真珠の許嫁
しばらくして、丹野風呂屋から草世が出てきた。
顔色が悪く、生気がない。体中に靄がついているのは、毎回のこと。
真珠は息を吹きかけて、靄を飛ばした。
いつもなら血色が戻って、草世は「体が軽くなった」と喜ぶ。
しかし靄を吹き飛ばしたにもかかわらず、草世の顔は青白い。目に光が戻ってこない。
「どうしたの?」
「え? あ、いや……」
草世は真珠の顔を見ない。視線を地面に縫い止めたまま。
「真珠ちゃんは、どうだい? なにかわかった?」
「あ……よく、わからない」
真珠が言葉足らずであることを、草世は理解している。いつもの草世ならここで、「なにが、わからないんだい?」と訊ねただろう。
しかし、草世は口をへの字に曲げた。真珠と話したくないとばかりにそっぽを向いて、歩き出す。
草世は機嫌が悪い。だが、真珠は気がつかない。
真珠は草世の後ろをついていきながら、僧侶に会ったことを話す。
「変な人に会った」
「…………」
「生きていない人。でも幽霊じゃない。肉体から出てきた、魂の存在。その人は、この世を変えたがっている」
「…………」
「でも私は、欲のある人みんなが悪いとは思わない。神様のお告げを伝えるために、人の夢の中に何度も入ったから、わかる。どの人も、良いところと悪いところがある。お風呂に集まった人たちも、そう。悪い欲だけ吸い取られて、綺麗な心は吸い取られなかった。だから、呪いが発動したのは、自業自得なんかじゃない。わざとそうなるように、呪術が作られた!」
真珠は言葉にしたことで、なぜ僧侶を変な人だと感じたのか、わかった。
(あの人は、人間を悪だと思っている。人間は綺麗な心も持っているのに、あの人は、悪い部分に目を向けている。この世を美しいものにしたいと言うなら、悪い心に働きかけるのは間違っている!)
「美しい世界にするために、滅ぼそうとするのは違う。だって、滅ぼそうとするその気持ちに、悪意が混ざるもの。……私は、人間が持つ優しさにも目を向けたい」
草世は足を止めると、振り返った。
真珠の訴えは、草世の耳を素通りした。真珠の話を聞いていなかった草世は、無表情に言い放った。
「一人で考えたいことがある。河原に行くから、真珠ちゃんは先に家に帰ってくれないか?」
「……うん」
僧侶に会った話をしたのに、草世は反応を示さない。真珠は悲しくなって、唇を噛んだ。
それすら、草世は見ない。
草世は丹野風呂屋を出てからここまで、一度も真珠と視線を合わせていない。
河原へと向かう道を歩いていく草世の後ろ姿を、真珠は見送った。草世は振り返らなかった。
先ほど。真珠が僧侶と話している間に、草世は丹野風呂屋に入って、神棚を見た。
「お札と熊手が飾られている。どれが縁起物で、どれが災いをもたらす呪術なのか、素人には区別がつかない。うーん……。真珠が言うには、屋根の辺りに呪詛があるというから、これらは違うのだろう」
草世は、呪いを祓ってくれそうな人を当たってみた。だが、誰ひとり良い返事をくれなかった。
「近場のお祓い師は無理。だからといって、遠くにいる人に頼るのは………。それまで、直志は持ちそうにない」
草世は神棚から離れると、直志の両親に話を聞くことにした。
「屋根の辺りに、縁起物だと思って買ったものを置いていないか。聞けてみよう」
ぶつぶつと独りごとを言って歩いていた草世は、白い物体に悲鳴をあげた。
誰もいないと思っていた廊下に、白髪の男性が立っていたのだ。
金魚のように口をぱくぱくと開閉する草世に、男はうっすらと笑った。
「驚かせて、すみません。自分は、白裂といいます。真珠の許嫁です」
「許嫁?」
「はい。私と真珠は、幼馴染。結婚の約束をしています」
白裂は草世と話をするべく、人間の姿に変身している。腰まである、白髪。細く尖った顎。糸のように細い、目。
あどけない可愛らしさを持つ真珠と、ナイフのような尖った美しさの白裂。
チグハグな組み合わせに、草世は違和感を覚えた。
「本当に、真珠ちゃんの婚約者なのですか?」
「はい。親が決めたものですが、真珠を愛しています。ですが、真珠はそうではない。その理由は、ソウセイ様にはわかっていますよね?」
「……僕の名前を、知っているのですか」
「はい。真珠から、いろいろと聞いています」
草世の心に、言語化できないモヤモヤしたものが広がる。
(いろいろとは、なんなのだ! それに、許嫁って……。真珠には、結婚する相手がいたのか!? なんで、言ってくれなかったんだ!)
白裂は、場を変えて二人で話したいと言った。草世は承諾し、河原で落ち合う約束をした。
直志の両親は寝ていた。草世は声をかけることはせず、直志の様子を見てから、風呂屋を出た。
真珠の顔を直視できない。嫁になりに来たと無邪気に笑った、その裏で、同族の許嫁がいた。心が激しく揺さぶられる。
(僕にも、許嫁がいた。真珠を責めるのはお門違い。それなのに胸がムカムカするには、なんでだ? どうして僕は、怒っているんだ?)
草世は真珠と別れ、一人で河原に向かう。
雪が溶けた草原には、すでに白裂が待っていた。
春間近の風に吹かれながら、草世は自嘲した。
「思っていたよりも、僕は真珠が好きらしい。真珠に許嫁がいることが、おもしろくないのだ」




