File:104 凡俗の抵抗
(なぜだ……?! なぜこれほど迷いのなく俺に向かってくる……!?)
激突の刹那、前崎の頭を駆け抜けたのは、恐怖ではなく純粋にこんなバカなことをする人間の狂気に対する衝撃だった。
もちろん、時速300キロメートルを超えるスポーツカーの直撃をその身に受けるなど、常人であれば骨肉を木っ端微塵に粉砕される致命傷だ。
だが、最悪の場合でも「死ねば海外の器でやり直せる」前崎にとっては、肉体の全損すら戦術的なロスに過ぎない。
ましてや、神経外骨格のサポートすら不要なほどに細胞単位で最適化され、驚異的な自己修復能力を誇る現在の究極の肉体にとって、ただの鉄の塊による激突など、本来であれば容易く耐え得るはずの衝撃だった。
だが、フロントガラスの奥で目を血走らせている襲撃者の顔に、前崎は見覚えがあった。
賞金首のリストにも入れていた。
長谷部――確か、何の特殊技能も持たない、社会の底辺に燻るだけの有象無象の一般人。
泥酔によるセクハラか何かで更生施設へと放り込まれていた、取るに足らない男のはずだった。
なぜ、そんな男が、自らの命を完璧にドブに捨てるような真似をして、テロリストどもと行動を共にしているかは確かに疑問だった。
大方、弱みでも握られているのだろうと思い、脅威にすら感じていなかった。
ドォン!! という、空間を爆裂させるような金属と肉体の衝突音。
次の瞬間、前崎の肉体は凄まじい衝撃波と共に大通りの前方へと派手に吹き飛ばされ、意識すら、一瞬だけ完全に白濁して途切れた。
ガガガガガシャァァン!!
前崎の背中が、大通りに面したビル一角のコンビニエンスストアの強化ガラスを突き破る。
店内の商品棚をドミノ倒しのように何十メートルもなぎ倒し、煤と血とスナック菓子の袋が散乱する床を転がった。
「ぬうぅ……ッ!!」
上体を起こした前崎の視界が、脳震盪によって激しく酩酊する。
細胞の超高速修復が始まり、神経が強引につなぎ合わされていく。
歪む視界の先、オレンジ色のスポーツカーは、コンビニの頑強な鉄骨フレームに深くめり込んだ状態で、キュルキュルと白煙を上げながら虚しくタイヤを空転させていた。大破したボンネットからは炎が噴き出している。
前崎はよろめきながらも立ち上がり、衣服の煤を払うと、ベキベキに折れ曲がった運転席のドアを引き剥がした。
膨張したエアバッグに突っ伏している長谷部の頭部からは、夥しい量の鮮血が流れ落ちていた。
前崎は冷徹にその手首を掴み、頸動脈の拍動を確認する。
「……死んでいるな。完全に」
死の瞬間までアクセルを踏みちぎっていたのだろう。
前崎が長谷部の死体を運転席から引きずり下ろすと、駆動系が焼き切れたのか、スポーツカーのタイヤはようやくその回転を止めた。
「まさか……不意を突かれたとはいえ、ただの一般人にここまでやられるとはな……」
前崎の口から、自嘲気味な呟きが漏れる。
自分は神の領域、人類の頂点としての肉体を作り上げたという絶対的な自負があった。
だが、なんの思想も能力もないはずの凡俗が、自らの命を完全に消滅させる覚悟で突っ込んできたとき、その「一撃」は世界を変える怪物すら昏倒させたのだ。
腕も折れている。
修復までしばらく時間がかかりそうだ。
「案外……バカにはできないな。
いかなる人間であっても、命を賭した執念というものは。
……認識を改めようか、人類という種そのものへのな」
前崎は体内に残る痛覚を神経操作で遮断すると、再び大通りへと歩み出た。
今度こそジュウシロウにトドメを刺し、その息の根を止めるために。
だが、先ほどまで血を吐いて倒れ込んでいたはずの場所に、あの巨漢の姿は影も形もなかった。
「……残った僅かな時間で、あいつを回収して消えたか。
結局、あの男が身を挺して、完璧な『囮』になったというわけか」
前崎は追跡に移ることもなく、背後で激しく炎上を始めたオレンジ色のスポーツカーの残骸を、冷たい横目でチラリと見つめた。
「随分と派手にやられたね、前崎さん。
あのあなたをここまで追い詰めるなんて。
人間の執念ってやつも捨てたもんじゃないね」
いつの間にか、純黒のペルディータの脚部にその身を委ねて上空から音もなく舞い降りてきたのは、エルマーだった。
かつて「アダルトレジスタンス」の天才少年技術者としてその名を馳せ、今は前崎の軍門に降った少年だ。
「どうした、エルマー。
珍しいな。
お前はこの手の泥臭い実戦の処理を、何よりも『めんどくさい』と嫌っていたはずだが」
「流石にね、僕が調整に関わって、仲良くしていたペルディータの子どもたちが精神汚染されて、一機残らずスクラップにされたって聞いたからさ。
ちょっとだけ、気分が良くないんだ」
「……そうか」
前崎は特に少年の感傷に興味を示すこともなく、荒廃した街の惨状を見渡した。
野次馬の姿は完全に消え去り、そこはまるで局地的な大災害が直撃したかのような、不気味な静寂に支配されている。
「はぁ……。まったく、内政を可能な限り早く進めたいというのに、めんどくさい鼠どもだ」
「あれだったらさ、ここからの残党処理は僕がやろうか?」
「僕がやる、だと? 一体何をだ」
「黒岩やジュウシロウたちの『捕獲』、あるいは――『確実な殺害』」
前崎の冷双眸が、エルマーの幼い顔を値踏みするように射抜いた。
「……お前にそれができるのか?」
その問いには、かつて同じ釜の飯を食べたレジスタンスの仲間たちを、お前自身の手で無慈悲に殺せるのか、という意味が明確に含まれていた。
エルマーはお面の奥で薄く笑うような気配を見せる。
「もちろん。ちなみにソウも、僕のこの提案には事前に同意してくれているよ。
あ、でも、僕一人じゃ流石に戦闘能力が足りないから、もし信用できないって言うならラスカノを護衛に付けてよ。
前崎さん、彼を完全に再調整して仕上げたんでしょ?
ついでに銀司も動かせる?」
「……いいだろう。内派の処理に、これ以上私のリソースを割きたくはない」
前崎は電子デバイスを操作し、要塞の奥深くに控えるラスカノと銀司へ向けて出撃のシグナルを送信した。
「すべて任せたよ、エルマー。これ以上の不確定要素は許さない」
「はーい。じゃあ、行ってくるね」
エルマーは軽薄な声で応じると、ペルディータの機動力を爆発させ、前崎からバトンを受け取るようにして、夜の街へと消えた反逆者たちの足跡を追い始めた。
その、わずか三十分前。
「これだけお願いします」
そういってマスミに手渡されたのはいつも大切に何かを書き込んでいた長谷部のノートだった。
肌身離さず持っていたノートである。
「私が彼を助けます。これ以上、誰も死なせるわけにいかない」
ハイエースの車内でそう絞り出すように言うと、長谷部は止める黒岩の屈強な腕を強引に振りほどき、路肩に乗り捨てられていたキーのついたままのオレンジ色のスポーツカーへと飛び乗った。
そして、一瞬の躊躇もなく、前崎が佇む大通りの中心へと向けて、狂気的な特攻を仕掛けていったのだ。
一体、何が彼をそこまで突き動かしたのだろうか。
奪った車の助手席のシートに深く腰掛けたまま、マスミはただ、呆然と流れる景色を眺めていた。
頭の芯が完全に冷え切って、何も考えられない。
特に親しかったわけでもない。
ただカオリがどこからか連れてきた、冴えない、ただの中年男。
政治の思想も、世界を変える大義も持たなかったはずのあの男が、命を燃料にして私たちの命を救った。
その事実が、どうしても脳内で結びつかなかった。
置いていかざるを得なかったジュウシロウの安否も、今は分からない。
おそらく、前崎の手に捕らえられたか、あるいは……。
別れ際、彼の鼻からどす黒い鮮血が絶え間なく溢れていたような気がする。
前崎からうっすら聞こえた言葉。
アレイスターの肉体改造の限界、ガンに蝕まれた身体。
彼は、大丈夫なのだろうか。
その時、後部座席でデバイスを操作していたマスミの手元に、京都の坂上から一本の暗号動画が転送されてきた。
そこには、大破したスポーツカーから引きずり下ろされる、物言わぬ長谷部の肉体が映し出されていた。
長谷部は、殉職(その表現が、ただの一般人であった彼に正しいのかは誰も分からなかったが)したのだ。
「……前を向いてくれ、マスミお嬢さん」
ハンドルを握り直した黒岩が、バックミラー越しに、沈痛な声をマスミへと投げかける。
「総理の娘なんて肩書き、とっくに全部捨てたわ。
……今の私は、ただのマスミよ。黒岩さん」
「……悪かったな、マスミ。だが、前を向くんだ。
国家に対してテロを起こす、世界を相手に反逆を企てるということは――こういう血のツケを、望まぬ形で払い続けなければならないということなんだ」
「……随分と、割に合わない取引ね」
マスミの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちる。
「だからそうね。ゆえに――今回の私たちの作戦は、完全な『失敗』。そういうことでしょ?」
「……そうだ」
マスミは冷え切った指先で電子デバイスを操作し、残された全員の共有ネットワークに向けて、作戦失敗の赤いシステムコードを非情に打ち込んだ。
「私たちは……一体、どうすればよかったのかしら。
どこで、選択を間違えたの?」
「どうしようもなかった……。それが、現実のすべてだろ」
黒岩はそれ以上語るのをやめ、奪った車を捨てて、人通りの途絶えた寂れた商店街のシャッター街へと、絶望に身を沈めるマスミを引き連れて、ただ静かに、重い足取りで歩き去っていった。




