File:101 降伏
「――ケンが、殺されたらしい」
ジュウシロウが吐き出したその一言に、秋葉原の地下、かつてMr.オスカーが工房として使っていた、ホテルのような隠れ家に身を潜めていた一行の間に、凍りつくような沈黙が走った。
「えっ……嘘でしょ!?」
カオリが悲鳴に近い声を上げる。
ジュウシロウたちは、電子デバイスの画面に表示された、京都の坂上から送られてきた緊急電文の文字列を凝視したまま硬直していた。
確かにあの男は、最後の最後まで自身の役割を全うし、前崎の重大な弱点という「逆転の鍵」を彼らに残して、その命を散らせたのだ。
だが最後に話してから12時間も経っていない。
「で、でも……! ケンなら、あいつのことだから、中国のどこかにバックアップの器とかをいくらでも隠しているはずでしょ!?
また別のクローン体で這い出てくるんじゃ……」
カオリの必死のすがるような言葉に、ジュウシロウは重く首を振った。
「……おそらく、それはない。
無いかもしれない、というより……前崎の奴、クローン転生を根底から成立させなくする、最悪の『封じ方』を編み出しやがった」
「……封じ方?」
「マスミ、医学における『脳死』の本質的な意味を知っているか?」
問いかけられたマスミが、かつて大学の講義で耳にした無機質な定義を、震える声で思い出す。
「脳のすべての機能……大脳も、小脳も、生命を司る脳幹も含めて、その全機能が不可逆的に完全に失われ、二度と回復しなくなる状態のことよ。
植物状態とは違って、人工呼吸器を外せば、確実に心臓も止まる……まさか!?」
「前崎は、それを利用したんだ。
ケンの心臓を生かしたまま、脳だけを完全に融解させて『脳死状態』にした。
システム上は死亡判定が出ないから、海外のバックアップが覚醒するためのシグナルが永久に送信されない。
あいつはケンの魂を、生ける屍の中に永遠に幽閉したんだ」
「なんてことを……」
ジュウシロウが拳を血がにじむほどに強く握りしめる。
人の尊厳をどこまで蹂躙すれば気が済むのかと、前崎の底知れぬ冷酷さに戦慄した。
「いや、だが……まだ完全に望みが断たれたわけじゃない」
黒岩が割り込むように、硬い声で告げた。
「よく一般に混同されるが、脳死と植物状態は似て非なるものだ。
前崎のマイクロ波の照射が、大脳の機能を完全に破壊したとしても、生命維持の要である『脳幹』の機能まで一滴残らず消し去れたかどうかは、まだわからない。
もし脳幹の一部が奇跡的に生き残っていれば、自力で呼吸を維持し、そこから植物状態、あるいは奇跡的な回復へ向かう可能性は、統計的にも完全にゼロとは言い切れないんだ」
「……前崎さんを相手に、そんな都合よく脳幹だけを撃ち漏らしてくれるなんて、あり得るの?」
マスミの悲痛な指摘に、黒岩は苦い表情を浮かべた。
「こればかりは、運良く交通事故の直撃を免れる確率に賭けるしかない。
だが、ケンだってそのくらいの、文字通り地獄に片足を突っ込むほどの覚悟があったからこそ、命を賭して前崎を足止めし、俺たちに情報を繋いだんだろ」
その時、目の前に琥珀のように培養器の中に閉じ込められているリョータたちを始めとした子供たちの生命バイタルサインが、一本の冷たい直線となって次々と消滅していった。
前崎が、操られていたペルディータの子供たちを、一機残らず完全に「処理」した証拠だった。
(私たちが……彼らを利用して、結果的に殺したんだ。
一ノ瀬の立てた、あの汚い洗脳の手を使って)
カオリたちの胸に、消え失せない罪悪感が重くのしかかる。
だが、その作戦の最高責任者であり、冷徹な下手人となった一ノ瀬は、感情の起伏を一切見せないまま、王天堂のフルダイブ型ハード『Dive』を装着し、ベッドの上でシュウと横並びになっていた。
シュウ自身、本来であれば関わるつもりはなかった。
前崎のやり方に疑問はありつつも正しいかもしれないとユーリと共に思い始めたからだ。
Houndのバイオハザードというエゲツない作戦の詳細までは事前に知らされていなかったし、実行するつもりもなかった。
だが、一度賽が投げられた以上、こうなっては仕方がないと割り切り、一ノ瀬の工作を現実世界からサポートすることに専念していたのだ。
いくら前崎のやり方が経済的に成功しているとはいえ、ジュウシロウたちをペルディータの熱線で焼き切られるのだけは御免だった。
カチャリ、とヘッドギアを外した一ノ瀬が、冷ややかな、しかし極めて冷静な声で結論を口にした。
「ダメですね。
アダルトレジスタンスの残党である子どもたちの意識を乗せたペルディータは、もう一機も存在しません。
完全に、前崎さんの手によってスクラップにされました」
「そんな……っ!!」
「焦らないでください」
悲嘆に暮れる一同を、一ノ瀬の眼鏡の奥の鋭い瞳が射抜く。
「前崎さんという人は本来、いかにロスを最小限に抑え、組織のメリットを最大化するかという『合理化の化身』のような人間です。
その彼が、あれほど貴重な高性能兵器であるペルディータと、調整を重ねた子供たちの脳を、対話も試みずにその場で即座に全廃棄した。
これほど短絡的で乱暴なリソースの切り捨てを行うということは、裏を返せば、今の前崎さんがかつてないほど精神的に『追い詰められている』という、何よりの証明ですよ」
「……一理あるな」
黒岩が、その元公安らしい冷徹な分析に、深く同意の頷きを返した。
「だがな、一ノ瀬。
状況がどうあれ、相手の利用できる最強の戦力だった色付きのペルディータを失った今、我々にはもう、前崎に対抗できる手駒が何一つ残されていないのも事実だ。
完全に動けないぞ」
「私は……前崎総統に、ここで全面降伏するのも一つの選択肢だと思います」
部屋の隅から、ユーリが冷めきった、乾いた声でそう告げた。
だが、かつてなら猛反発が起きたであろうその「裏切り」の言葉に対して、今この場にいる誰も、彼女の選択を責める言葉を持たなかった。
「私たちは、次世代の子供たちに対して、無抵抗のまま前崎総統の独裁を容認したわけではない。
その抵抗の証明は、あの前崎総統のSGⅡの乗り込みとペルディータの強襲によって、すでに歴史に刻み込み終わったではないですか。
これ以上、何を犠牲にすればいいのです」
「……」
そもそもシュウとユーリはこの作戦に参加しないつもりだった。
そして参加した理由もカオリとジュウシロウを助け出すため、それだけだった。
ユーリはただシュウについてきただけ。
全員が口を閉ざし、同じ共通認識に押し潰されそうになっていた。
だが我々は行動しすぎた。
もうこれ以上、後には引けない。
だが、進むための武器も、大義も、肉体も、すべてが限界を迎えていた。
自分たちが今まで血を流してやってきたことは、一体何だったのか。
だが――そんな彼らの考える余地すら、現実の境界線は待ってはくれなかった。
突如として、オスカーの工房の静寂を破り、地上からの唯一の動線である「隠しエレベーター」が、誰の操作も受けていないはずの電子駆動音を響かせて、勝手に動き出したのだ。
ゴゴゴ……と地下階へ向かって降下してくる重苦しい金属音。
最悪の予感が、その場の全員の脊髄を駆け抜ける。
「チッ……!! 迎撃用意ッ!!」
黒岩の怒号とともに、全員が無意識に、そして本能的な恐怖に突き動かされて武器を構え、エレベーターの重厚な鉄扉へと銃口を一斉に揃えた。
チーン、と場違いなほどに軽い電子音が鳴り響き、ゆっくりと左右に開かれた扉の向こう。
煤煙の臭いを纏い、引き裂かれたスーツのまま、ただ独りで泰然とそこに立っていたのは――彼らを完全に狩り取るべく、地獄から歩みを進めてきた前崎英二その人だった。




