File:093 何が君の幸せ?
坂上は、前崎からあてがわれた都内の高級ホテルのスイートルームで、鏡の前で身なりを整えていた。
窓の外には、かつての喧騒を失い、静かに死に絶えつつある都市の風景が広がっている。
彼は深く息を吐き出し、ベッドルームに残る家族へと「行ってきます」と声をかけた。
妻には、これから自分が何をしようとしているのか、そのすべてを打ち明けてあった。
子供もしばらくの間は学校を休ませる手筈を整えている。
これから始まる事態は、それほどまでに危険で、引き返せないものだった。
「あなたは結局、そういう道を行くのね」
静かな、けれどすべてを察した妻の細い声が響く。
坂上は自嘲気味に、だが確かな口調で返した。
「ああ。……俺には、それしか道がないんでな」
そう言って、重厚なホテルのドアノブに手をかけた。
振り返った彼の視線の先には、豪奢な家具に囲まれながらも、どこか寄り添い合うようにして身を潜めている妻と子供の姿があった。
「こんな何不自由ない贅沢な暮らしをさせてもらっても、結局、心が満たされることは最初だけだ。
……やっぱり、あの狭くても、ありふれた我が家の方が落ち着く」
「……そうね。こんな見晴らしの良い場所の中で、もう外に怯えながら過ごすのはまっぴらよ」
妻の瞳には、かつての日々への郷愁と、夫の決意を受け入れる覚悟が宿っていた。
坂上は優しく微笑み、最後の約束を口にする。
「これが終わったら、またみんなで元の暮らしに戻ろう。
必ず、あの家に帰るからな」
「ええ、わかったわ。……気をつけて。行ってらっしゃい」
その言葉を背に受けながら、坂上はホテルのドアを開け、冷たい廊下へと一歩を踏み出した。
前崎には、数日前から「家族を連れて大阪へ旅行に行く」とだけ伝えてあった。
通信越しに、前崎からは感情の起伏のない声で『別にいい。好きにしろ』とだけ返された。
冷遇されているというよりは、もはや互いへの関心が薄れているのを感じていた。
あいつも最近は、自分のことを快く思っていなかったはずだ。
ラスカノや銀次などの犯罪者紛いの、いや、本物の犯罪者たちを仲間に引き入れた時点で、俺と前崎の道は完全に決裂していたのだ。
(悪いな、前崎。お前の見つめているあまりにも巨大な未来には、どうしても俺の頭は追いつかなかった。
お前の作る世界の理想郷を、俺は正しいとは思えない)
心の中で、かつての友であり、今は怪物となってしまった男に最期の告別を告げる。
(じゃあな。前崎)
新大阪駅の地下、薄暗い一般車ロータリー。
事前に指定されていた場所に、不気味な存在感を放つ一台の黒いハイエースがハザードランプを点滅させて停車していた。
坂上は周囲を一度だけ見回すと、引き締まった表情でスライドドアを開け、その闇の中へと乗り込んだ。
地下施設での2週間に及ぶ潜伏、そして綿密な作戦会議と装備の調達を終えたジュウシロウたちは、いよいよ地上への出撃を控えていた。
しかし、久々に見る地上の光景は、彼らが知るものとは一変していた。
「……どういうことだ? 外に、ほとんど人がいない」
ジュウシロウがモニターに映し出された無人の市街地を見つめ、眉をひそめる。
かつての喧騒が嘘のように、街は静まり返っていた。
「どうやら、俺たちが潜っている間に新しいゲームハードが開発され、爆発的に普及したらしい」
黒岩が端末の画面に表示された『王天堂 Dive』の製品カタログを見つめながら、苦渋に満ちた声を出す。
「脳に直接パルスを送り、夢のような仮想世界をいつでも体験できる代物だ。
……おそらく、あのHoundたちが施されていた『経験機械』の技術の応用だろうな。
一般向けにかなりマイルドに調整されてはいるようだが……本質は変わらん」
「……気持ち悪い」
カオリが吐き捨てるように、素直な嫌悪感を口にした。
「手厳しいね。でも、現実で必死に生きようと思う人間には、それが至極真っ当な意見だよ」
皮肉げに笑いながら会話に入ってきたのは一ノ瀬だった。
「僕だって同意見さ。
でも夢に逃げるしか居場所がない人間だっている」
「……あんたと意見が一致するなんて、反吐が出そうだわ。一ノ瀬」
「そんなに嫌わないでくれよ。
これでも一応、歴史の教訓を言っているんだ。
遥か昔、この電子デバイスの原点である『スマートフォン』という文明の利器が生まれた時も同じだったらしい。
画面に齧りつく人々を見て、当時の老人たちは『スマホ依存症』『気持ち悪い』と叩いた歴史がある。
技術が飛躍するたび、人類は同じ嫌悪を繰り返しているのさ」
「……新しいものは受け入れがたい、という言葉だけで片付けるには、流石に限度があるんじゃないか?」
ジュウシロウが冷たい視線のまま、一ノ瀬の言葉を遮った。
「ああ、限度を超えているとも。
ここまで来ると、いよいよ人類の終焉って感じがするよね。
だけどね。そんなの10数年すれば慣れるんだよ。
違和感すら抱かなくなる」
一ノ瀬は自嘲気味に肩をすくめ、誰もいない外の景色を見つめた。
「彼らにとっては、あの仮想の世界こそが現実よりもリアルなんだよ。
五感をハックされ、徹底的に最適化された居心地の良い夢を、死ぬまで見続けている。
僕だって英雄になりたいし、スーパースターになりたかったさ。
でもなれないから不幸せだとは思わない。
でも不幸だと思う人たちは……一体、何のために生まれてきたんだろうね?
僕の場合は、公安として生きて、果たすべき使命があった。
だからこそ、泥をすするような人生でもそれなりに充実していたと言えるんだけどな」
「何のために生まれて。
何をして生きるのか。
答えられないなんて、そんなのは嫌だ……ね」
マスミが、ぽつりと呟いた。
その言葉に、一ノ瀬が意外そうな顔をして乗っかる。
「おや、アンパンマンの歌詞じゃないか。
今になって思い返してみれば、恐ろしく芯を食った深い歌詞だね」
「……2番の歌詞、知ってる?」
「いや、忘れた。どんなのさ?」
マスミは静かに息を吸い、噛み締めるように口ずさんだ。
「何が君の幸せ。何をして喜ぶ。
わからないまま終わる、そんなのは嫌だ……よ」
一瞬、部屋に沈黙が流れた。
電子の理想郷に魂を売り、ただ与えられる快楽の中で思考を停止させた3割の人間たち。
彼らの姿が、その歌詞にあまりにも残酷に重なったからだ。
「現代の、その機械に脳を囚われた子供たちに聴かせてやりたいわね」
カオリが自嘲気味に呟くが、一ノ瀬は首を横に振った。
「無駄だよ。人間は『楽』にはきっと勝てない。
苦痛に満ちた現実と、100%報われる天国が並んでいたら、大半の人間は天国を選ぶ。
それが生物としての本能だ」
「……そうね」
カオリは反論を諦め、視線を落とした。
一ノ瀬の言葉は正論だった。
前崎の作ったシステムは、人間の弱さを完璧に掌握している。
「結局のところさ」
一ノ瀬が、自分の両手を見つめながら淡々と言った。
「僕たちがこれからやろうとしているのは、壮大な自己満足だよ。
前崎さんのやっている歪な統治を、僕たちは無条件で受け入れたわけじゃない、という意志の証明。
それだけさ」
「……そんな個人のプライドだけのために、命を懸けるっていうの?」
カオリの問いに、それまで沈黙を守っていた黒岩が、重い口を開いた。
「いや、違う。あくまで『次の世代』に選択肢を残すためだ。
そのために、俺たちは礎となる」
黒岩の視線には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「前崎を否定し、このシステムを壊せば、世界は再び混沌に突き落とされる。
勝っても負けても、流れる血と犠牲は少なくない。
あくまであいつ止めなければ手段さえよければ何でもいいというのがデフォルトになる。
それはここにいる全員、百も承知のはずだ」
「……ええ。わかっているわ」
「なら、やるだけのことはやろう。
この狂った飼い慣らしの世界を終わらせ、泥臭くとも、自分の足で歩く未来を次世代に残すんだ。……行くぞ」
黒岩の号令とともに、潜伏生活の終わりを告げる重い駆動音が地下施設に響き渡った。




