この気持ちが愛じゃないというのなら
草世は、村長の家に行った。直志の両親が亡くなったことを伝えると、村長と孫娘のマツが丹野風呂屋に駆けつけた。
マツは、落ち込んでいる直志に慰めの言葉をかけた。はにかむ笑顔を見せた直志。
二人は想い合っていると感じ取ったのは草世だけでなく、村長も。
「事が済んで落ち着いたら、祝言をあげさせてやろう」
「そうですね」
直志が失ったものは大きい。けれど、新たに得られるものもある。
直志なら、風呂屋を立て直し、幸せな家庭を築くことができるだろう。
あとのことは村長に任せ、草世は家に帰ることにした。
「いなりずしを作ろう。真珠、喜ぶぞ」
真珠は油揚げが好きだ。いなりずしに歓声をあげる姿を想像し、草世は口元を緩めた。
「先生っ!!!」
田んぼの向こうから、春子が走ってくる。髪は乱れ、気の強い顔は涙に濡れている。
病人が出たのかと、草世は構える。
春子は草世の前まで来ると、激しく上下する胸に手を当てた。息が切れて、話がままならない。
「あの、あの、あたし……」
「どうしました?」
「こんな、ことに、なるとは、思っていなくて……」
「焦らなくていい。ゆっくりでいいから」
「あたし……」
春子は涙でびしょびしょに濡れた顔で、草世を見上げた。
「真珠を傷つけるつもりなんて、なかった。信じて。だって、狐だなんて、嘘だって思ったから……」
──狐。
春子の口から飛び出した単語に、草世の肝が冷える。
(驚いて、狐の耳と尻尾を出してしまったのか!?)
真珠が草世の家に薬を買いに来た夜。熱いお茶に驚いて、真珠は狐の耳を出した。さらにその後は、狐の尻尾も。
そのときのことを思い出し、草世はどう誤魔化そうかと考える。
しかし、春子の震える声が意外なことを口にする。
「坊さんに騙された。人間には害がない。だけど、狐が飲むと毒になるって。あたし、信じなかった」
「坊さん? なんの話をしているんだ?」
「信じて! あたし、悪気なんてなかった。あの子を傷つけるつもりなんて、全然なかった!」
春子は混乱している。話が要領を得ない。草世は辛抱強く、訊ねる。
「坊さんに、なにを騙されたって?」
「薬……」
「薬?」
「人間が飲むと害がないけれど、狐が飲むと毒になるって。信じて。あたし、真珠が狐だって思っていない。人間だって、わかっている。それなのに……なぜか、真珠が倒れている……」
「っ!? どこにいる!!」
「先生の家に……」
草世は走った。途中で草履が片方脱げたが、拾いに戻らず、走り続ける。
(真珠!! 生きていてくれっ!!)
春子は慌てるあまり、草世の家の玄関を開けっぱなしにしていた。草世は家の中に飛び込み、叫ぶ。
「真珠っ!!」
天真爛漫で愛らしい、十代の少女の姿はそこになかった。
水瓶の前に倒れているのは、白い毛をした小狐。
草世は迷うことなく、小狐を抱いた。胸に耳を当てる。弱々しいが、心音が聞こえる。
草世は安堵の吐息をついた。口を開かせ、においを嗅ぐ。
「刺激臭がしない……。人間には害がないが狐には毒になる薬など、聞いたことがない」
とりあえず、毒を中和しなくてはいけない。
草世は、真珠に水を飲ませようとした。だが、土間に落ちているお椀が目に留まった。
「水瓶の水を飲もうとして、倒れた?」
草世の直感が、瓶の中の水は危険だと知らせる。
草世は家の裏に流れている川の水を、小狐の口に流し入れた。
「しっかりするんだ!!」
真珠は目を開けない。体に力が戻ってこない。
草世は涙に濡れた声で、呼びかける。
「真珠、しっかりしろ! 絶対に助けてやるからなっ!」
草世は、白裂に頼ることにした。
白裂は、「人間の問題に関わることはできませんが、もし真珠に困ったことが起きたのなら、それは白狐の問題。そのときは、喜んで力になります。私を頼ってください。小麦峠に来てください。そこで白裂と、私の名を呼んでくだされば、すぐに駆けつけます」そう話していた。
小麦峠に行くべく、草世は家の表に出た。
春子が立っていた。草世の腕に抱かれている白い狐に、春子の目が丸く見開かれる。
「……嘘よね? 本当に、狐なの?」
「お坊さんから薬をもらったんだな? どんな薬だ!?」
「知らない。特別な薬としか……。ねぇ、それ、本当に真珠なの?」
「話している暇はない」
走り去ろうとする草世の背中に向かって、春子は叫んだ。
「私も先生も、真珠に騙された!! なんてひどい女!!」
草世は走るのをやめた。肺の奥深くから、ゆっくりと息を吐く。
「先生は騙されていた。かわいそうに。狐は人を騙すっていう昔話、本当だったのね。あの子、あんなあどけない顔して、腹の中では悪いことを考えていた。丹野風呂屋があんなことになったのは、真珠のせい! あの子が呪いを……」
「違うっ!!」
草世は振り返ると、春子を睨んだ。
「丹野風呂屋に、真珠は関係ない! むしろ、助けてくれた! なにも知らないくせに!!」
「先生……?」
「僕は、騙されていない! 真珠が狐だと、最初からわかっていた! わかったうえで、受け入れた!」
「へ?」
いつも穏やかな草世が、初めて怒りをあらわにした。春子は呆然と見つめる。
「真珠は優しい子だ! なにも知らないくせに、悪く言うのはやめてくれ!」
「でも、でも、だって、狐……。こんなの、おかしい。なんで、狐と一緒に暮らしているの? 人間じゃないのに……。薬かなにかに、使うため?」
「はっ! 君と話すのは、時間の無駄だ」
「待って!!」
春子は必死の形相で呼び止める。
「別に、助けなくてもいいんじゃない? だって、人間じゃない。狐なんて、山にたくさんいるし。死んだって、別にいいじゃない。だからあの、あたしは、悪くない。人間じゃなくて、狐に毒を飲ませた。だから、あたしは悪くない。先生だって別に、狐に愛情を持っていたわけじゃないんでしょう? 人間に化けた美しい姿に、惚れていた。そうだよね?」
春子は毒を飲ませた罪悪感に怯えている。人間ではなく狐に飲ませたから悪くないと、草世に言ってもらいたいのだ。
草世は小狐の頭を撫でた。柔らかな毛と体温を感じながら、想いを口に乗せる。
「僕のこの気持ちが愛じゃないというのなら、世の中の愛の定義のほうが間違っている」
「先生……」
「命に優劣をつけるのは、人間の悪い癖だ」
草世は身を翻した。背後から、激しい泣き声が響く。
草世は強い振動を起こして真珠を苦しませないよう、慎重に、だが全力で走る。




