File:114 過ちを繰り返しませんから
【平和記念公園・前崎総統襲撃テロ事件】
おそらく今後の歴史教科書にそう刻まれるであろうこの未曾有の政変は、文字通り世界中を激震させ、人類の価値観の根底に底知れぬ波紋を投げかけた。
あの日を境に、指導者たる前崎英二が表舞台に姿を現すことは二度となかった。
だが、主を失ったはずの超高度管理国家『JAPANGU』のシステムは、不気味なほどに狂いなく稼働し続けた。
そのため、街頭では絶えず奇妙な噂が囁かれ、都市伝説として肥大化していった。
曰く、前崎の超人脳を完全にエミュレートした自律型AIがすでに国家の自動統治を開始しており、日本国民を完全にコントロールしている。
曰く、脳死を免れた前崎は地下深くの無菌カプセルの中で今も生きており、電子の網を通じて指示を飛ばしている。
曰く、前崎の精神はシステムの概念そのものへと昇華し、この国の新たな「土着神」として、網膜スキャンの光を通じて国民全員を常時監視しているのだ、と。
あの雨の記念日、最期まで逃げずに人間の壁となった被爆者遺族たちの気高き抵抗は、全世界の心を激しく揺さぶった。
神の如き全能を示した前崎が、人類の歩みを否定する「最悪の独裁者」として歴史の生贄に捧げられたのは、あの劇的な映像の結末からすれば、当然の帰結であったと言える。
しかし――皮肉なことに、前崎が消えても、この国の政治構造や快適な生活水準は「何一つとして変わらなかった」のだ。
前崎が超法規的な暴力で一度完全に更地になったこの日本は、構造的な不平等や既得権益が文字通り一掃されていた。
あらゆる制度は最高効率の合理性でカプセル化されており、国民から具体的な不満や瓦解の引き金が生まれる余地など、ハナから存在しなかったのだ。
「前崎の残した『結果』だけは、絶対的に正しい」
世間の、そして歴史のその冷徹な評価に、間違いはなかった。
彼はただ、そこに至るまでの『手段』において、人類の倫理の境界線を決定的に踏み越えてしまっただけなのだ。
世界中の哲学者、犯罪心理学者、政治学者、果ては天文学者やSF作家に至るまでが、連日のようにメディアや論文で「前崎英二の思想と功績は正しかったのか」という不毛な議論を日夜戦わせていた。
だが――そんな高尚なパラドクスは、日々の極上の生存保障を享受している一般市民にとって、もはやどうでもいいことだった。
大衆の関心は、ただ一点にのみ注がれていた。
「世界一の富を統べる、この国の次の代表は誰になるのか」
そして、この国の壇上に厳かに現れたのは――かつて前崎の副総統であり、3年前に彼に反旗を翻して粛清されたはずの男、一ノ瀬だった。
一ノ瀬はあの日、前崎に完全に追い詰められた後、実は殺されてなどいなかったのだ。
前崎の手によって、この瞬間を迎えるその時まで、幽閉という名の「絶対的な保護」を受け、表舞台から完全に隠匿されていたのである。
総統の椅子へと引き戻された一ノ瀬は、前崎の執務室の奥、彼が最高権力者として厳重に保管していた、物理的な特殊金庫を開放した。
中に収められていたのは、最高指導者が遺した、デジタルデータではない一枚の「紙の手紙」だった。
そこに綴られていたのは、あまりにも冷徹で、あまりにも孤独な、前崎英二の『真のシナリオ』の全貌だった。
手紙には、整った筆跡でこう記されていた。
今後、いかに結果を出そうとも、自らの犯罪的な行動に心から納得し、肯定してくれる人間など歴史上現れないこと。
そして、坂上たちを始めとした、自らの超法規的行為を決して許さず、牙を剥く人間が必ず存在すること。
だが、旧時代の病巣に侵された日本を、この短期間で世界の頂点へと引き揚げるには、この血塗られた『更地化』以外に手段がなかったこと。
かつてこの世界の真理に到達した天才『ルシアン』の知識を引き継ぎ、体現できる頭脳は、今後の歴史において前崎英二をおいて他に現れないこと。
だからこそ、前崎は一ノ瀬に対し、わざと自らを不審に思うよう仕向け、裏切りを働きかけるように仕向けたのだ。
自らがすべての泥を被った「大悪党」として世界の表舞台から退場し、その後、クリーンな血統を持つ一ノ瀬がこの完成された『JAPANGU』のシステムを引き継ぐ。
それこそが、前崎が最初から描いていた国家完成の最終シークエンスだったのだ。
もちろん、殺されてやるつもりなど毛頭なかった。
それから一ノ瀬や他の人間を操って裏から操作する流れになっていたはずだった。
それも10年後程度後に。
そこまで考えていたにも関わらず自らの右腕として認識していた坂上に、これほどまでの執念で裏切られ、肉体を破壊されたことだけは、前崎の超高度な演算を以てしても「完全な想定外」だったようだが。
手紙の文末には、「坂上という男の泥臭い執念を、私は少々過小評価していたようだ」と、自嘲気味な追記が残されていた。
「……あなたを引き継ぐのが、この僕だなんて。
どこまで傲慢で、どこまで孤独な人だ。
……荷が重すぎますよ、前崎さん」
一ノ瀬はこの欺瞞に満ちた、だがこれ以上なく完璧な遺言を抱きしめ、静かに涙を溢れさせた。
それでも、残された者は前を向かなければならない。
あの前崎英二という怪物が、自らの人生のすべてを賭け、世界最悪の悪者になってまで、この傷だらけの黄金の繁栄時代を創り上げたのだから。
かつて、カジノ都市シンフォニアから始まった『アダルトレジスタンス』の小さな台頭から、この世界の頂点に至るまで、本当に、果てしなく長い戦いだった。
これが、時代というものなのだろう。
無数の人間の血と理想、そして裏切りを飲み込みながら、時代は大きなうねりをもって、冷酷に、だが確実に変化していく。
だが、新しい世界の指導者として、あの遺族たちの目の前で、これだけは、人間の尊厳として世界に宣言しなければならなかった。
「――私たちは、もう決して、過ちを繰り返しませんから」
一ノ瀬は、前崎が遺した手紙を強く握りしめ、涙を拭った。
そして、新しい日本の象徴たる純白の礼服に身を包み、新たなる『JAPANGU総統』として、熱狂と疑惑に満ちた国民の前へと、堂々と躍り出た。
アダルトレジスタンスー第2章:国家騒乱編ー完




