべきではあるんだが、きっとこの謝罪からは何も生まれないし始まらない。

 何も言わずこちらに視線を向けてきた彼女と向かい合うことで鼓動がどんどん早くなっていくのが分かった。俺が何か話さなければ沈黙という、地獄に勝るとも劣らない時間が続いていくだけだ。

 そんなのに意味なんてない。だから、相も変わらずも口を開く。

「俺さ、小さい頃。というか小学生が終わる頃ぐらいまで他人が大嫌いだったんだ」

 俺と真桜にとって全く関係のない話をする。

 彼女は遮ることをしないので自分の声がそっと響いて消えていく独り言みたいな感覚だった。

「相手が何を考えているかも分からないし。些細なことで泣いたり怒ったりどんな情緒をしてるんだろう、世の中には俺よりも面倒な人間が多いんだなって自分を棚に上げて考えてた。父さんが死んで沢山の人に支えられられてるって気が付くまでは周囲に無関心で」

 支離滅裂。何が言いたいのかなんて俺自身ですら分からない。

「友達もいなければ恋の一つもしたことがなくて全てがモノクロだった。太陽っていう名前をもらったのに心は冷たく、光すら飲み込むような暗闇の中で捻くれた感性と生きてきた。どれだけ人のためにって思うようになっても培ってきた根底は中々覆せなくて、俺の偽善が誰かを傷つけることがあるのも最近知ったんだ……」

 真桜はやはり何も言わない。

「佐倉から大体のことは聞いたよ。それでも、やっぱ俺には分からないんだよ。さっきの真桜がどうして家を飛び出して行ってしまったのかも、なんで東陵高校を受験したのかも。何も分からない」

 こう思っているのかもしれない。こんな風に感じているんだろうな。そういう仮説というか押し付けはいくらでも脳裏をよぎるけれど、根拠を持って言い切れるほど真桜を理解できてはいない。

 人を理解するということが一朝一夕で出来るなんて思っているわけじゃないけど納得がいかなくて。

 やっぱり、俺は俺の烏滸がましさをコントロール出来なくて、許せない。

 真桜に向ける顔も見当たらなくなり視線を落とした。

 無力さとか恥ずかしさとか悔しさとか、色んな感情がグチャグチャに混ざり合い、やがては黒になる。

 自己嫌悪に塗り潰されて、全部を諦めそうになってしまった時、力のない俺の手を小さく冷たい手が包み込んだ。細く透明感のある綺麗な手だった。

「えっ」

「太陽さんは私のことをどう思いますか……」

「……」

 ガクガクと口は動くけれど言葉が失われたように声が出なかった。

「私は可哀想な子ですか……」

 月夜に溶け込むような女性らしい高らかな声は耳心地が良くて酸素のように体内を巡っていく。

 まるで遠い昔から彼女の声を聞いたことがあるような懐かしさを感じてスッと言葉は漏れる。

「頑張りすぎる子。に、見える」

 真桜は一切迷いなく返答する。

「私、そんなに頑張れないですよ」

「そうなの?」

 真桜は照れたように微笑んで「はい」と言ってから言葉を続けた。

「高校からはちゃんと行こうと思っていたんですけど、少し躓くともうダメになっちゃって」

「ダメになんてなってないよ。まだまだ選択は出来る」

 そんな言葉を聞いて真桜は目を丸くしてからフッと息を漏らして返答する。

「太陽さんは私の復学、反対なんですよね。それなのに前向きなこと言ってくるの少し変です」

「佐倉の件があったから逆に居づらいのかなって。でも、佐倉の件は俺の勘違いというか…」

「勘違い…?」

 真桜は小首を傾げて呟いていたので、改めて佐倉のことを話そうと思った。

「勘違いっていうのは……」

 話そうと思ってやめることにした。だって、真桜が学校に来るのなら当人に会って話すのが一番だろうし、二人の歩幅で二人だけの関係を築いていってほしいと思うから。

 真桜がまだ向き合おうとしているのなら、佐倉は必ず応えてくれる。

「少し不安かもしれないけど佐倉とは実際に会ってみれば分かるよ。ここで俺が話すよりもその方が良いって、そんな気がしてる」

 そう告げると、一瞬手を強く握られた。でも、すぐに俺の手にまとわりついた温もりを置き去りに真桜の手は離れていった。

「私の問題ですから。大丈夫です」

 突き放したような言葉に思えて、やや俯きかけていた顔に注視してみてみると真桜の瞳に映る確かな覚悟を感じさせられてしまう。

 やはり、誠司さんのいう通り信じていいんだと期待させられる。

「あの、太陽さん」

 突然、語気を強めたように名前を呼ばれて驚いたが「どうしたの?」と平静を装う。

「私、毎日勉強してきました。東陵高校の同級生の誰にも負けないって言えるくらい。それと、沢山コミュニケーションの本も読んだし、メンタルを整える動画とかも視聴して勉強しました。もう、これ以上は逃げたくないんです。やれることは全部やったつもりなので、復学したいんです。い、いいでしょうか?」

 ふと、笑みが溢れた。

「あのさ、俺は父親じゃないよ?」

 冗談まじりに言うと真桜も微かに笑みを浮かべながら返答する。

「でも、太陽さんにはちゃんと話して認めてもらいたかった」

「なんで俺なの。その、俺なんてただのお節介じゃ」

「良いじゃないですか、お節介。私の周りの人達は壊れかけてしまった私を自分が壊さないようにと丁寧に扱うんです。そんな優しさと呼べるかもわからないモノに甘えて、結果的には回復する時間が出来ました。でも、それじゃダメなんです。太陽さんは私を甘やかさないって、そんな気がするんです」

 これまで無口だったと思えないほどに話すんだなと思いつつ、彼女自身言葉にできないストレスを心の奥深くに抱えていたのかもしれない。

 そして、また一段と深く深呼吸をした真桜ははっきりとした口調で言った。

「これからも私を見ていて下さい。先輩として、それと…兄として」

 今更、他人だった俺を兄だなんて思えもしないはずなのに真桜はこの言葉を選んだ。

 親同士の再婚で重なり合ったこの関係を家族という形に変えてもいいと許してくれた。きっと、俺からは言えなかった。

 一度、名前呼びをすることになった時から俺は真桜の兄になれないと思っていたし、その事を懸念視してもいなかった。

 兄か。

 緩んでいく口元を隠すように手で覆ってからそっと口を開く。

「頑張るよ。兄貴として」

「はい。私も兄に見合う立派な生徒を目指します。そして、近い将来…」

「ん?」

「いえ、今はいいです。とりあえず、明日からよろしくお願いします。私はもうとっくに元気なので!」

 真桜はぺこりと頭を下げてから自室へと戻っていった。

 ひとりぼっちが当然だった自室で誰かと会話したからか、いつもよりも寂しさを感じる夜が広がっていった。

 ピロン、とスマホの通知音が鳴り響いては虚しく消えていく。

『私達は大きな勘違いをしていた。どうやら、人の心をシュレディンガーの箱に比喩することはできないらしい。何故なら、心はいつも見えないところで花を咲かせているからね』

 スマホの画面に映ったそのメッセージを見てから電源を切った。

 その通りだと思うよ、七海先輩。

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