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第3章:シュレディンガーの箱に秘めるモノ

 昨日の楽しさが余韻として残る中、熱を帯びた朝日に照らされて目が覚める。

 久しぶりの運動ということもあってか少しばかり体が軋む。

 時計を見てから二度寝モードに入るもピロンッというメッセージ通知で完全に脳が起こされてしまった。

 差出人は浅岡だった。

『今日のお昼に少し時間もらえるかしら? 少し話があって』

 まだ六時前だというのに、見たまんまの早起き人間なんだな。

 そういえば理人が部活での依頼も朝からたんまり送られてくるって浅岡の文句言ってたっけ。マジでよろず商業部に入らなくて正解だな。

 大体、あの部はビジネスと同じ仕組みで回っていて部活動じゃないしな。

 余計な思考に時間を使いながらも『了解』と返信した。すると、浅岡からもすぐに返ってくる。

『ありがとう。部室にいるわね』

『おけい』

 こうして完全に目覚めてしまったからには何かせねばいけない気がして、でも何もしたくない気もして。結局、スマホでショート動画の沼にハマり投稿時刻を迎えてしまった。

 早起きしたはずなのに忙しなく家を出る。

 ピロンッ。

「ん?」

 スマホ画面に表示されていたのは真桜からのメッセージだった。

『行ってらっしゃい』

 どういう風の吹き回しだ。まあ、少しは警戒を解いてくれたということなんだろうか。

『ありがとう!』

 朝感じた体の軋みが嘘のように軽くなり、下校時には真桜へお土産を買って帰ることを密かに、そして勝手に誓った。


 学校についてからはまだ慣れない新しい教室での席に腰を下ろして、青葉やツッチーに理人、浅岡とこれまでと変わらない面々との会話を楽しんだ。

 俺にとっては変わらないメンツだったけれど、他の四人は友人の友人という関係値だっただけに危惧もしていた。だからこそ、昨日の一日は記憶に残るような特別で必須な日だった。

 もし、このグループから俺がいなくなったとしても。なんてことを考えてから、すぐに想像をやめた。

 それから、幾つも睡魔を乗り越えて午前中の授業を完走した俺は浅岡との約束を果たすべくよろず商業部へと訪れた。

 さて、このまま中に入って良いものなのだろうか。

 ラブコメとかならこういう場面では友達が着替えててラッキースケベになったりするんだよな。もしかして、これは俺の命運を分けるような選択か?

 スケベか、ノースケベか。

 考えた末に、俺はそっと目の前の扉を開く。

 そこには浅岡と他に見知らぬ男女の生徒が二名おり、すでに椅子に座って話す姿勢を作っていた。

「遅い。何してたの?」

 怒りというか呆れたような言い方で浅岡に責められる。

「ごめん。入るか迷ってたんだ」

「は? なぜ?」

「あ、いやその。男の子だからな」

「意味が分からない」

 浅岡はそう言いながらもこめかみを手で押さえていた。

 うん、生真面目な彼女に俺のヤングボーイジョークは通じないみたいだね。まあ、分かってたけど。

 俺達流の挨拶を交わし終えたのを見ていた見知らぬ女生徒が席を立ち、遅れて男子の方も立った。

「一年一組学級委員の佐倉葉月です」

「同じく一年の。えーと、自分は二組の学級委員してます。渡辺純一郎です」

 改まった挨拶は慣れていないもんで、若干の気まずさを感じながら俺も挨拶で返すことにした。

「二年二組の雨宮太陽です。こちらこそよろしくお願いします、 というかこれ何の集まりなん?」

 堅苦しい挨拶もほどほどに浅岡の方へと視線を戻すと彼女が説明を始める。

「実は佐倉さんとは同じ中学の出身で少し相談事を受けていたんだけど、あなたが適任じゃないかなって」

「ちょ、ちょっと! 浅岡先輩、俺も同中っすよ!」

「あら、そうだったの? 本当に知らなかった。ごめんなさい。それじゃあ訂正するけれど、そこの人も同じらしいわ」

 渡辺君と言ったかな。君は非常に運がいいな。

 入学して間もないこの時期に浅岡の洗礼を受けられるなんて。これは特別待遇だと思って噛み締めるべきだな。

「先輩ひどいっす」と声をあげて落ち込んでいるのか喜んでいるのか分からない彼は置いておくとして、俺も近くの椅子に腰を下ろしてから口を開く。

「じゃあ、その相談ってのを聞かせてもらう感じかな? でも俺でいいのか?」

 そんな疑問に対して佐倉さんが微かな笑みを浮かべて答える。

「はい。雪音先輩からの絶大な信頼がある雨宮先輩なら私も信用できます」

 あまりにも言い切るものだからつい「その根拠は?」と嫌な質問をしてしまう。

 けれど、彼女は一才の迷いなく口を開く。

「私が唯一尊敬してるのが雪音先輩だからです。その先輩が雨宮さんは必ず何とかしてくれる人だって言うんです。そりゃ信じますよ」

「へー。必ず何とかしてくれる人ね〜」

 便利屋かなんかの言い換えで俺を煽てようとしてるんじゃないだろうかと疑いの目を向けるも、視線の先にいる赤面の彼女を前に捻くれた思考なんて吹っ飛んでしまった。

「そ、そこまでは言ってないわ。でも、そうね。大体合ってる」

 分かったから、その照れる感じやめてくれないかな。本当に調子狂うんだよ。

 普段はツンケンしてるから、そのギャップで心を持っていかれそうだ。つーか、そこの男子は絶対心持ってかれてんだろ。

 目がハートになってんだよ。俺レベルの人間観測者になると誰が誰を狙ってるとかお見通しなんだからな、気をつけたまえよ渡辺君。

「それじゃ、早速二人から話してもらいましょうか」

 流石と言えるようなタイミングで浅岡が話を切り出す。

 空気が一変し、先ほどまでのほんわかなムードなんて出せない室内になった。

「それでは私の方から。でも、どこからお話しすべきか悩ましいのですが。結論から言いますと、クラスの不登校者を復学させたいんです」

 その瞳には一才の澱みがない。それ故に疑問も浮かぶ。

「まだ入学して、一週間も経ってない。それなのになんで復学させたいの? 他人でしょ」

 俺からの質問に対して一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻して彼女は説明を始めた。

「実はその子と中学が一緒で。中学の時も不登校だったんですけど、わざわざ東陵高校に進学したのだから本当は通学したいんじゃないかなって」

 そんな説明を聞きながらも、彼女の指す不登校者というのが真桜である可能性が極めて高いと感じていた。

 入学式後に配られた学生新聞のクラス名簿には真桜のクラスが一組と記載されていたし、同じクラスに何人も不登校生徒がいるとは思えない。

 それに、東陵高校はそれなりの進学校だ。

 とてもじゃないけど、何となく行こうで選ぶような学校じゃないからね、不登校なんて稀少中の希少だ。

「佐倉さんのその気持ちは学級員だから?」

 何となく投げかけてみた質問に対して返答はなかった。

 さっきまでは淡々と答えていたのに、どうしてこんなありきたりな質問に言い淀むのか。

 少し質問の方向を変えてみることにしようか。

「佐倉さんはその子とどうして友達になりたいの?」

 俺は続ける。

「佐倉さんは中学の時その子と仲良かったとか?」

「佐倉さんが動かなきゃいけない理由って別にないと思うんだけど、どんな動機なの?」

「佐倉さ……」

 次の質問を言いかけた時浅岡が語気を強めて横入りしてきた。

「そのくらいにしなさい。あなたのそれはヒアリングじゃない。尋問よ」

「尋問ね。じゃあ、最後の質問。何で簡単な質問には答えらんないの?」

「そ、それは……」

 彼女の目が泳ぎ出す。

「あのさ、さっきから怪しんだよね。言ってることが綺麗すぎる。その割に大した動機もないし、質問するたびに不信感が増して組んだけど。君は真桜をどうしたいわけ?」

 若干の怒りを超えた俺の発言を受けて浅岡も口を開く。

「真桜って。あなた、知り合いなの?」

 目を細めて睨まれながら、つい熱が入って口走ってしまったことを後悔する。黙り込む俺を浅岡は追撃するように質問を重ねた。

「あなたこそ簡単な質問に答えたらどう?」

 いつもなら笑ってやり過ごせる彼女特有の口調で脳内の血管がピクリと反応していた。

「ああ、知ってるよ。だからってなんだ。関係ないだろ。俺は今佐倉葉月と話してる」

「関係あるわ。なぜ隠したの?」

「隠したと言われるほどのキャッチボールはまだしてない。どれだけ優秀なピッチャーでも持ち玉の変化球を投げるのは肩が温まってからだろ」

「そういうことじゃないわ。先に教えておくのが筋ってものでしょう」

「筋って話なら、相談を持ち込んだそっちから通してもらおうか。自ら名乗り、自ら動いた対価として相手にも同様のことを望むのがマナーじゃないのか」

 浅岡ははあっとわざとらしく、大きなため息を漏らしてから呟く。

「見損なったわ」

 そう言われてつい怒りに呑まれそうになるが、ここで俺と浅岡が揉める必要性は全くないと冷静になれた。普段から自分を客観的に見るように意識していたことがこういう時に身になるんだな。

「いや、すまん。俺も変にヒートアップしちまった。本筋の話からズレてるしな」

「ズレていないけれどね」

「浅岡。そのスタンスでいられると進む話も進まない」

「それは…」と浅岡が言いかけて、彼女の怒りが俺に向かってきそうになった瞬間、佐倉葉月は音を立てて席を立つ。

 そして、彼女は衝撃的な言葉を吐き捨てた。

「私のいたグループが日暮真桜をいじめて不登校にしたの。私はそのグループのリーダー的な存在だったから、償いたくて。学校に復帰してほしくて。同じ中学だから進学先が一緒なのは卒業前に知ってて、進学先が被ったのは偶然だったけどせっかく同じなら仲良くなりたいって」

 佐倉葉月の言葉が脳裏を駆け巡り、視界が狭まっていくような不思議な感覚に陥っていく。心なしか周囲の音も小さくなっていき、新幹線でトンネルに入った時のような耳に何かが詰まった感覚。

 でも、思考は非常にクリアだった。

 佐倉葉月が中学の時に真桜をいじめていた。

 つまり、真桜が言葉を……。

 声を発さなくなるほどの痛みを伴ったのはこいつのせい。

 落ち着け。それは百歩譲って過去のことだと割り切れ。冷静になれ。

 でも、そんな加害者が今更手を取り合って高校生活楽しみましょうって馬鹿みたいな発言をしてるんだぞ。

 俺自信が怒りに任せていいことなんて何もないと分かってる。

 分かっているけれど、真桜の心の傷がどれだけのものだったのかを想像すると昂る気持ちを抑えられそうにない。

 あーそうか、こいつは犯罪者だ。

「分かった。話は終わりだ。ちょっと冷静でいられないから」

「雨宮先輩。佐倉の話ももう少し聞いてくれないですか。こいつなりに考えてここにいるんです」

 今までこの緊迫した空気に呑まれて発言すら出来ずにいた渡辺純一郎が彼女を擁護するような言葉を投げかけてきた。

 まるで俺が悪者かのような構図になっていると気がつき、心底呆れる。

「渡辺君。聞いてただろ。佐倉葉月はいじめの加害者だ。しかも、不登校に追い込むほどのな。相手次第では自殺すらあり得るような危険な行為だぞ」

「それは、でも」

「でもじゃないんだ。人は死んだら…。死んだらもう笑わねぇんだよ」

 ふと、自室にある父さんの遺影が思い浮かんで感情的になってしまった。

 身近の人間がこの世からいなくなることが当たり前に起こるんだという現実を、俺はここにいる誰よりも知っている。そういう差が出ているのかもしれない。

 これ以上はここにいるべきでないと判断して去ろうと席を立ったその時、浅岡がポツリと呟く。

「佐倉さんのこと何も知らないくせに」

「は?」

「何も知らないくせに、彼女を犯罪者扱いしないでって言ってんの」

「じゃあ、他に何だって言うんだ。自白したんだぞ」

「佐倉さんは不器用だから、あんな言い方しかできないけれど」

「それよりも不器用なお前が代わりに説明するか?」

 そう言い残して後方のドアへ向かう瞬間、彼女の瞳から溢れる水滴が視界に入った。

 浅岡雪音は強い女だ。故に彼女の涙は涙であったとしても涙ではないのだと願う。

 それから教室に戻りいつも通りの授業、いつも通りの休み時間を過ごしていた。だが、俺と浅岡から険悪なムードが出ていることに理人と青葉が察して尋ねてきた。

 浅岡よりも俺に訊く方が幾分か敷居が低かったんだろう。けれど、熱は冷めぬまま時間が経つごとに冷静さを失っていく。

 ふとした瞬間に昼休みの出来事がフラッシュバックしては嫌悪感を抱く。

 だから、尋ねてきた二人には「今は話すことない」とだけ伝えて多くは語らなかった。

 放課後になり、各々が部活へと向かう中帰宅の準備をしていると青葉に呼び止められる。

「頭冷えた?」

「いや、今日は無理かも」

 青葉は周囲から人がいなくなるのを待つように隣の席に腰掛ける。本当は少しでも早く学校を出たかったが、ここで帰宅するのは余計なトラブルを増やすだけになる選択だろう。

 仕方なく、青葉が話し出すまで時計を眺めることにした。

 七分程経過したところで教室から生徒がいなくなった。普段ならもう少し談笑している生徒が多い時間なのだが、変に意識させてしまったのかもしれない。

 学級委員として情けないことをしてしまったな。と反省する。

 反省できるということは冷静になれてきているんだろうか、そんな疑問を浮かべていると頭頂部に鈍い音と強い衝撃が走った。

「カネ先レベルのゲンコツだな」

「いつか超えるつもりだから」

 そう言い切ってフンッと鼻をならす青葉。この安定感につい口元が緩んでしまった。

「悪かったよ。浅岡とのこと」

「悪かったって何が?」

「空気悪かったでしょ。そのことだよ」

「私はね、喧嘩することはいいと思うんだ。ただちゃんと説明してくれないともどかしいじゃん、反省して?」

「はい」

「じゃあ、雪音ちゃんに謝って」

「それは無理」

「いつもは大きな喧嘩になる前に折れるくせになんで雪音ちゃん相手だとそうはできないの? 特別だから?」

 特別。という言い回しが妙だと感じた。けれど深掘りはせずに返答する。

「今回は折れるわけにいかないだけだよ。詳しく聞きたいなら浅岡に話してもらえよ。俺は言いたくない。それじゃあ」

 ほぼ逃げるような形で教室を出たが青葉が追ってくるような気配はなかったので安堵のため息を漏らした。

 昇降口を抜けて外に出るも大きく分厚い雲に太陽は隠されていて、湿った空気が漂っていた。

 そんな中、校門に立っている女子がこちらに向かって手を振っているのに気が付く。背格好から七海先輩だと思い、今話すのなら彼女しかないというナイスなタイミングだった。

「君を待ってたんだ!」

 普段話している時よりも数段トーンの高い声。

 俺の気分とは真逆なんだなとすぐに察して取り繕う。

「なんですか? デートのお誘い、及びレンタル彼氏の申請は二日前までにしてください」

「君はいつからそんな会社を設立したんだい?」

「儲かるのであればいつからでも始めますよ」

 そんなどうでもいい話をした後、七海先輩は身体中から溢れんばかりに幸福オーラを吹き出して話し出す。

「この前話した、学校からいなくなってしまった子なんだけどね。連絡取れたの!」

「え、そうなんですか」

 いつまでも校門で話している訳にもいかず、二人並んで下校ルートに沿って歩き出す。

「なんか、向こうも私を探してたみたい、それで昨日の夜にSNSで繋がれたの!」

「巡り合わせ、ですかね」

「かもね。私はさ。今日、シュレディンガーの箱の中身を見てくる。観測者としての責務を全うする。逃げない。でも。やっぱり怖いから、せめて君には決意表明して意思を固めておきたかった」

「先輩は……。うん、きっと大丈夫ですよ!」

 上手く笑えているのか自信がない。けれど、今の七海先輩はかつて救えなかった子の心の中がどうなっていたのか。当時の行いが正しかったのかの答えに夢中で俺を見ていない。

 そうでなければこの人には何もかもが表情から読まれていただろう。

「それじゃあ、私頑張ってみる。観測結果は共有できそうならするね!」

 走って駅の方へと向かう七海先輩を見ていて虚しく感じた。

 この世界に今自分は一人なんじゃないかって、そんなありえない幻想に胸が押し潰れそうだ。

 俺が苦しい時に一緒に苦しんでくださいなんてお門違いな話もあったもんじゃないし、七海先輩には自分の人生と幸福があるのだから、わざわざこのモヤモヤを共有する必要なんてないんだ。

 これからもずっと。

 

 いつもより暗く澱んで見える帰り道、コンビニの看板が目に入り立ち寄ることにした。

 今朝、真桜からのメッセージを見た時に何か買って帰ろうと思っていたからだ。

 あの時とは抱いてる感情が違うにしろ、彼女の喜ぶようなことは進んで行いたい。そうやって少しずつ積み重ねていくことしか俺には出来ないから。

 一つのシュークリームとブラックの缶コーヒーを買い、コンビニを出た俺は大人が好むその苦味にあてられていた。

「まずい……」

 数えきれない程の辛い出来事に何度も涙を流して歯を食いしばって、我慢して生きていった果てにあるのがこのブラックコーヒーのような苦味だとして、そこに幸福と呼べるものは本当にあったりするんだろうか。

 大した寄り道にもならぬまま家に着きリビングに立ち寄ると、そこには勉強している真桜の姿があった。

 彼女の過去の一片を知ってしまった今となってはどう接するのが正解なのか分からず、声もかけずに立ちすくんでいた。すると、視線がぶつかり彼女は柔らかな表情をしながらスマホの画面を触った。

 ピロンッと鳴り出した通知音。

『おかえりなさい。何か買ってきたんですか?』

 この不自然なコミュニケーション。

 君が言葉を失うまでに。声を閉ざすまでには一体どんな苦悩があったんだろうか。

 考えを凝らすほどに虚無感に襲われて真桜を直視することが出来なかった。

「シュークリーム買ってきたから食べて」

 そう言って冷蔵庫へと向かって歩いた。

 目を合わせずに済むから丁度良い。そんなことすら考えてしまう逃げ越しの自分が心底情けないな。

 ピロンッ。

 通知音が不快に響く。

『ありがとうございます。シュークリームは大好きです』

 ショートケーキ嫌いな相手にシュークリームなんてナンセンスだったなと今になって思いつつも、カスタードクリームとかは好きなのかな、なんて呑気なことを考える余裕があることに驚いた。

 でも、まだ迷っている。

 俺は真桜が話したくなるのを待つと言ったけれど、本当に待つべきなのか。

 もし、いじめた張本人の佐倉がなんらかの方法で接触でもしてきたら真桜は本当に壊れてしまうんじゃないか。

 それなら一層、東陵高校なんかにこだわる必要なんてないのかもしれない。

 すうっと辺りの酸素を吸い込んでから俺は彼女と目を合わせ口を開く。

「真桜は、なんで東陵高校を選んだの? 選択肢は無数にあるのにさ」

 真桜は一瞬の戸惑いを見せたが、すぐに文字を打ち込み出した。

 ピロンッ。

『文化祭が素敵だなって思ったんです』

「文化祭か…。まあ規模は大きい方だね」

『そうなんです!』

『だから。遅くとも来週には復学します。怖いけど、せっかく入れたから』

「えっ」

 想像だにしなかった急展開にあ鼓動が騒ぎ始める。

「そんなに急がなくても良いんじゃない?」

 昨日までの俺なら決して口にしなかった言葉を吐きながら真桜と向き合うように正面の椅子に腰掛けた。

『二ヶ月経つと自主退学をすることになっちゃうんです』

 そうか。高校一年生時のカリキュラムを修了できないと判断されれば退学になるんだった。

 それならその方が真桜の未来は明るいんじゃないか。でも、今の彼女の瞳には確固たる決意のようなものがあって何がなんでも復学を望むだろう。

 自分の心とは真逆に進んでいく世界のあり方にひどく不快感を覚えた。

「でも、佐倉葉月が同じクラスにいるよ。いじめられたんだろ」

 何も考えずさらっと口にした言葉が禁句であると我に返った瞬間に気がついて、背筋が凍っていくような悍ましい感覚に支配されていく。

 すぐに訂正しようにも体は震え上がり上手く言葉にならない。

 ピロンッと黒さを滲ませるような音が聞こえてくる。途端、真桜がリビングを飛び出していった。

 彼女のいなくなった席を見つめながらスマホの画面に視線を落とす。

『ごめんなさい』

「俺のセリフじゃん……」

 上階の部屋からガタゴトと激しい物音が聞こえてきた、この家族の形を自分の軽率な発言一つで壊してしまったんだと諦めた。元々、真桜には触れちゃいけない繊細さがあって誠司さんはそれを警告してくれていたのに俺は無視した。

 寧ろ、彼女を腫物みたいに扱っているとさえ解釈した。

 結果として、俺は真桜のひび割れた心に終止符を打ってしまった。

 関わらなければ良かったすら思うほどの後悔の念が身体中に纏わりついている。

 しばらくは自室に行けないなと思いながら何をするでもなく時計の針を眺めていた。自宅にいてこんなに心細いと感じるのはいつぶりだろうか。

 父さんが亡くなって母さんが働き出した時もこんな感じだったような。

 はあっと溢れる深いため息は誰の耳にも触れず室内の空気に溶け込んでいくだけだった。

 俺って何がしたいんだろうな。

 様々な自問自答を繰り返して時間を消費していく中で、慌ただしい足音が階段を下っていることに気がついた。

 そして、その足音は逃げ去るように遠のいていく。

 ガチャンッと大きく鳴り響く閉扉音に反応して、俺は急いで立ち上がり玄関へと向かったが、そこに真桜の姿も靴もなかった。

 すぐに追えば間に合う。間に合うはずなのに、俺の足は動こうとしなかった。

 七海先輩。俺はあなたのように観測者ではなかったようです。

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