僧侶
丹野風呂屋に着いた。真珠は草世の後に続いて建物に入ろうとしたが、玄関の前で足を止めた。
入ってこない真珠に、草世は訊ねる。
「どうしたんだい?」
真珠の様子がおかしい。笑顔が消えている。なにかに怯えるように、視線を泳がせている。握ったり開いたりしている、忙しない手の動き。
「あ、あのね、私、外から見てみる! 草世は家の人に、屋根のところになにか置いていないか、聞いて!」
「うん……。なにか、外に気になるものでも……」
草世が言い終わらないうちに、真珠は身を翻した。
真珠が心配で、草世も外に飛び出した。
真珠は、丹野風呂屋の建物を一望できる場所に立った。草世は、真珠の視線の先を見た。そこにあるのは、長い煙突。
「真珠ちゃん、大丈夫かい?」
「うん」
心ここにあらずな返事。だが、外から見てみるという言葉に嘘はないようだ。
(真珠は、外から屋根の辺りを見ることにしたのだろう。外にいるぶんには、危険がないだろう)
思い詰めたような真珠の表情が心配だが、草世にもやらなければならないことがある。
用事を済ませて早めに真珠の元に戻るために、草世は早足で風呂屋に入った。
草世がいなくなり、あたりは静かになった。
風呂屋の建物に太陽が当たっているが、真珠の目には暗く映っている。特に、屋根のあたりは真っ黒。
悪意に満ちた粘りつくような黒い靄が、屋根のあたりに渦巻いている。
真珠は屋根から煙突上部へと、視線を上げた。
煙突の上に座っているのは、黒い衣を着た僧侶。
僧侶から放たれているのは、底知れぬ恐ろしさを秘めた霊力。真珠の産毛が逆立つ。
僧侶は深編笠に手をかけると、ひらりと飛んだ。
僧侶は鳥のように身軽に降りてくると、真珠の前に立った。
「おぬし、白狐だな」
深編笠の中から、しゃがれた男の声が響く。
僧侶は、虚無僧の格好をしている、背がひょろりと高く、痩せぎす。
真珠が黙っていると、僧侶はざらざらとした低い声で言った。
「領域を守れ。白狐の出番ではない」
「あなた……人間じゃない」
僧侶はおかしそうに、鼻で笑った。
「ふっ。拙者とて、昔は普通の人間であった。即身仏となった拙者の肉体は、洞窟の中にある。拙者は、この世を清めたいのだ。──極楽浄土を地上に。これが、拙者の信念」
「だったら、こんなのおかしい! お風呂屋の人たちを、どうして苦しめるの!?」
「拙者が苦しめているわけではない。呪術品を渡しただけだ。それを呪詛に変えたのは、ここに集まってきた者たち。この世は穢れている」
「どうしたら、この家の人たちを助けられる?」
僧侶は「かかっ!」と、甲高く笑った。
「おぬしは、花鳥風月という美しい日本語を知っておるか?」
「知らない」
「花が咲き、鳥が囀り、風が花を舞い散らせ、空に月が輝く。自然の営みは美しい。ならば自然と共に生きる人間も、美しい営みをせねばならぬ。清らかな水に、汚水を注ぐわけにはいかないのだ。拙者の使命は、悪しき心を持つ者を滅ぼすこと」
「私には、あなたの言っていることがわからない。でも!!」
真珠は声を張った。全身全霊で訴える。
「あなたが滅ぼそうとしている人たちの中には、誰かの大切な人がいる! このお風呂屋の中にも、いるの! 私は、その人を直接は知らない。でも、私の大好きな人の友達だから! 私はその友達を助けたい!」
直志を助けようと必死になっている草世の姿が脳裏に浮かび、真珠は涙を浮かべた。
「困っている人を助けたい。守りたい。その心は悪しきものでも、穢れたものでもない。とっても美しくて、尊いものだよ!」
僧侶は沈黙したのち、くくっと喉を鳴らして笑った。
「だったら、おぬしが見せてくれないか。助けたい、守りたい。その想いは、美しくて尊いものであることを、拙者に見せてほしい。拙者とて、義を信じたい心は持ち合わせている。だが、裏切られてばかり。この風呂屋の人間もそうだ。直志という若者なら、欲に溺れることなく、信義を貫けるのではないかと期待した」
僧侶の足が中に浮いた。低いしゃがれ声が、悲しい色を帯びる。
「極楽浄土は遠い。人間は欲に溺れて、美しい心を手放してしまう。苦難の中にあっても決して手放すことのない、誠の心。それを明日、見せてもらおう」
「明日?」
「そうだ。明日、呪詛を燃やせ。……かかっ! 愉快なことになりそうだ!」
僧侶の黒装束の袖が、風にはためいて揺れる。
僧侶は「さらば」と別れの挨拶を述べると、風に逆らうようにして飛んでいった。




