File:103 質量の弾丸
「乗ってください!! 早くッ!!」
隠しエレベーターから這い出た黒岩たちの前に、激しいタイヤの摩擦音を響かせてハイエースを滑り込ませたのは、血相を変えた長谷部だった。
「一ノ瀬さんは!?」
長谷部が叫ぶように問う。
「――殿だ! あいつが残った!」
無理矢理体を押し込むように後部座席に座りながら絞り出すように応じた。
「……そうですか……!」
長谷部はそれ以上何も聞かず、アクセルを床まで踏み込んだ。
一ノ瀬の覚悟を無駄にしないため、ハイエースは白煙を上げて秋葉原の電気街から大通りへと脱出を図る。
だが、現在の東京は前崎の電波ジャックと『ペルディータ』の降下によって大混乱の極みにあった。
無秩序に膨れ上がった渋滞の波に阻まれ、車の進む速度は最悪の一言だった。
「あ、皆さん!! 早く顔を隠してください!!」
長谷部の忠告は、一瞬遅かった。
赤信号でハイエースの真横に急停車したセダンの運転席から、一人の若い男が、下卑た笑みを浮かべながらスマートフォンのカメラをこちらに向けてきたのだ。
画面には、先ほど前崎が指名手配犯として提示したジュウシロウたちの顔がはっきりと映り込んでいる。
一攫千金の目撃情報を得たとばかりに、男の指が送信ボタンへと動く。
その瞬間、ジュウシロウの網膜の奥で、何かがぷつりと切れた。
「ジュウシロウくんッ……!! 何を――」
マスミの制止が届くより早く、ジュウシロウはスライドドアを蹴り開けて車外へと飛び出していた。
一歩。それだけでアスファルトを陥没させるほどの踏み込み。
ジュウシロウはセダンのフロントガラスを素手で叩き割り、蜘蛛の巣状に砕け散った硝子の隙間から、怯える男の胸ぐらを掴んで車外へと力任せに引きずり出した。
「ヒィィィィィアアアア!! な、なんだよ!! 写真を、目撃情報を撮っただけじゃねえか!!」
「死ね」
ジュウシロウの言葉には、一片の慈悲もなかった。
男の手首を掴むと、手中の電子デバイスごと地面に叩きつけ、軍靴で肉と骨が砕けるまで無慈悲に踏みつぶした。
デバイスが粉砕され、男の絶叫が響き渡る。
「何をしているの、ジュウシロウ!! 戻りなさい!!」
マスミの裂帛の激にも、ジュウシロウは動じなかった。
彼は踏みつぶした男からゆっくりと足を離すと、どんよりとした曇天の広がる、自らの背後の空を見上げた。
「……ダメだ。あの野郎、もう追いついてきやがった。
走って逃げろ、お前ら。足手まといだ」
ジュウシロウの視線の先。
漆黒の夜空を切り裂き、純黒の『ペルディータ』の脚部にその身を委ねた前崎英二が、まるで天から舞い降りる死神のごとき威容で、大通りの中心へと音もなく着地した。
状況を瞬時に察知した黒岩は、迷わなかった。
ハイエースのドアを開けるや否や、車内にいたマスミと、運転席の長谷部を両脇に強引に抱え上げた。
「ちょっと……!? 黒岩さん、離して!! ジュウシロウくんが――」
マスミの生死の嘆願すら黙殺し、黒岩は神経外骨格の出力を限界まで引き上げ、二人を抱えたまま、一筋の影となって複雑に入り組んだ裏路地の闇へと疾走した。
大通りの中心。破壊されたセダンの前に、前崎が煤けたスーツのまま佇んでいた。
「……残ったのは、お前だけか。ジュウシロウ」
前崎が冷たく、低く語りかけた。
上空からは、次々とペルディータに運ばれてきたHoundたちがロープもなしに飛び降り、周囲の交通網を物理的に遮断していく。
当然、何事かと周囲のビルや歩道から、スマートフォンのカメラを掲げた無数の野次馬が、まるで家畜の群れのように遠巻きに集まってきた。
前崎の提示した「1億円」の賞金首が、まさに目の前で対峙しているのだ。
群衆の瞳には、ギラギラとした下卑た欲望が渦巻いている。
前崎は、そんな国民たちを忌々しげに一瞥すると、おもむろに腰の拳銃を引き抜き、一切の警告なしに民間人の群れに向けて銃弾を連射した。
ドォン! ドォン! ドォン!!
アスファルトを弾く銃弾、肉をかすめる衝撃。
凄まじい悲鳴と共に、歩道を埋め尽くしていた野次馬たちは、蜘蛛の巣を散らすように顔を青くして逃げ惑い、大通りは一瞬にして静まり返った。
「……ハッ。国民に向けて躊躇なく拳銃を発砲か。
この国の長い歴史の中でも、そんな真似をやらかした代表はあんたが初めてだろうよ、前崎」
「馬鹿にはどれだけ言葉を尽くしても理解できない。
こうやって見せないとな」
前崎は淡々と告げると、懐から鈍い銀光を放つ戦闘用ナイフを引き抜いた。
「それよりも……随分と体調が悪そうだな、ジュウシロウ」
前崎の指摘通り、ジュウシロウの鼻腔からは、どす黒い鮮血が絶え間なく溢れ、顎を伝って地面へと滴り落ちていた。
「……」
ジュウシロウは、それに言葉を返すことができなかった。
兆候はあった。
小室組へ向かう途中の船で血を吐いたこと。
それ以外で自らの能力を連発するのは控えていたが……先ほどの前崎とのコンタクトで悪化したようだ。
自らの肉体が、内側からボロボロに崩壊している感覚を、他ならぬ彼自身が最も痛感していた。
「以前、忠告していただろう。
アレイスターが、お前たち被験者に施した超人兵士計画とやらは、あまりにもお粗末な欠陥品だとな。
急造された過剰な細胞強化の代償として、お前の体内は今や悪性の癌細胞に蝕まれ、内臓機能は満身創痍のはずだ。
……どうする? その身体で」
前崎の双眸が、冷酷な観察者の光を帯びる。
「俺の手でここで惨めに殺されるか。
それとも、僅かに残った戦士のプライドを保ったまま、今すぐ自決するか。
選ばせてやる」
「……降伏するという選択肢は、もう俺には残されていないんだな」
「無い。これ以上、自国内の不適合者の処理で、俺の貴重な時間リソースを割かれたくないのでね。
それにお前らにチャンスは何度もやった。
裏切ったのはお前らだ」
「……その通りだな。じゃあ……最後の抵抗だな」
ジュウシロウは不敵に笑うと、鼻血を手の甲で手荒に拭い、神経外骨格の残エネルギーのすべてを細胞へと直結させた。
彼の巨漢から叩き出される最大効率の突撃。
アスファルトを爆砕し、ジュウシロウは一頭の猛進する肉弾戦車と化して前崎へと突進した。
前崎はそれを完全に予測し、肉薄する巨体の心臓を正確に貫くべく、カウンターの軌道でナイフを鋭く振るう。
本来であれば、それはジュウシロウの「十八番」の餌食になるはずだった。
ジュウシロウは突撃の瞬間、全身の細胞膜に高密度の電磁バリアを這い巡らせており、いかなる白兵兵器であろうとも、前崎のナイフを火花と共に弾き飛ばす弾性を持っているはずだった。
しかし。
グサリ……ッ!!
「何!?」
金属の刃は、ジュウシロウの絶対の防壁をまるで存在しないかのように透過し、彼の屈強な左肩へと深々と突き刺さった。
肉を削ぎ、骨を削るおぞましい感触。
「……『抗バリアセル刃』とでも名付けようか。
お前のバリアの固有振動数を完全に相殺する分子配列を施してある。
散々データは取れた。
弱点はすべて把握している」
「が……あああッ!!」
それでも、ジュウシロウの戦意は微塵もひるまなかった。
肩にナイフを刺された状態のまま、彼は雄叫びを上げ、前崎の身体を圧殺せんばかりの勢いで熊のように抱き着き、その自由を拘束した。
そして、残された右拳にすべてのエネルギーを収束させる。
「――『エアブロウ』ッ!!」
それは、ジュウシロウが持つ最もメジャーであり、最強の必殺骨法。
至近距離の相手に対し、電子バリアの全エネルギーを指向性の衝撃弾として直接零距離で炸裂させる技。
この距離、この威力で喰らって、生き残れる生物など地球上に存在するはずがなかった。
そのはずだった。
(……なっ、エネルギーが、集まらない……!?)
ジュウシロウの右拳のバリア回路は、光を放つことなく冷たく沈黙していた。
先ほどナイフを刺した影響か、あるいは前崎自身が発する未知の干渉波によるものか、彼の最大の武器は不発に終わった。
前崎は、ジュウシロウの目に見開かれた驚愕と困惑を他所に、彼の左肩に突き刺さっていたナイフの柄を掴むと、そのまま上方へと無慈悲に切り上げた。
「ぐああああああッ!!」
肉と靭帯を無残に切り裂かれ、ジュウシロウの巨体がドサリと崩れ落ちる。
彼は両膝を突き、激しく血を吐きながらコンクリートへと倒れ込んだ。
前崎は、一切の感情を排した冷徹な眼差しで、足元の敗北者を見下ろした。
「……終わりだな、ジュウシロウ。お前たちの泥臭い反逆劇の、これが結末だ。
しょうもない人生だったな」
前崎がトドメの一撃を振り下ろそうとした――まさに、その瞬間だった。
「うわあああああああああああああああああああッ!!」
大通りの向こうから、空間のすべてを切り裂くような、凄まじい絶叫が響き渡った。
それは、前崎のクローン兵が敷いていた防衛線を強引に突破し、超高級スポーツカーのアクセルを極限まで踏み込み、時速300キロメートルを超える狂気の速度へと到達させた長谷部の姿だった。
フロントガラスの向こうで目を血走らせた長谷部は、自らの命を完全にドブに捨てる覚悟で、前崎の肉体を木っ端微塵に撥ね飛ばすべく、文字通り「質量の弾丸」となって真っ直ぐに突っ込んできた。




