File:105 わかっていない
「そうか。死んじゃったか……、みっくん」
カオリは膝の上に置いた両手を震わせ、奪ったハイエースの薄暗い車内でのけ反るようにうつむき、物言わぬ肉塊となった長谷部へ静かに黙祷を捧げた。その左目からは、こらえきれなくなった一筋の涙が、絶望の軌跡を描いて頬を伝い落ちていた。
怜もまた、何も思わなかったわけではない。
数日間を共にしただけの冴えない中年男が、自分たちのために文字通りの肉弾となって散ったのだ。
胸の奥に冷たい塊が沈むような感覚は確かにあった。
だが――それ以上にあの前崎という男から、そして『死』の絶対的な恐怖から一時的に遠ざかったことで、彼の脳内には奇妙な全能感と歪んだ欲求が急速に鎌首をもたげていた。
バックミラー越しに映る、涙に濡れたカオリの横顔。
酷く不謹慎だと自覚しつつも、怜は「絵になるな」と、場違いな感傷と暗い所有欲を抱かずにはいられなかった。
この破滅的な状況だからこそ、弱り切った彼女を自分の手元に縛り付けたいという、醜い本能が疼いていた。
「……完全に、作戦失敗の通知がマスミさんから来ましたね」
ユーリが、バックミラーに映る怜の視線に気づかぬ風を装い、凍りついた声で告げた。
「このまま、あらかじめ用意していたセーフルートを辿って脱出して逃げてください」
「逃げるって……? その後はどこに……?」
怜が、現実に引き戻されたようにユーリへと問い返す。
「どこか、です。ただ捕まらないように、地下の泥水を啜って生き延びてでも」
「まあ……そうだよな……。今の俺たちに、それ以外の選択肢なんて残ってないか……」
憐れむような怜の視線の先、ユーリの膝元で横たわり、意識を失ったままのシュウは、激しく脂汗を流してうなされていた。
前崎に刺された肩の傷口からは、どす黒い血液が微量ずつ滲み続けている。
ただの裂傷ではない。
前崎が仕込んだ、神経を内側から焼き尽くす未知の毒素が彼の肉体を蝕んでいるのは明白だった。
「カオリさん。……坂上さんからのデータによれば、ジュウシロウさんは現在『行方不明』だそうです」
ユーリが、後部座席でただうつむき続けるカオリの背中へ、冷徹な言葉の楔を打ち込んだ。
「……そう」
「わかっていますか? ジュウシロウさんはね、あなたという『神輿』の壊れかけた理想を汲んで、あきらめかけていたこの作戦にわざわざ付き合って、命を投げ出したんですよ」
「――わかっているわ。そんなこと、言われなくても……っ」
「いいえ、わかっていないです」
ユーリの声から、一切の温度が消失した。
「あなたは間違っています。
黒岩さんたちの元公安や自衛隊たちのプライドならまだしも、あなたの掲げるこんなの人間じゃないというのはこんな犠牲を晒してまでやることではないです」
ユーリは言うや否や、走行するハイエースのロックを強制解除し、後部座席のドアを乱暴に抉じ開けた。
激しい風圧とロードノイズが車内に吹き荒れる。
彼女はシュウの神経外骨格の出力を少し上げ、衰弱したシュウの体をその細い腕で抱きかかえ、車外へと連れ出そうとした。
「ちょっと!? ユーリ!! 何をするの、正気!?」
カオリが、涙に濡れた目を驚愕に見開いて叫ぶ。
「もう、あなたにはついていけません。
足でも、体でも……この私の命のすべてを切り売りして、奴隷として捧げてでも、私は前崎総統に従います。
そちらの方が、あなた方と行動するよりもよっぽどいいです。
命あっての物種なので」
冷酷な決別のセリフを残し、ユーリはシュウを連れてハイエースから飛び降りると、叩きつけるように乱暴にドアを閉めた。
バァン、と重苦しい金属音が響き、バックミラーの中で、二人の影は夜の電気街の雑踏へとあっけなく掻き消えていった。
残されたのは、運転席の怜と、後部座席のカオリ――ただ二人だけだった。
完全に張り詰めていた糸が切れたのか、カオリはその場に崩れ落ちるようにして、子供のように大声を上げて泣き出してしまった。
その泣き声には、かつてアダルトレジスタンスを率いていた白の隊のリーダーとしての面影など、微塵も残されていなかった。
(クソッ……どうすればいいんだ、これから……)
秋葉原へ向かう行き道、車内を包んでいたあの一時の和やかな雰囲気は、もはや影も形もない。
残ったのは、戦う力を持たない無力な二人だけ。
(この組織は、今この瞬間を模して完全に終わりを迎えたんだ)
怜はハンドルを握る両手の震えを隠せないまま、あまりにも無残に崩壊した現実を、ただ素直に受け入れるしかなかった。
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『アラート。対象個体名、ジュウシロウ。
外傷ステータス:レベル・イエロー。
外部衝撃による表皮挫傷、および白兵兵器による局所的裂傷を検知。
同時に、内臓および深部組織における深刻な非可逆的損傷を測定』
『バイタルデータ、リアルタイム更新。
心拍数、動脈血圧、共に急激な低下を記録。閾値を超え、レッドゾーンへ移行。
速やかなオペレーションを推奨』
『人工心肺システム、完全同期完了。
これより緊急隔離外科手術フェーズに移行。
完全心停止に達するまでの予測時間は約百二十秒。
……術後生存確率算定、十パーセント未満』
『術野断層スキャン、胸部から腹部全域へのスキャンをシークエンス。
変異細胞を検知。
肺、および大腸領域において、急速増殖傾向にある悪性腫瘍を確認。
全体の四十パーセントを超える領域への浸潤を確定。
免疫機能はメルトダウン寸前と判断』
『本症状は、通常の外科的切除による回復は不可能。
高出力X線バーストレーザーによるピンポイント照射を実行。
正常組織の破壊を回避しつつ、腫瘍組織のみを分子単位で破砕・焼灼するプロトコルを選択』
『スキャンデータに予測不可能なバグを検知。
……被験者の細胞構造に、人為的な変質パターンを確認。
解析:対象プログラムは前崎総統の「細胞最適化強化プログラム」の初期プロトタイプと44パーセント合致。
判定:旧アレイスター製、人造超人兵器計画の遺産と推定』
意識を剥ぎ取るための強力な全身麻酔薬が血管を満たしていく中、ジュウシロウは、自身の肉体を無機質な機械の音声が淡々とデータ処理していくのを、凍りついた奈落の底で薄っすらと聞き続けていた。
時速三百キロメートルの閃光、前崎の冷徹な眼、刺されたナイフ、血を吐く自分の肉体。
(確か俺は、あの場所で前崎にバリアを透過されて……?)
思考を繋ごうとするが、融けかけた脳はそれ以上の思考を拒絶し、記憶の断片が霧のように霧散していく。
混濁する意識の泥沼の中で、不意に、自身の無骨な右手に、微かな、しかし温かい人間の体温が触れた。
何かが、自分の手をそっと握りしめていた。
「ジュウシロウさん……? 聞こえますか、ジュウシロウさん……!」
重たい極限の疲弊に抗い、眼球だけを僅かに動かして視線を這わせる。
視界を覆う眩しい無影灯の光の隙間、涙を堪えるようにして自分を見つめていたのは――忘れるはずもない、カノンの姿だった。
「どう……して……お前が……?」
掠れた声すら喉に引っかかり、音にならない。
なぜ自分はまだ肉体を維持して生きているのか。
なぜ前崎の包囲網のただ中にあったはずの自分が、こんな場所にいるのか。
そして、なぜ今、自分の手をカノンが握っているのか。
無数の疑問が思考のシワに絡みつき、渦を巻く。
「大丈夫ですから。もう、何も心配しないで」
カノンは握る手にぎゅっと力を込め、慈愛に満ちた、だが確固たる意志を宿した瞳でジュウシロウを見つめ返した。
かつて、あの欲望が渦巻く都市『シンフォニア』の底辺で、大人の玩具として生気を吸い取られ、ただ世界を呪うことしかできなかった売春の少女の面影は、もうそこにはなかった。
自分の足で立ち、運命を切り拓く人間の強さが、今の彼女の佇まいにはっきりと息づいていた。
(立派に、なったな……)
ジュウシロウはその成長を、父親のような切ない安堵と共に胸に抱き――直後、急速に深まる麻酔の甘美な誘惑に抗いきれず、すとんと深い闇の底へと意識を完全に落とした。
『対象、完全昏倒状態を検知。脳波シグナルのフラット化を確認。
……これより、インシデント処理。第ニフェーズ:強制肉体再生プロセスへ移行。
現行の外科手術を継続する』
人間の執念など一切演算に組み込まない無機質なAIのアナウンスと共に、天井から吊り下げられた無数の精密ロボットアームが、火花とレーザーの光彩を散らしながらジュウシロウの切り開かれた胸部の上でせわしなく、かつ正確無比に踊り狂い始める。
それは天使の蘇生か、それとも悪魔の蘇生か。
見るものによって評価が分かれるような手術台だった。




