File:095 こんなもので
■ ペスト菌(Yersinia pestis)
14世紀にヨーロッパの人口の3分の1から半数近くを死滅させ、当時の社会構造を根底から覆した「黒死病」。
この未曾有の大災厄は、生き残ったヨーロッパ人の免疫に関わる遺伝子構造を強制的に書き換えたとされる。
逆に言えば、その洗礼を受けていない現代の日本人、ひいてはその均一な遺伝子を持つHoundのクローン肉体にとって、この菌は一切の耐性を持たない、細胞を内側から腐らせる最凶の壊死毒として作用する。
ネズミに寄生したノミに刺されることでリンパ節が腫れ上がる「腺ペスト」、あるいは感染者の咳による飛沫を直接吸い込み、驚異的な致死率で肺を破壊する「肺ペスト」が今回採用されたものである。
■ スペイン風邪(H1N1型亜種)
1918年に世界中で猛威を振るい、当時の日本でも約40万人もの命を瞬く間に奪い去った歴史的パンデミック。
インフルエンザウイルス(特に大流行を引き起こすA型)の究極の起源は、野生の水鳥の腸内に生息するウイルスとされる。
近年の分子生物学的な研究により、東アジア人固有の免疫遺伝子の特異性が、ある種のインフルエンザウイルスに対して過剰な免疫暴走を引き起こしやすい弱点となっていることが解明されている。
今回はその劇症化特性をさらに人工的に極限まで高めた変異株が採用されていた。
■ エボラウイルス(Ebola virus)
1976年に当時のザイール(現コンゴ民主共和国)のエボラ川流域で初めて確認され、その圧倒的な致死率から世界中を震撼させ続けている急性ウイルス性感染症。
ウイルスは体内に侵入すると、全身の血管内皮細胞や免疫細胞に容赦なく感染・増殖し、生体の制御システムを急速に破壊していく。
本来、野生のオオコウモリを自然宿主とするこの異形の病原体は、近代的な公衆衛生の網を潜り抜けた先にある、いかなる免疫的備えも持たない未経験の生体組織に対して、血管の完全性を内側から崩壊させる最凶の出血毒として作用する。
感染者の血液や体液に直接接触することで伝播し、数日間の潜伏期を経て突発的な高熱や頭痛を誘発する。
劇症化のプロセスにおいては、激しい嘔吐や下痢による極度の脱水に加え、凝固系の異常消費に伴う全身の粘膜・器官からの制御不能な出血を引き起こし、最終的には多臓器不全と出血性ショックによって高確率で生命を終焉に至らしめる。
なお、今回使用されたのは経皮感染(皮膚から直接侵入)できるように人工的に遺伝子改変された変異株である。
上記3つにおいて日本人でワクチン接種などの義務などは当然存在しない。
■ 濃縮スギ花粉抗原
植物の花粉が目や鼻の粘膜に接触することで引き起こされる、現代日本の国民病とも言えるI型アレルギー反応。
本来は無害であるはずの花粉を、免疫システムが「排除すべき最優先の敵」と過剰に誤認することで発症する。
今回、Houndのマスターデータ(原種)の数割が重度の花粉症キャリアであるという事実に基づき、ペストやインフルエンザで傷ついた肺胞や粘膜をさらに物理的・免疫学的に追い詰めるための「トリガー」として、超高濃度のスギ花粉抗原が煙の中に充填されていた。
本来、歴史的にも医学的にも決して交わるはずのなかった三大死霊のウイルスと、現代病の重篤なアレルゲン。
それらを別の場所で連鎖的に爆発させることで病原菌の四重奏を身をもってHoundたちは感じることとなった。
ウイルスが細胞を破壊し、花粉が粘膜を狂わせ、ペストが肺を侵す。
その症状は連鎖的に、そして指数関数的にネットワークを介してHoundたちの間で爆発的に伝染していく。
「ガ、ア……ア、ガ……ッ!!」
あれほど死を恐れず、ゾンビのように突撃してきた無敵のHoundたちの動きが、見る見ると緩慢になっていく。
高熱と呼吸困難、そして過剰なアレルギー反応による激しい痙攣のせいで、自身の足の制御すら失い、互いの足を縺れ合わせては次々と床へ転げ落ちていった。無敵の軍隊は、今やただの肉の塊として悶絶している。
「……想像よりも効いたな」
ガスマスクの通信回線から、ジュウシロウの驚きを孕んだ低い声が届く。
「よし、このまま一気に前崎の元へとっとと突撃するぞ!
もし病原菌を吸い込まずに生き残っている個体がいたら、最悪、手持ちの注射アンプル型を直接首筋に突き刺してでも無力化しろ!」
「了解」
黒岩の硬質な命令に全員が短く応じる。
白煙が漂う中、ガスマスクを装着した20名の精鋭たちは、戦意を喪失してのたうち回るHoundの大群を容赦なく蹴散らし、蹂躙しながら、要塞の最深部にいる前崎の首を目指して、怒濤の勢いで突進していった。
正直なところ、彼らにとっての真の脅威は「Hound」という個の兵団そのものではなく、その背後に控える「ペルディータ」や「EA」といった、戦術規模の質量兵器群であった。
だが、それも遮蔽物のない屋外戦闘、あるいは広大な平原での戦闘に限った話だ。
Houndたちの本拠地であり、前崎の頭脳そのものであるこの『SGⅡ』の内部においては、自らの首を絞めることになる破壊兵器など実戦投入できるはずがない――それが事前に坂上が弾き出した事前の作戦結果であり、戦況はその読み通りに推移していた。
バイオハザードによって防衛網が瓦解した要塞内部を、一行はルートに迷うこともなく最短距離で突き進み、ついに前崎の潜む最深部へと肉薄する。
執務室と思われる、周囲の壁と同化した重厚な隔壁の前に達した瞬間、黒岩は一切の躊躇なく、神経外骨格のパワーを乗せた足蹴りでそれを容赦なく蹴り破った。
凄まじい金属音とともに開かれた空間の奥、静寂に満ちた部屋に一人の男が泰然と佇んでいた。
前崎だった。
机に両肘をついて座っていた。
司令官然とした姿だった。
黒岩は突入と同時に銃口を微動だにせず突きつけ、低く、地を這うような声をかける。
「……お久しぶりですね、前崎さん」
「黒岩か……。旧交を深めに来たわけではなさそうだな」
前崎は大型マルチモニターからゆっくりと視線を外し、侵入者たちを冷ややかに見据えた。
「そのうえで聞こう。何をしに来た?」
「あんたの独裁を止めるため」
応じる黒岩の背後から、前崎を取り囲むようにして、何人もの同行者が一斉に銃口を揃える。
その中には、前崎にとっても見知った顔が少なからず混じっていた。
「ジュウシロウにカオリ……。そして……」
前崎は視線を順番に巡らせ、最後にその男の前で動きを止めた。微かに、その眉が動く。
「一ノ瀬。お前もか。それなりに信頼してはいたんだがな」
「……僕もですよ、前崎さん。
ですが、あなたは急ぎすぎたし、やりすぎた。
もっと手順を踏むべきだったんです。
手段を選ばずとも結果を出すことは犯罪者と変わりません。
……僕も副総統として最後まで罪を一緒に被ります」
一ノ瀬の声には、かつての心酔と、それを自ら断ち切った諦念が混ざり合っていた。
だが、前崎の表情には微塵の動揺も浮かばない。
「……そうか。だが、俺は一切自分の行いを悔い改めるつもりはない。
悪いが、この時代に倫理などを語っている暇はないんだ。
バブル崩壊以降、70年近くにわたって何もしてこなかった先人たちのツケを、今、誰かが払わなければならないからな」
前崎の右手が、衣服の奥へと滑る。
「……!! 動くなッ!!」
黒岩が叫び、引き金に指をかけた瞬間には、すべてが終わっていた。
人間の反射速度を遥かに凌駕する神速でナイフを引き抜いた前崎は、迷うことなく自らの首筋にその鋭利な刃をあてがっていた。
人質を取って立ち回るためではない。
彼は最初から、己の命そのものを人質にしているのだ。
「こんなもので、俺を止められると思うな」
眼前に銃口を突きつけられながら、前崎はむしろ彼らを見下ろすように冷徹に言い放つ。
肉体の欠損や死など、彼にとってはシステム内における単なる「端末の交換」に過ぎない。
この肉体が滅びようとも、意識データがネットワークを伝って別の器へ転送されれば、彼はすぐにまた新しい前崎として君臨するだけだ。
無限ストックの命。
無限回繰り返せるマリオみたいなものだ。
それこそが前崎最大の強みだった。
だがそんなことを想定していない坂上ではなかった。
「前崎さん。自決して他のクローン体に意識を転送し、逃げようとしても無駄ですよ」
背後から響いた一ノ瀬の冷徹な一言が、前崎のナイフを握る手を、わずか数ミリのところで停止させた。
「……何だと?」
「坂上さんが、あなたのクローン体をすべて内部から破壊し終えました。
現在のあなたには、バックアップとして機能する器は、この世界のどこにも存在しません。
ここでその肉体を失えば、本当に終わりです」
「……」
前崎は無言のまま、自身の脳内に埋め込こんだネットワークインターフェースを介して、外部のバックアップデータへとアクセスを試みた。
――事実だった。
秘密裏に幾重にも隠匿していたはずのクローン培養槽まで、悉くシステムからシグナルが消滅している。
坂上一人でやったわけではない。
前崎のネットワークから完全に切り離したHoundたちを独自に操り、一斉破壊したのだ。
そう一人でやったわけではない。
だが指示できるのはこの世で坂上ただ一人である。
「やってくれたな、坂上。
お前も俺の思想に共感してくれると思っていたのだが」
前崎は落胆とも、あるいは自身の予測を超えたことへの賞賛ともつかない、短い溜息を漏らした。
しかし、その手が止まることはなかった。
クローンという絶対的な退路を断たれ、真の「死」が眼前に迫ってなお、彼の眼眸から傲慢な光が消え去ることはない。
「正直言うともう、お前たちに構っている暇はないんだ。
とっとと終わらせてやる」
「何を……!?」
思わず黒岩が身構える。
「もう一度言う。こんなもので、俺を止められると思うな」
自らの思想の絶対性を証明するかのように、覚悟の有無すら超越した速度で、前崎は躊躇なくその刃を横に引いた。




