File:027 総理暗殺
前崎は、この三日間を眠って過ごしたわけではない。
最低限の仮眠を挟みながら、神経外骨格に負担がかからぬよう軽いストレッチとウェイトを交互に繰り返し、
感覚と出力のズレを抑え込み続けた。
それだけではない。
地下施設の隅々まで歩き回り、非常口・通気ダクト・水圧配管まで把握していた。
有事の際、出口が一つしかない施設は“死地”に変わる。
さらに、秘匿回線を用いて公安と一部官僚ネットワークに潜入。
現在の要人配置・首相警護班の移動パターン・室内警備機器の更新記録──
必要なデータをかき集め、脳内で何度もシミュレートした。
すべての条件が揃った。
問題ない。
この《NEX-FEET/4G-STEALTH》の出力ならば、8km圏内の屋上移動であれば8分で踏破できる。
AIバランサーと高密度燃料セルの組み合わせにより、都市間機動で最高時速80kmを達成。
地形適応システムにより、地面に沿うように滑走するその姿はもはや歩行とは呼べないほど滑らかだ。
前崎の影は、都市の谷間を滑るように駆け抜けた。
ビルの壁を蹴り、屋根から屋根へと跳躍する黒い影。
目撃者はいない。
仮に見えたとしても、それを「何か」と認識する人間はいないだろう。
夜のノイズに同化したその姿は、都市そのものに棲む亡霊のようだった。
目的地に到達する。
首相・森田の私邸。
東京都渋谷区南平台町。
歴代の首相たちも静かに暮らしたこの由緒ある高級住宅街に、森田の邸はひっそりと構えられている。
建物は控えめな二階建て。
高い塀と豊かな植栽が外界の視線を遮るため、邸宅そのものに過剰な高さは不要だった。
重装備の警備ではなく、むしろ情報遮断に重きを置いた造りは、政権中枢に生きる者ならではの慎重さをにじませている。
邸宅の周囲には制服の姿はない。
目立たぬ私服の警備員が、交代制で敷地を巡回している。
ただし彼らの大半は、国家警察ではなく民間警備会社の所属だった。
森田は政界屈指の実力者であると同時に、国家の機密を最も多く知る人物でもある。
しかしこの邸は、あくまで“私”の空間。
公的な防備ではなく、自らが選び、雇い、信頼に足ると判断した者たちによって守られていた。
門前にはカメラと生体認証が設置されているが、それらが接続されるのは国家中枢のサーバーではない。
邸内の中枢に置かれた、独立した閉鎖系ネットワーク。
あらゆる記録は外部に送信されず、すべてが“森田の手の内”に収まる設計だった。
それは、国家を率いる者としての自覚の表れであると同時に、
国家さえ信じ切れぬ者の——長年にわたる用心の結実でもあった。
私でなければ、ここは鉄壁だっただろう。
かつてこの屋敷の警備に就いていた。
巡回ルートから監視の死角、センサーの作動時間、警備員の性格に至るまで、すべてを記憶している。
なぜ森田を狙ったかというとルシアンに渡されたリストのうち最も死んでもリスクが少ないと判断したからである。
それに難易度が比較的マシだと判断したのもある。
夜気を裂くように、影は庭へと滑り込む。
植栽の隙間を縫うように進み、足音ひとつ立てずに屋敷へと接近する。
赤外線センサーの角度、監視カメラの可動域、それらすべてを把握しているからこそ可能な動きだった。
この場所に“信頼”がある限り、盲点は必ず生まれる。
私はそこに入り込む術を、かつての仕事を通して心得ていた。
前崎は屋根へと着地。
音も風も揺らさず、静かに、だが鋭く“獣のように”。
彼は天井の天窓へと移動し、
事前に調べていたとおり、それが唯一の単層ガラスであることを再確認した。
彼は特殊な音響吸収テープを窓縁に貼り、ナイフの柄で中心を突いた。
パリッ──という乾いた音すら、夜気に溶けて消えた。
彼は音を立てずに滑り込み、首相邸内へと侵入する。
邸内は異様なほど静かだった。
気配がない。センサーも反応しない。
まるで用意された無人の空間のように、あまりにも整然とした沈黙が支配している。
一階のリビングに足を踏み入れたとき、
──薪の焼ける音がかすかに聞こえた。
暖炉に火が灯っている。
そして、炎の前には、ひとりの男がリクライニングチェアにもたれかかっていた。
「……私を殺しに来たのか」
静かな声。
それが“事前に存在を知っていた者の声”であると、すぐに理解できた。
あり得ない。
前崎はすぐに光学迷彩を解除し、周囲の誤作動や罠の兆候を探った。
なぜ気づかれた?
足音も痕跡も残していないはずだった。
「……前崎。君はあちら側に立ったのか。国家を守る立場にいながら」
リクライニングの男──
森田・現首相。
間違いない。その声は映像で何百回も確認した人物だ。
だが、今の彼には“誰かを説得する意思”がなかった。
それは、処刑人を迎える者の、達観した声だった。
「……一つだけ、聞かせてくれ。真澄は……娘は、無事だったか?」
前崎は迷った。
だが、刃を向ける前に残された最後の誠意として、口を開いた。
「無事でした。……元気にやっているようでした。
向こうの連中とも……うまくやっているようです」
森田は一瞬、目を閉じた。
そして、わずかに声が高くなった。
「……そうか。それを聞いて……」
次の瞬間、空気が裂けた。
「──安心しましたッ!!」
リクライニングチェアからは想像もできない速度と角度で、回し蹴りが放たれた。
前崎は反応できなかった。
全身が打撃で浮き、壁を突き破って外へと投げ出される。
数メートル吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
《NEX-FEET》の衝撃吸収がなければ、即死もあり得た一撃だった。
前崎が咳を漏らしながら立ち上がると、
その前に、影がひとつ──ゆっくりと歩み出てくる。
「……ダメじゃないですか」
声は冷静。だが、感情が込められていた。
それは怒りとも、悲しみともつかぬ感情。
「どこまで……落ちるつもりなんですか、先輩」
そこに立っていたのは、かつて誰よりも信頼していた部下。
公安情報部・戦術対処班、元副主任。
一ノ瀬 尚弥だった。
「……一ノ瀬」
前崎が名を呼ぶ。
かつて幾度も作戦を共にしたその男の姿が、いま目前に立っている。
「ちなみにですが──ここに首相はいません。
すでに避難済みです。……こうなった以上、私はあなたを排除しなければなりません」
そう告げた一ノ瀬は、迷いなくナイフを抜いた。
刃は鈍く、戦場でしか使われない実戦仕様。
磨かれていないその鈍光は、“見せるためではなく、殺すため”の道具であることを物語っていた。
「対神経外骨格戦闘において、銃の初動は狙いを定める“隙”を生じさせます。
ゆえに、近接戦闘ではナイフを絡めた徒手戦闘が最適解……。
それを教えてくれたのは、他でもない──あなたです」
その言葉に、前崎は応えなかった。
否定も肯定もない。
だが沈黙こそが、一ノ瀬にとって“理解”と受け取られた。
「ちなみに、ここには私以外の制圧班も待機しています。
投降してくれるなら、命までは奪わない。……どうしますか?」
かつての仲間だった警視庁の警備も駆け銃を向ける。
民間の警備会社と入れ替わっていたようだ。
──前崎は虚空に声を投げた。
「……ルシアン」
『何だい?』
「森田首相の現在地を特定しろ。警視庁のど真ん中だろうが何だろうが、飛び込んでやる」
『……ふふ。よかったよ。
君が、裏でこの件を仕組んでたんじゃないかと疑ってた。……杞憂だったみたいだね』
「……正直なところ、俺の部下がここまで優秀だとは思ってなかった。──皮肉な話だな」
『首相の居場所、確認に入るよ。でも……彼は君を逃がすつもりはないようだね?』
「問題ない。“逃げられない”状況でも、突破口は必ずある」
言いながら、前崎は神経外骨格の《NEX-FEET》のすべての出力制御を解放する。
神経外骨格に青い血管のような模様が浮かび上がる。
負荷警告のアラートが神経を焼くように流れ込んでくるが、無視する。
今この瞬間、痛みは意味を持たない。
骨と筋繊維の間に走る機械の違和感。
だがそれすら、この男の“戦闘”という行為の一部だった。
一ノ瀬が構える。
前崎も静かに姿勢を取る。
互いに、殺し方も、癖も、間合いも知り尽くしている。
「──元・内閣特命担当大臣兼公安情報部・戦術対処班 主任、前崎 英二」
「──現・公安情報部・戦術対処班 臨時主任、一ノ瀬 尚弥」
タイトルコールのように名乗りを交わす。
静まり返った住宅街。
さきほどの壁の破壊音に反応して、いくつかの家に電灯が灯る。
だが誰も外には出てこない。
この空気を、肌で感じ取っていたのだろう。
ここに“人間の紛争”ではない、“戦闘”があることを。
そして──
両者は、同時に動いた。