File:102 三文小説
閉鎖された秋葉原の地下工房。降下してきた隠しエレベーターの鉄扉が左右に開いた瞬間、室内に充満する煤煙の臭いと共に、引き裂かれた高級スーツを纏った「死神」とも「魔王」とも呼べる男が姿を現した。
「……ホラー映画かよ、おい」
生還の事実を目の当たりにしたシュウが、乾いた声を絞り出す。
「いや、ただの三文小説さ。
それも何の物語の起伏もない、お前たちのような端役が一方的に死んでいく、最悪の三流映画だ」
前崎は感情の起伏を完全に削ぎ落とした声で応じると、右手に握った戦闘用ナイフの刃先を鈍く光らせ、静かに歩を進めた。
「さて。俺のクローンが自決して十二時間ぶりか。
ずいぶんと引っ掻き回してくれたな。
……全員、ここで肉塊になる覚悟はできている、という認識でいいか?」
張り詰めた空気の中、一人が前に出た。
「待ってください。私は降伏します」
ユーリは一切の武器を床に捨て、大人しくその場に膝をついて両手を挙げた。
その瞳には、戦いへの絶望と諦念だけが色濃く張り付いている。
そもそもユーリは降伏するつもりだった。
あくまでジュウシロウとカオリといったあくまで旧アダルトレジスタンスのメンバーの安全保障のためについてきただけだ。
「……」
前崎は無言だった。その歩みは止まらない。
「私はあなたに従う。もう二度と反抗もしない。ただ、見逃してほしい。それだけです」
命乞いをするユーリの言葉を、前崎の冷徹な脳はただの「不要なノイズ」として処理した。
前崎は無表情のまま、彼女の頭蓋を真上から一突きにすべく、迷いなくナイフを振り下ろした。
「ユーリッッ!!」
狂叫と共に割り込んだのはシュウだった。
自らの肉体を肉盾とするように前崎へ突撃し、強引にその身体を組み伏せる。
グサリと嫌な音がして、シュウの片腕に前崎のナイフが深々と突き刺さった。
肉が裂け、骨に刃が擦れる感触が伝わる。
しかし、シュウは痛みを噛み殺して前崎の手首を掴み、必死に抵抗を試みた。
だが――
「ぐっ……、あ……ッ!?」
次の瞬間、シュウの身体は、前崎が放った視認不可能なほど高速の前蹴りによって、まるで軽自動車に衝突されたかのように後方へと激しく吹き飛ばされた。
壁に背中を痛打し、血を吐いて崩れ落ちる。
「少し気になることがある」
前崎が血のついたナイフを振るって血を払う。
「あのバイオハザード兵器やお前らがペルディータを動かした方法。
それにあのSGⅡへの潜入方法。
坂上から教えてもらったのか?」
「……」
黒岩は黙ったままだった。
「まぁ、大方予想はつく。アメリカだな?」
「……あなたのやり方を否定するのは我々だけではないということだけ」
「ルールを破り捨ててきたのはアメリカがトップだとは思うがね。
まぁいい。
いずれあの国も喰らう」
前崎が再び全員に向き直る。
「さて……地上への出入口はこのエレベーターのみ。
そして、この強固なコンクリートの密室。
お前たちに逃げ場はどこにもない。……一人ずつ、確実に殺していく」
前崎は乱れたスーツの襟元を優雅に整え、腰のホルダーから別のナイフを引き抜いた。
「……仕方ありませんね。ここは僕が出るしかないようです」
重苦しい絶望の空気を切り裂き、静かに歩み出たのは一ノ瀬だった。
「……一ノ瀬、お前、何を言って――」
ジュウシロウが思わず声を上げるが、一ノ瀬はその制止を片手で遮った。
「僕がここで時間を稼ぎます。
その隙に、何とか正面突破して地上へ逃げてください。
ジュウシロウ君。はっきり言って君が最高戦力です。
こんなところで死んでもらっては困る」
言うや否や、一ノ瀬は前崎の正面へと立ちはだかった。
その背中は、かつて組織のトップとセカンドとして並び立っていた頃の奇妙な信頼感を完全に決別させる、孤高の構えだった。
「前崎さんは現在、最強の物理兵器である『神経外骨格』を装着していない。
生身の細胞強化だけに頼っている状態です。
のであれば――僕たちにもまだ、数パーセントの勝機はありますッ!!」
一ノ瀬は叫ぶと同時に、手首の裏から投げナイフを前崎の眉間へ向けて音もなく投擲した。
だが、前崎の超人的な空間認識能力にその程度の不意打ちが通じるはずもなかった。
前崎は紙一重で上体をわずかに逸らしただけで、その直撃を容易く躱す。
一ノ瀬はその隙を逃さず、姿勢を極限まで低く保ったまま、前崎の懐へと滑り込むような低空タックルを仕掛けた。
「ッ……!?」
一ノ瀬の神経外骨格が駆動音を上げ、凄まじいトルクで前崎の腰をロックする。
しかし、前崎の肉体は細胞の密度を瞬時に鋼鉄化させており、その体勢は微塵もブレることはなかった。
逆に、岩盤を掴んでいるかのような圧倒的な質量が、一ノ瀬の腕を押し返していく。
「……私の副総統として、あのまま大人しく生きていれば、お前にはまだ輝かしい未来があったものをな」
前崎の冷徹な声と共に、一ノ瀬の無防備な背中へ向けて、骨を砕く重さの肘鉄が容赦なく振り下ろされた。
メリメリと一ノ瀬の背骨が軋み、へし折られる寸前、横から弾丸のような影が飛び込んできた。
ジュウシロウだ。
「おおおおおッ!!」
ジュウシロウは一ノ瀬諸共、前崎の側面に肩から強烈な体当たりを敢行した。
神経外骨格の最大出力を上乗せした激突に、流石の前崎も体勢を崩し、数メートル後方へと距離を取る。
しかし、前崎は後退した勢いを利用して背後の壁を強く蹴り上げ、跳躍。
弾道ミサイルのような速度で、再びジュウシロウの喉元へと肉薄した。
ジュウシロウの動体視力がその銀刃を捉える。
「おおおッ!」
渾身の裏拳をナイフの腹へと叩きつけ、金属の刃を力任せに叩き割る。
そのまま前崎の手首を掴み取り、柔道の背負い投げの要領で、工房の奥へとその身体を豪快に投げ飛ばした。
ズガガガガアン!!と凄まじい破壊音を立てて、前崎の肉体は、部屋の奥に積み上げられていた製造放棄された神経外骨格のジャンクパーツの山の中へと埋もれていく。
「……今のうちに、早く行けッ!、!」
ジュウシロウが息を荒らげながら、全員に向かって怒号を飛ばした。
「ユーリ、立ちなさい!!」
カオリが、放心して床にへたり込んでいたユーリの腕を強引に掴んで叩き起こし、起動したエレベーターの籠へと引っ張っていく。
黒岩が負傷したシュウを肩に担ぎ上げ、第一陣としてマスミ、カオリ、ユーリ、そしてシュウの四人がエレベーター内へと滑り込み、一時離脱を果たした。
埃が舞い散る地下工房に残されたのは、黒岩、ジュウシロウ、そして一ノ瀬の三人のみだった。
「逃げるんじゃなかったのか?
……やはり、この期に及んで一番の障害になるのはお前だったか。ジュウシロウ」
ガラガラと金属の残骸を撥ね退け、ゆっくりと立ち上がった前崎の身体から、空間を物理的に凍らせるほどの濃密な「殺気」が膨れ上がる。衣服は裂け、肌の一部が異常な高質化によって黒ずんでいる。
「神経外骨格のサポートすらなしに、この俺と正面からやり合おうなど、何を考えている?
……舐めているのか?」
「いや、不要になったんだよ。お前程度を倒すためならな!」
前崎の肉体が文字通り、視認不可能な速度で壁を縦横無尽に蹴り、空間を跳んだ。
コンクリートの壁を陥没させる勢いでジュウシロウの胸ぐらを掴み、床へと猛烈な勢いで組み伏せる。
だが、その瞬間を、背後に控えていた黒岩は見逃さなかった。
「前崎ィッ!!」
組み伏せられたジュウシロウもまた、それを予期していたかのように、前崎の片腕を死に物狂いでロックし、その場に繋ぎ止める。
黒岩が神経外骨格のパワーを拳に乗せ、前崎の顔面へ向けてナイフを一直線に突き立てた。
しかし、前崎は避けることすらせず、その刃を自らの「頬の皮膚」で正面から受け止めた。
パキン、と乾燥した硬質な音が響き、前崎の異常高質化した肌に阻まれた黒岩のナイフの側面に、蜘蛛の巣のようなひび割れが走る。
「な……に……ぃ……!!?」
「だから言ったろ。神経外骨格などいらないって」
黒岩が驚愕に目を剥いた瞬間、前崎はジュウシロウに腕を掴まれたままの体勢で、上半身のバネだけで強烈な回し蹴りを放った。
その超人的な脚力が黒岩の胸部を直撃し、その勢いのまま、組み付いていたジュウシロウの巨体をも前方の壁へと投げ飛ばす。
(なんという……機動力だ……!!?)
(馬鹿力にもほどがある……!
生身の細胞強化だけで、外骨格の出力を凌駕しているのか……!?
それは俺の……細胞と一緒。
だが外部の補助なしにそれができるのか!!!)
二人が同時に床へ叩きつけられ、体勢を崩したその刹那、背後から音もなく肉薄した一ノ瀬のナイフが、前崎の「眼球」を正確に貫きにかかった。
前崎は首を不自然な角度でスウェーバックさせ、その鋭利な切先をミリ単位の精度で綺麗に躱す。
「……目を狙うか。良い判断だな」
「……どうも。お褒めに預かり光栄ですよ」
一ノ瀬は不敵な笑みを浮かべ、そのまま猛烈な攻勢に転じた。前崎が反撃へ転じようとする度に、一ノ瀬は元公安の戦闘データに基づいた「絶妙なヒット&アウェイの距離」を維持し、前崎の決定打を肉体に捉えさせない。
「一ノ瀬!! しゃがめッ!!」
ジュウシロウの鋭い指示が飛ぶ。一ノ瀬が反射的にその場に身を伏せると同時に、ジュウシロウが床に転がっていた、重量100キロを超える製造放棄された重装神経外骨格のフレーム部品を、前崎へ向けて全力で投げつけた。
前崎はそれを右の裏拳一閃、受け流すように叩き落としたが、流石にその一瞬だけは防御一辺倒にならざるを得なかった。
「エレベーター、いけます!!! 早く!!!」
扉の隙間から、マスミの切迫した叫び声が響く。
「行ってください!!」
一ノ瀬が前崎に向かって、死に物狂いで最期のナイフの乱舞を振るう。
その執拗な攻撃の軌道には、明確な意図があった。事前に黒岩たちと共有していた、文字通りの「切り札」をここで使うつもりなのだ。
黒岩とジュウシロウはその意図を瞬時に察した。
ここで躊躇えば、一ノ瀬の覚悟が無に帰す。
二人は断腸の思いで一ノ瀬の背中を捨て、閉まりかけるエレベーターの籠へと滑り込んだ。
重厚な鉄扉が完全に閉じ、地下工房に取り残されたのは――完全に一対一となった、前崎と一ノ瀬の二人だけだった。
「ようやく、二人きりですね」
「……ナイフを血眼で振り回しながら、恋人のような口を叩くな。
反吐が出るほど気持ち悪い」
前崎の言葉には、あからさまな不快感が滲んでいた。
彼がこれほどまでに計画を狂わされ、気が立っているのは間違いのない事実だった。
だからこそ、一ノ瀬は攻め手を緩めない。
「……そんな冷たいこと言わないでくださいよ、前崎さん。
久々に、こうして二人きりで密な時間が持てたんですから!」
一ノ瀬は、前崎のカウンターによって自らの肉体が切り裂かれることを完全に度外視し、ひたすら前崎の「眼球」へ向けて鋭い刺突を繰り出し続ける。
だが、いくら肉体の他の部位に攻撃が効かないからといって、単調に目を狙い続ける戦術は、前崎の頭脳からすればあまりにも読みやすすぎた。
「ガッ……!?」
突き出した一ノ瀬の右腕が、前崎の鋼の手のひらによって完全に捕らえられた。そのまま力任せに背後へと捻り上げられ、コンクリートの壁面へと激しく叩きつけられる。
「……お前の実務能力だけは、最後まで信じていたんだがな。
一ノ瀬、お前は一体、裏で何をしていた?
ジュウシロウを更生施設に送り込んだ後、お前は俺の裏で、一体何をしていたんだ?」
前崎の手のひらが、一ノ瀬の手首を万力のように締め上げる。
「……そう、ですね……。僕は、あなたが創り出したこの国の……『世論』の行く末を、じっと確かめていたんですよ」
「……世論だと?」
「ええ。あなたのやっていることが、本当に正しいのか……僕の中で、わからなくなってしまった。
あんたは凄まじい天才だ。それは間違いない。
今でも、僕が人生で最も尊敬している人間は、前崎英二、あなただ。
……だが、あなたはいつからか、僕に何も『話さなくなった』」
一ノ瀬は首を絞められ、口から血の泡を吐きながらも、言葉を紡ぐ。
「Houndの真の組織構造についても……少子化対策の抜本的な中身についても……あの、要塞を統御する超並列AIの処理精度についても。
……僕は副総統でありながら、何一つ知らされていなかった。
あんたはいつも『いずれ話す』『時期が来ればわかる』と、そればかりだ。
……俺は、正直に言いましょうか。
あんたという存在を、疑ったんだよ」
「……そうか」
「だから確かめた。自分の目で。
だが、結果は僕の懸念通り……いや、それ以上の最悪の正解だった。
あんたのやり方は、あまりにも短絡的で、急ぎすぎた。
……こんな、恐怖と金だけで縛り付けるようなやり方で、人間という生き物が、永久にあなたについてくると思うなよ……!!」
一ノ瀬は残されたすべての力を振り絞り、手前の壁面を神経外骨格の脚力で爆発的に蹴り飛ばした。
その反動を利用して、至近距離にいた前崎の肉体を、反対側の壁へと力任せに激突させる。
ドオォォン!!と、凄まじい衝撃波が工房を揺らした。
(……おかしい。さっきまで、こいつの外骨格の出力特性は、この程度の負荷で底を突くレベルだったはず。
一体、なぜこれほどの瞬間出力を……?)
前崎の冷徹な視線が、一ノ瀬の足元へと向けられた。
その瞬間、前崎の眉が微かに動く。
一ノ瀬の右足の骨が、肉を突き破らんばかりに変形していた。
一ノ瀬は、神経外骨格のリミッターを完全に解除し、自らの「骨を粉砕する勢い」で強制的にシステムを駆動させ、超人的な出力を生み出していたのだ。
「やるな。……認めよう」
だが、前崎にとっては、それだけの話だった。
前崎は激突の衝撃を瞬時に吸収すると、一ノ瀬の身体を軽々と持ち上げ、そのままコンクリートの床面へと叩きつけようとした。
その刹那――前崎の目が、一ノ瀬の右手に握られた「ある小さな光」を捉えた。
「ナイフか……!?」
前崎がその刃を警戒し、拘束を振りほどこうとした瞬間、一ノ瀬は自らの腕の骨がねじ切れるほどの負荷を神経外骨格に強制し、前崎の身体を蛇のように絡めとった。
ドロドロの膠着状態。
一ノ瀬は自らの肉体の損壊を厭わず、前崎の首筋へと、右手の「光」を必死に突き立てようと突進する。
それは――ナイフではなかった。
極細の針を備えた、簡易的な「医療用注射器」だった。
(無駄だ。俺の皮膚は、瞬時に分子密度を変化させて硬質化できる。
そんな安物の針など、通るはずがない――)
前崎はそう確信していた。しかし。
プスッ……。
微かな、しかし確実に肉層へと金属が侵入する感触。
「……っ!?」
前崎の脊髄を、生まれて初めて経験するような、総毛立つほどの強烈な「悪寒」と嫌な予感が駆け抜けた。
硬質化のプロテクトを、何らかの未知のプロセスが透過して破ったのだ。
前崎は本能的な恐怖に突き動かされ、必死に床を転がるようにして体勢を入れ替え、一ノ瀬の身体を押し潰して馬乗りになった。
上を奪い返した前崎は、一切の手加減を捨て、一ノ瀬の抵抗を完全に圧殺すべく、その顔面へ向けて細胞強化された拳を、猛烈な勢いで幾度も殴り飛ばした。
ドゴッ! ドカッ! ズガァン!!
それは、いかなる超人であれ、意識を完全に刈り取るのに十分すぎるほどの無慈悲な打撃だった。
「う……ぐ……、あ……っ……」
一ノ瀬は、かろうじて息をしていた。
だが、その顔面は骨が粉砕され、かつての端正な面影など見る影もないほどに変形し、赤黒い血に染まっていた。
「おい。一ノ瀬……。お前、俺の体の中に何を注入した。……言え」
前崎の声から、初めて余裕が消え失せていた。
注入された薬液のすべてを防ぎきることはできなかった。
注射器の内容を見る限り、3割を無理矢理入れられたようだった。
もはや、そこにはかつての公安時代の上司と部下、総統と副総統としての奇妙な絆など、微塵も残されてはいなかった。
ただ互いの存在を消し去るためだけに牙を剥き合う、最も不倶戴天の「敵と敵」。それが、今の二人の正しい関係だった。
「あ……、……」
一ノ瀬の潰れた唇から、微かな空気の漏れる音が聞こえる。
「……なんだ? 聞こえない。何を言っている」
前崎が一ノ瀬の腹を蹴飛ばす。
「ア……、……ヘン……」
「アヘン……? 阿片だと……?
こいつ、何を言っている……」
麻薬の、アヘン。
もし前崎の超代謝を狂わせるための毒物や麻薬の類であるならば、心臓の太い動脈の血管内に直接流し込むのが合理的な筋のはずだ。
なぜ、この状況で、わざわざ首筋の微細なリンパ層を狙ってそんなものを注入したのか。
いや肉体に入れられるのならなんでもよかったのか。
その本当の、そして最悪の答えを聞き出そうにも、一ノ瀬の意識は完全に途切れ、物言わぬ肉塊となって床へと沈んでいった。
前崎は体内へと侵入した未知の異物に微かな不快感を覚えながらも、目の前の最悪の反逆者にトドメを刺すべく、ゆっくりと、血に染まった一ノ瀬の元へと歩み寄った。
「いずれわかるさ。お前にも」




